『群青圏』ーあるいは幻想界の実存ー
李適
『群青圏』
夢は、閉ざされた想像界の完璧な実現である。―ジャン・ポール・サルトル
「いや、それはまっことけしからん話ですよ。星の
「そもそもがですな、我々はその衝突を防がんとせんがために、星の調停を取り計らっておるのです。
みてみなさい、有史以来、二億とんで八千数百年間のあいだ、我々は見事にその仕事をやり遂げてきた!
この宇宙の中には、―虚数空間から非ユークリッド空間におけるすべての時空間が―、一つの統率に守られて、丁寧に、綺麗に、間違いなく配置されておるのです。
それもこれも、我々が不平一つ言わず、献身的にこの仕事に奉仕してきた結果ではありませんか!
それが星の基層に、淡い大気圏だなんて……、まったく馬鹿馬鹿しい!」
ふんすと息を吐き出すと、口蓋さんは髭のあたりにのっかていた
「淡い大気圏でなくて、群青の淡い大気圏ですよ、口蓋さん。大気圏の色は、澄んだ青色をしていたのです。星の基層なんていう真っ暗闇の、そこの底でね」
「そんなことは
私が申し上げたいのはね、どうしてそんなありもしない話を、集団は有難がるのかということなんです。
そのふざけた集団心理というやつ、そいつに私は我慢がならない」
ピシャリと私の提言を跳ね除けると、口蓋さんは
「口蓋さん。あなたは、その群青の淡い大気圏を、―仮にそれを『群青圏』と呼びましょうか―、それをありもしない虚像だと、集団によく流通する、喜ばしい嘘の類であると、そう結論づけるようですが、」
「……いや、一つ違いますな。虚像というのは考えてみれば、スコラの人間の喜ぶ、
「はあ、確かに私もその意見には
私の受け答えを聞いた口蓋さんの顔には明らかに
「まあ聞いてください。虚妄と呼ばれる諸々の類。劣悪で、奇妙で、風変わりで…、そういうものは、その劣悪さから、常に我々の
ちょうど、この関係は、貨幣と市場にも同じことがいえる。市場に出回る貨幣も、実はその多くが、質の悪い三等以下の低級貨幣である場合が多いのです。なぜそんなことが起こりうるのか。良質な貨幣はいったいどこに消えてしまったのか。
大衆というのはね、口蓋さん、生活の歓楽をこよなく愛する一方で、生来の
つまり、これはこういうことが言えるわけですよ。『悪貨な貨幣は、市場を介す前に心理を介し、そして市場に介されたがゆえに、良質な貨幣を
「…興味深い話ですな」と、口蓋さんは背もたれに預けたまま呟いた。そして少し物思いに
私は周囲を見回した。あたりにはぴんと張り詰めた、
「…今までの話をまとめましょう。虚妄と貨幣は、その駆逐と拡大の作用によって、そう変わらない性質を持つわけです。一方は普遍心理において、もう一方は市場においてね。しかるに、貨幣の最大目的とはなんでしょうか?兎にも角にも、それは、交換です。意味と具象を
…して虚妄は。虚妄の最大目的とはなんでしょうか。虚妄は、いま、我々の普遍心理に広範な流通を果たしている。そして、それは紛れもない、大衆の合意によって形成されたときている。
……これは貨幣が成立するときの、ちょうど逆をいくものとなっているのではないですか?貨幣は先立っていた具象を、意味に取り直してやるために生まれた、それこそが貨幣の出自であったわけですから。しかし、虚妄はどうでしょう。虚妄はいま通貨的意義をもち、そうしてそれに変換されるだけの意味を生み出した。ただ具象にだけは…、あと一つのところで接続する力を持たないわけです。
……けれど。けれど、実はしかし、それら自体が、先に存するものであったと考えればどうでしょうか。虚妄と意味とが、実は具象に先だつ
虚妄は生まれたのではない、在ったのです。
私たちが、彼らを認識する遥か昔から、具象がその存在を、貨幣に規定される遥か昔から、あったように。
とすれば、欲求の爆発に応じて貨幣が生じたように、ここにもある欲求が
…そしてその欲求の向かう先とは?それは、いまだ満たされない、『群青圏』の具象、ということになるのではないでしょうか?」
「そんな馬鹿な!」
口蓋さんは怯えたようにいきりたった。雄鹿のソファがギィと揺れ、脚元から薄銀色の風が立ち上った。
「いったい、どんな根拠があってそんなことを!失礼ながら言わせていただくが、私は実務家として、誰よりもこの
事実そのとおりだろう。なぜって、二次から三次への移動を可能にした
それによって、
そんなものに…、そんなものに私の仕事が駆逐されるなんて、侮辱もいいところだ!」
そしてそれは、先ほど吹き飛ばされた双子星も同様だったのだ。
「口蓋さん。私は決してあなたを侮辱したいわけではない。また、あなたの二相システムを
しかし、あなたがそう
「であるならば!そうであるならば、具体的な根拠を示していただかないと!」
そう言い放つと、彼はまたどっかりと雄鹿のソファに座りこんだ。ソファの皮に溜まっていたコバルトの星粒がさっと舞い上がった。
「まあ、そんなものが見付かればの話ですがな!」
口蓋さんの顔には、
ただ、悲しいかな。ここで彼の経験事象はなんらの意味をもっていなかった。
『群青圏』は否が応でもその到来を果たし、全ての包括星雲の
『群青圏』はおよそただちに、透明質の、淡い水素体を用いて、この
彼らは、そこに必然の宿命をみて、
無意識によって誕生した気圏は、その場におけるら一切の理知の伝達を阻み、純化の作用によって、我々の
私は直感している。我々の球体空間は、『群青圏』によって駆逐され、拡大を繰り返していき、そして二度と、その閉鎖的な和解が試みられることは、ないであろうと。
私は口蓋さんの顔を見た。彼の顔には相変わらず嘲るような、薄ら笑いが張り付いていた。
しかし、その後ろには、冷えた虚空の中で、ただ一人、
『群青圏』ーあるいは幻想界の実存ー 李適 @riteki
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