第2話

『俺、名前決めたよ。子どもの名前。美歌っていうんだ。俺もユキも歌好きだし、だから美しい歌って書いて美歌。どう思う?』


『どうって、男の子かもしれないじゃない。そんなのまだわからないわよ。』

ぼんやりとした頭にしだいと意識が戻りはじめた。駅のアナウンスが流れ、再び電車が大きく横に揺れて動きはじめている。

『あぁ、また夢を見ていたのだ。』

まだ色々見て歩きたいと言う奈津を横浜に残し、ユキは一人で電車に乗った。夕方には少し早い車内はまばらに人がいるだけで、ユキは自分でも気づかないうちに眠りに落ちていたのだ。数年前、この同じ電車に乗って、ユキはやはりほのかに膨らんだお腹を抱えて男に会いに行っていた。その時は子どもの事は誰にも内緒だった。ただ彼だけが、その事を知ってむやみに喜んでいた。

『ね、赤ちゃんが出来たんじゃない?なんだかそんな気がする。』

不意にそんな事を言い出す陽二に、ユキは頭の中でカレンダーをめくってみた。

『そんな事言われても、べつに変わった事はけど。』

『そう?でもユキのおっぱい何か違うよ。きっとそうだよ。』

ところが、陽二は嬉しそうに顔中をほころばせ、いつまでもそんな言葉を繰り返している。きっとそうだと言われても、ユキには思い当たるものがまるでない。それでも嬉しそうにしている恋人を前にユキも悪い気はしなかった。こんなに喜んで、本当に子どもができたらどうするつもりなんだろう。そうも思ったけれど、今そんな心配をしても始まらない。結局、そんな話をした事さえもすぐに忘れてしまっていた。

 ところが、それから間もなくユキの体調に異変が訪れた。貧血と吐き気に襲われて、どうにも身動きが取れなくなってしまったのだ。ついさっきまでなんともなかったのが嘘のように、それは突然ユキの身に降りかかって来た。


 その日、ユキは幼稚園での保育実習を終えて帰り支度を始めるところだった。突然、全身からスーッと血の気が引いて、ユキは咄嗟に屈み込んだ。他の職員は既に帰ってしまったのか、そこにはユキ一人だけだった。そこでユキはそっと頭を下げた状態で暫くじっとしていた。そうしていればじきに気分が良くなる事は知っていた。なのに今回はいくら待っても回復しない。冷たくなった指先に温もりが戻り始めても全く気分が良くならないのだ。

『仕方ない』

ユキはそれ以上そこで待つ事を諦め、ゆっくりと腰を上げた。それから一歩足を踏み出してみた。なんとか歩けそうだった。そこでどうにか最後の片付けを済ませると、一人自宅に向かって歩き出した。それでも少し歩くとまた血の気が引いて、すぐに立ってさえもいられなくなってしまう。それを何度も道端にしゃがみ込んではやり過ごし、やっとの事で家に帰り着いた。

 翌日からは新しいバイト先に顔を出す事になっていた。ユキの通う短大は数日前から春休みを迎え、ユキもそれに合わせて新しいバイト先を見つけていたのだ。明日はいよいよその初日。いくら何でも初日から休むわけにはいかない。ユキは家に着くなり重い体を引き摺るようにして布団にもぐり込んだ。無理して歩いた事で、かえって体調が悪くなっているような気がした。でも、それも暫く横になっていれば落ち着くかもしれない。ユキは祈るような気持ちで眼を閉じた。他には何も考えられなかった。ただ一刻も早くこの状態から抜け出したい。それだけを念じて布団にくるまった。けれど朝になっても状況は変わらない。とにかく気分が悪くてどうにもならないのだ。これではせっかくのバイトも休むしかないのかもしれない。ユキは転げ落ちるようにベッドを下りると、這うようにして電話口まで進んだ。立とうと思っても体に力が入らない。こんな状態でバイトなどとても無理だった。

 ユキはこれで諦めがついたと思った。バイト先へはクビを覚悟で電話を入れた。すると先方は体調が落ち着くまで待ってくれると言う。ユキはありがたくその好意に甘える事にした。きっと慣れない実習で疲れが出たのだ。二、三日も休めばすっかり良くなってしまうだろう。そう信じて再び布団にもぐり込んだ。

 けれどユキの体調はなかなか戻らなかった。それどころか、日増しに悪くなっているような気さえして来る。とにかく吐き気がひどくて眠る事も出来ないのだ。寝ても覚めても気持ちが悪い。さすがに親の前では無理にも座って普通に見せているが、本当はすぐにも何処かに倒れ込んでしまいたいくらいに全身がモヤモヤとする。ユキは親の眼を避けるように体をその辺りになげ出しては多くの時間をいたずらに過ごしていた。

 もしユキの家が共働きでなければ、ユキはもっと早くに自分の置かれた状況を母親から知らされる事になっていたかもしれない。しかし、実際は違っていた。ユキの母親は日々の忙しさに追われ、娘の体調の変化に気付かぬまま毎朝早くから仕事に出掛けて行った。けれどそれもユキにとってはかえってありがたい状況だった。あれこれと詮索されて質問ぜめにあうよりはよほど良い。

 自分をごまかすようにゴロゴロと転がっているユキの頭の上で、テレビは今日も甲子園での熱闘ぶりを画面いっぱいに映し出している。球を打つ音。それを追う球児たちの歓声や熱心に応援するたくさんの人の声。そんなものを遠くに聞きながら、ユキはやっと自分の身に何かとんでもない事が起きているのではないかと思い始めていた。けれど、いつになってもおさまらない吐き気が次々とユキを襲い、すぐに何も考えられなくなってしまう。モヤモヤと見えない霧の中に、一人取り残されているようだった。何をどう考えれば良いのかわからないけれど、どうにかしてこの状況から抜け出さなければ。このままではせっかくのバイトもクビになってしまう、それだけは避けたい。

 ユキは働かない頭を懸命に揺り起して意識を集中させた。あの日、自分に何が起きたのか。それが何かはわからなくても、あの日から何か違が始まった事だけは確かだと思った。その時、ふとユキの耳に聞き覚えのある声が蘇って来た。


『ユキ、ねぇユキ聞いてる?』


『赤ちゃんが出来たんじゃない?何だかそんな気がするんだ。』


『もしかして…。』

そう思った瞬間、ユキは眼の前が真っ暗になったような気がした。それから慌てて電話帳を引っ張り出すと、誰にも知られずに診察を受けられそうな病院を探した。頭の隅に陽二に付き添ってもらおうかという考えが浮かんだ。彼と一緒なら車で迎えに来てもらう事も出来る。こんな状態で、一人で出掛けるのは心細かった。でも、それではいつになったら病院に行けるかわからない。今は一刻も早く全てをはっきりさせなければならないのだ。ユキは不安を打ち消すように電話帳の住所をメモに書き写すと、誰にも知られないようにそっと家を出た。

病院へはバスで向かった。たとえ一緒には行けなくても少しでも彼のそばにいたい。ユキは無意識のうちに陽二の家に近い病院を選んでいた。ここからなら、そう歩かずに陽二の家へ行く事も出来る。そんなちっぽけな物を頼りに、ユキは一人で病院の門をくぐった。

 待合室は、ただ白い壁に囲まれた四角い部屋だった。受付を済ませ、他に誰もいないその部屋でぼんやりしていると、自分の中の不安が炙り出されるように壁の上に浮かんできてユキをいっそう不安にさせた。部屋の隅には大きな黒いソファーが置かれ、そこにぽつんとユキだけが置き去りにされていた。ただ時計の針だけがカチカチと音を立てる空っぽな部屋は、温もりとはほど遠い所にやっぱり置き去りにされているみたいだった。

『次の方中へどうぞ。』

抑揚のない声がユキを呼んだ。そう広くはない診察室の向こうに、一台の診察台が無造作に置かれているのが見えた。医師はこちらには背中を向けたまま、何か書き物をしている。ユキはしばらくその白衣の背中を眺めて彼が振り返るのを待った。

 やっと振り向いた背中は二、三質問をした後でユキに奥の診察台を指し示し

『下着を取ってそこに掛けるように。』と言った。ユキは言われるままに薄いカーテンの陰で下着を脱ぐとそれをカバンの中に押し隠し、それからゆっくりと診察台に腰を下ろした。プリーツのたっぷりと入った白のロングスカート。ユキはそれで全てを覆い隠してしまいたかった。けれど医師はかまわずにそのスカートをまくり上げ、ユキの両足を外へと押し広げて診察を始めた。

 ユキは恥ずかしさで気が変になりそうだつた。これは診察なんだ。相手はお医者なんだから少しも恥ずかしがる必要なんてない。そう思おうとしても気持ちがついていかない。ユキは瞼を固く閉じて時間の過ぎるのを待った。たとえ医者でもこんなふうに見知らぬ男性の前で、下半身を露わにしている自分が嫌だった。

『もういいですよ。下着をつけてこちらに来て下さい。』

先の声が診察の終わった事を告げた。ユキはまくれ上がったスカートをそっと自分の両足に被せ、静かに診察台を下りて服の乱れを直した。

 ユキが再び医師の前に姿を見せると、

『三ヶ月ですね。』

医師はそう言ったきり、黙ってユキの反応を待っている。ユキはどう答えて良いかわからずに黙っていた。すると、その態度を不振に思ったのだろうか。医師は表情を硬くして、

『あなた結婚しているの?』

と訊いてきた。ユキは俯いたままで首を横に振った。

『まったく、結婚もしていないのにこんな事…』

あとははっきりとは聞き取れなかった。とにかく、医師は何の考えもなしに妊娠までしてしまったユキの行動に腹を立てたらしく、不機嫌そうに一枚の紙切れを取り出すと、それをユキに持たせて元の待合へと追い立ててしまった。

『次はそれを持って来るように。』

ユキの背中に医師の冷たい声が突き刺さった。

 病院を出ると、灰色の空から大きな雨粒がこぼれていた。傘を持たずにいたユキは、通りの庇のある場所を選んで帰りのバスを待った。陽二の部屋を訪ねる気にはなれなかった。今からそこへ向かっても、まだ何時館も一人で彼の帰りを待たなければならなくなる。今のユキにそれだけの気力はなかった。ユキは半ば無理やり押しつけられた小さな紙切れをカバンの中で広げて見た。

『あの医師は、私に考える猶予を与えてはくれなかった。結婚もしないで出来た子どもは、生まれてはいけない子ども。そして私は母親の資格のない女。そういう事か…。』

ユキは指し示された現実をどう受け止めていいのかわからずに困惑していた。その間にも雨粒はどんどんこぼれ落ち、道路はすぐに水たまりでいっぱいになった。

 そろそろバスが来る。そう思ってカバンを閉じた時、眼の前を大きなトラックが走り抜け、ユキに茶色い水しぶきを浴びせて去って行った。それをハンカチで拭いながら、今日このスカートを選んだ自分をユキは後悔していた。

『よりによって、何故このスカートだったのだろう。足もとまで隠すだけなら他にもいくらだって方法はあったはずなのに…。』

 ユキのお気に入りのスカートは、泥が滲んだ無数の点でいっぱいになった。何故もっとよく考えて決めなかったのか、考えても仕方のない事ばかりが頭に浮かんだ。いくら好きでも、もうどうにもならない。ユキには泥の滲んだスカートが自分に見えた。このシミはきっと消えない。それでも諦め切れずに、私は何度も洗濯を繰り返すのだろう。もう着る事のないスカートを捨てる事も出来ずに、きっとずっと手もとに置いておくのだ。それが何になるのか自分でもわかりはしないのに、ただいつまでも捨てられないでいる自分の姿がユキには見えるような気がした。

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