第3話


「……あいつ、本当に最悪だよ」


 後部座席で一人こぼせば、運転手は「どっちのこと?」と困ったように聞いてきた。


「……それ、口にしなきゃ駄目ですか」

「いやあ、それはジュンちゃんの自由だよ。今回災難に遭ったのはジュンちゃんなんだから」


 長年の付き合いになる運転手──あたしの背中を擦ってくれた刑事さんは、相変わらず気の抜けたゆるい口調で言う。

 彼によれば、萌々に突き飛ばされてあたしは脳震盪のうしんとうを起こしたらしい。気が付いたら病院にいて、側にはこっくりこっくり船を漕いでいる刑事さんがいた。どうやら、距離的な関係で来れない両親に代わってあたしの様子を身に来てくれたようだった。

 忙しいだろうに、関東圏なら大丈夫とか言って駆けつけてくれた刑事さんには頭が上がらない。どうしてもあそこに行きたい、迷惑はかけない、独り暮らしでどうにかするとわがままを言って東京──とまではいかないけどその近くに進学したあたしにとって、この刑事さんは頻繁に様子を見に来てくれることもあって第三の親のような存在だ。


「それにしても、ジュンちゃんが無事で本当に良かった。大きな影響はないってお医者さんは言ってたけど、しばらくは安静にするんだぞ」


 あたしが名前にコンプレックスを持っていることを知っている刑事さんは、あたしのことをジュンちゃんと呼ぶ。その気遣いはありがたいし、響きも可愛いから地味に気に入っている。


「わかってますよ。言うこと聞かないと、誰かさんがあたしの家に押し掛けてきますもん。女子大生の家に入り浸ってるのがバレてクビになっても知りませんよ」

「心配なんだもん、仕方ないだろ。それにジュンちゃんのことは上司も知ってるから大丈夫」

「……忙しいなら、無理しなくていいんですからね。あたしだってもう二十歳過ぎてるし、頼ってばかりっていうのも、ちょっと」

「いーのいーの、俺がやりたくてやってるだけだからね。それに今日みたいなことがあった手前、放ってなんておけないよ。しばらくは大人に甘えておきなさい」


 ここまで心配させておいて、意地を張るのも格好悪い。あたしは素直にはい、と答えた。

 びゅんびゅんと住宅街の明かりが通りすぎていく。何てことのない景色に、彼が死んでから居座り続けている胸のもやもやがうごめく。


「……萌々──いえ、鳰見さん、どうなるんでしょうね」


 窓の外を眺めながら問いかける。刑事さんは慣れ親しんだ人だけど、それでもやっぱり沈黙は居心地が悪い。

 刑事さんの話によれば、萌々はあのコンビニの近くの警察署に連れていかれたそうだ。特に問題がなければ傷害として手続きが進められるのだろうけど、あの子のことだ。彼がどうだこうだと大騒ぎすれば、もっと面倒なことになるに違いない。

 もう、彼に苦しめられたくはない。本人はこの世にいないけど、萌々のようにその影を追う人はいる。今日みたいなことが、再び起こらないとは限らない。


「どうだろうね。まああの様子じゃ、おとなしく収まってくれるとは思えないしなあ。しばらくはあわただしくなるかも」


 だから、と刑事さんは前を向いたまま続ける。


「暇で暇でどうしようもない時は声かけてよ。ジュンちゃんと息抜きしまーす、って言ったらお偉いさんたちも休憩させてくれるだろうし。俺としてはボディーガードと息抜き両方できてウィンウィンって訳。なかなかいいアイデアだと思わない?」

「……なにそれ」


 笑うべきところではないと思わないでもなかったけど、あたしは思わず笑いをこぼしていた。

 久しく衝動的に笑ったことなんてなかったから、あたしはしばらくの間くすくす笑い続けていた。刑事さんは特に咎めなかったけど、少しむっとしているのがわかる。もういい年齢としなのに、頬なんて膨らませて子供みたい。


「……まあ、いいですよ。あたしも今のところまともな友達いないし、一人でいるのも不安ですから。刑事さんなら滅多なことしないでしょうし」

「当たり前だろ、俺だって大人なんだからちゃんとわきまえてるよ」

「そのせいで独り身ですけどね」

「こら、それは余計だって!」


 からかっておいて申し訳ないという気持ちはある。でも、少しだけ元気が出た。刑事さんも、半分……いや三分の二くらいは本気かもしれないけど、あたしのことを励まそうとしてくれてたみたいだし。

 あたしの精神はまだ死んでない。ちょっとしたことで笑えるし、ちょっとしたことで傷付く。もともとメンタルが強い方ではない上に彼のこともあるから、割りと脆いんだろうけど。

 こうやって騙し騙し精神を持たせることはできる。でも、だからと言って彼につけられた傷は完治しないし、記憶がごっそりなくなる訳でもなし。すごく微妙なラインだね。


「……絶対許してやんねー、あのクソヤロー」


 先程の笑いの余韻を噛み殺しながら、あたしは毒づく。

 もうこの世にいない、への呪詛。みっともないってわかってるけど、あたしやその他大勢の人生をめちゃくちゃにした奴に情けなんてかけてやれるか。

 車はもうすぐ高速道路に入る。あたしは頬杖をついたまま、真っ暗な外を見つめ続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

余韻 硯哀爾 @Southerndwarf

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ