下
間違えた。一番乗ってはいけない船に乗ってしまった。そう思ったころには、あらゆる機影は水平の彼方に消えていた。イオンの軌跡を引いて
「代わってください。私が動かします」
頭の後ろから、冷静な声が響く。ルチアによるものだ。シフト。観測係と操舵係の背中合わせのコックピットは、レバーを引き倒すことで入れ替えることができる。指示に従って操作をすると、ハーレーの視界に輝く無数の計器が滑り込み、白ぼけた月の地平がその右方に拡がる。
「
「それはいま私の仕事」
「ぐちぐち言ってないでイオン推進器のメーターとかちゃんと見ててください。さっきのデブリ騒ぎで船体に異常があったら困るんですからね」
眼前に映る数々のモニターを目にしたハーレーは、一呼吸おいて複数ポップアップしてくる赤い画面群に眩暈を覚えるような気持ちさえした。心拍を落ち着け、ルチアが操舵に集中できるように、情報のリンクを断ち、全て観測室にずらす。
「飛び込みます。しっかり捕まってて」
沈降船は、寸分の狂いもなく黄道方面へ駆ける。月面高度九〇〇フィートを滑りながら、一つの雨の雫にも似て、音もなく割れた海面に沈み込む。機体を覆う防護力場の色が変わる。激しく制動しながら重力核で月を引く船。ハーレーが早口で計器について必要な説明をしていると、背中越しに静かな声が聞こえてくる。
「私さ、月って嫌いなんだよね」
敬語ではない、素の口調。それを小麦色の肌の女性が聞いたのは一年ぶりだった。目まぐるしく動く数値を眺めながら、報告のなかに挟むようにして、彼女もまたこう返す。
「あなたのせいじゃないですよ」
月没師の船の防護力場は天体の地表三〇〇フィート圏内では作動しない。ハーレーの姉とルチアが乗った沈降船が素粒子嵐に飲まれて月面に墜落したのは、もうずっと前の話だった。操舵係だったルチアは
心に傷を負ったルチアは、沈降船はおろか滑走船にも乗れなくなり、訓練生の最高学年として地球に再び降ろされた。そこで再び、三歳年下のハーレーと出会うことになる。ルチアは言葉で彼女と距離を取ろうとしたが、ハーレーは敬語を外して詰め寄り、二人組を作った。「実試一位の私と二位のあなたが組むことに何の問題がある」、そう問われた白い肌の女性の心のなかでは、あらゆる葛藤が渦巻いていた。
それから改めて彼女たちは少しずつ手を取り合い、また共に泣き、笑いあった。とんでもない軌道で推進する船のなか、女性二人、往復する言葉だけが淡く溶けて色のない空気に混ざり合う。熱せられた月面も、表層が溶けて生み出された礫片の雲も、割れて波立つ銀河色の海も、加減速する機体も、彩度を変える防護力場も、この一年の日々を照らし返す太陽の静寂と、ただ二つ鳴る心臓に注がれていく。
「昔は、私の方が背が高かったのにね」
白い肌の女性は言う。およそ数分間の潜航。息もつけない位置制御が絶えず視界を揺らす世界で、それでも何度となく繰り返す会話。音に乗せて宇宙に放たれる過去の思い出たち。永遠の夜の闇のなか、ずっと続くかのように思えた穏やかな時間は、銀河色の海面と同じように幕を下ろしていく。月没の終わり。母船に戻ろうと進行方向を変えようとしたルチアの握った操縦桿が重く震える。突然ガタガタと揺れる機体。聞こえる深いため息を耳で捉えた直後、とんでもない警告音と共に操縦席のメインモニターにポップアップする画面があった。
イオンエンジン損壊、予備科学燃料残量ゼロ。
自由航行不能。第一船室下部脱出モジュール故障。
第二船室の打ち上げ用意が出来ました。
「何これ」
「どうやら、間に合ったみたいですね」
はぁと、腕を伸ばしながら、小麦色の肌の女性は安心したように呟いた。シフトして数値を確認した時点で、ハーレーには分かっていた。小さなデブリ片の直撃によって、機体下部のイオンエンジンの一部と科学燃料庫に穴が開いていて、それが最も上手く操縦しておよそ月没直後に使用不可能になることを。加えて、自分の脱出装置が故障したということを。
「好きですよ。ルチアお姉ちゃん」
言葉にならない声を上げていた背後が、一瞬で静かになる。特殊重力核を備えた操舵室が射出された合図だ。くんっと、軽くなった機体が、次第に制動を失って天体を導く位置から流れていく。月に没すると書いても月没師。月没回数のおよそ一〇分の一ほどの確率で未帰還機が現れ、それはほとんど一番機、沈降船だ。
シフト。一人でそう言って、また船内が半回転する。上がる心拍をどうにか抑え込むことはできた。緊急規定に従い、録画機能が既に回っているのを確認しながら報告を始める。制動が効かず絶えず目まぐるしく天地を回す視界のなかで思い出されたのは、三人で過ごした過去の日々だった。
「――地表面との接触まであと四〇〇秒。墜落中、メインエンジンが起動しない。デブリによる貫通があった場合、修繕とエンジンオイル補助修復機能が働かないものと考えられる。再起手順を試す」
ねえ、憶えてる。一緒に行ったカラオケ、みんなで食べたアイスクリームの味。はじめて軌道エレベータに乗ったときのふわってする感じ。宇宙の海の美しさ。空へ行った二人の背中があんまり眩しかったから、私もこうやって頑張ろうって思ったんだよ。
「全て失敗――、潮汐力により、減速を確認、最終落下地点はカッペラ渓谷の第三掘削穴付近になると思われる。データを取り次第、記録端末を投棄する」
認識ビーコンを付けた手のひら大のカプセルが宇宙空間に投下されたのを確認して、ハーレーはコックピットに仰向けに倒れた。上がった心拍はどうやったってもう落ち着きそうになかった。何もできない。ただ死が近づくばかりだ。喉がつかえそうになり、瞳に涙が浮かんでいく。数分流された沈降船は、引力圏に沿って地表を駆け、天体を半周したらしい。沈み切った月の天井。そこから見上げる大宇宙に横倒し長半径三万キロメートルの素粒子の海が幕を成す。頭上に揺らめく銀河色の水面。女性を乗せた小さな機体は、独り白い水底に落ちていく。
どうしようもないことばかりだ。ルチアに生きていてもらうために、きっと彼女が一生背負ってしまうような最低なことをした。けれど、それ以外の選択肢はなかった。一瞬、巡る視界の端に映った青い星。惑星地球。この出来事が彼女から宇宙を完全に奪い去ってしまうとしても、大切な人を自分が二度と戻れないあそこに戻すことができるなら。それから先は、祈るしかない。
嗚咽が漏れる。身体が震え、バイタル確認のバングルが警告音を鳴らす。何も見たくなかった。溜まった涙にふたをするように目をつぶる。頬に流れる冷たい感覚と共に、世界が漆黒に染まる。熱を発する素粒子の水面と、それに当てられて高温を保った弓なりの海底。沈む。青と白の死の狭間に、独りで。
過去は潮騒に似ている。だから、まぶたを閉じるといつも波の音がした。耳をつんざくアラートも遠く、水の寄せて返す幻想の景色。遠い夏の空気のなか、浜辺に刻まれる三人分の足跡。日の照る伸びた入道雲を横目に、先を往く二人に追いつこうと足を進める。高度三〇〇フィート。防護力場が消失し、墜落まで残り三〇秒。あらゆる記憶が彩度を得て
目が合う。その一瞬で、きゅうと胸が締め付けられ、ハーレーの濃紺の瞳から絶え間ない涙が流れ出す。ごめんね、お姉ちゃん。私、死んじゃうんだ。震える喉を開いてそう伝えようとしたが、先に別の言葉が響いた。心拍一つ分、明滅する世界。こちらを向く女性がすっと腕を振り上げるのに合わせて、声がする。優しい口調で、聞きなれた姉の声が。背中合わせの、誰も乗っていない観測室から。
――ほら、上を向きなさいハーレー。
驚きに目を見開き、涙の線を引いて首を持ち上げると、それは見えた。白い地平の彼方。蒼天に似た海面をめくり上げる一艘の滑走船と、そこから弾き出された一つの円錐状の構造物。ほんの少しのぶれも許さない制動。小さな雨の雫のようなそれは、鮮やかに色を変えながら、大きく弓なりの軌道を描いて、こちらに落ち、迫ってくる。眼前、見上げて五メートル。銀河色の海を縦に裂いて描かれた虹の筆先。特殊重力核の操作によって揺らめく防護力場を纏った操舵室。目が合った一瞬。そのなかの、小柄な女性が、叫ぶ。
「あんたら姉妹は揃いも揃ってぇえええ!!」
彗星。激怒の音圧で降り注ぐコックピッド。それは一連の極めて正確な重力核操作で防護力場を失ったハーレーの機体の軌道を引き寄せた。落下地点が大きくずれる。熱を帯びる白い海底から、さらに暗い深海の穴、適度な冷気に満ちた第三掘削孔へ。墜落速度は、設置された磁力場によって見る間に減っていき、事故防止の緩衝材が満ちた最奥面に突っ込むころには、何とか着陸に耐えるほどに落ち着いていた。爆音。機体が激震し、座席に強く叩きつけられる。眼前のモニターに一瞬無数のノイズが走ったのち、赤い警告灯が白い通常起動色に変わる。
耐圧スーツ越しでもかなり打った腰をさすりながら沈降船から降りたハーレーは、同じく疲労困憊の様子で焦げ付いた白い箱から出てきたルチアと顔を合わせた。年上で黒髪の彼女は、ただハーレーの無事を確認すると、静かに緑色の緩衝材の床に座る。星を引く重力核の出力に比べれば、二人の墜落など些細なものに過ぎない。地表で人が生きても、死んでも、月は変わらず進んでいく。
「訓練用の信号、出し忘れていたね」
ルチアは静かにそういう。彼女が付け加えたことには、部隊長が滑走船を見て回っていたところ、訓練用の信号を出していた船が一艘もなかったことから、沈降船に彼女たち二人が乗っているらしいことはすぐに分かった。月没が終わり、踵を返して月に向かう船に、射出されたルチアからの緊急メッセージが飛んで、いまに至るらしい。
暗い坑道。近くに歩み寄ってきたルチアは、ハーレーの手に触れた。バングルからのバイタル情報が通信機越しに伝わり、透明なマスクに映るモニターには二人の拍動の波形が映る。生きている。倒れそうになる女性の身体を、もう一人の小柄な女性が正面から抱き留めた。何度かの咳のあと、宇宙に淡く溶ける大きな泣き声。ゆっくりとなだめ、お互いの鼓動を確かめながら、ルチアもまた涙声で呟く。
「怖かったのはこっちの方だよ、ぽんぽこちん。泣いてないで、ほら」
嗚咽を漏らしながらもハーレーが彼女の指を追って目をやると、坑道におかれた最大型、二六本目の質量補助棒が目に入った。それに刻まれた文字列が、降り注いできた日の光を浴びる。
ネハ・ワーグナー ここに眠る
その黒い造形に温かみを感じ、もう一人の姉に強く抱かれて、小麦色の彼女は穏やかに目を瞑った。虹の落ちた水底の墓標。ルチアは大きな妹を撫でながら、通信機ごしに静かに歌いだす。白い深海に、たった二人。少し身体を動かしたハーレーに、どうしたの、とルチアは尋ねた。涙が過去を全て洗い流して、いま胸に渡る命を湛える。穏やかで、透明な旋律が満たす世界。邪魔をするものは、もうどこにもない。濃紺の瞳に同じ色の空を映し、年下の彼女はこうやって返した。
「……いえ、ここは宇宙です。だから、波の音はもう聞こえない」
・・・・
認証。第一機、区分、
月没海面、中央部高度二八〇〇フィート。
任務を開始してください。
重力核を蹴り込み、防護力場を展開する。
静謐な宇宙で、見据えるのは茫漠とした青。楕円をした瞬く海。
「――、以上です。見惚れてないで、聞こえてる?」
「聞こえてますよ。お姉ちゃん」
「その呼び方恥ずかしいからやめてってば!」
小麦色の腕を伸ばして操縦桿を握ると、視界を覆ったモニターを操作し、イオンの火が駆ける。莫大な速度で進行し、機体の色を変える。白い岸壁の横をすり抜け、裂けた素粒子の波間に飛び込む。
地球から三八万キロメートル。永遠の夜の大洋。
二人は今日も、月を横倒しの銀河に沈める。
ムーンセッター Aiinegruth @Aiinegruth
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