ムーンセッター

Aiinegruth

「ここは宇宙です。だから――」 


・・・・・・


 過去は潮騒に似ている。だから、目を瞑るといつも波の音がする。遠い夏の空気のなか、砂浜に刻まれる三人分の足跡。先を往く二人に追いつこうと足を進めながら、ふいに投げかけられた言葉に首を上げる。凪いだ水面を吸い上げたような蒼天。そこには、静かな虹が架かっていた。


 認証。第六機、区分、滑走船サーファー

 月没海面げつぼつかいめん、中央部高度三二◯◯フィート。

 所定位置を確認、合同訓練を開始してください。


 思い出たちを横に薙ぐ音声に呼吸を整え、目を見開く。現れたのは、視界の果てまでを染め抜く広大な原初の黒。音のない宇宙だ。いつも通りの穏やかな静謐を胸に抱きながら、大きく息を吸い込んだ女性、ハーレー・ワーグナーは、背中合わせの後部観測コックピットから聞こえるもう一人の女性の声に気持ちを乱された。

「ほら、ぽんぽこちん。何をぼうっとしているんですか。もうモニターに映ってるんだから、ちゃっちゃと力場りきば張って重力核じゅうりょくかく入れて飛んでください」

「情報確認が先だ、報告」

「はぁ、そんなのリアルじゃやってる暇あんまりないのに……」

 ハーレーは深く腰掛けた座席から小麦色の手を伸ばして、操縦桿の奥に滞空する操作盤を起動する。第六機。そう呼ばれたこの二人乗りの宇宙船の尾部を射角に納めるそれには、降下してくる直径三四○○キロメートルの歪な球が映っている。もはや大きすぎて白い壁にしか見えないそれは、まぎれもない月だった。

「――で、昇交点しょうこうてんまで三時間。沈降速度は八〇〇メートル毎秒、潮汐によるものを除いて減速倍率は九・二。軌道離心率きどうりしんりつのマイナス推移は軽微です。海域に大型デブリなし、凪ぎ。最後に、推定月没まで一五○○。今回は余裕がありますね」

 報告を耳に入れながら、ハーレーはその紺色の髪を掻いて下を向く。透過型装甲を通じて機体の眼下に広がるのは、小さな銀河にも似た淡く揺らめく海だった。地球をいくつか吞み込む規模、長半径約三万キロメートルの楕円。月没海面と呼ばれる、無間の闇を横一線に割くように鎮座した青白い素粒子層だ。ハーレーたちの乗った流線型の船は、いまにも月の降るその凪いだ水面に浮かんでいた。

「滑走船、発進する」

「はいはい、おっけーです。観測係、最初っから耐ショック用意出来ています」

 操縦桿を前に押し倒して防護力場を形成し、足元に置かれた重力核を蹴り込んで起動する。間髪入れずに通電したエンジンは、アーク放電から青白いプラズマを引いて、船体を秒速一八キロの速さで前方に吹き飛ばす。胸に上がる悪寒。繰り返した訓練の通り、眼下の波立つ青が無限の線を成して流れていく様子を見ながら、どうにか少しずつ呼吸を落ちつけていく。

 淡い大洋を駆ける船。それは、通過した素粒子層を重力核で誘引してめくり上げる。茫漠とした海に形成される壁。エベレストの数倍の高さを誇る銀河色の津波が、爆速で推進する二人に迫る。

「計測完了。海面の厚さは約六キロです。高度を維持してもいいですが、どうします」

臨海りんかいする。舌を噛まないで」

 素粒子層は強力な熱を放っている。海面温度は摂氏一万度超。型落ちのイオンエンジンと変わらない。ハーレーは座席から身を乗り出す。操縦桿の隣の操作盤を指の背で叩いて高度セーフティーを切ると、機体を僅かに前倒し、臨海。死の水面のわずか上方三○○フィート地点を二人乗りの閃光が貫く。防護力場がなければいまごろプラズマになっているし、それ以前に抱え込んだ強力な重力核によってぺしゃんこになっているところだが、この距離なら海を割り損ねることはない。遥かな青白い波濤をめくり上げながら奔る流線型の機影。これに由来して滑走船なんて呼び方がされていると、揺れる操縦桿を握りしめながら小麦色の肌の彼女は思い返す。

「滑走中間点を超えました。どんな馬鹿にも出来ると思うんですが徐々に減速しながら上昇してください。ここからは沈降船ダイバーの仕事です」

「この前の支給食のウインナー全部ぱくったこと根に持ってる?」

「花も咲いてます」

 操縦桿を握る右腕を横に倒し、同じく小麦色の左手を伸ばして操作盤を連打する。上がる高度。黒い箱から足を外して出力を徐々に絞り、目を落として高さ数キロの津波が流れていくのを見送る。耐圧スーツの裏に流れる汗を感じながら、機体を傾け、楕円の海を旋回しはじめる。言われたとおり、この滑走船の訓練フェイズは終わった。起動される通信機。側面を映すように切り替えた主モニターが、訓練全体の様子を伝えてくる。

 月没げつぼつ。それは、何度目にしても凄まじい光景だった。左手、遠ざかる無音のみぎわ、ハーレーのそれも含めた八機の滑走船をして銀河色の水平が引き裂かれ、その切れ目にゆっくりと熱せられた月が落ちていく。

 モニターの最大望遠で覗けば、沈む高温の球体の下に一つの機影がある。小さな雨の雫にも似て、イオンの尾を引きながら穴の開いた海に直滑降し、直径三四〇〇キロメートルの白色に先行する流線型のそれは、沈降船だ。特殊重力核とくしゅじゅうりょくかく。滑走船と違ってかなり細かい制御の効く希少な装置が、まとう防護力場の色を赤から紫、また白へと絶え間なく変える。たった一艘、波間に潜って月を引く船。焦げ付いた地平の上を駆けるその影は、重力によって海面が再び閉じる前に、ぶれた天体の軌道と遅くなった速度を戻していく。


 軌道離心率及び公転速度、維持確認。

 二○四六年度第二期、月没師げつぼつし、総合訓練を終了します。


「ひゃーかっこいい、いつか私たちも、いえ、私もあんな感じになれますように」

 溶暗と明転。疑似コックピットを覆っていた映像が切れ、多くの研究者たちが集う施設の一室に戻る。背中合わせの座席。耳元に聞こえる失礼な声に、ハーレーは舌打ちをしたあとちょっと抗議した。


 宇宙に海が現れたのは、ハーレーが生まれたころだった。どこから流れて来たとも知れない謎の素粒子層が、月の引力に引かれて周回軌道に膜を張った。それは通過する月を焼き焦がし、その速度を落とし、軌道を捻じ曲げる。潮の満ち引きが狂ったことにより、地球を襲う様々な異常気象。月没師は、そんな現状を打開するために設けられた宇宙飛行士たちの部隊だった。

 八機以上の滑走船が重力核を以て海面を切り裂いたのち、一機の沈降船が月を先導し、その軌道と速度を元に戻す。月没師たちは、銀河色の海に熱を帯びた天体を沈めていく。そっくりな流線型をした滑走船も沈降船も、乗り込むのは観測係と操舵係の二人一組。何だかんだ元来一人で出来る仕事を二人で分担して行っているのは、それぞれの精度を高めるためだとも、人体が近くにないと駆動しない未知の技術、重力核に対する補償だとも言われている。


「実試一位の私と二位のあなたが組むことに何の問題がある」

「あ、ありませんけど……あの、近いんで離れてもらっていいですか」

 窓から漏れる斜陽に、賑わう講義室。紺色の髪を揺らす大柄で小麦色の肌の女性が、逃げる黒髪で色白の少女にしか見えない同科生を部屋端に追い詰めて、左ひじと右手を壁につき、退路を塞ぐ。

 一年前、訓練教習の初日、沈降船乗りだった姉を追って宇宙の門を叩いたハーレーが、幼馴染のルチアとコンビを結成するのに当たって口にした言葉と、その絵面はあまりに衝撃的で、室内にいた科生全員をして方々に広まり、アカデミーで知らないものはいない伝説となった。

 あのこっぱずかしいのまだ覚えている人いるんですから勘弁してください。しばしば向けてくるルチアの抗議の目線をハーレーは笑って流し、彼女に執拗に構う。そんな二人は、名実ともに月没科生トップのコンビとして君臨していて、訓練では多くの記録的な数字を叩きだしていた。


 何処までも拡がる白い平原に浮かぶ地球。着込んだ耐圧スーツに吐き出される息。前方、足を着けた天体の進行方向の彼方に見えるのは、遠い夜の闇に収束されて揺らめく横倒しの素粒子の海。

 地上訓練から半月後、ハーレーたちはほかの多くの人員と共に、宇宙機で月面に降り立っていた。直径三〇センチ、長さ四メートル。月没師たちの母船となる第六近傍宇宙ステーションから持ち出した銘入りの金属棒を、白い大地に穿たれた深い大穴に押し込むためだ。海に沈むたびに熱せられ、表面岩盤が溶けて失われる質量。それを定期的に補充するのも月没師の仕事になる。これで、最大型は三〇本目。深く広い掘削構内は磁場で満たされていて、落下防止の意図を込めて壁に埋め込まれた半重力機構のために、梯子を伝って容易に作業ができる仕組みだ。

「何というか、奇麗だね」

「私はそうは思いません。月って、汚いですし」

「昔と比べて滑らかになったって聞くけど」

「そういう話じゃないです、ぽんぽこちん」

 作業を終え、月面に目を落としながら言う小麦色の肌の女性に、白い小柄なもう一人は首を横に振って返す。そのあとに訪れた沈黙は、静謐な空気に溶け込み、流れ去って霧消した。

 観測され始めてから三〇六回目の月没が近い。減圧症もなく、宇宙ステーションに戻って辿り着いた訓練生用の狭い船室。小麦色と白色の肌の二人の最初の任務は、滑走船の訓練機で月没を見守ること。可動式のテーブルに書類を拡げて、その要綱を再度確認する。訓練機といっても、滑走船の一〇番機をそのまま使うので、識別用に訓練信号を発すること、なんて注意書きが書いてある。

「作戦時間は教練と同じ一時間くらい。夕食時には帰って来れそうだ」

「つぎ私のごはん取ったらしばき回しますからね」

 耐圧スーツを着込んだまま軽い会話を交わしながら、ふと二人して窓の外を見る。閑寂の宇宙。何もかもを吸い込みそうな無音と無明。ハーレーたちが右腕に付けたバイタル計測用のバングルにけたたましい警戒音が響いたのは、その中央に鈍色の光が奔った直後だった。

 照明の色が真っ赤に変わると同時に、爆音と激震。ふらつく二人の視線が、それでも一点に集中される。窓の外。宇宙ステーションの左翼太陽光発電版が弾き飛ばされて鋼色の基部をむき出しにしている。見て分かる。デブリの直撃だ。滑走船や沈降船の発進直前ということもあって、この母船の防護力場は切ってある。しかし、そのために、デブリが観測されていない航路を移動しているはずだ。それが何故。

 早回る思考のままに、ハーレーたちは部屋を飛び出た。長い鉄の廊下を走り抜ける途中で、二度目の衝撃。重力制御装置が一時的に起動をやめ、浮き上がる身体を流し、張り巡らされた支持ポールを辿って急ぐ。

 ――月没海面がかつてないほど巨大であり、巻き込まれた近傍無人衛星が爆散してデブリとなった。当ステーションは復旧・回避行動に移るため指定の軌道を離れている。月没師各員は搭乗予定の船で作戦を開始せよ。

 そんな指示が警告音と共に船内を満たすより先に、母船内で緊急事態が発生した場合、搭乗予定の船へ避難し防護力場を起動するという規定を頭に入れていた二人は、酸素供給装置付きの耐圧スーツをマスクまで着込んだまま格納庫へ飛び込んだ。赤い灯がともっていた廊下と違って、緊急電源で天井部のハッチだけを動かしているその大広間は漆黒に染まっていた。何も見えない。音と影から既に数機が飛び立ち始めているのが分かるが、壁の非常用のライトは衝撃によって吹き飛ばされたらしくどこにもない。目を見張るが、対減圧剤と共に飲み込んだ視野補助剤が機能するにはあと一分かかる。慌てて手近な船に乗り込む人々と機体の輪郭の判別が辛うじて付くだけだ。

「暗い上に認証が働かない。私たちの訓練船は確か――」

「迷ってる暇あるんですか、ほら、何でも良いから乗りましょう、急いで!」

 ハーレーの手を思いっ切り引っ張って、ルチアが宙を駆ける。二人は手近な機体にバングルから強制信号を送り、コックピットを叩いて乗り込む。緊急起動シークエンスは科生時代に山ほど練習させられた。冷静に気持ちを落ち着かせた小麦色の肌の女性は、防護力場を起動してハッチから飛び出る。

 月没までわずか。抜け出した先に拡がる茫漠とした黒染めの天地。母艦、白い紡錘形で三対の翼を生やした巨影は、徐々に淡い力場を纏いながら加速して去って行く。それを横目で見ながら視線をずらした小麦色の肌の女性は、自分の機体の左手に浮かぶ白い月と、正面の虚空に鎮座した横倒しの銀河、月没海面を捉えた。

 ほかの滑走船たちが青白い線を残し、裂くべき海に進んでいくのが見える。通信はもう通じない。ハーレーは頬を叩いて、目を見開く。緊急時だ。このまま見学とはいかない。彼らに続かなくては。背面を映す画面越しに白い肌の女性と視線を合わせ、頷き合う。一秒の間もなく、通常シークエンスに推移。足元の重力核を蹴り込むと、画面に文字列が映る。


 臨時認証。第一機、区分、沈降船ダイバー

 任務を開始してください。


「「……あ、やば」」


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