第24話
二人は向かいのホームの陽子には気づかず、顔を見合わせあっている。ホームに電車が入るアナウンスがかかり、陽子はアフロと視線がぶつかった。
アフロが両手を彼らの背後でまっすぐに伸ばした。
「待って……」
陽子は呟く。アフロの姿は陽子にしか見えていない。
電車が轟音を立ててホームに滑り込んでくる瞬間。陽子の目には世界のすべてがスローモーションとなった。特急電車のスピードも、千夏と哲司をホームへ突き落そうとするアフロの両手の力も、立ち尽くす陽子が邪魔と言わんばかりにぶつかってくる人も、音を失い、色を失い、完璧なコマ送りに。
待って、待って、待って。陽子の絶叫は言葉ではなく、ホームに強烈なサンバホイッスルを鳴り響かせた。
渾身の力で吹いた警鐘は、周囲の人を飛び上がらせ、耳を塞がせるほどの威力だった。
次いで、目の前を電車が駆け抜けて行き、その後の一陣の風の中、向いのホームでは千夏と哲司が唖然としてサンバホイッスル女を見つめていた。
アフロはゆっくりと両手をおろした。陽子の目から涙が溢れた。
「陽子? 陽子、どうしたの? 大丈夫?」
左手に握りしめた携帯電話から千夏の声がする。
哲司が千夏から携帯電話をとりあげ、
「もしもし? どうした? 今の笛なに? なにがあったんだ?」
というのも聞こえる。
二人の慌てふためく姿を、心配そうに代わる代わる携帯電話に叫ぶ姿を、陽子は泣きながら見ていた。
「今そっち行くから」
千夏が言った。もう二人とも階段へ駆けだそうとしている。重そうな荷物を抱えて。
「千夏」
「えっ、なに?」
「もういいの」
「えっ?」
陽子は千夏に語りかけながら、その実、背後のアフロに向かって言葉を投げるように言った。
「……やっぱり、好きだった人を嫌いになるのはむずかしいよ……」
「……」
「私、哲司のことも、千夏のことも好きだった……」
「……」
「嫌いになりたくないのよ」
この姿を会社の後輩達や上司が見たらなんと思うだろう。あの冷静で、厳しくて、てきぱきしていてしっかり者で、クールな岡崎陽子が人目を憚らずしゃくりあげて泣いているなんて。
泣きやまなければと思っても、理性がぶっ壊れた陽子は涙を止めることができなかった。
「私たちの間に起こったことは全部忘れて。私も忘れるから。でも、私たちが友達だったことは忘れないで」
「陽子、ごめん……。ごめん……」
「さよなら。元気で」
今度は陽子の立っているホームに電車が入って来た。陽子は停車した電車にそのまま乗り込み、電話を切った。いつの間にかアフロの姿は消えてしまっていた。
殺せなかった……。陽子は扉にもたれて大きく息を吐き出した。
陽子はもう二度と千夏にも哲司にも会うことはないと思った。無論、まだ見ぬ二人の子供にも。
いい事も沢山あった。それは嘘じゃない。本当に愛していたし、友達だった。二人。それが陽子の手に残った真実だった。無論、許すことはできないだろう。けれど、陽子が二人を好きだったことは変えられない。
陽子はしつこく溢れてくる涙を堪えることができなくて、酔っぱらいを見るような侮蔑的な視線の中、ぐずぐずと泣き続けた。死ななくてよかった。ただそれだけを思いながら。
心身ともに泥のように疲れた陽子が部屋に辿りつくと同時に、アフロがベランダをがらりと開けて入って来た。
泣き腫らした目で陽子はアフロに苦く微笑んだ。
「ごめん……」
そう一言呟くと、もう後はなにか言う気力もなかった。
アフロは無言で部屋を横切り、台所へ行くと冷蔵庫を開けた。
「あ」
アフロは小さく声を漏らした。
「テキーラが……」
マリアッチの瓶を取り出し、陽子を振り向く。
陽子は鼻先で「ふん」と答えるだけで、のろのろと寝室へ入り、どさりとベッドに倒れこんだ。テキーラはアフロが飲むかと思って先週買っておいたものだった。
冷凍庫から氷を取り出す音、グラスの中で立てる涼しい音。陽子はうつ伏せになって枕に顔を押しつけて聞いていた。
「なんで謝るねん」
アフロが戸口に立って言った。
「……」
「まあ、ええけどな……」
「……」
「もう、泣かんとき」
陽子はむっくりと体を起した。
「泣いてない」
「そうか」
泣いてはいなかったが体中にひどい脱力感があり、それこそ泣きたいほどだった。
べッドに腰掛ける姿勢になると、陽子はアフロに手を伸ばした。
アフロは無言で歩み寄り、その手にグラスを手渡した。陽子は指をグラスに突っ込み、ぐるぐるとかきまわしながら、
「……どっちを殺すつもりだったの……?」
と尋ねた。
アフロは陽子の隣りに腰を下ろすと、答えて言った。
「さあ、どっちかや……。線路に突き落して、運のええ方が助かる」
「……」
「ま、どっちも死なんかったけどな」
「ごめん」
「だから、なんで謝るねん」
「勝手な願い事しといて……」
「……いや、ええねん」
陽子は痛むほど冷えた指を舐めてから、グラスに口をつけた。独特の甘い花のような香りと突き抜けるようなアルコールが咽喉を焼く。
再びグラスがアフロの手に渡る。
「俺も、殺したくなかった」
「……」
「つーか、あんたの願い事叶えたくないねん」
「……」
そう言うとアフロはぐいとグラスを空けた。
「俺、嘘ついとった」
「なに?」
空になったグラスを弄びながら、アフロは自嘲気味に笑った。
灯りのついていない寝室は暗く、開け放した扉の向こうからの光が長く白く部屋をななめに切っている。
不意にアフロが陽子にキスをした。陽子は面食らって、
「どうしたの? 嘘ってなに?」
と眉をひそめた。
アフロは何か意を決するように大きく息を吐いた。
「あんたの願い事をなんでも叶える代わりに、あんたの寿命から一年分の命貰うって言うたやろ」
「うん」
「……俺が願い事叶えたら、その次の日にあんたは死ぬねん」
「え……」
「それが、あんたの寿命やねん」
「……じゃあ、私、明日死ぬの……?」
「いや、死なへんよ。あんたの願い事叶えてへんやん」
「……寿命って……」
陽子は弱っているところへさらに打ちのめされるような衝撃に、言葉が喘ぐように呼吸と共に漏れた。
「偶然が重なるのは、ある種の奇跡や。で、その奇跡を重ねて行くのが人の運命や」
「……」
「運命は、変わる」
「……」
「悪魔っていうんは、人間の弱さやエゴにとりつくもんや。だから悪魔なんや。なんでも願い事叶えたる言うて誘惑する。その誘惑に負けた時点で、その魂はもう悪魔のもんや。せやから、悪魔に願い事した時点で運命は変わってしまうんや」
「もしかして、じゃあ、初恋成就の人が死んだのは……」
「願い事、してへんかったら、百まで生きたかもな。運命が、変わってしもたんや」
「……」
「なんというても、俺らは悪魔やからな。神様とは逆の方におるねん。俺らになんか物頼んだらどうなるか分かるやろ? 俺、初めに自分は悪魔やって言うたはずやで」
「それじゃあ、私が願い事したのも……」
「ぎりぎりやったな」
アフロは笑った。けれど、それは明るいものでは決してなく、痛ましい笑顔だった。
「俺があんたの願い叶えとったら、あんたは明日には死ぬ。交通事故や。そういう運命になるとこやった」
「じゃあ、私の運命が見えていたの?」
「あんたの魂が悪魔に近づいた時だけ、その先が俺には分かる。でも、もう分かれへん……」
「……」
「あんたが俺を止めた。それでまたあんたの運命は変わってしもた」
「……千夏、妊娠してるんだって……。子供に罪ないじゃない……」
「そうかな。それは分からへんで。赤んぼができた時点でほんまは罪やったんちゃうんか。浮気して出来た子やねんからな。あの人らの罪の中で生まれてくる子やで」
「私はそうは思わない。生まれながらに罪を背負うなんて。それこそ、そんな風に初めから決まってる運命なんて、ないわ」
「あんたがそう思えるんやったら、その子の罪はなくなるわな。なあ、単純なことやで。あんたが許せるんやったら、なにもかも罪はないで」
「……」
「まあ、ええわ。俺の仕事は終わりや」
「えっ? 終わり?」
アフロはグラスをサイドボードに置き、陽子の視線を避けるように両手を膝にのせ深くうなだれるような格好で、床に向かって続けた。
「もうタイムリミットや。あんたの魂、とることでけへんかった」
「なにそれ……」
「何事にも制限時間っつーのがあるねん。もう、終わりや」
「……どうするの……? 帰るの……?」
帰るという言葉の不自然さ。そもそもアフロはどこから来てどこから帰るのか。しかし陽子は自分を滑稽だとは思わなかった。そのぐらい、真剣だった。
「あんたの魂とれへんかった代わりに、俺という存在は消滅する」
「え……」
「悪魔に失敗は許されへんねん」
「……ちょ、ちょっと待って……どういうこと、意味分かんない……」
「ようするに、俺は廃棄処分や」
「死ぬってこと……?」
「悪魔に死はないねん。俺という存在が消えてまうだけや」
「消えるってそんな簡単に……」
「簡単なもんなんやで。命なんてもんはな。せやのに、なにが大事か分からへんのはいっつも人間だけや」
「ねえ、ちょっと待ってよ。死ぬの? 私の命とれなかったから、あんたが死んじゃうの? 誰がそれを決めるの?」
陽子はアフロの腕にとりついて、揺さぶるように詰め寄った。
いきなり乾燥機の中から出てきて願い事を叶えてやるといって、なぜか一緒にごはんを食べたり飲みに行ったりして、仕事の話しも聞いてくれて、カラオケにも行って、キムチ鍋作ってくれて、本当のことはなにも言わないでただそこにいてくれて、それが消滅するなんて。陽子は両腕で強くアフロに抱きついた。
「なんで初めにそう言わなかったのよ。だから私、聞いたじゃない。願い事叶えられなかったら罰とかあるのかって」
「……ごめん」
「なに謝ってんのよ!」
「なんで怒るねん」
アフロが笑った。また、痛ましい顔で。陽子の胸は締め付けられるような痛みを覚えた。
「まさかこんなことになるとは思ってへんかった」
「私だって思ってなかったよ」
「いやいや、そうやなくて」
「……」
「あんたの魂とるん嫌やなと思ってん」
「……」
「あんたかて、言うたやないか。あの人ら殺されへんって」
「……」
「俺かてあんたのこと殺されへんわ」
「私だってあんたに死んでほしくないよ」
「だから死ぬんとちゃうってば」
「消滅したら、それは死ぬのと同じじゃない」
「泣かんといてえな」
「泣くに決まってるでしょ!」
アフロの長い両腕が陽子を強く抱きしめた。その力が、涙を絞り出すように陽子を泣かせた。
こんなことになるなら奇跡なんて起きなくてよかった。出会いたくなかった。今確かに陽子の心はアフロにあるのに、でも、アフロの為にじゃあ自分が死ぬとは言えないのが、陽子を苦悩の渦に巻き込む。
人間って、一体なんなのだ。あんなにも簡単に人の死を願い、それを覆し、何が大事かを見失っても、自分の命だけは結局惜しくて、好きな人の為になにができるということもないなんて。
アフロが陽子の体を引き離し、涙を拭った。
「あーあ、また鼻水ずるずるやんか……」
うるさい。馬鹿。このアフロ。そう言いたかった。いや、言い続けたかった。この先も。
「じゃあな」
「……」
「元気でな」
「……」
「笑てえな」
「……」
「って、無理か。まあ、ええわ」
「……」
涙で視界が歪む。歪む先からアフロの姿が空気に滲みだしていく。溶けるように、蒸発するように。
陽子はアフロの手を握った。アフロも握り返した。
「あ。せやせや。言い忘れとった」
「……」
「あんた、その髪形似合てるで」
消える。陽子の奇跡が。握りしめていた手が霞みのようになり、何も感じなくなり、そうしてついにアフロの姿は完全に見えなくなった。
後にはテキーラのグラスがあるだけで、陽子の頭がおかしくなったのでもなければ夢でもないことを物語っている。陽子はポケットのサンバホイッスルを慌てて取り出し、ぴりっと一吹きした。
が、甲高い音が部屋を震わせただけで、待てども待てどもアフロは姿を見せることはなかった。
陽子はアフロが一度も自分を名前で呼ばなかったこと、そして、自分もアフロに名前を尋ねなかったことを思い、その夜一晩中泣き続けた。
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