ココロのドア

ダックロー

あの日のこと

あの日のことから思い出してみよう。


時は2008年、10年以上前のこと。

当時は社会人7年目くらいの冬のある日。大阪の事業所から鳥取県の境港市にある事業所に転勤してきて3年目。大阪では鳴かず飛ばずだった営業成績が、こちらに転勤してきてからは営業所の主力のお客さんを担当させてもらえるという抜擢もあって仕事は順調だった。海外出張もちょくちょく行かせてもらっていて、いうなれば乗りに乗っていた。

多忙な日々を過ごしていたが、その日はたまたま昼食時も営業所に居た。

事務所のドアを出てトイレに行こうとしていたとき、リクルートスーツを着た若い女性が目に入った。

「あの、TD商事の事務所はどちらでしょうか?」

目がくりっとした、明るい感じの女性だった。

「うちの事務所なら、こちらですので…」

女性を先導するかたちでまた事務所へ戻った。そういえば、今日事務職の方の入社面接をするって所長が言ってたっけ、と思い起こした。

「所長、面接に来られた方です」

所長に紹介して、私はまたトイレに向かった。


「今日から入社することとなりました山田由美と申します。よろしくお願いします」

あの日から数えて数日後、山田さんは面接を難なく通過して入社することとなった。

通過も何も、実のところは先輩の古参事務員の長田さんの知り合いの娘さんが山田さんだったので、面接は形だけのもので、長田さんのコネであるからして入社するのは確定路線だった。

山田さんは仕事ができる、ひとだった。特にパソコンの扱いに秀でた技術を持ち合わせており、必要な範囲で自分で表計算したり。それでいて、人懐っこさもあり愛嬌もあり。男性3人女性2人の小規模な営業所のなかで明るいムード作りに一役買っている、そんな存在にすぐになってくれた。

そんな山田さんと私も営業のフォロー役としての職域だけでなく、いろんな話もするようになって、直に打ち解けた。

彼女は手弁当を持ってきていて事務所の応接ソファーで昼食をたべる習慣だったので、私も妻が弁当を持たせてくれて事務所に昼間も居るときは、よくソファーのテーブルを向かい合わせで昼食をとったものだ。

山田さんの身の上話を聞いてみると、前は映画館で働いていて映写室でフィルムを回したりしていた、とのことで映画の話題に詳しかったので、映画好きの私とも話が合った。

いつしか山田さんと2人して事務所でともに昼食をとるのが楽しみにもなっていた。


私が遠方に出張に行っていた際に仕事を終えて帰りの電車に乗り込もうとしているときだった。私の携帯電話が鳴った。山田さんからだった。

「黒川さんが扱っている冷凍野菜で欠品しそうなものがあるんです。それが心配で心配で」

不安でたまらなそうな、そして申し訳なさそうな気持ちが伝わってきた。

当の本人である私にとっては、大した問題ではなく、欠品したらしたで方策は色々あるだろうと踏んでいて、それほど深刻には受けとめなかったが、何よりも私の業務に関連することで我事のように真剣に心配していてくれている山田さんのことがとてもいじらしく思えるのだった。

そんなこともあって、わたしの心のなかに山田さんへの好意的な気持ちが芽生え始めた。


私自身の仕事は順調そのものだった。そんななか山田さんという仕事のパートナーも得て、毎日の仕事に張り合いができた。

山田さんとは仕事中、たとえば私が外回りしているときでも頻繁に業務メールを寄越してくれて、内容は仕事のことだったり、昼食はどこどこで何を食べたと報告したり、週末はどのように過ごすか、などなど他愛もないことも多かったように思う。

昼間だけでなく、当時はやっていたミクシィというSNSサービスを使って、帰宅した後、夜においてもメッセージのやりとりを続けていた。この頃あたりになって、気が付くと私の心のなかの大部分を山田さんのことが占めるほどに彼女への気持ちが膨らんでしまっていた。


山田さんのご両親はラーメン屋さんを営んでいた。とある土曜日の昼下がり、仕事を半日で終わらせラーメン屋さんに向かった。

山田さんには事前に「胸にバラの花を一輪指した男がご両親に挨拶に行くって言っておいて」と伝えていて、彼女も時間をずらして店に来るという。

会社帰りに花屋さんに寄って約束のものを仕込んで店に向かった。

店に行くと山田さんのお母さんが歓待してくれた。山田さんの明るい雰囲気は母親ゆずりだった。お父さんも人柄がよさそうな方だった。ラーメンを食べ終えたころに山田さんも店に顔を出してくれてお母さんと3人で話に花を咲かせた。

「そういえばバラは?」

と冗談っぽく山田さんが尋ねたので、私は羽織っていたジャンバーのファスナーを少しおろすと、ジャンバーの中に仕込んでいた造花のチューリップがぴょこんと飛び出した。

山田さんもお母さんもそれを見て驚き、たいそう喜んでくれたものだった。


そんな山田さんではあったが、当時つきあっていた彼氏は当然居て、将来のことも約束しあっている、とのことであった。そういうこともあって、私は彼女への好意は抑えておくべきでありあくまでプラトニックを貫くのだ、と心に決めていた。


山田さんが入社してしばらくたったころ、彼女の歓迎会を会社でやることとなった。

私が幹事をやることとなり、一軒目は串カツ店で予約を入れて、二軒目は山田さんのお友達が勤めているというラウンジに行くこととなった。

一軒目での食事はつつがなく終わり、二軒目のラウンジに向かった。トルバドールという名前のラウンジには山田さんのお友達のユキさんがいた。接客に慣れている感じのあかるいひとだった。

ほどなくしてカラオケ大会が始まった。ラウンジの狭いソファーで山田さんと隣り合わせで座っていたのでドキドキして気が気ではなかった。歌う歌も彼女を意識しながら選曲していた。終わりがけにしっとりした曲を、と思いケミストリーの「ココロのドア」を選んだ。が、サビのあとのCメロのところでメロディーが思い浮かばず歌うのに詰まってしまい、先輩たちがそれを見て笑い出した。山田さんは真剣に聞いてくれていたけど、とにかく恥ずかしい思いだった。

二軒目での宴が終わり、先輩や所長たちが三軒目行こうと誘ってくれたが、そんな気分にはなれず、一人家路についた。思えば先輩たちからの飲みの誘いを断ったのはこのとき一度きりのことだった。


そんなこともありつつ、山田さんとは昼間はメール、夜はミクシィ、と頻繁にやり取りを繰り返していた。彼女が勤務し始めてしばらくたった5月のある土曜日、どちらからともなく誘い合ってドライブに出かけることになった。

妻には仕事に出ると偽って、いそいそと山田さんの自宅近くにお迎えに行った。車を走らせ、食事の予約を入れた海岸沿いのカフェレストランに向かった。話も弾み、食事もおいしかった。そのあと、さらに車を走らせて海辺のジェラート屋さんに着いた。そこでそれぞれ食べたいジェラートを買って、それを持って海岸へと歩き、砂浜で腰をおろしジェラートをほおばりながら色んな話しをした。その時に初めて彼女の口から、前にいた会社での人間関係が原因でうつ病を患っていて、今でも薬を飲んでいる、と聞かされた。大変だなーと思うとともに、そんな彼女の力になりたい、と感じたものだった。


この頃から、山田さんがちょくちょく会社を休むようになった。精神病が悪さをしているのだな、と考えて励ましのメールを送ったりした。休み明けに出勤してきた彼女に話を聞くと睡眠不足で眠れない、とか悩みは深刻そうだった。そして古参の同僚の長田さんとの関係についてもややストレスを感じているようだった。

私は彼女が会社を休むたびにご両親のラーメン屋さんに寄って彼女の様子を窺ったり、やきもきしていた。このまま会社に来れなくなるのでは、と不安に思った。

結局山田さんは会社を辞めることになった。うつ病が悪化した為だ。彼女のいない事務所でひとり昼飯をソファーに座って食べるのは本当に辛かった。けど、彼女に会えなくなるわけではない、と思い直して励ましのメールを送ったりした。が、この頃は山田さんの病は深かったようでメールしてもミクシィでメッセージを送っても返事は来なかった。ほどなくして山田さんはミクシィを退会した。私にとってはミクシィが彼女と私をつなぐホットラインだったので、私もかなり落ち込んだ。


けどしばらくして、彼女から返答のメールがあり、ラーメン屋さんで会わないか、と連絡がきた。行ってみると、彼女のお友達のユキさんもいた。山田さんはさすがに病みあがりっぽくてやや痩せたように見えたけど、表情は明るかった。色々話しをした。その中で私は当時転職を考えていたのでそのことを切り出すと、

「黒川さんがこの先も同じ県内にいてくれるとしたら、私は嬉しいな」

と言ってくれた。この言葉にとても私自身もうれしく思い、今でもその時の彼女のたおやかな表情をともに胸に残っている。

けれども、私に対して仲良く慕ってくれる山田さんと会うのはこの時が最後になった。


山田さんはこのあとも病に再び伏せてしまい、連絡は取りづらくなった。私の方は返事は来なくとも、メールやラーメン屋さんのご両親を訪ねては励ましつづけた。

しばらくたったある日、たまたま仕事の途中、都合が良かったのでお客さんと連れ立って、ご両親のラーメン屋さんに昼食をとりにいった。するとそこに、見知らぬ男性と歓談しながら食事している山田さんの姿があった。おや、と思い元気そうで良かったという気持ちと元気になったのなら連絡のひとつでもくれればいいのに、という複雑な心境に見舞われた。席は遠いところにお互いいたので話しをすることなく、山田さんは私に一瞥くれることなく連れ合いの男性とすたすた行ってしまった。あとでお母さんから「お客さんとご一緒だったので挨拶はできなかったけど…」と取り繕っておられた。

なんだよ、水臭いな。自分はこんなに心配しているのに…そんな思いに駆られてもやもやに包まれていたので、意を決して彼女にメールを送った。

話がしたい、お会いしませんか?と。ほどなくして彼女から返信がきた。

「病気もだいぶ回復してきましたので、これ以上関わらないでください。お話しすることはありません」

そうか、何か気分を害することでもあったのかな、と詫びるメッセージを彼女に送信した。

が、メッセージは送られず、着信拒否、で戻ってきた。

山田さんの心の中にいた私の存在は、抹消されていた。


山田さんを励まそうと考えてラーメン屋さんに通っていたとき、お店には彼女が手作りした小物、アクセサリーが売られていたので、私はその中の指輪をひとつ手に取って、買わせていただいていた。そのときに買った指輪を手にしていつか彼女と行ったジェラート屋さん近くの砂浜を歩いた。そして彼女と座ったであろう場所に腰を下ろして手で砂をかいて穴を掘った。

穴の中に指輪を埋めて、そして砂浜をあとにした。


こうしたことがあってその後3年は心から笑えない日々だった。軽いうつ状態が長く続いた。山田さんとの日々ではあんなに輝いていた何もかもが、全てくすんで見えた。生きていることさえ嫌になった。

その後私自身は転職することとなり、住まいも以前いた米子市から倉吉市へと移したので山田さんとばったり会う、なんてことはこの先もないだろう。そのほうがいい、と逃げるような心境でもあった。


今となってはこのことから色々な学びがあった。当時30代半ばだった自分の行動はなんと青臭いものだったか、と反省も多い。

けど、今でもたまに彼女が出てくる夢を見る。仲直りしてくれているのか、曖昧なものだけど。

先日、たまたま米子で昼飯をとらなくてはならない機会があったので意を決してあのラーメン屋さんを訪ねたことがある。ほぼ10年ぶりにお会いするお母さんはお元気そうだった。が、私の名前は既に忘れておられて、そんなもんかな、と感じた。

お孫さんにも恵まれて佳き日々を送られているようだった。あの時が懐かしいね、とも言っておられた。私にとってもすでに懐かしい思い出の一つとなった。あんなに傷んだ胸の内もいまは何ともない。一生山田さんに会うことなくても、それはそれ、と割り切れるようになった。


失恋して打ちひしがれていた当時の自分に声をかけてあげたい。


時間が解決してくれるから大丈夫、と。



                                    終わり




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