第2話

 きっとあたしは、人並みに幸せだったのだろうと思う。両親との仲は良好だし、貧困に悩んだこともない。たまに風邪引いたり流行りの感染症にかかったりはしているけど、概ね健康と言っていい。学力は平々凡々だけど今のところ受験に失敗したこともないし、親に多大な負担はかけていない。非常に善良な人間……と言うのは難しいけれど、凡人らしく良くも悪くもない──といったところだ。

 まあそれでも、悩みが皆無な訳ではない。あたしには、恐らく人生をかけて引っ張り続けるであろう悩みがふたつある。


 ひとつは名前。


 最近は珍しい読み方の名前──いわゆるキラキラネームも見受けられるけど、あたしの名前が完全にそれ。純と書いてピュアと読むとか、まずあり得ないでしょ。名字が榛葉はしばで思いっきり日本人なこともあって、異物感が半端ない。継ぎはぎしたかのような不恰好ささえ感じさせる。

 昔はすごく嫌で──今もコンプレックスに他ならないけれど──名前を呼ばれることすら苦痛だった。揶揄されることは日常茶飯事だったし、同年代の子供だけじゃなくて大人からも馬鹿にされているのがわかるくらい露骨な対応をされたこともあったから、人嫌いが加速した原因だと思う。両親のことは嫌いじゃないしむしろ好きだけど、名前に関してはずっとずっと恨み続けている。おかげでピュアとは言い難い、ひねくれた性格に育ってしまった。今更どうしようもないけどね。


 もうひとつは、親族が世間を揺るがす犯罪者──ちょっと擁護するのが難しいくらいの人を殺しちゃったってこと。


 今現在、主に悩んでることと言ったら間違いなく後者。最近ではだいぶ落ち着いてきた方だけど、それでもぶつけられた衝撃と負った傷が大きすぎて、今でも受け止めることなんてできない。

 その親族というのは、あたしから見れば再従兄弟はとこ──あたしのおじいちゃんのお兄さんにあたる人の孫。うちの家系では本家筋に属する家の人で、長男ということもあって親戚のほとんどと顔見知りだったはず。あたしは昔東京に住んでいて、小中校の先輩でもあったから、関わる機会は非常に多かった。

 殺人事件の犯人だと前置きしておいて何だけど、その人──正直名前を呼ぶことすら苦しいので便宜上『彼』と呼ぶことにする──は、同じ人間とは思えないくらいに完璧で、非の打ち所が見当たらなかった。

 文武両道、容姿端麗、温厚篤実。学業とか部活だけじゃなく、あらゆる技術に関して彼は優秀だった。加えて道端を歩けば女の子からお熱い視線を向けられるだけにとどまらず、芸能関係の人からスカウトされるくらいの美男子。その癖、そういった美点を鼻にかける様子は一度も見せなかったし、誰に対しても優しく、分け隔てなく接することのできる人でもあった。

 彼にはあたしと同い年の妹さんがいて、親戚の集まりとなると彼女と遊ぶことの方が多かったけれど、そう歳が離れていないこともあってよく面倒を見てもらった。大嫌いな名前も、彼に呼ばれる時だけは素敵な言葉のように聞こえた。


『純ちゃんの名前、僕は好きだよ』


 そう言って微笑んでくれたことを思い出す。彼の言葉は真っ直ぐで、柔らかくて……どれだけあたしの救いになったことか。

 年齢差の関係から、同じ学校にいれたのは小学生の時だけ。それからはたまに会うくらいの頻度だったけど、彼は変わらずあたしに優しくしてくれた。インドアなあたしだけど、彼の出る部活の大会は家族ぐるみで応援に行ったし、中学生になったら同じ塾に通わせてもらった。彼はあたしの両親にも信頼されていたから、彼といっしょにいればあたしも大丈夫だろうと思われていた。実際、あたしも彼といっしょなら何だってうまくいく気がしていたけど。

 今になって考えるとちょっぴり申し訳なくなるくらい、あたしは彼に頼っていた。それでも四六時中べったりという訳ではなかったし、あたしにも人並みに友人はいた。

 皆あたしと似たような、目立たない子ばかりだったけど、その中で異彩を放っていたのが鳰見萌々だった。中学一年生の時にクラスメートとなった彼女は、冴えないあたしに親しげな様子で声をかけてきた。

 萌々が彼狙いなのは目に見えて明らかだった。当時は彼と知り合いになりたくてあたしに声をかけてくる人ばかりだったから、ああまたか、くらいの感慨しか覚えなかった。

 他の子に彼を取られる──とは不思議と考えられなくて、あたしはただ、そういった人たちとは同級生や同じ学校の生徒として普通に対応していた。

 多分、あたしの立ち位置は誰かに取られるものじゃないと思って、心のどこかに余裕があったのだろう。

 学年が被ってもいない彼と関われる機会なんて、たかが知れている。彼は誰にでも優しいけれど、無関係である限り彼の目に留まることはない。それに、親類としての距離感は、ちょっとやそっとじゃ得られない。

 だから、萌々が彼を『先輩』と呼んで慕い、恐らく恋愛感情を持っているのだとわかっていても、ああはいはいそうですか楽しそうですね──としか思えなかった。

 萌々はあたしが応援してくれてると一方的に思っていたみたいだけど、あたしは応援も邪魔もしていない。彼は前述の通り女子に人気があったし、時に彼女がいたこともあったから、萌々の反応は特段珍しいものでもなし。きっと年月を経るごとに恋愛感情も風化していくだろう──そんな風に思っていたけど、彼女はなかなか根気強く、可愛くて男子からは絶大な人気を誇るのに彼一筋だった。

 とにもかくにも、彼は瑕疵たんしょの見当たらないそれはそれは完璧な人だった。神様が出力間違えたのかもねー、と冗談交じりに妹さんが言っていたことを思い出す。


 彼が、殺人事件の犯人とわかるまでは。


 高校生になったあたしのもとに、その知らせは突然やって来た。

 この頃、世間は何だかピリピリしていて、物騒な事件も少なくなかった。でもあたしはそういった不穏な話は自分に関係ないと思ってたし、それなりに平凡な日々を送っていたから、完全に他人事として過ごしていた。周囲からは身の回りに気を付けろーって口酸っぱく言われていたけど、当時のあたしは能天気でお気楽だったものだから、はいはいと気だるく返すだけだった。

 だから、家に刑事さんたち──正確にはもっと細かい序列があるのだろうけど、あたしにはよくわからない──が来た時、あたしは何故彼らがやって来たのか理解できなかった。見たところ家族が何かした、あるいは何かあった訳でもなさそうだし、やけに沈痛な面持ちをしていたから。訪問販売や、近辺の不審者への注意喚起かな、と思っていた。


 そして彼らは語った。彼が何をしたのかを、簡潔に。


 彼は人を殺していた。数人とかの話じゃない、三桁などゆうに越すくらいの、大勢の人の命を奪った。自分の手は汚さず、間接的に殺させたケースが多いから、別個の事件と思われていたものが大半だった、それらを全て笑いながら自白した──と。

 客間に集められたあたしたち榛葉家の人々は、彼らの話を沈黙して聞く他になかった。だって、理解しようにもうまく頭が回らなかったから。

 刑事さんの中には顔見知りの人もいた。彼とも知り合いのはずだ。きっと当事者でないあたしよりも辛いだろう、と思わないでもなかったけど、他人のことなんか気にしていられなかった。流れてくる情報を受け止めるだけで精一杯だったんだ。

 稀代の殺人者となった彼は、どういう訳か死んでしまったらしい。自殺か、それとも刑事さんが発砲しなければならない程の窮地を作ったのか──彼らは語らなかった。ただ、大きな感情の塊をどうにか押し込めようとしながら、刑事さんたちは事の顛末をあたしたちに伝えた。

 刑事さんたちの話が終わるのを待てず、あたしは思わず嘔吐した。辛くて、苦しくて、気持ち悪くて──せり上がってくる不快感と嫌悪感に耐えられなかった。

 どうして? どうして彼はこんなことを? どうして死んでしまったの? あんなに優しい人のことだ、誰かに騙されて──いや、彼は騙される程馬鹿じゃない。むしろ、人心掌握なら得意分野のはずだ。完璧な彼のことだから、きっと人殺しだってうまくやる。誰もが彼を好きになるから、彼の言う通りにする人なんてたくさんいる。彼は、そういった人たちを利用したのかもしれない。

 彼は笑っていたと刑事さんは言った。あたしの脳裏にあるのは、柔らかくて穏やかな彼の笑顔。あの笑顔で彼はおぞましい事件を語ったのだろうか。それとも、狂ったように笑った? いや、苦笑いかもしれない。どれにしたって、あたしには想像するしかできない。そしてそのどれもが恐ろしく思えた。

 げほげほ咳き込みながらえずくあたしへ真っ先に駆け寄ったのは、父でも母でもなく顔見知りの刑事さんの一人だった。彼は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、声にならないうめき声を噛み殺してあたしの背中を擦ってくれた。

 この刑事さんも、傷付いているはずなんだ。それなのにあたしを気遣ってくれている。その事実が申し訳なくて、あたしは年甲斐もなくおいおい泣いた。

 このことは彼の身内にのみ語られて、彼の葬儀も内密に行われた。世間の皆さんは彼が犯罪者なんて知らないから、事件に巻き込まれて死んだのだと勘違いしていた。誰もが彼の死をいたみ、悲しむ姿はあまりにも痛々しかった。

 彼は死後も他人を欺き続けている。彼が何者か知っている者は、より一層傷つけられるばかり。彼の家族はだいぶ疲弊してしまったし、壊れるのも時間の問題だろう。何か打開策があればいいとは思うけど、世の中そううまくいくはずもない。きっと彼の家族は彼によって破壊され、取り返しがつかなくなる。

 榛葉家も後ろめたさがある身だから、早々に引っ越した。色々と手続きは大変だったけど、世間の悪意に刺され続けるよりはずっとまし。都心からは離れて、何も知らないふりをしながら生活することになった。


『純ちゃん』


 あたしの記憶の中の彼は、優しくて頼りになる、尊敬できる人のまま。その顔のまま、彼は犯罪者としてあたしたちを苦しめる。

 なんて悪辣なのだろう。死んだ後も、彼はあたしを追い詰める。本人がそこまで考えて死んだのかは知らないけど、非道ひどすぎる。


「──先輩はきっと正しいことをしたんだよ、純ちゃん。だって、あの先輩が間違えるはずなんてないもの!」


 彼を慕う人は多い。萌々もその一人だ。

 彼女はどこから手に入れたのか、彼が犯罪者だという情報を知ってしまったらしい。しかし萌々は彼の行いを正当化したいようで、わざわざあたしを尾行して同意を得ようとしている。

 頭おかしいよ。なんでそこまでしようとするの?

 嬉しそうに語る萌々が気持ち悪かった。どんな理由があっても、犯罪を──それも近年稀に見るような大事件を──犯人が好きな人だからと擁護するなんて。あたしには、到底受け入れられるものじゃなかった。


「純ちゃん、口には出さなかったけど先輩のこと大好きだったもんね。あんなことがあって、悲しくないはずがないよね。先輩は悪い人じゃないのに、犯罪者だって言われてさ。それをずっと隠して生きなきゃいけないなんて、可哀想な純ちゃん」


 でも大丈夫だよ、と萌々は微笑む。


「私、わかってるから。先輩はたしかに人を殺したかもしれないけど、きっとそれは善いことなんだよ! 先輩はとても頭がいいもの、皆のためになることしかしないはず。だからね純ちゃん」

「……やめて」


 もう喋らないで欲しかった。そんな笑顔で、彼の罪を正当化しないで欲しかった。


「やめてよ、そんなの知らないよ! なんなの勝手にぺらぺら喋って、あたしは人殺しを擁護なんてしたくないよ!」

「純ちゃん……?」

「見損なったよ、萌々ちゃん。その調子じゃ、性質たちの悪い詐欺師に引っ掛かるかもね。あいつもそうやって、たくさんの人を騙してたんだからさ! あいつが死んでて本当に良かった、あと数年早かったら、あんたも人殺しになってたよ!」

「この悪魔!」


 萌々は顔を真っ赤にして、あたしをぶん殴った。

 くそ、痛い。いきなり殴ってくるとか、犯罪者を信仰していかれちゃったんじゃないの? 昔は虫を叩くこともできなかったくせに。


「先輩のこと悪く言わないでよ! あんなにきれいで、素晴らしい人だったのに!」

「……どこを見れば、そんなことが言えるの? あいつがいくつの事件に関わったか知らないから、そんなことが言えるんだ。あいつの起こした事件とは無関係で、ただの傍観者でしかないくせに……。犯人が好きだからって倫理観をドブに捨てるなんて、人間終わってるね! 何、その頭スイーツ通り越してすっからかんなの?」

「──」


 すう、と萌々の瞳から色が消えた。

 あ、やばいかも。


「……純ちゃん、駄目になっちゃったね」


 どん、と突き飛ばされる。

 すぐに受け身が取れるはずもなく、あたしはコンビニの外壁に頭を打ち付けた。痛いと思うよりも先に、脳みそ全体か揺さぶられるような感覚に襲われる。

 起き上がらなきゃ。頭ではわかっているのに、体は言うことを聞かない。


「先輩の悪口なんて、許せない。先輩を否定する純ちゃんなんて、生きてたって意味がない」


 萌々が近付いてくる。

 ああ、あの子、だいぶ錯乱しちゃってる。善悪とか、もう説けないかも。

 あたしは彼を恨んだ。彼が死んでから、何回目になるかわからない。あっちが知覚しているなら、もう十分だとうんざりされていることだろう。でも、あたしにとってはまだまだ不十分。

 萌々があたしの前に仁王立ちしていたけれど──なんだかとても眠たくて、あたしはそっとまぶたを閉じた。

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