失われた文化の先に笑いはあるか?
umi
失われた文化の先に笑いはあるか?
劇場の跡に、彼らはいる。
小さいが高さのある建物である。ちなみに、近辺には同じような外見の高層建築物が居並んでいる。壁面は苔むしていて、外壁の剥がれたところからは内部構造が窺える。かつてよく見た鉄骨で建てられていることが、よくわかった。
劇場といっても太古のそれのように、一目見てそうと判別できるような造りではない。完全に箱型のものである。その内部を、堺は二十名の学生を連れ歩いていた。古びた外観に比べると、内部はまだ過去の面影を残している。派手な色で塗装された壁や床が、ここが娯楽の場であったことを感じさせる。
学生たちは、その壁面に
「かつて宣伝用に用いられていたものです。今や紙を宣伝のために用いることは無くなりましたが、当時は主流であったことが窺えますね」
学生たちが
ポスターには何名かの“芸人”と呼ばれた男たちの写真が、派手な装飾とともに掲載されている。この劇場において、己の芸を披露していたと思しき者たちの姿。また、『なんでやねん』『やめさせてもらうわ』等の、今はもう失われた言葉たちが、その上で踊っていた。
「漫才の型には、さまざまあったようですが、概ねこのような決まり文句を用いながら、軽妙な言い回しで観客を笑わせていた、と考えられています。これについては、講義でも映像を観ましたね」
あの面白くないやつか、と誰かの言うのが聞こえたが、堺は無視する。古典芸能の理解には個人差がある。興味を持つことと、面白さを感じることとは、別のことだ。自分だって、漫才を研究している身だが、
少しの寂しさを感じながらも、彼は手に持った端末を操作し、
ちょうど、ポスターに描かれた“芸人”と同じ人物が、堺と学生たちの間に浮かび上がる。
「まあ、ウイルスの出現以前の映像ですからね。これは2010年代の漫才師です。遺された競技会等の記録から、当時の人気芸人であったと考えられています」
俺は一体何の釈明をしているのか、と思いながら、堺は
先生、と生徒が挙手する。
「やはり、彼らも“関西弁”を話す“関西人”だったのですか?」
質問した生徒に、近くの生徒が――と言っても一
「言語学では、いずれの呼称も用いません。かつての近畿方言の一つです。通称であれば、関西弁の方が、やや知られていますが」
なんにしても、
「今、そんなことしちゃったら、タイホされてしまいますよね」
学生が笑う。その通りだ。関西弁での漫才はもう、できない。堺は、笑わなかった。
およそ百年前、『言語理解の均一化に関する法律』が施行された。日本からは、近畿方言だけでなく、すべての方言が消え去った。
都市部と地方の経済格差、学力格差を引き起こす要因のひとつに、“地方によって異なる言語認識”があるとされたのが、すべての始まりだったのだろう。その格差を引き起こした責任を、自分たちの怠慢でなく言語に転嫁できると考えた政治家たちの動きが速かったのもあるかもしれない。瞬く間に法律は起案、可決、施行され、地方言語は消えていった。
さて、その結果、格差が是正されたかと問われれば、それは堺にも判然としないのだが、少なくとも彼は、言語を統一化する必要は無かったのでは、と考えていた。
漫才が好きだったのが、そう思わせたのかもしれない。そんな古臭いもの、と友人には
関西弁の消滅とともに、漫才は古典芸能になった。だから何だ、と思う。かつては能が、歌舞伎が、文楽が、落語が、そう言われても好まれていたように、漫才を愛するものだって、たくさんいる。関西弁を愛する者だって、たくさんいるはずだ。
たとえ今、関西弁を用いれば罰則が科されるとしても。文化は誰かが遺していくべきなのだ。この劇場のように。
先生、と自分を呼ぶ声が聞こえた。天井を見上げていた堺は、それで視線を学生たちに戻す。
「関西弁やその他の方言も、まだ古き良き文化として保護していこうという人たちもいます。軽々しくタイホなどという言葉は、使わないように」
すこし張り詰めた雰囲気を破りたかったのか、別の学生が明るい声を上げる。
「向こうにあるのが、劇場ですか?」
正確には、劇場にはもう入っていて、彼らが言うのは舞台なのだが。堺は頷き、学生の後を追って舞台のある広間に入った。広間は手前が客席になっていて、奥が一段高い舞台になっている。
天井が、崩れていた。これも、年月がそうさせたのだろう。崩れたところには透明の
堺は、思わず息を
「遺物、って感じですね」
もう興味を失った何名かの学生たちがそう呟くのも、彼は聞いていなかった。
三々五々、辺りを見物する学生に
この光景を、“芸人”たちは見ていたのだ。いや、客がいた。彼らの
口惜しい、と堺は心の底から思った。
気付けば、学生たちは広間を出ようとしていた。しかも、こちらを遠くから伺っている。声を掛けることもしなかったのか。自分を置いて行こうとでも言うのか。
堺は、ふっと息を漏らした。どうしてか、笑みが浮かんだ。
そして、彼は、
「なんでやねん」
客席に向かって呟いた。
そこには誰もいなかった。しかし彼は、誰かの笑う声を聞いた気がした。
失われた文化の先に笑いはあるか? umi @YUKAIY
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