Jack Torrance

第1話 扉

ワシントン州シアトル。店の入り口の扉には囲いに覆われたコーヒーの木から囚人服の男が収穫しながら落ちた赤い実のコーヒー豆を啄む鶏が描かれバードコーヒーと店の名が記されてあった。ジャズの天才サックス奏者チャーリー パーカーの愛称バードに肖ってその愛称の由来と言われている鶏が与えられては有害なコーヒー豆を啄んでいるという何とも滑稽なデザインの扉。ジャズ喫茶を営んでいるブライアン ウィリアムズはいつもジャズを聴きながら喫茶店のマスターの業務に勤しむ傍ら、最近の大手コーヒーチェーンの進出で客の入りも大幅に減少し、常連客で賑わう日もあったが暇な時にはいつ来るとも解らない客を待ちながら店の扉をぼーっと見つめている事が屡々あった。「今日は閑古鳥だな。まあ、俺の場合は半ば道楽みたいになってしまっているからな」ブライアンはポツリと呟く。マホガニーで誂えられた5人掛けのカウンターを入念に拭き上げるとデクスター ゴードンのレコード盤をターンテーブルに載せ、カウンター内の所定の場所に腰掛けると葉巻入れから愛用の銘柄のロッキー パテルを取り出す。シガーカッターで吸い口を奇麗にカットしマッチでじっくり炙って火を付けると大きく煙りを燻らせる。至福の瞬間を束の間楽しむ。足早に急ぐ人。のんびり散歩している人。夢見る人。人生に敗れし人。様々な思いを抱き行き交う人々。毎秒移ろいでいく季節や人々をカウンター越しに扉というレンズを通して覗き見る。ある夏の日からたまにTシャツにデニム姿の青年が参考書やペーパーバックを片手にやって来るようになった。近所のシアトル大学の学生だろうとブライアンは思った。最初の頃はコーヒーを一杯飲み終えるとすぐに青年は帰って行った。2ヶ月くらい経つと青年は平日のほぼ毎日に16時きっかりに来店し4ドルのコーヒーを一杯注文するだけで2時間くらい居座り本をずっと読むようになった。そして、青年が居座るようになったその日から18時をちょっと過ぎたくらいに青年よりも幾分年配と思われるいつもスーツ姿の女性が現れるようになった。そして女性はいつも青年が座っているところに小走りで駆け寄り「ごめん、お待たせ」と言って青年の右手に両手を這わせる。青年は女性の仕事が終わるまでいつもブライアンの店で時間を潰していたのであった。会計の際には会釈し青年はいつもにっこり微笑みながら彼女と帰って行った。繁盛している店主ならばたったコーヒー一杯で長時間居座られたら厭わしく思うのかもしれないなとブライアンは思ったがこの時勢に自分の店は客の入りも少ないので大変有り難かった。そしてブライアンは何よりもお似合いのカップルだなと思った。地元の学生とビジネスウーマン。若者の恋愛とはどことなく子供っぽさが残っていて純真でいいものだなとブライアンは陰ながらエールを送っていた。そうして青年はバードコーヒーの常連となるがマスターと常連客というだけの関係でプライヴェートの会話もないまま日々が過ぎて行った。そんな日々を重ねるうちに扉を見るまでもなく時計に目をやると後数分で青年、後数分で彼女がやって来るなとブライアンは思うようになった。一度だけ青年が本を読むのを中断しカウンターにコーヒーカップを持って来て「コーヒーもう一杯いただけますか」と言って来た。そして青年は尋ねてきた。「今、流れている曲は何て言う曲なんですか?」ブライアンは答えた。「バッキー ピザレリの『ジャスト ユー ジャスト ミー』だよ」「良い曲ですね」「君はジャズが好きでこの店に来てくれているのかい?」「僕は好きって言ってもマスターみたいに詳しくないですし、ただ心地よいので聴いてるだけって感じなんです。それに、ジャズだけが目当てって訳じゃなくて店の雰囲気やマスターが淹れてくれるコーヒーが美味しくて通っているっていうか…」ブライアンは憎い事を言ってくれるなと思った。ブライアンは要求されたコーヒーのおかわりを洗っていた奇麗なカップに注ぎ入れ青年の前に差し出すと「君、嬉しい事を言ってくれるね。これは店からのサービス」と言った。「僕、そんなつもりで言ったんじゃないんです」とたじろぐ青年。「君はシアトル大学の学生なのかい?」「はい、経済学部の4年です」「学業の方は大変なんじゃないのかい?」「はい、卒業レポートとか何やらでそこそこは忙しいのですが法学部や教育学部の生徒に比べたら楽な方だと思います。お言葉に甘えてコーヒーご馳走になります」そう言って青年ははにかんだ。そして青年はまたいつも座っている席にコーヒーを持って戻り読書に耽る。暫くすると青年と彼女は休日のデートの帰りなどにもバードコーヒーを訪れるようになった。ブライアンは温かく出迎える。「いらっしゃい」青年と彼女は「こんにちは」と挨拶してからいつも青年が掛けている2人掛けのテーブルに向かう。いつも青年が頼むモカブレンドを二杯注文し楽しげに話し出す。「だから僕は『ミスティック リバー』を観ようって言ったんだよ、ジェーン」「あら、オースティン、あなたそう言ってる割には『キル ビル』を楽しそうに観てたじゃないの」「そりゃー僕もタランティーノは評価しているけど今日の気分は『ミスティック リバー』だったね。君がどうしても『キル ビル』だって譲らないから観たんだよ」ブライアンはコーヒー豆を焙煎しながら聞こえてくる会話に何気なく耳を傾け微笑ましく思う。その日のデートは遊園地だったらしい。「オースティン、あなた見かけの割には意気地が無いのね。ジェットコースターを前にしてあんなに怯えるなんて」彼女が青年をからかうように言う。「ジェーン、そんな事言うけどさ。人間が創り出す物に完全完璧な物なんて有り得ないよ。飛行機は墜落するしエレベーターや自動車や有りと有らゆる物で誤作動や欠陥で亡くなる人までいるんだよ。全てにおいて100%な事なんて有り得ないよ」青年は肩をすぼめて言う。こうして青年と彼女の希望に満ち溢れた濃密な日々が過ぎていき、年を超え冬が過ぎ5月になった。新緑に萌ゆる時期となり人々は活力に沸き卒業のシーズンを迎えていた。青年がいつものようにやって来た。いつものモカブレンドを注文しいつもの席に座る。ブライアンが淹れたてのコーヒーを青年に差し出す。店内にはオスカー ピーターソン トリオの『グッバイ J.D』が流れていた。青年がブライアンに尋ねる。「今、流れている曲は何て言う曲なんですか?」「オスカー ピーターソン トリオの『グッバイ J.D』って曲だよ。J.Dってのはプロデューサーのジム デイヴィスに捧げた曲なんだよ。グッバイって言えばもう君も卒業なんじゃないのかい。この街で働くのかい?それとも別の地に行くのかい?」青年は答える。「僕はアイダホの出身なんです。卒業後はアイダホに帰って地元の企業に就職する事になっています」「すると、君と付き合っている彼女とは遠距離恋愛って事になるのかい?」青年は嬉しそうに言う。「実は、僕達来週に籍を入れる予定なんです。彼女は今の勤め先を辞めて僕と一緒にアイダホに来てくれます。僕の名はオースティン ドナルドソンと言う名で彼女はジェーンって言うんです。奇遇にもさっきの『グッバイ J.D』と彼女はイニシャルが一緒になるって訳で…」と青年が笑いながら言った。「へえ、そうなのかい。君らは結婚するのか。おめでとう。もうじき君らが店に来ないと思うと寂しくなるけど君らが最期に来た日には『グッバイ J.D』を流して君らの門出を祝おうじゃないか」ブライアンは自分の身に起きた嬉しい出来事のように彼らの幸せを祝福した。そして、彼女は18時ちょっと過ぎに来て仲睦まじく帰って行った。それから2日後の事だった。青年が16時きっかりにやって来た。そして、いつものようにモカブレンドを注文し読書に耽っていた。その日は開店休業状態で青年の前に来た客は僅か3人であった。ブライアンも自分にコーヒーを淹れ愛用のロッキー パテルを燻らせていた。ブライアンは扉を眺めていた。気忙しそうに家路に着く日と。恋人とディナーに行く人。時計をちらっと見ると18時3分を指していた。もう彼女が来る頃だなとブライアンは扉に視線を移すとちょうど向こう通りから彼女が小走りで道路を横断していた。ブライアンは馴染みの客の顔をみて表情が綻んだのも一瞬だった。自動車のけたたましい急ブレーキの音が聴こえたと思ったら彼女に衝突し彼女が一瞬にして扉のフレームから消え去った。ブライアンは顔面蒼白になりすぐさま青年のテーブルに駆け寄り声にならない声で「き、君の彼女が車に…」と言った。青年は一瞬唖然とするがすぐに内容を理解し慌てて外に飛び出して行った。ブライアンは911にすぐに連絡し青年の後を追うように店の鍵を閉め外に出た。彼女に付き添うように青年は身を屈め救命措置に当たっていた。青年と彼女の周りには既に人集りが出来ていて加害者のドライバーも彼女の横に来て青年の手助けをしていた。救急車とパトカーが5分後にやって来た。救急隊員が青年に話しかけている。「僕のフィアンセなんです」と青年が言い彼女に付き添って救急車に乗り込んで走り去って行った。警官が自己処理に残りドライバーや目撃者から調書を取っていた。ブライアンも事情を聴かれた。翌朝のローカルテレビと地元新聞でブライアンは彼女の訃報を知った。憂鬱な朝だった。店に向かうと道路にはまだ血痕が残っていて自動車の割れたライトの破片なんかも散らばっていた。その日も開店休業だった。ブライアンはカウンター越しに扉を見つめる。扉に描かれている鶏が啄んでいるコーヒー豆が鶏が流している赤い真珠の涙のように見えた。まるでその悲しみの赤い涙を撒き散らしているかのように映った。コーヒーを啜りながら自然とブライアンの目にも涙が滲んできた。青年や彼女の家族の事を思って。そしてブライアンはオスカー ピーターソン トリオのレコードを棚の奥の方に仕舞った。それから重苦しい日が続き彼女が亡くなった日から10日が経とうとしていた。17時45分だった。その日は夕刻にもかかわらず店には4人ほどの客が居た。店の扉が開きブライアンが視線を移すと青年が入って来た。青年はいつもの籍に向かう前にブライアンに一言言った。「彼女の事故の時は御迷惑をおかけしました」ブライアンは青年の目を直視出来なかった。少し目線を落とし「彼女の事はニュースで知ったよ。お悔やみ申し上げるよ」と力なく言った。青年に生気は当然感じられなかった。青年はいつもの注文をするといつもの席に着いた。そして、青年は18時から15分ばかし扉を見つめていた。それは、いつもブライアンが見つめていたように。そして席を立つと会計の際に「この前の分も一緒にお願いします」と言った。ブライアンはそんな事はどうでもよかったが青年の言うように8ドル貰った。翌日も青年は17時45分に来店しいつもの注文をしいつもの席に着くと昨日のように18時から15分ばかし扉を見つめてまた帰って行った。その翌日も青年は来店し同じように扉をただ見つめていた。それが1週間続いた。そして別れの時が来た。1週間同じようにただ扉を見つめ最期の会計をする時だった。「マスター、今日卒業しました。あの扉を眺めているとジェーンがにっこり笑いながら何事も無かったようにひょっこり現れるような気がしたんです。明日、僕はアイダホに帰ります。ジェーンとの楽しい時をここで過ごさせていただいてありがとうございました」青年の目には光るものがあった。ブライアンは青年の肩に手をそっと載せ言った。「俺も彼女が元気にあの扉から入って来るような気がして君の気持ちは痛いほど解るよ。これからも辛い事や悲しい事に遭遇すると思うけど彼女の分まで頑張るんだよ。今まで来てくれてこちらこそありがとう」そう言うとブライアンは両手で青年の右手えを握りしめた。青年も両手でブライアンの手を握り返した。青年の頬には大粒の涙が伝っていた。そして5年という歳月が流れた。ブライアンのバードコーヒーは細々と持ちこたえていた。その日も店は開店休業で閑古鳥が鳴いていた。ブライアンはロッキー パテルを燻らせながら扉をボーット眺めていた。17時を過ぎたくらいだった。3歳くらいの女の子を真ん中に挟んで両手をお父さんとお母さんが手をつないでお父さんの片手には花束が握られていた。ブライアンの表情に笑みが浮かんだ。そして今日は彼女の命日かという複雑な胸中に締めつけられた。青年の顔には生気が戻り人生をエンジョイしているように映り充実した毎日を送っているように感じられた。店に入るなり「マスター、ご無沙汰しています」と会釈してモカブレンドを2杯とオレンジジュースを注文した。青年はいつも座っていた2人掛けのテーブルの横の4人掛けのテーブルに家族で座った。淹れたてのコーヒーとオレンジジュースをテーブルに運び家族の楽しげな一時を嬉しく思うブライアン。棚の奥に仕舞ってあったオスカー ピーターソン トリオのレコード盤をターンテーブルに載せ静かに針を落とす。『グッバイ J.D』が店内に流れる。女の子が言う。「パパが一緒に観覧車に乗ってくれなかったからあたしつまらなかったわ」「ジェーン、この世に人間が創り出す物に完全完璧な物なんて有り得ないんだよ。飛行機は墜落するしエレベーターや自動車や有りと有らゆる物で誤作動や欠陥で亡くなる人までいるんだよ。全てにおいて100%な事なんて有り得ないんだよ」青年はそう言って娘にやさしく諭す。「あなた、そう言って昔あたしと遊園地に行った時もジェットコースターに乗ろうとしなかったわね」「おいおい、シェリー、君までそんな事言うなよ」青年は肩をすぼめてにっこり笑った。そして18時を過ぎると青年は上の空で1分ほど扉を見つめていた。そして「そろそろ出ようか」と妻に促した。会計の際に「パパはおじさんとちょっとお話があるからママと外でちょっと待っててくれるかな、ジェーン」と娘に言った。「奥さんと娘さんが出来たんだね」「はい、今は幸せです」「娘さんには彼女の名前を付けたんだね。奥さんもどことなく彼女の面影がある人だね」「はい、妻には包み隠さず正直に話て理解してくれています。今は妻と娘を愛しています。『グッバイ J.D』流してくれたんですね」「ああ、君らの門出を祝うって約束しただろう。君の娘さんには、さよなら、またねって意味だけどね。また、こうやって来てもらえるように俺も踏ん張らなくちゃな」青年は言う。「僕の思い出の店なので無理のないように存続していただければ嬉しいですそれじゃ、またいつの日か」青年が右手を差し出す。「それじゃ、元気で頑張って」ブライアンが青年の手を握り互いの健闘を祈る。そして青年は妻と娘と連れ添って彼女が亡くなった事故現場に花束を手向けて黙祷して帰って行った。ブライアンも外に出て彼女の為に祈り青年達を見送った。店の扉の横の壁に吊しているオープんの札をクローズにひっくり返し店内に戻る。カウンターのいつもの場所でまたロッキー パテルを燻らせる。扉から射し込む西日のプリズムと立ち込める煙の向こうに見える扉の鶏が大切な宝物を無くしてしまわないように大事に素嚢に詰め込んでいるような風にブライアンの目には映った。

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