第25話

 岡崎陽子の内部にどす黒くどろどろと渦巻いていて、油田から沸くガスのように弾けていたあぶくが、大量の涙と共に浄化され、岡崎陽子は自分が再び日常に戻って行くのを感じていた。


 日常というのは安穏で平坦であると同時に陽子の本来あるべき姿でもあった。


 この、ほんのわずかな日々は激烈で、陽子は食べすぎた後のように疲れていたけれど、食べた分だけの充足感はあった。


 食べたものは血となり、肉となる。哲司との別れも千夏の裏切りも、今は陽子の骨や皮になっていた。


 そしてアフロ。あれは一体なんだったのだろう。背が高くて、奇妙に爽やかな顔で笑うアフロ。よく食べて、よく飲んで、関西弁でよく喋って。陽子の中を台風のように通過していった。


 台風の後には、突き抜けるような青空だ。陽子は彼らが去って行ったあとも仕事をし、友達と会い、酒を飲み、変わりなく暮らしていく。ただ、それだけのことだった。


 千夏と哲司からは哲司の父親を通して慰謝料が送られてきた。


 添えられた手紙はパソコンのプリントかと思うほどの達筆で、哲司の父親からの謝罪の文面がしたためられていた。


 額面は相当なものがあり、陽子はそれをやはり返そうと思って哲司の父親に電話をかけたが、どうしても受け取って貰わないとこちらが申し訳ないと懇願されてしまったのでもう受け取るよりほかなくて、とうとう最後は「それでは」ということになってしまった。


 哲司の父親は最後まで「本当に申し訳ないことをした」とか「自分達の教育が間違っていた」とか「哲司が優柔不断でいけなかった。陽子さんにはなんの非もない」などと言いした。


「いえ、もうすんだことですから……。こちらこそ、こんなにしてもらって……」


「いや、陽子さんには受け取る権利がある。ぜひ貰ってほしい。こういってはなんだが、それが互いの為になるんだから」


「はい……」


「陽子さん、あなたの人生はこの先いくらでも変わって行くよ。運命なんてものは、先々どうなるか分からないからね。哲司だって、どうなるか分からない。でも、私は陽子さんが幸せになってくれることを願っているよ」


 陽子はこの知的で人の良い父親から出る言葉が真実であると思った。


 確かにそうだ。運命なんて分からない。人生なんて分からない。曲がり角ひとつ違えば、何もかもが違ってしまうのだから。


 陽子は哲司と千夏が死ななかったこと、そして自分も死ななかったことの運命についてものすごく大きな力を感じていた。


 それは神がかりなことではなくて、むしろ悪魔的な力であるのだけれど、陽子にはアフロが所謂悪魔であるとは思えなかった。あれは、あの関西弁は、陽子には天使だった。


 突如舞い込んだ多額の現金。しかし陽子は今はまだそれで洗濯機を買うような気分にはなれなかった。


 アフロが消えて一カ月。陽子はその間もコインランドリーで洗濯をした。


 洗濯している間に本を読み、ビールを飲む。時々、立ちあがってみて、アフロが出てきた巨大な乾燥機を開けてみる。中はやっぱりただの乾燥機だ。


 陽子はある時ふと思いついて、もしかして自分もここに入れるのではないかと考え、酔っているわけでもないのに、誰もいない深夜であるのをいいことに突然片足をあげて乾燥機に体を押しこんでみようとした。


 乾燥機の中は洗剤の残り香と、生温い空気が満ちていて決して入り心地のよさそうなものではなかったが、陽子は妙に真剣だった。


 あれから陽子はテキーラを飲む習慣がつき、サンバホイッスルはお守りのように携帯電話のストラップにぶらさがっている。


「おーい……、ほんとはいるんでしょー……?」


 陽子は体を半分乗りいれた状態で、乾燥機の中で小声で呼んでみた。


 返事はない。当然である。


 が、はっと気がつくと、コインランドリーの入り口にあっけにとられて陽子を見つめる人影があった。


 陽子は慌てて乾燥機から這い出した。そして、その人を見た瞬間、

「あっ!!」

 と声をあげた。


「なによ、いるんじゃないのよ!!」


 入口に立っていたのは、アフロだった。


 陽子はもうすでに泣きそうになりながら、アフロに向かって突進した。死んでないじゃん。消えてないじゃないのよ。気を揉ませやがって。言いたいことが山ほどあって、大声で叫びそうだった。


 しかし、飛びつく一歩手前で押しとどまった。


 それはアフロではなかった。


 そっくりだけれど、アフロではない。普通の、その辺の学生みたいな男の子だった。何より頭がアフロではない。


 男の子は驚くというより、奇妙な35歳の女が乾燥機に入ろうとして、飛び出て来て、自分に突進してくるという恐怖に完全に逃げ腰で顔がひきつっていた。


 陽子は、

「す、すみません。間違いました……」

 と、一秒前の猛烈なテンションから急速落下する落胆の中で、すごすごと謝った。


「……いえ……」


 男の子は完全にびびってしまっていた。


 陽子はベンチに戻り、がっくりとうなだれた。


 洗濯機が終了の電子音を鳴らす。情けない涙がじわっときたが、陽子はかろうじで堪えて洗濯機から洗濯物を掴みだした。


 地味な下着を着ていると言われたのが不意に思いだされた。


 アフロそっくり青年は、びくびくした様子でランドリーに入ってくると、持ってきた洗濯物を洗濯機に入れ始めた。


 いやな沈黙だった。陽子は自分が頭のちょっとおかしい、イタイ女だと思われているだろうと思うとますます情けなく悔しかったが、それよりももう、本当にアフロが世界のどこにもいないのだということが痛烈に刻み込まれていくのが悲しくてたまらなかった。


 好きだと言えばよかった。いや、言うヒマもなかったし、言うタイミングもなかった。でも、言えば運命はちがったかもしれないのに。名前も聞けばよかった。今こうして悲しいのに、思い浮かべたところで「アフロ」としか呼べないなんて、お笑いだ。


「……大丈夫ですか?」

「えっ?」


 陽子は声をかけられてはっとして我に返った。


「え?」

「あの……大丈夫ですか?」

「……」


 アフロ似青年が怪訝そうに、しかし、それでもいくばくかは心配そうに陽子を見つめていた。


 大丈夫かと、これまでさんざん聞かれたこと。そのたびに思ったこと。陽子は潤んだ目をぐいと擦ってくっきりと答えた。


「大丈夫です」


 にっこり微笑むことも忘れなかった。


「僕、ここで洗濯してる人初めて見ましたよ」


 青年がほっとしたように陽子に笑いかけた。


「しかも乾燥機から出てくる人も初めて見た」


 と、おかしそうに付け加えて。


 言われてみると、陽子もそうだった。洗濯機が壊れてからの数カ月。このランドリーで洗濯している人を一度も見たことがなかった。


 ……でも、乾燥機から出てくる人は見たことはあった。アフロで関西弁だった。


 陽子はふふふと一人で笑いながら洗濯物をさっきまで自分が入ろうとしていた乾燥機に投げ込んだ。


 運命は変わるのだ。


 陽子は乾燥機に小銭を投入し、スイッチを押した。乾燥機がごんごんと音を立てて回り始める。


 陽子の運命もまた、まわっていく。陽子は心の中で「大丈夫です」ともう一度、しっかりと呟いていた。


 了

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ランドリーより愛をこめて(分冊版) 三村小稲 @maki-novel

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