夏の思い出

@9630

第1話

 今は母が一人で暮らす実家に、僕はひと足先に到着していた。妹たちを出迎えるべく、縁側に座っている。夏空は青く澄み渡り、入道雲の白がまぶしい。田んぼと畑と山くらいしか見えない相変わらずの風景に、蝉の声が響き渡っている。ほどなくして、蝉たちに負けないくらいのおしゃべりの声が近づいてきた。


「ユウにいちゃーん、久しぶりやんねー」

 春香が言った。

「アニキ、少し痩せたんじゃないか?」

 夏希が僕をじろじろと見ながらつぶやく。

「そんなことないよー、ユウにいは前からガリガリだよね。これ以上痩せたら無くなっちゃうっしょ」

 千秋はそう言って後を引き継ぐと、けらけら笑った。

「ちょっと、お兄ちゃーん! これ持ってよー!」

 少し離れたところから冬美の駄々が飛んできた。僕は小走りに冬美のところに向かうと、その指に食い込んでいた大きなスイカの手提げひもを受け取る。

 冬美が空を見上げる。僕もつられて空を見た。そこにいるみんなの保護者みたいな顔をして、大きな入道雲が僕たちを見下ろしていた。

「夏だねー」冬美が言う。

「そうだなー」僕も言う。

「お父さん、帰ってきてるかな?」

「案外もう“その辺”にいるかもよ?」

 僕が手を柳のようにゆらゆらさせたら、やだー、もー、とかなんとか言いながら冬美に背中をバシバシとどつかれた。

 僕は五人兄妹の長男だ。わざわざ「兄妹」と書いたのにはもちろんワケがある。兄妹のうちで、男は僕ひとり。残りはすべて女だ。つまり僕には四人の妹がいるということになる。さらに言うなら、長男である僕と長女との間には十歳の年の差がある。十歳差と言えばけっこう離れているほうではないかと思う。しかし、妹たちはみんな一歳違い。つまり僕以外は年子と言うことになる。

 家族の話をしようと思う。いや……、正確に言えばこれは、父の話だ。




 父は公務員だった。市役所の税務課に勤めていた。たいしたことはしていない、とは本人談。窓口に税金相談に訪れる市民の対応や、窓口に怒鳴り込んでくる市民の対応。頑として税金を払おうとしない市民への殴り込みや、税金を払う金は無いのにパチンコに行く金はある市民への取り立て。

 後からわかったことだが、“殴り込み”だの“取り立て”だのは市役所の仕事ではなく、また別の組織が行うらしいのだが、たいした仕事じゃない、と言ってその話をしてくれたのは、父なりの冗談だったようだ。

 幼い頃に一度だけ、父の仕事ぶりを見たことがある。母の用事で市役所へ行った時だ。

「ほら、裕一、あそこ見てみい。お父さんやで」

 父は「税務課」という看板がぶらさげられたカウンターの向こう側で机にかじりつき、苦虫を噛み潰したような顔……、いや、苦虫そのものみたいな顔をして書類とにらめっこをしていた。僕は父が、殴り込みの準備をしているんだなと、勝手に解釈した。

 父は無口で、感情をあまり表に出さない人物だった。普段よく口にする言葉と言えば、「行ってくる」か、「帰ったぞ」くらいのものだ。母に対してだけでなく、僕に対しても同じようなもので、素っ気なく、無表情で、用事がなければ口も聞かない。“殴り込み”や“取り立て”の話をしてくれた時はよほど機嫌が良かったのだと思う。


 友達の家に遊びに行った時など、その友達の両親の仲睦まじい様子を見るにつけ、うちの両親はどうして結婚したんだろう、と子供心によく思ったものだ。

「いらっしゃい、裕ちゃん。ゆっくりしていってね」

「お父さんたちはちょっと買い物に行ってくるから、留守番を頼むぞ」

 そう言って、何やら乳繰り合いながら車に乗り込む友達の両親。僕はそれを友人宅の窓からながめていた。テレビからピロピロ聞こえるゲームの効果音よりも、おぼんに乗ってシュワシュワ言っているコーラよりも、僕はその乳繰り合いの様子のほうが気になって仕方がなかった。


 父の行動パターンは実に素っ気ないものだった。毎朝決まった時間に家を出る。母がアイロンをかけた真っ白なワイシャツに、二着しか持っていないスーツを着込み、弁当と水筒をブリーフケースに押し込むとひと言。

「行ってくる」

 革靴の音をさせながら家を出る父。その音に「やばい!」と思って、ご飯を口にかき込む僕。父は僕にとって父であり、そしてまた時計でもあったのだ。革靴でコツコツと時を刻みながら出かけていく時計。なくてはならない存在にして、普段は静かにカチコチと言っているだけの父。規則正しく、厳粛に、時計やら父やらの毎日は過ぎていったのだ。


「帰ったぞ」

 夕方も、だいたい同じ時間に帰ってくる。晩のおかずをつまみに瓶ビールを一本、毎晩欠かさず飲み、夜は早くに寝てしまう。これといった趣味もなかったように思う。

 休みの日は縁側で朝刊に目を通し、庭木の手入れをし、昼食を食べた後に少し昼寝をし、犬の散歩に行き、縁側で夕刊を読んだ。僕の見ている限り、ほとんどこれの繰り返しだったように思う。本当に時計みたいだ。もちろんそこに、乳繰り合いなんてものは影も形も無かった。


「裕一、新聞くらい読みなさい」

 父は厳粛ではあったが、息子の教育に関してはそれほど関心が無かったみたいだ。その時は一般教養くらい身につけておけ、と言う意味で「新聞を読め」と言ったのだと思うが、初めてそのセリフを言われたのが何しろ僕が幼稚園の頃なので、とにかく言われた通り読んではみるのだが当然チンプンカンプン。そもそも世の情勢どころか、ともすれば日本語の解読だってまだまだ怪しい盛りだ。だから僕は四コマ漫画だけ読んだ新聞を、フゴフゴといびきをかいて午睡する父の脇にそっと戻すのだった。

 犬の散歩においても、父の性格が見て取れた。父は休日、よほど天気が悪くなければ犬の散歩を欠かさなかった。父が犬につけた名前は「ポチ」だ。犬の名前にさえ厳粛さが漂っている。父にとって犬と言えば「ポチ」なのだ。

 ある日ポチが散歩に行くのを嫌がった。父がリードを引っ張っても犬小屋から出てこない。ポチにだって機嫌の善し悪しくらいあるだろう。毎日同じようにのんべんだらりと過ごしているように見えて、実は色々あるのかもしれない。とにかくこの日、ポチは不機嫌だったのだ。

「ウー……」

 父は、犬小屋の中からうなり声で抵抗を示すポチを無理やり引きずり出すと、平手でぴしゃりと頭を引っぱたく。

「キャイン!」

 ポチの悲鳴が終わるか終わらぬかのうちに、父はずんずん歩き出す。ほとんど引きずられるようにして、哀れポチは仕方なしに父の背中を追うのである。

 父に問題ありの時もあった。

 明日は休日という日に父が、仕事から帰る途中につまずいて軽い捻挫をしたことがある。

「あんた、ホンマに病院に行かんで大丈夫?」

 トイレに行くのにもひょこひょこと危なっかしい父を見ながら母が言った。

「こんなもの、家でじっとしていれば治る」

 いいか裕一、自らのつまずきは自らが責任を取るんだ、と、ただの強がりとしか思えないセリフを吐いた父は翌日、いつも通り厳粛にポチの散歩に出かけようとするのだ。

「なにもこんな時にまで行かんでもええやないの」

「お父さん、じっとしているんじゃなかったの?」

 母や僕の言葉を「うるさい」と、一蹴。そんな日に限ってよだれを垂らし、その尻尾を扇風機よろしく振り回し、父に飛びかからんばかりの勢いで「待ってました!」とポチ。

 リードを引きちぎりそうなほどの猛然としたスタートダッシュを見せるポチに、ほとんど引きずられるようにひょこひょことついていく父。父が犬の散歩をしているんだか、犬が父の散歩をしているんだかわからなかった。それは滑稽でありながら、厳粛さがおおいに含まれた光景だった。




「なんや、お父さん笑てるみたいやな」

 母の関西弁をただひとり受け継いだ春香が、仏壇の中の父の遺影をしげしげとながめながら言った。仏壇はお盆の飾り付けがされている。

「春ねえってば、それ正月にも言ってたよね? ほら、お線香終わったんなら早くどいてよ」

 後ろに立って順番待ちをしている夏希が足で春香をせっつく。ちょっとやめてよ、と春香は手で反撃するが、夏希はサッとよけたので空振り。

 夏希はりんをチンチンチーン! と景気良く打ち鳴らし、手を合わせた後で、あ、やばい、と言ってからあわてて線香に火をつけた。それからあたりをきょろきょろと見回す。

「あれ? ちいちゃんは? ちょっとちーちゃーん! ちいちゃんの番だよー!」

「千秋おねえちゃんならトイレだよ」

 仏間に置かれた年季の入った座卓を、台ふきんで拭きながら冬美が言った。

「だからかき氷のおかわりなんかせんほうがええって言うたのに。去年もおんなじこと言うた気がするわ。アホやであの子」

 春香がそう言って鼻で笑った。昼食は実家に着く前に四人で済ませてきたらしい。千秋の姿が見えないのは、その時のかき氷に原因があるようだ。

「まあいいや。冬美、あんた先にお線香あげなよ」

 夏希の言葉に、はーい、と返事をして冬美がご先祖への挨拶を済ませ、それが終わる頃に苦虫みたいな顔をした千秋がおなかをさすりながら戻ってきた。

「うう……、まだちょっと痛いなあ。ちょっと誰かあたしのことアホとか言ってたでしょ」

 千秋の言葉に、春香と夏希が声をそろえる。

『ヤダー! コワーイ! 地獄耳ー!』

 姉妹たちのいつものやり取りを横目に、母がにこにこしながら切ったスイカをおぼんに載せてやってきた。

「ほらほらみんな、ひと休みせえへんかー」




 母は大阪出身だった。父と結婚して関東に移り住んできた。

「なんやこっちの人はおダシみたいに薄味の人ばっかりやんなあ。うまくやっていけるやろか?」

 結婚当初、そう言っていたらしい母が、なぜダシの出尽くした鶏ガラみたいな“痩せぎす”で、中身だってお世辞にも華やかとは言えない性格の父と一緒になったのか、詳しくは知らない。“妹づて”に聞いた話だが、たまたま周りにお笑い芸人みたいな人間ばかりしかいなかった母が、出張か何かで関東に来た時に知り合って恋に落ちたらしい。

 今まで周りにいなかったタイプの父に、母は雷に打たれたような衝撃を受けたそうだ。息子の僕が言うのもなんだが、あんなガリガリの苦虫では、雷どころかせいぜい静電気が関の山だと思うのだが。




「いっただっきまーす!」

 そう言ってスイカにかぶりつく千秋。それを見ながら春香が言う。

「あんた、おなか痛いんとちゃうん? ほんまアホやな」

「あれ、塩は? やっぱスイカにはお塩でしょ。ちょ、冬美、塩取ってきて」

 夏希の指令に、はーい、と返事をして台所に塩を取りに行く健気な冬美。

「ちょっとあんた、そんなことに妹をつこうたらあかんで」

 母が夏希に言った。

「いいのいいの。冬美ったら最近太りすぎなのよ。少しは動いたほうがいいんだって」

 僕が見る限り、末っ子の冬美が一番動いているような気がするが。

「はい。おねえちゃん。お塩ー!」

 そう言って冬美は、塩の小瓶を夏希の頭の上にそっと載せた。

「ちょっ! ばか! どこに置いてんのよ!」

 あわてる夏希を無視し、冬美が僕を見て言う。

「あれー? お兄ちゃんスイカ一切れしか食べてないじゃん。ガリガリなんだからもっといっぱい食べなきゃー」

「スイカでぶくぶく太れたら世話ないわ。プッ。アホがもう一人おったわ」

 スイカの種を皿にプッと吹き出しながら春香が言った。

「お母さーん! 春おねえちゃんがアホって言った―!」

 助けを求める冬美の横で、千秋がスイカを手に持ったまま青い顔をしている。

「……ヤバい。やっぱおなか痛い」

 いつものことだが、しゃべる隙が無い。無口でガリガリの遺伝子は、どうやら僕が一手に引き受けてしまったようなのだった。そしてその遺伝子の供給元である父は、がんで亡くなった。肝臓がんだった。




 発見当初はごく初期のがんで、僕の記憶にはまったく無いのだが、どうやら手術もしたらしい。手術は成功し、がん細胞は父の体から撤退したかに見えた。しかし奴らは気配を消し、息をひそめ、増殖の機会をうかがっていただけだった。

 がん細胞が父の体から一時撤退した頃、つまり僕が小学三年生くらいの夏休みの頃から、よく駄菓子屋に行った記憶がある。僕の家から駄菓子屋は少し距離があったので、道草を食いながら往復するとけっこうな時間つぶしになった。

 ふだんから駄菓子屋には行っていたが、なぜ夏休みにとくによく行ったのか。夏季休暇で家にいる父が小遣いをくれるのだ。

「豆腐を一丁、買ってきなさい。釣りは好きに使ってよろしい」

 正確に言えば小遣いではなく、釣り銭だったわけだ。だから大した金額ではない。だけど駄菓子をいくつか買うには充分な軍資金だ。つまり僕は、父の酒のつまみ(豆腐であったり、焼き鳥であったり、時には週刊誌であったり)を買うために、喜び勇んで走らされたわけだ。

 父は夏季休暇で家にいるあいだ、毎日のように僕を駄菓子屋(今思えば雑貨屋だったのだが)へ送り込んだ。僕は軍資金を手に、“獲物”を狙うスパイのように意気揚々だった。


 僕が駄菓子屋から帰ってくると父は決まって縁側で新聞を読んでいた。とくに変わった様子は無い。だけどいつも、母の態度がどこかおかしかった。

「お母さんただいまー」

 僕の声にびっくりして振り返る母。

「あ、ああ。お帰り」

 振り向いて僕を見るのだが、すぐに目をそらす。身にまとっている空気がどこかよそよそしい。そういえば僕が出かける前に着ていたエプロンをつけていない。心なしか、顔が上気しているように見えた。小学生の僕にはその理由が見当もつかない。だから心配になって僕は母に聞く。

「お母さん、大丈夫? 風邪でも引いたの」

「な、何言うとるんや、お母さんは元気いっぱいやで。さあさあ、メシの支度や」

 そう言って母はエプロンをつけるのだが、つけたエプロンの表裏がひっくり返しだったりした。

 とくに何も変わらない父とどこか様子がおかしい母。そんな光景が、僕がつまみを買いに走らされるたびに繰り返された。なにか違和感のようなものを感じてはいたが、そんなことよりも当時の僕にとっては“獲物”のほうが大事だったので、さして気にもしなかった。


 異変が起きたのはその次の年、僕が小学四年生の時だ。妹が、春香が産まれたのだ。“異変”なんて言われたら妹は心外だろうが、僕からしてみればそれなりに穏やかに暮らしていた日常に降ってわいた、疑いようのない“異変”だったのだ。

 小学四年生の僕はまだまだはなたれ小僧には違いなかったが、自分の“ケツ”くらいそれなりに自分でふける年だ。対して妹はケツどころの騒ぎではない。ぐにゃりぐにゃりと体を動かすのが精いっぱいで、自分が何者かすらもわかっていないのだ。自然、僕が今まで独占してきた母の愛情、ぬくもり、時間、その他もろもろ全部ひっくるめて妹に持っていかれることになる。

「裕一、あんたはもうお兄ちゃんや。これからは自分のことは自分でせなあかんで」

 これを“異変”と言わずしてなんと言おう。僕は突然、自立を求められたのだ。

 それでも自分と血のつながった、どことなく自分に似ている、無防備で無抵抗な春香の存在が可愛くないわけはないので、色んなものを持っていかれても僕はなんとか我慢していたのだ。それに少し時間がたてば、母もまた僕のことをかまってくれるのだと信じていた。


「おめでとうございます。妊娠してますね」

 だから僕は、ようやく首が座り始めた春香を抱っこさせられ、買い物のついでに寄った産婦人科の医者が母に吐いたセリフが、にわかには信じがたかった。

「だあだあ!」

 僕の腕の中で、春香までもが祝福の言葉を述べていた。

 結局このあと立て続けに三人も妹が産まれて、はなたれ小僧がはなたれ小僧でなくなるまで、その他もろもろが持っていかれっぱなしになるなんて、誰が想像できただろう。

 そんなわけで、僕が四年生の時のちょうど梅雨どき、春香が産まれたのを皮切りに、毎年妹が産まれてくるという、僕にとっての不本意な異常事態はしばらく続くのだった。


 一番下の妹が産まれてすぐ、梅雨ももうすぐ明けようかという頃に、父はあっさりと死んでしまった。連続四回目の子作り(僕も入れれば通算五回目だ)を終えたあと、がん細胞たちはついに暴れ出し、一気呵成に父の体を蝕んだのだ。父はがん細胞を説得し、「四女が産まれるまでは」と医師に懇願し、滅びゆく自分の体をなんとかなだめすかして闘病したが、末娘の顔をひと目見るとついに力尽きたのだった。

「こ、子供たちを頼むぞ」

 父はドラマのセリフよろしくその言葉を吐き捨て、ばたりとおおげさに首を傾けると、その生涯を閉じた。死ぬ間際まで父は厳粛だった。

 それからの母は大変だったと思う。何しろ女手一つで五人の子供を育てるのだ。獅子奮迅の働きをせねばならなかった。幸運と言えば、祖父母たちがまだまだ健在だったことと、四女の冬美が産まれたころには中学一年生になっていた僕の存在だろう。僕は母の手となり足となり、時には目となり口となり、掃除洗濯買い物に、その他もろもろに駆けずりまわされることになる。そう、それからの僕もまた、獅子奮迅の活躍を見せたのだ。




 ヒグラシが鳴き始め、そろそろ陽も落ちる頃だ。傾いた陽が、辺りに薄暮れの色を投げかけている。僕は縁側に腰をおろして、在りし日の父のように新聞なんぞ読んでいる。

 妹たちはさっきまで、誰かが持ってきた韓国ドラマのDVDの鑑賞会を居間で開催していた(静かだったのはこの時だけだ)。内容についてのあれやこれやの批評はとっくに終わって、今はまた別の話題についてべらべらとおしゃべりを続けていた。よくあれだけしゃべることがあるものだ。感心する。僕ら兄妹のうち、口から産まれてこなかったのは僕だけに違いない。

「なんや裕一、新聞なんか読んで。お父さんみたいやな」

 母がお茶の入った湯呑みをふたつ持ってきて、ひとつを僕に手渡した。それから僕のとなりに腰をおろした。

「お父さんで思い出したんやけど、なんであの子らが年子か、あんたに話したことあったかいな?」

 母が目を細め、姦しい娘たちを見やりながら言った。

「いや、聞いたことない」僕が言う。

「あんた今いくつやったっけ?」

「息子のトシくらい覚えとけよ。三十五だよ」

「もうそんな年かあ。ほんならもう話してもええやろ」

「なんだよ、もったいぶって。なんの話?」

「しゃあないやろ、なにしろ“18禁”やからな。あんたにはずいぶん苦労させてしもたからな。いつか話そう思てたんや」

 なんのことだかさっぱりわからず、僕はお茶をすすりながら続きを待った。

「あんたが小学生の頃の夏休みの話や。やたらお使いに行かされたん、覚えとるやろ? あん時お父さんなあ……、お母さんのこと、抱きよったんやで」

 僕はお茶を盛大に吹き出した。


 何のことはない。父は僕に小遣いを渡して厄介払いをし、母とせっせと子作りに励んでいたのだ。夏季休暇のために時間はあるが、なにしろものごとの分別がつき始めた小学生男子が一つ屋根の下にいるのでは、おいそれと気軽に子作りに励むわけにもいかなかったのだろう。駄菓子屋が我が家から少し離れていたおかげで、どうせつまみも欲しいのだ、「釣りはやるぞ」とけしかければ、充分子作りができるくらいの時間は息子を厄介払いできたわけだ。


「あん時はこの人アホちゃうか? 思うたで。がんの手術の傷だってまだ生々しい時分にあたしのこと抱こうとするんやもんなあ。ほんでもあの人、あんな性格やったやろ? あたしが嫌な顔しようとお構いなしや。あんたをお使いに出したらきっちり抱きよるねん」

 僕はせき込みながら口のまわりのお茶をハンカチでぬぐい、母の言葉を聞いていた。

 ふと、視界の隅で何かが光った。

「今になって思うんやけどな。あの人、手術する前から自分の死期っちゅうの? そういうのがわかっとったんちゃうかなあって」

 ホタルだ。庭の隅の植木に、ホタルが一匹とまっていた。薄暮れの中、静かに明滅している。最近ではすっかり見なくなったが、近くには小川や田んぼがある。いてもさほど不思議ではない。

「残された時間で自分にしか出来ひんことを、あの人なりに考えたんちゃうかなあ。そいで自分にしか残せへん宝もんを残そう思うたんとちゃうかなあって」

 ホタルがとまっている植木は、父が生前、一番大切にしていたものだ。今は母が大切に世話をしている。

「あの子たちの名前なあ、全部お父さんが決めたんや。春、夏、秋、冬。あの人最初っから、最低四人は作ろう思うてたんかなあ。せやけど作るだけ作って自分はとっとと逝きよってからに。残されたこっちは大変やっちゅうねん。おかげさんであたしは寂しがるヒマもあれへんかったわ」

 文句を言っているわりに、母の顔は嬉しそうだった。すると、ホタルが明滅をしながら飛び立った。何かを見届けた魂のように、ゆらゆらとどこかへ飛び去っていく。

「まあ、“はなたれ小僧”が一匹いるだけじゃ、心細いと思っただけかもしれんけどな」

 そう言って母は笑った。はなたれ小僧で悪かったな、と僕は心の中でホタルに向かってつぶやいた。

「それにしても毎年毎年きっちり抱きよるねん。だいぶ自分勝手やけどな。……さてと、昔話はおしまいや」

 母は立ち上がり、いまだにべらべらと姦しい居間に戻っていく。いつまでも続くおしゃべりの輪に母も加わった。

 誰かが冗談を言った。宝物たちに囲まれて、母の笑顔がはじけた。

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