記憶

@okaeri333

第1話 記憶

『一度しか言わないからよく覚えていて。俺は好きな娘(こ)しか抱かない。もしも君を抱かなくなったら、それはそういう事だと思ってくれてかまわない。だけど決して忘れないで。俺は好きな娘しか抱けないんだ。』


  彼の手が優しく離れて私は眼を覚ました。カーテンの隙間からは明るい朝の光が部屋の奥へと射し込んでいる。その眩しさに思わず眼を細めて、自分が泣いている事に気が付いた。涙。でもどうして…。

『もう時間?』

隣から祐亮が声をかけた。彼はユキに背中を向けた状態で布団に顔をうずめている。すると、あれは佑亮の腕ではなかったのか…。

『そうね、そろそろ起きないと。でもあなたはもう少し寝ていても大丈夫よ。』

ユキはそっと布団を脱け出して階下の台所へ向かった。冷えたやかんをコンロにかけ、リビングのカーテンを大きく開け放つ。そうして体の奥深くまで息を吸い込みながら朝の庭に下り立つと、郵便受けで凍えている朝刊を手に取った。足もとでは冷たい風に身を縮めた花たちが蕾を抱えたままで震えている。日差しが全てを温めてくれるまでにはもう少し時間がかかりそうだ。

 それから小さな庭に回り込み、考えに考えて植え込まれた植物たちの様子をゆっくりと観察して歩く。そうしてリビングに戻る頃にはやかんのお湯もしゅんしゅんと音を立て、ユキは食器棚から大きめのカップを二つ取り出すとそこに熱いコーヒーを注ぎ入れた。その一つを今取って来たばかりの朝刊と一緒に窓際のテーブルにそっと乗せると、頃合いを見計らったように布団を脱け出したばかりの佑亮がいつも甘えるように後ろからしなだれかかってくるのだ。ユキは少しだけ振り向いてそんな佑亮に『おはよう』を言うと、自分のコーヒーを取る為にもう一度台所へと戻った。

 佑亮はユキより四つ上の二十八歳。ユキがまだ高校に通っている時分に知り合って、去年結婚したばかりの新婚だ。年齢は佑亮の方が上だけれど、いつも照れずに愛情を求めてくるのは決まって佑亮の方だった。ユキは何か照れくさくて自分の感情を素直に表に出す事が出来ずにいたから、そういう意味では佑亮のそんなストレートな愛情が何処かくすぐったくもあり嬉しくもあった。

『今日、帰り何時頃になりそう?私、ちょっと出掛けて来たいんだけど。』

ユキが少し膨らんだお腹を気にしながら佑亮に声をかけると、

『そんなに遅くはならないつもりだけど、出掛けるならかまわないよ。ただ、お前はそそっかしいからな、出先で転ばないように気をつけろよ。』

佑亮は左腕の時計を覗き込み、慌てて残りのコーヒーを口の中へ流し込んだ。

『俺、もう行かなくちゃ。』

週末というのに慌ただしく出掛けて行く佑亮を見送って、ユキは静かにソファーに腰を下ろした。予定日は三月の初め。入院の為の準備は一通り済ませてあるけれど、身一つのうちに済ませておきたい用事はいくつもあった。子どもを持って慌ただしくなる前に会っておきたい友人もいる。今日は奈津と会う。

 奈津とは中学生の時に知り合った。それからというものユキの身に何か起きる度、いつも必ず奈津がそこに立ち合って来た。もともと友だちの少ないユキにとっては文字通り貴重な女友だちの一人である。そんな事もあって、彼女とは結婚してからもずっと気兼ねなく行き来を続けている。

 相手が奈津ならべつに家に呼んでゆっくりおしゃべりを楽しんでもかまわないところだが、やはりたまには外の空気にも触れてみたい。だいいち、自由に外を歩き回れるのもあとわずかとなれば、大きなお腹を抱えてでも街に繰り出したかった。ユキは出掛ける時にしか使わない化粧道具を引っ張り出し、ゆっくり身支度を整えた。髪をとかし、お腹周りのゆったりとしたワンピースに袖を通す。朝晩はさすがに冷えるけれど昼間出歩くだけなら、その上にカーデガンを羽織る程度で十分だった。ユキは全ての準備が整ったのを確認してから鏡に向き直って口紅を引いた。これはユキが見つけた自分一人だけの決め事だった。いくら先に準備をしていても、出掛けるまでに何度もカップに口をつけるユキの口もとはたいていすぐに色が剥げ落ちてしまうのだ。それなら初めから口紅をぬらずにおいて後からそこだけ色をつければ良いのだと、最近になってやっとそんな事に気がついた。ユキは上下の唇を軽く重ね合わせて色を馴染ませるとバックに口紅を投げ入れて立ち上がった。

 奈津とは相鉄線の一番先頭側のホームで待ち合わせをした。何処へ行くのかまだ目的地さえも決めてはいないけれど、同じ沿線に住む奈津と会うには一度横浜へ出るのが何処へ行くにも得策のような気がして、今日のように行き先が決まっていない時にはいつも横浜で待ち合わせをするようになった。奈津は何色かの糸が織り込まれた春らしい色のセーターを身につけてそこに立っていた。それが遠目にもユキの眼にきらきらと映って小柄の奈津をいっそうかわいらしく見せている。

『久しぶり。これ、またおばさんの新作?』

ユキが軽く手を上げて奈津に近づくと、

『まあね。お母さん的にはかなりの自信作らしいよ。』

奈津もユキにこたえて上げた手をそのまま胸の辺りに持っていき、セーターの襟ぐりをつまんで見せた。奈津の母親は編み物や裁縫を得意とし、彼女はいつも自分の体型にぴったりと合った洋服を母親に拵えてもらっているのだ。

『良いなぁ奈津は。いつもおばさんにこんなにかわいいの作って貰えるんだもん。本当に羨ましいよ。』

『そうは言っても、毎度だと段々ありがたみもなくなってくるけどね。ところでさ、今日は何処行く?ユキ、まだ歩き回っても平気なんだっけ?』

『うん。少しはね。でも、やっぱり何処かで落ち着きたいかな。』

ユキが言うと、

『そっか。じゃあ私良い所知ってる。そこでお茶でもしながら話そうよ。』

奈津はそう言って、少しだけユキの先に立って歩きはじめた。

 着いたのは、表通りから路地を一本裏手に入った場所に立つ古びたビルだった。奈津はそこで一度確かめるようにユキを振り返ると、エレベーターのボタンに手をかけた。扉が開くと、外からはちょっと想像のつかないような落ち着いた雰囲気の喫茶店が目の前に現れた。木の温もりとコーヒーの香り。奥へと続くホールには小さな丸テーブルが幾つも並べられ、その何処からも外の景色を眺められるように計算されている。

『ここならゆっくり話しも出来るし、お昼も食べられるしね。時々会社の女の子とも来るんだ。』

窓の外には遠く横浜の港がかすんで見える。

『うん、良いかも。』

ユキはカーデガンを脱ぐと、そう言ってゆったりと椅子に腰を下ろした。

『しかし、ついにユキがお母さんとはね。ちょっと笑える。』

奈津がユキのお腹をまじまじと見つめて言うと、

『自分でも笑えるよ。母親の自覚なんて全然ないんだけどね。』

ユキも自分のお腹をさすってみせながら、そう答えた。

『ふーん。ところで佑亮さんの方はどうなの?父親の自覚とか芽生えちゃったりしてるの?』

『どうかなぁ。あんまりそういう感じはしないけど、とりあえず向こうの親は喜んでるみたいよ。初孫だしね。うちの親はまだ若いからさ、おばあちゃんとか呼ばれる事に抵抗があるらしくて、名前で呼ばせるなんて言ってるけど。』

『だよね。だって二人ともまだ四十代でしょう?お母さんなんて四十五にもなってないんだもん。無理ないよ。』

『まあね、私は母が十九の時の子だから。でも、もしかしたらもっと早い段階でおじいちゃん、おばあちゃんって可能性もあったわけでしょ?そう考えると、自分でもちょっとこわいよ。』

『そう言えば、高木さんって今どうしてるの?』

『知らない。私は何も聞いてないけど。でも、あの人に関しては私より奈津の方が情報入ってくるんじゃないの?』

『そうでもないよ。だけど佑亮さんと高木さんって、もともと同じ会社でしょう?だったら佑亮さんは何か知っているんじゃない?』

『そうかもしれないけど、私からは聞けないよ。奈津こそ何処かでばったり会ったりしてないの?』

『それが、不思議と会わないんだよね。使ってる駅も時間帯も同じはずだから何処かで会ってもおかしくはないけど、向こうで避けてるんじゃないの?もしかして。』

『かもね。たださ、最近ちょっと思うんだ。もしあのままあの人と一緒にいたら、今頃どうしていたんだろうって。今更なんだけど、最近妙に引っかかるんだよね。まぁ、あのまま一緒にいたところで上手くいくはずもなかったんだけど。でもあの人はともかくとしても、あのお母さんけっこう好きだったんだけどなぁ、私。』

『ユキちゃん、いくらお母さんが好きでも本人がダメなら意味ないでしょう?まったく、こんなんで子ども産んでやっていけるのかなぁ。心配になっちゃうよ。』

『そうなんだけどさ、最近よく夢に出てくるんだよね。今頃になってどういうつもりなんだか知らないけど、まいっちゃうよ。』

『ユキ、あんたってばかなり重症かもね。もうすぐお母さんになるって人がそんなんで本当な大丈夫なの?しっかりしてよ。』

『大丈夫よ。今更どうこうしようっていうわけじゃないから。ただ、やっぱり何処かで引っかかってるのかなぁ。なんとなく気になるのよ。』






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