File.1 トロッコ問題

──まずは、有名なものから行きましょうか。


──────────


暴走したトロッコが猛烈な勢いで線路を下り、あなたの立っている分岐器のすぐそこまで迫っています。あなたからは声も届かないほど遠い線路の先では、四十人の男たちがトンネル作業をしていて、もしトロッコがこのまま突っ込めば、多くの命が失われるのは確実でしょう。

あなたは列車を止めることはできませんが、レバーを引いて列車の走行をもう一つの線路に切り替えることはできます。しかしそちらの線路の先の方にトンネルがあり、五人が作業をしています。死者の数はその方が少なくて済むはずですが、あなたがレバーを引けば、作業員五人が死ぬのを故意に選択することになります。

数人を故意に死なせるべきか、それとももっと多くの人が死ぬのを黙ってみているべきか。ただ人を死なせるよりも、殺す方が悪いのではないか?

あなたは、レバーを引きますか?


──────────


トロッコ問題、でしたっけ。


──そうね。


ううん、何度か聞いたことはあったけど、そういえば自分の答えを出したことはなかったな。


──というわけで、此処ではっきりさせてみないかしら?


ふむ。ちなみにこれからの「お話」というのはこういった……いわゆる思考実験をしていくのでしょうか?


──その通りよ。この話は有名だけれど、思考実験にもこれまでいろいろな問いが生み出されてきたみたいでね。その中で気になったものに関して対話していきたいと思っているわ。


なるほど。いいな、昔から好きなんですよねこういうの。ますます興味が湧いてきました。

……それで、本題ですよね。うーん……そうだな。

僕は、レバーを引くと思います。


──五十人を犠牲にするくらいなら、自らの手で五人を身代わりにした方がいいと考えるということね?


そういうことになると思います。そして……可能であれば、僕は五人の存在に関して知らないふりをするかもしれません。


──へえ。ずいぶん正直ね。面白いわ。だいたい見当はつくけれど……どうして?


その見当通りだと思いますが、非難されたくないからです。もちろん逆も同じことは起こると思いますが、レバーを引いて五十人を救ったとしても、意図的に五人を殺めたということに対して嫌悪の目を向ける人はいるでしょう。……自分でもろくでもないと思いますが、僕にとってはこの問題から予測できる結末の中でその非難が一番嫌なんです。人が死ぬことよりも。僕は何よりも、自分のできる限りの安寧を確保したい。


──ふむ。うん、よく知っていることだわ。何せ私たちの行動原理の大部分を占めるものですからね。


そうですよね……僕らにとって、死なないでいるための重大な条件ですから。だから僕は、「五人の存在は知らなかった」なんて、その後の事情聴取かはたまたヒーローインタビューで心底悲痛な顔をして、彼らの遺族に保身を孕ませた謝罪をすると思います。


──ふふ。この会話が知られちゃ、万が一同じ状況に出くわしたとき言い逃れができなくなってしまうわね。なんだか困ったことになった気がするわ。……オーケイ。じゃあ今度は、なぜどちらを取っても非難をされるだろうという状況下でレバーを引くという選択を選んだのか教えてもらえるかしら?


うーん……そこが正直ピンと来てないんですよね。単に数、かなぁ。運命の改変より、救われる命の数を優先した……でも自分自身に改めてそうなのかと問いかけてみると、なんだかそれは最大の目的ではないような気がして。けれども同時に、どれだけ鮮明に自分自身でその光景を想像しても、どうしても何もせずに立ち尽くす自分のことは思い浮かべられないんです。きっと相当青ざめて、震えた手になるだろうけど、それでも結局はレバーに手をかける気がする。……すみません、全く具体的な理由になっていないですけど。


──大丈夫よ。なんだって日常じゃありえないような壮大な問題だからね。曖昧でも、とにかくそうやってたくさん話してちょうだい。


わかりました、遠慮なく下手に喋らせてもらいます。んー、やっぱりまとめるのは苦手だなあ。


──とはいえ、いい訓練にはなるかもしれないわね。

……さて、それじゃあもう一つ、おまけの質問をしてもいいかしら?


もちろん、どうぞ。


──じゃあ。

このトロッコ問題にはね、有名なだけあっていろいろな派生問題があってね。その中の一つについて答えてもらうわ。

レバーを引いた先の線路にいる五人が、見知らぬ作業員ではなく、あなたの大切な人だったら、どうする?


大切な人……


──そう、とてつもなく、大切な人ね。正直そこまでの扱いができる人は私たちにはいないと思うから……これまた想定で考えてもらうことになるわ。


…………ふぅ……む………………

んんん、そうだなぁ。

いや……うん。何とも言えません。


──っふふ。堂々言うわね。


まず、大切な人というのにもいろいろいると思うんですよね。いわゆる唯一無二の相棒とか、恋人とか。想定で補うには「大切な人」だけだと、漠然としすぎていて僕には条件にできる気がしません。例えば「守りたい」という意味で大切な人ならば、そちらと反対側にトロッコを向かわせると思います。


──なるほど、確かにあまりに定義しづらいかしら。じゃあ、対等の友人や相棒ならばどうなりそう?


うん……もっと苦しいのがそこなんですよね。選べない……いや、より正確に言えば、この仮定の中での選択を、リアルで真実にできる自信がない。


──うん、詳しく聞かせて。


此処で答えるのなら、僕はレバーを引くと答えます。そして、赤の他人のときよりより迷わずに選択できる気さえする。


──どうして?


信じられるんじゃないかって、思うからです。彼らならきっと、より多くの人を助けるためになら僕に殺されてくれることを許してくれるのではないかと。もちろん、僕だけに都合のいいわがままなのはわかっているけれど……だからこそ、彼らなら僕のどんな利己的な空想とも向き合ってくれるんじゃないか……そう、信じたいんです。そうして…………


──……うん。


そうして僕も、後を追って死んでしまいたい。


──……それも、利己的なのよね。


その通りです。それを望んでくれる仲間なんているはずないのに……でも、僕の取る選択は──きっとこの先の問題でも──みんな利己的な由来からなる答えを導き出すと思います。


──うん……やっぱりそれが、私たちの深層にある大きな一つなんでしょうね。本当に、何とも言えないと思うけれど。相手が一番望んでいる選択を取ったときでさえ、「相手の願いに答えたい」という意味ではそれもエゴなんじゃないかって言ってしまいたくなる。相変わらず、「利己的」というのはわからないものね。


そうですね……それでも僕らの認識の方が、歪んでいるのかなあ。


──……この話は本題とも逸れてくるし誰も得をしなさそうから戻してしまいましょう。それで? リアルで真実にできる自信がないというのは?


今の仮定の話はなんというか、理想なんだと思います。僕は──今でも──理想にすがらずにはいられないんです。真の信頼できる仲間というのはいざという時に共に心中すらできる、それが美徳だと期待している。


──漫画のクライマックスのようなね。いい意味でも悪い意味でも、あれは確かにまやかしね。


そうです。けれど……いや、そんな壮大な幻想だから、現場で依存できる自信はない。実際この理想を託せるほどの人には出会ったことがないから……僕は僕の抱く「信頼」の条件を見出せないからこそ、結局は彼らを守ることを選ぶんじゃないか、そういう後ろ向きな理由でこの場で断定するのは苦しいです。


──なるほどね。いいわ、選ばないというのもまた選択だもの。偶然でも必然でもおそらく全ての物事には過程がある……今後の問いでも、その過程により重きを置いて聞いて行くわね。


それなら本当に、いくらでも話しますよ。……最後に添えておくとすれば、この二択ならいずれを選んだにせよ彼らの存在を無かったことにはしないと思います。

それが彼らに最低限表明できる、まともな親愛の証なのかな…………

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「僕」の思考実験録 幾兎 遥 @ikutoharuK

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