アリスが眠る鏡の底

@keisei1

アリスが眠る鏡の底

真夜中のコンビニ。スムージーをレジ袋に入れて店をあとにする。僕の胸の内にある別の輪郭は氷原に去ったまま帰らない。僕は確かに聞いたはずだ。祖父と祖母が、生前には決して会えなかった二人が、僕に生きろと「そそのかした」のを。僕はその誘惑につき従い今夜も服薬する。明日とか未来とか呼ばれる曖昧な部屋に入るために。ベッドに仰向けで体を投げ出すと、天井に映るのはモノクロの顔色をした昨日の自分。彼の乗ったヘリが炎上し墜落するのが見える。そう、彼はその時確実に死んだはずだ。それなのに僕に未だに「まとわりつく」。飼っていたビーグル犬は、あれほど僕に懐いていたのに、僕を慕っていたのに夢の中では時に僕の両こぶしを激しく噛む。多分それは僕が自分に嘘をついている証だろう。眠気を感じる僕の体から離れるのは赤子としての僕/夢遊病者。彼はいまだに母者から得られなかった信頼を求めて不眠症の街へ出かける。僕はひたすら酩酊する木偶。薬を飲んで井戸の底で眠るアリス。木偶になった僕は朝になっても目覚めないことを願っている。

  83才の父は今日も僕の部屋をノックしないし、扉を開けようともしない。母者はいつも笑顔だが、その胸の内を芯からうかがい知ることは出来ない。兄がつま弾くのはサティのGymnopédies。僕は孤立の場所で今日も書き物に手をつけるのだろう。誰かの話し声が聴こえる。近場からか、それともSNSで誰かが喋っているのか。正確には分からないし知ることも出来ない。それにそもそも、どうでもいいことだ。

  僕から分離した彼女が言う。私はあなたの幻視だ、と。僕は彼女と一緒に寝たのに繋がりあったはずなのに最早その事実さえ定かではない。微かに残っている彼女の手触りを思いだそうとも思いだせないのだから、幻視、か。それもいい。僕は眠ることしか出来ないみなしごで、事実も現実も曖昧でぼやけているのだから、仕方ない。

  

  夜空 星 冷えていく体と夏の温度。

  点けっぱなしのテレビ、起動しないパソコン。

  ジャンクしたゲーム機。ひんやりとした音を出すスピーカー。


  もし僕の周りを取り巻くすべてが

  幻視だとしたら

  どれほど気が楽だろう。


ノスタルジーを誘う弓なりの音が耳の奥で鳴っている。これも実在するのか、存在しているのか分からない場所から聴こえてくるのだから、僕はもう何も気にすることはない。僕を見つめているのは井戸の底の、合わせ鏡の向こうでたった一人きびすを返したアリスだけ。彼女が何か傷つけられるとして。彼女の右手をもぎ取り、泣きながら喰らうのは黄金の稲穂を踏みにじる巨人だけだろうから、それはそれでかまわない。ゴッホのひまわりは咲かないし、僕は母者がまたもう一度僕を笑顔で迎えてくれるのを待っている。

                 

          長い夢


眠りから覚める頃、氷原の氷が溶けて崩れ落ちる。朝方、陽射しがカーテンを揺らして射し込み、僕は僕の別の輪郭と和解する。夢遊病者の彼も帰ってきた。アリスはもう僕を探さない/し見つけられもしないだろう。枕元に置かれたスムージーは妙にぬるくなっている。思いだすのは今やもう僕の手を離れた彼女の、口づけの舌触りだけ。それは甘く朱色に染まっている。


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