市松の花
@jjjumarujjj
市松の花
一
花が大好きだった祖母の家には昔から市松人形があった。
もう何十年も住み慣れた私にとって、何ともない普通の存在だったが、客人がある度にその異様な雰囲気の市松人形は毛嫌いされてばかりだった。異様と言っても普通の日本人形であることには間違いはなく、朱色の生地に菊の花柄の振袖と、黒髪の整えられたおかっぱと言う造りは一般的なものと然程、変わりはない様だった。木の格子で出来た硝子ケースに入ってきっちりと玄関に飾ってあるその市松人形は中高生の時から少なからず、私も怖く感じることがあったが、今では『市松さん』と愛称をつけて呼んでいる。
そう言うのも、天気の良い日なんかは、市松さんが笑ったり、こちらに話しかけてくるように感じることもあって、そんな日は何故だか私自身も気分がよかった。ただ反対に、一人の夜に、暗闇の中、居間から襖を開けてトイレに立つと、一層深く、私には何も言葉を発しないその市松人形が何故か哀しみの中にいるように見えたのだった。そう言うふうに感じるようになってからは私は会社へ行く時も帰りも「いってきます。」と「ただいま。」と独り言のように市松さんに向けて話し掛けるようになっていた。この話しは私の周りと市松人形に関わる不思議な話である。
当時、私の仕事は派遣だった。姨捨山と呼ばれる山の山間の蛇のように長い道を気分が悪くなるまで運転しておおよそ一時間程すると、市の外れの工場に着いた。
職場では私は与えられた仕事を黙々と熟した。カメラレンズ周りの細かな部品を作り上げる精密機器の工場で、平社員以下の扱いを受けながらも私はその仕事に真面目に徹し、私にとってはそれが天職であると言い聞かせながら、毎日、朝七時に出勤して午後の五時まで、残業三時間を合わせると五時間から八時の間もその仕事に拘束されるような気分で工場の機械を相手に押し黙って働いていた。ストレスから不慣れなタバコを口にするようになり、仕事上がりにはコンビニで板チョコを丸々一枚齧って家路に向かうような変な習慣さえ身に付いていた。そんな生活が日々の繰り返しになり、日常に対してなんの変化の無いように感じるある週末のことだった。
二階に通じる廊下の階段を上がった所に市松さんの帯紐が落ちていた。私は、はっとしてそれを急いで玄関の硝子ケースを開けて、市松さんの帯元に丁寧に帯紐を戻した。
冷静に考えてみれば、何故帯紐があんな所にあったのだろう、と言う疑問に私は駆られた。 猫?いや、市松さんが硝子ケースを抜け出して二階まであがった?そうでなければ帯紐だけ空中浮遊してあんなところまで飛んだと言うのだろうか?帯紐をもどした硝子ケースの中の市松さんは何事もなかったようにただただ無表情に微笑んでいた。手には微かに古道具のような着物のような、帯紐の古臭い匂いが残っていた。私は不思議でならなかった。
その日、市松さんに直接触ったのは初めてだった私は妙にそわそわして仕方なかったので、日の暮れる前の近所を散歩することにした。
小さな商店の前にある自販機でホットコーヒーを買って私は一服し、煙の漂う指先を見つめていた。
まだ春先の緑の少ない辺り一面はさっきまであったことと全く違う穏やかな世界だったので私はほっとして、市松さんのことは暫く忘れてしまとうと思った。
散歩を終えて気分は一転し、帰る頃にはもうかなり暗く、私は夕ご飯を作らなくてはと思った。そして帰りがてらスーパーへ寄って二点三点具材を買うと、その足で足早に家に着いた。ビールを空けて、手早く米を研ぎ味噌汁を作る。一人暮らしの男と言うのはそつなもので、簡単に仕上げた手料理が御馳走だったりする。ビールを三缶も空けた頃、酔いも丁度良くなり、私は上機嫌で追加の炒め物を作っていた。
すると、背後からガタっと、ものすごい音と一緒に現れたのは近所の捨て猫だった。
その猫は、私が小次郎と呼んでいる猫で、いわゆるサバトラと言うタイプの柄をしている猫だった。片目が喧嘩で潰れているので剣術の達人に肖った名前でそう呼んでいたのだ。きっとこの日も匂いに釣られてやってきたこの猫は餌をねだりにきたのだろう。
「おい、小次郎お前、市松さんの帯紐を弄ったな!」
尻尾に触りながら私がそう聞くと、小次郎は、「ニャ」と答えた。どうやら小次郎も私の勘の通り違うらしい。私は乾燥棚を開けて猫専用の皿にしている縁がピアノの鍵盤のデザインになったお皿に煮干しを三つ取り出すと、もう一度小次郎に話しかけた。
「お前は楽でいいよなぁ、、」
今度は小次郎は答えず、餌の煮干しをガツガツとむさぼるように食べていた。
動物に話し掛けるのはなんだか恥ずかしいような気持ちもあったが、酔っぱらったその日の私には、市松さんのこともあって、心細かったので、猫が一匹いるくらいの安心感が丁度よかった。
その夜、私は夢をみた。
祖母が庭先で花の手入れをしている。足元には小次郎がいて戯れついている。祖母は花の手入れを続けていてこっちを見向きもしない。ぼやっとシーンが変わると市松人形が哀しそうな顔をしてこっちをみている。
はっと汗だくで起き上がると昼過ぎだった。仕事に遅れるかと思って焦って起きたが、今日は日曜日で、特別に焦ることはなかった。起きた後、直ぐに起き上がれず、金縛りになったような、妙な重さが身体にずっしりとのしかかっていた。
前にもこんな夢を何度かみたような気がして、私は軽い頭痛のままベッドから這い出して、コップ一杯の水を飲んでから、ふう、と深いため息をついた。どうやら祖母の遺品である市松さんは何か私に訴えることがあるらしい。
ニ
父方の祖父祖母共に私の物心つく前に亡くなってしまっていて、母方の祖母が寝たきりになったのは母方の祖父が亡くなってからのことだった。祖母は意識があるだけで殆ど、話は出来なかった。月に一度、花を変えに私は総合病院へお見舞いに行っていた。その度に私は病院の側にある花屋に寄っていたのだ。
実は、そこの花屋の店員さんが気さくな人で会う度に世間話や天気の話なんかをしたりするうちにいつの間にか私はだんだんと惹かれていた。偶然にも祖母が亡くなる前、最後に花屋に寄ったときに私は彼女を食事に誘ったのだった。
祖母の葬式が終わってからやっと落ち着いた週末のことだった。複雑な気持ちではあったが、私は花屋の彼女とデートだった。葬式では久しぶりに家族が集まって話したけれど、彼女のことはまだ内緒だった。
シフトがまばらな彼女に合わせてその日、私が予約したパスタ屋は駅から少し離れた場所にあるちょっと小洒落たお店だった。駅前で待ち合わせた私は緊張で、全身が震えて少し宙に浮いているみたいな気持ちだった。数分すると彼女は白いワンピースを着て花のように私の前に忽然と現れたのだった。花を片手に持っていて、私にポンと渡すと、
「これいつもお世話になってるから。」
と言った。
私は咄嗟の事で上手く返事が出来ず、
「ありがとう。」
とだけ不器用に伝えた。
彼女、名前をちひろと言った。
花屋で働いているときのネームプレートを見ていて私は知っていたのだが、長野県でちひろと言えばいわさきちひろをすぐ連想するくらい有名な画家がいる。前に彼女に直接その話をすると彼女は本当にいわさきちひろを尊敬しているらしく何度も何度も美術館に行ったと言う。その話をした時に私はいつかこの人とその場所へ訪れることをなんとなく予期していた。
二人でパスタ屋に着いたのは丁度正午だった。私たちは向かいあった席でお互い緊張しながら小声でお互いのことを話した。
「祖母のこと、ご愁傷様です。おばあちゃん、ずっとがんばったね。きっと天国へいけるわ、さっきのお花上げて下さい。」ちひろはやさしくそう言った。
「ありがとう。もう、葬式も終わって、やっとひと段落したところなんだ。初めてのデートなのにこんな話しになってしまってごめんね、こんなつもりじゃなかったんだけど。」
「こう言うことは仕方ないわ。人の死だけは選べるものじゃないじゃない。私たちきっとおばあちゃんのこともあって、引き寄せらせられたのよ。不思議な力ね。」
「そうかな、うん、ありがとう。」
私はぼんやりとちひろの力強い言葉に頷いた。店内は穏やかなジャスが流れていた。
この日を境に彼女とは私はそうゆうふうにだんだんと仲良くなってお近付きになっていった。彼女の表情や話し方、人間性が私にはぴたっとあって、彼女にとっても私はその同じサイクルの流れに合わさるよう感覚だったのだろう。ひとつの不思議な空気感が彼女の周りを漂っていた。
三
やっと新緑が綺麗になった五月の終わり頃だった。アパートにつくと彼女は窓際に飾った百合の花を水彩画で描いてた。
「いらっしゃい。コーヒーさっき淹れたから飲んで、キッチンにあるから、」
言われたそのコーヒーを飲みながらひちろの作業風景をぼーっと私は眺めて観ていた。
一本一本几帳面に並べられた絵筆と、絵具がマーブル模様に溶けた水入れが床に広げた新聞紙の上に置かれていた。木で出来た小鳥の置き物に名前の知らない植物の鉢植えが沢山あって、お花屋さんらしい彼女の家は心休まるインテリア選びが最高だった。
私は悉くその環境が好きで、ちひろの人間性も、こういうところから成り立っているのだろうと関心していた。アパートに着いたころ西日がカーテンに差し掛かっていて、まるでその光景は映画みたいだった。百合の花は少し枯れかかっていて、その描写が私にはなんとも上手に描かれているように見えた。絵については全く無頓着の私は素っ気なく聞いた。
「まだ完成は遠いの?」
それにちひろは頷いたので私は続けて聞いた。
「キリが良いとこになったら家に来ない?昨日カレーを作ったんだ。」
「いいよ、すぐ片付ける!」ちひろはぽつりと言った。
彼女には両親がいない。私はなんとなくそのことに距離を置きつつちひろとの仲を保っていた。付き合って間もないので、私はそのことはなかなか聞けずにいた。
ちひろのアパートから家は歩いて十五分程の距離にあって、二人で手を繋いで歩いた。
辺りはもう暗くなっていて近所の犬が遠吠えのように吠えていた。何年も彼女がいなかった私にはちひろの存在がとても大きな存在に思えた。だから、この幸せがいつまでも続くといいなと、私は手を繋ぎながら考えいた。
家に着くと市松さんがいつものように二人をむかえた。ちひろは他の人よりも霊感が強いらしく市松さんを少しも怖がらなかった。寧ろ、市松さん自体を絵に描いてみたいと言う程で、私としてはその話は興味深々な話しだった。二人で昨日のカレーを食べながら私は市松さんの話しをちひろに聞いてみた。
「ちひろ、市松さんのことなんだけど、絵に描いてみたいって言っていたけど、市松さん、動かした方が描きやすいな?」
「わたしはあのままでも大丈夫、携帯で写真撮るからそれ見て描けるわ、あと、市松さんわたしの家にいつも遊びに来るからイメージだけでも描けるよ」
と言う。私は驚いてその訳を聞いた。
「市松さんが、ちひろところに来るって、それってどんなふうに見えるの?」
「うーん。座敷童って言うのかな?上手く言えないんだけど市松さんみたいな影がわたしの所に歩いて来るのよ。ぼやっとしていてはっきりとは見えないのだけれどお花を揺らしたり、わたしの絵を側にいてずっと見ていてくれるの、機嫌の良いときなんかは話せるのよ!不思議でしょ?」
「それはすごいね、じゃあ市松さんは人形から抜け出してちひろの家に遊びに行ったりしていたんだね。それっていつ頃から?」
「わからないけど、両親が亡くなってからなの、顔のぼんやりした小さな女の子がわたしの前に現れるようになったの、花屋でも、アパートにいる時でも、いつ頃だったかなぁ、きっとあなたに会うようになった頃からよ。」
ちひろと私は不思議な感覚を共有してしまったと言う思いとその謎の影に暫く気持ちを寄せていた。その夜は小次郎は現れなかった。この間叱って以来、市松さんの話しをする時は近づいて来ない事が多くなっていた。猫にも霊感があるのだろうか?
四
工場には相変わらず淡々と通っていた。特別何も考えなくても一連の作業が出来るくらいには機械的に仕事が出来るようになっていて、私はいつか私のこの仕事さえ機械に取って変わって機械自体が出来る仕事のような気がしてならなかった。一つ一つカメラの部品を電子顕微鏡で点検しながら、私はそんなことを考えて毎日を過ごした。
ちひろに市松さんの話を聞いてからは工場でも私はその不思議な影を見かけないかと探すようになっていた。しかし、私にはちひろのような能力はなく現実の工場の機械達が無機質に音上げて働く様をただ漠然と見ることしか出来なかった。
そんな矢先、上司の藤本さんが仕事上がったら飲みに行かないかと誘ってきた。気づけば週も中日を過ぎて、残業前の疲れもあり私は藤本さんの誘いをすんなりと承諾していた。
帰りの運転でお酒は飲めなかったので藤本さんの飲みの席に付き合う形で、工場から割と近くの焼き鳥屋に入った。最近出来たらしい鳥平と言うなんともスタイリッシュな焼き鳥屋だった。中に入ると客は他になく、カンター席に通されると、おしぼりと水が二つポンと出された。藤本さんは生ビールを頼んだので私は烏龍茶をお願いした。
「はい、じゃあ、おつかれ!」
と藤本さんが言うのに合わせておつかれさまです。と生ビールと釣り合わない烏龍茶で乾杯を済ますと、わたしは灰皿を勧めつつタバコに火をつけた。
飲めばいいのにと小言を言うように藤本さんが呟くが、いえいえ、とあしらいその場をなんとか繋ぐ。
「ところで、彼女とかいるの?」と藤本さんが私に聞く。
「いますよ。花屋の定員さんなんです。」
「あ、いるんだ!」と藤本さんはニタニタとタバコを燻るらせながら笑う。
束の間、メニューを見始めて、
「なんか食べるか?」
と聞いて来たので私は表裏とメニューを見てから、控えめにまかない丼を頼んだ。
「そんなんで大丈夫か?もっとちゃんと食えよ、痩せてんだから、」
と言いながらその勢いで藤本さんはビールと焼き鳥を串で二つ塩でと大将に頼んだ。
焼き鳥屋でまかない丼の注文なら十分高カロリーな注文だと私は思ったが、特別そこには触れなかった。
「それじゃあその彼女と上手くやってんだ?」と藤本さんは茶化すように言う。
「いや、はい、まぁ。」と私はなんとも言葉を濁らせるように答え、私は会話繋ぎにこの仕事は長いんですか?と藤本さんに聞いてみた。
「俺は、この仕事ずっとだよ、そーだなぁ大学出てからだから三十年くらいは経つよ」
「そーなんですか」と私はなんとも不躾な返事をしたところにまかない丼が来た。
藤本さんは生ビールをもう一杯と言うと、もう一本タバコに火をつけた。その仕草かなんと渋かった。そのあと店主と話す藤本さんを尻目には私はそのまかない丼をそそくさと食べてその場を後にした。
家に帰るとちひろがいて、私はとても癒された。仕事終わりに上司の愚痴ともない飲みに付き合わされて、嫌な気分だったが、すっきりとその気持ちも洗い流された。
「遅かったね、、」ベッドに横になって眠そうなちひろ。
「ごめん、上司の飲みに付き合ってて。」
私はベッドに腰を下ろして、ウィスキーをロックグラスに注いだ。
「今日は小次郎がきてるよ。」と布団中からちひろは小次郎を引き出して私の方へ見せた。小次郎は居場所を退けられたことが嫌そうでくしゃっと変な顔を私にみせた。
「小次郎が来てるってことは市松さん出てこないんだ?」
と聞くと、ちひろはもう寝てしまっていてスースーと寝息をたてていた。
机の上にあった落書き帳には小次郎の絵と花の絵がいくつか、ささっと鉛筆で描いてあった。
花屋に勤める前は芸大で四年間も絵を習ってたと言うから、彼女は絵の道で才を伸ばしたかったのだろう、素人目に見ても捨てる絵が一つもないくらいに繊細なタッチと、絶妙な描写でまるで、モノそのものがそこで生きているかのように鮮明に捉えてどの絵も抜群の感性で絵描かれていた。
白黒ですら上手なのに、水彩画を描くと彼女の才能はそれはもう本当にすごくて天国があるなら、こういう風景だろうと思わせるくらいの淡い、どこまでも透き通った黄泉の国を表してるかのような、そんな素敵な世界観だった。きっと市松さんもそう言う不思議な世界と一線近いあの世や冥界といった世界に通じていて私たちにいつもメッセージをくれるのだろうと私は深く感謝しながら感じていた。そんな思いもあって、祖母の花好きが高じてちひろに出合せてくれたんだろうと改めて想い、私は小次郎と眠っているちひろを感慨深く愛おしさの目で見つめていた。
五
週の終わりから六月だった。梅雨入りははっきりせずに天気は不安定だった。おまけに天気予報もはっきりせず、私は心身の調子がすこし悪かった。ちひろは市松さんのデッサンを始めていて、私はぼーっコーヒーを飲みながらその様子を横でずっと見守っていた。
写真を見ながら鉛筆と消しゴムを交互に走らせるちひろは真剣になって、鋭い切れ目の眼差しを向けながら、だんだんと市松さんの振り袖の柄を書き出していく、顔は見たままの市松さんを見事に描き出していた。雨の音が月曜日からずっと週を跨いで続き、ちひろは私の家で二十号のキャンバスに向いながら何度も何度もデッサンの修正をしていた。ちひろの表情は真剣そのものだった。アパートから持ってきたイーゼルの高さを変えながらちひろは言った。
「この間また、わたし、市松さんみたよ、この家の天井を逆さまになって雑巾がけしてた。広い家だから、今度掃除した方がいいかもね、取り憑かれちゃうよ?」
「あれ?変だな、僕も同じ夢みたんだ。うん、掃除しよう。障子なんかも、破けた所を直さなくちゃって思ってて、古い家だから雨漏りもしているんだ。この雨じゃ市松さんも不安だよね、、」
私は二人の空いたコップを流し台へ片付けて、タバコを一本くわえたままこの住み慣れた家屋を見回すように市松さんをみた。市松人形は変わらずにその少し微笑んだような表情のままだったが、何故か暗い顔付きの印象は変わらなかった。ちひろの言う通り、何処かお祓いでも頼んだ方がいいのだろうか?と疑心暗鬼した。
「少し休憩しましょ、コーヒーまた淹れるわ、友達がクッキー焼いたのくれたから持ってきたの、」
ちひろは特別これと言って怯えることもなく、のほほんとしていた。天然気質なのだ。
その彼女の独特な雰囲気が部屋の中の空気と同調して大きな呼吸をしているようだった。私は何か大きな前触れの様な気がしてならなかった。雨はどんどんと強く激しくなっていた。
「わたし、市松さんの絵は、油絵で仕上げようと思うの、わたしが画材を買っている画材屋さんで見かけたんだけど、今、油絵のコンテストを開催しててね。それに応募してみようと思うのよ、慣れない画材だからちょっと不安なんだけど、、」
「それはいいね、締め切りはいつまでなの?」
「7月の末が締め切りなの、夏の暑い時期だからきっと絵の具も早く乾くと思って、、」
私の暗い気持ちの反面ちひろはとても明るかった。やる気に満ちていて、目が輝いていた。特別趣味もはっきりとしない私は何かやらなくてはとむしゃくしゃしていた。雨は変わらず、降り続いていた。私は市松さんへの想いで念頭が重かった。
六
翌週も雨が振り続いていた。ちひろは油絵のセットを私の家に持ってきていて、いよいよ本格的に市松さんを描き上げるみたいだった。その間に、私は市松さんの秘密について母との電話で新しく知ってしまったことがあったので、ちひろに話したくてそわそわしていた。
「洗濯物乾かなくて嫌ね。」
ちひろが小次郎を構いながら外を見ていった。
「そうだね、あのさ、市松さんのこと金曜日に母に聞いてみたんだ、すごいことがわかったよ。」
ちひろは二回瞬きをしてなんだか嬉しいそうにした。
「やっぱり、何かと奥ゆかしいのね、市コさん」
市松さんを変な風に呼ぶのが可笑しくて、私もちひろと一緒に笑った。
「それでね、実はあの市松人形は僕の姉の為におばあちゃんが寝た切りになる前に買ったものなんだって!」
「え、でも、じゃあどうしてお姉さんの所にいないの?市コさん。それって変なの?」
「姉は東京にいるから引っ越しの時に持って行けなかったんだよ。」
「そっかぁ、それで市松さん置いてかれちゃったのね。」
「あ、、、」
ちひろが飾った百合の花弁がポタリと花芯から力なく落下した。二人ともそれ見ていたからなんだか不思議だった。
「もしかしたら、おばあちゃん、まだたくさん家族に伝えたいことがあったのかもね、」
ちひろは萎れた百合の花弁を手にしてくるくると回しながらそんなことを言った。
「うん、きっとそうだと思う。僕はちひろみたいに霊感とかないからよくわからないんだけど、、」
「わたしだって、そうよ、ちゃんと霊感がある訳じゃないの、でもね、わたし仕事でたくさんの人とお花の話をするから、そう言うことってなんだか、感覚的にわかっちゃうの、花っていろんなプレゼントの仕方があるでしょ?お祝いだったり、卒業式の贈り物だったり、お葬式の大事なお花だったり、その場を彩って引き立てたりするの、だから、わたし、おばあちゃんの気持ち少しわかるような気がするんだ、」
ちひろはそう言うと泣き出してしまった。
ポロポロと涙を溢しながら、抱えていた全てを吐き出すように、それは蕾から花が咲くときの不思議な力のように、溢れてくる感情が抑えられなくて、私もとても哀しくなってしまった。ちひろ大丈夫だよ、と私は繰り返し伝えて、彼女の頭を撫でた。きっと両親のことで酷く心を痛めているんだろうと私は思った。ちひろの両親は昔不慮の事故でに亡くなったと私は聞いていた。彼女の哀しさは市松さんが放つ夜の闇の中で見かける哀しさによく似ていた。その夜、彼女は泣き疲れるとぐっすりと眠ってしまった。
梅雨が明けた頃、私はちひろと二人で『いわさきひちろ美術館』でデートだった。蝉が鳴き始め急に日差しが強くなった長野県は本当に心地のいい風が吹いていた。いよいよ夏が始まるそんな空気だった。
美術館に踏み込んだ途端に私はいわさきちひろさんの世界観にどっぷりと浸ってしまった。 どの絵も、夢の中を歩くような子供たちが描かれていて、私は息を飲むように一つ一つの絵をじっくりと、鑑賞した。
花の絵はちひろの描く絵にそっくりだった。
と言うよりも、ちひろの本人の絵がいわさきちひろさんの絵に感化されいて描かれてることに私はとても感心して、ちひろには本当に世界がこういう風に見えているんだろうな、と改めて尊敬してしまっていた。
この日、私は本当に来てよかったと思いながらお土産の葉書きを記念用に厳選して三枚買った。館内は家族連れで賑わっていて子供があちこちに沢山と戯れていた。とても心地の良い午後だ。
「どの絵がよかった?」
一通り見終わったあとにベンチに座っているとちひろが聞いてきた。
「そーだなぁ、花の絵と海の絵がすごくよった。なんだか、どの絵もすごすぎて、選べないなぁ、、」
と言うとちひろはくすっと笑って言った。
「実はこれで、私これで三回目なの、来たくないって言われちゃうかと思って黙ってたけど、まさか私、市コさんまで来るとおもわなかったから嬉しい。」
「え、市松さん来てるの?それは僕も嬉しいな、どこどこ?」
と私が聞くとちひろは腕をすっと伸ばして売店の方を指さした。
「さっき、絵葉書買った時からあの辺りにいるのよ、帰りもちゃんと連れて帰らなきゃ、」
とちひろは市松さんの母親のように言ったから、私はなんだか可笑しくて笑ってしまった。
ちひろにはいわさきちひろのさんのような世界観で世界が見えていて、市松さんが目の前にいるのだと思うと私はなんだかちひろの言う通りな気がしてならなかった。
そこにいて、絵を鑑賞した後だから余計に私はちひろの感性がよくわかった。目に見えない不思議なものの世界がこの世と一線をひいていて、絵のようにある世界が私は真実味を得て美しく思えた。その力強さが私の中に実感として脈打っていた。
「ちひろ、今度絵を教えてよ」
私は興味本意でそう言った。
「絵に興味持ってくれて良かった。連れてきた甲斐があるよ。じゃあ、帰ったら一緒に模写しようよ!」と言って笑った。
いつの間にか二人の共通の話しになって市松さんはいつでもそばにいることを私は不思議に思った。きっと守護霊ってやつなのかな、と私は身を持ってこの時思った。
家に帰ってから、ちひろに教えてもらって今日買った絵葉書を見ながら花の絵を模写をした。私は学生時代以来に絵を書いたので、なんだかとてもその行為が魔法のように感じられたのだった。
七
工場には相変わらず通っていた。夏になって新しく海外からの発注が大量に入って、残業が毎日三時間も入って心も体もすっかり疲れてしまっていた。同じ部署の的場さんはお茶目な二回り歳上のおじさんで何処からか、新しい発注品の情報を仕入れてきたらしく、上機嫌で話しかけてきた。
「おい、この今作ってるスコープは全部アメリカに輸出されて、戦争に使われるらしいぜ、俺たちがこうやってちまちま作ってるうちに何年後かにはこれで俺たちも打たれてお釈迦って訳よ!」と爆笑しながら的場さんは言う。
彼は夜はコンビニの品替え用のトラックの運転手をしながら、休みの日となるとめっきりキャバ嬢に貢いでいると噂の変わった人でそう言った飛躍した話が大好きだった。
日本で戦争に使われるような武器を毎日千個単位で製造してるなんて話は内通者しか知らないだろうと思うと私は怖くなってしまった。
実際、それの行き場はわからなかった。銃社会ではない日本人は平和ボケしているが、海外ではそう言うものが普通に流通していると思うとこの世の中のシステムは良く出来ているな、と私は感心してしまった。例えそれが猟銃用であっても命を奪うものであることには変わりない。私は無機質な機械が命を消してしまうようなものを作り出していることに物凄い恐ろしさを感じた。
私がこうして何千何万個と作り上げるスコープは一体何処へ行くのか、一体はそれはどれくらいの命を奪うものなのか、計り知れないその恐ろしさに取り憑かれながらも私は機械とその狭間を息苦しくも、黙々と働くしかなかった。
不条理さと理不尽さを抱えたまま私はある種の使命感を持ちながらそれを作ることに血と汗を握る思いで臨んでいた。機械はこの先人間とどのような折り合いを作って生きていくのだろうか?エーアイが問題視されるニュースなんかが余計に私のストレスを倍増するよだった。
「今日も残業やってくの?頑張るじゃん。」
的場さんは機械越しに私に話掛けてきた。
工場内はダストの音や機械が動く音でノイズだらけだった。私は極力、日常で楽しかったり嬉しかったりすることを考えるようにしていた。そうでもしないと身が持ちそうになかった。新入りや同僚が何人も辞めていく中で過酷な仕事だと思いながらもこの夏もなんとしても乗り越えなくてはと言う思いが強かった。機械は無機質にボタン一つで動くと私の人生を端から切り刻むように刻々と奪っていった。私は残業を終えると一目散に家へ帰ってちひろの温もりを感じた。
八
ちひろがいなかったらと思うとこの世は本当に地獄だったかもしれない。夏の暑さで私は全くやる気が起きず、休みだと言うのに真っ昼間からビールを飲んでちひろの絵を描く様を見ているだけだった。小次郎もこの暑さで反応が悪く、家の中の一番涼しい場所を探してはゴロゴロとしていた。
油絵で描かれる市松人形はどんどんと輪郭がはっきりしていってまるでそこに市松さんがいるみたいだった。私としては、ちひろが絵を描き始めて以来、玄関先の市松さんは仄暗い顔付きから何処となく明るい顔付きに変わったらような気がして、気分が良かった。
「どうかな?」
イーゼルから少し離れて、縁側に腰掛けて酔っ払った私に屈んでちひろが聞いてきた。
「少し休んだ方がいいと思うよ、一旦休憩しよう、また違う見方が出来るだろうからさ、それにビール飲もうよ、」
と言って私は彼女の頬に緩くなったビールの缶を近づけた。
「ありがとっ、でもね、お酒はいいや、わたし、早く完成させたいんだ。背景何がいいかな?」
この暑いのにちひろは夏生まれのせいかと半端なく元気だった。
私は台所に立って自家製の梅酒のソーダ割と梅のジュースを作って居間に戻るとちひろに手渡して言った。
「背景は松がいいんじゃないかな、ほら外の玄関にある一番デカい木!松の木なんだけど、風情があっていいんじゃないかな?」
「それ!それいいね!あーそーか全然考えてなかった。やっぱ冴えてるね。すごいよ、ありがとう、わたし全然思いつかなかかったよ。」
梅ジュースを机に置いて氷がカランとなった。
夏が通り過ぎてゆく感覚が私とちひろの間に空気として流れていた。
その空気は軽くも重くもなくて、心綺楼の様なもやもやをぐにゃぐにゃに引き伸ばしたような不思議な空気だった。
昭和の初期からある古い型の扇風機が首を揺らす度にその夏の魔物は私達の周りを確実に取り巻いていた。その感覚は市松さんが発する不気味さとはまた、別のものだった。この家に昔から居ついている見えない存在があるような気がして、私はその感覚をどうしてもうまくちひろに伝えたかった。
「ちひろ、今日花火しようか?去年買ったけどやってないやつが家にあるんだ。」
「そう言うのってよくないよ。この家、ただでさえ何か篭ってるんだから、お祓い以前に物の片付けをしなくちゃ、おばあちゃんが悲しむよ。」
「そうは言ってもなぁ、ほんとんど、この家にあるものはおばあちゃんの遺品で家族もみんな手が付けられなくて困っているんだよなぁ、」
「そう言われるとわたしも何もいえないよ、、」
「ごめん、」しゅんとしたちひろを見て私は居た堪れないきもちになったが、特別何が出来るわけでもなかった。
南風鉄の風鈴がなった。
りーんと澄み渡った音がながーく一回。二人の気分の悪い重苦しさを遮るように。ちひろも、ごめん。と言った。
私はそれで思い出した。
「あのさ、今思い出したんだけど僕、数年前に片付けをしていて陶器で出来た般若の面を壊してしまったことがあったんだ。それ以来取り憑かれてしまったような気がするんだよ。」
ちひろはすーっと目の色を変えて言った。
「それ聞けてよかった。やっぱりお祓い言った方がいいよ。家に篭ってるものきっとそれだわわたしも調べてみるから、安心して、大丈夫よ。」
私はお酒の酔いがすっきり覚めてしまって、なんだか体が寒むかった。急な夏風邪になったかのように身体がガクガクと震えた。ちひろは心配して私の肩をやさしく揺さぶった。
九
その週、私は高い熱を出して仕事を休んでしまった。何日も高熱が出て夜は鬱蒼とした夢に魘される日が続いた。
「小次郎、俺もう駄目かもしれない、立ち直れないよ、」
夏風邪なのか、身体を壊して以来、小次郎はずっと私の側にいてくれた。
動物の本能が私を何かから守ってくれいるような不思議な気さえした。
般若の面のことを思い出してから私はその執念に幾度となく魘されていた。ちひろは花屋の仕事で一切会えなかったので私にはその数日間が何年も経ったかのように長く感じられた。私はその夜、また悪夢に魘された。
霧深い深山を私は一人きりで歩いていた。呼吸が安定せず背後から何か黒い塊りのようなものがもやがかってやってくる。私はそれを払い除け逃げようとするがどんどん闇に吸い込まれそうになる。体が硬直して動かない。金縛りだ。私の上にはおばあちゃんが乗っかっているような感覚が確かにあった。息が出来ず、私は力いっぱいもがこうとするが全く体に力が入らない。
気付くとおばあちゃんだとおもったその人は般若の面をして私の首をぎゅうぎゅうと締め付けようとする。そして凄まじい勢いで、
「ぎえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ、」
と雄叫びを上げたかと思うとものすごい光が溢れてだした。
私は汗だくでベッドからずり落ちるとやっと動けるようになった。酷い頭痛がして、これはまたやって来ると私は思った。ベッドにはさっきまでの山姥は居なくなっていた。あまりに汗をかいたので熱は下がっていた。私は大急ぎでシャワー浴びて、ちひろに電話をかけた。しかし何度コールしても繋がらない。実家へ掛け直したが。そっちも繋がらなかった。力なく私は小次郎だけが頼りだった。そのあとは山姥は現れず、小次郎を抱えてなんとかその夜はやり過ごした。
翌朝、朝一で来てくれたちひろにその話の一部始終を伝えるとお守りを買ってきたから持っていてくれと言う。有名な神社のお守りだから効くと言うので私はそれを大事に肌身離さず持つようにした。ちひろは私が高熱を出してからは市松さんの絵の背景を書き出していた。背景の松は大きく存在感のある描き方だった。庭にある松の木そのもののようだった。
「姨捨山なんて通って毎日仕事に行くんだもんね。それはちょっと病んじゃうよ、仕事の話も本当だとしたら気を病まない人はいないよ、」ちひろはもうずく完成に近い市松人形の絵を見ながら言った。
市松さんの絵が仕上がっていくに連れて、私はすっきり山姥の夢に魘されなくなっていた。
と、言うよりあの日以来、山姥は何処かへ退散してしまったと思いたかった。きっと小次郎が何処かへ連れてってくれたのだろうと私は思うようにした。そもそも小さな頃から私も霊感があるわけではなかったが、ちひろはやっぱりその山姥は私が姨捨山から連れてきてしまった全く知らない老婆の悪霊だと言う。ちひろは本当に霊感がどんどんと増しているようで、市松さんを描き上げてより一層霊力が強くなったような気がした。市松さんの絵はいよいよ、作品を梱包すると住所を書いて、あとは送るだけだった。ちひろが一連の作業を終えてから二人で宅配便に絵を持って行った。
「油絵、乾かなかったらどうしよかと思ったけど期限に間に合ってよかった。」
ちひろはそうやって安堵すると両手を空に伸ばして伸びをした。
たまっていた何が吐き出されるような不思議な感じがした。選考までは一カ月間。私とちひろは心待ちにして、その夜は花火を一緒にした。ちひろの絵もひと区切りした所で次の週は海へ行こうと約束をした。
十
夏も本番になった七月の後半だった。その頃になると、ちひろはアパートを引き払って私と同棲を始めていた。海へは私の家から車で直接新潟へと高速に乗って上越まで走った。
ちひろは上機嫌で気になるものがある度に指を刺してあれは何?あれは何?と、子供のように聞いてきた。
ちひろのそう言うところはちょっと世間一般の人からしたら知恵遅的な要素もあったけれど、私にはそう言うちひろの姿がいつもより愛おしくかわいらしく見えたのだった。
二時間も車を走らせると海岸が見えてきた。カモメが、二羽ぴゅーっと通り過ぎて行った。
「海だ!」
ちひろと私の声は重なってハモった。
車を駐車場に停めるとちひろは颯爽と車から降りて、早く早くと私を急かした。せっかくの三連休だったので民宿まで予約して取っていたので私達はちょっとした旅行気分だった。
旅行の時、ちひろは簡易的な水彩画のセットを持ち歩くらしく。今回も泳げないちひろは絵を描くのが楽しみだと、行きの車の中で話していた。
浜に降りると波の音がまざまざと聞こえた。地球が丸くて、他の国との繋がりを持った海。日常の嫌なことも、大きな哀しみも全て海は悠然と飲み込んでくれるみたいだった。海を見ていたら、自然とそんな気持ちになれた。
砂浜に降りると、ちひろは持って来た画材道具を広げて、ふんふんと鼻歌を歌いながら海のスケッチを始めていた。空が澄んで青かった。大きな入道雲が浮いていた。
彼女は何処にいても絵を描くことで人生を人よりも楽しんでいるように私には見えた。と言うより、マイペースでそう言う才能が自然とあるひちろを私は羨ましく思った。
「ちひろ!僕は海岸沿いに端っこまで歩いてみるね!絵描き上がったら後で見せてね!」
「うん!わかった!気をつけてね。」
ちひろは頷いて手を振った。
麦わら帽子をかぶっていたから、いわさきちひろが描く女の子みたいだった。砂浜について、私も心からうきうきしていた。長野県は隣接する海がない内陸の県だからか、尚更、久しぶりに海が見れることが嬉しかったのだ。
びゅうびゅうと吹く砂浜の風は心地が良かった。私は裸足で歩きながら貝を探した。波の満ち引きが繰り返す中、光に照らさせてキラキラ光る貝を手に取っては吟味して、気に入ったのがあるとすっと上着のポケットに入れた。
形のいい流木なんかも沢山落ちていたので、私はその中の一つを杖にして歩いた。海藻や、海月の死体、蟹の甲殻、イカの脊椎、その他の色んなゴミが打ち上げられていた。だいぶ歩いたので私のところから見えるちひろは豆粒程のサイズになって遠くの方にポツンと見えた。
カモメが私の頭上を通り過ぎる。私は座って一服した。煙がたなびく。遠くの方でイカ釣り船が見えた。
水面は穏やかでキラキラ光り続けていた。拾った貝は結構な量になっていたが、私はもう少し先まで歩くことにした。
岬まで着くとそこには小舟が浮かんでいた。中を覗くとそこには何故か日本人形が寝ていた。私は驚いて、少し近づいて見ることにした。
家にある市松人形に似ていたが、よく見ると顔立ちが違い着物も日に当たって褪せていて、見窄らしかった。日が傾きかけていたので、私はなんだか怖くなって、一目瞭然にそこから逃げるようにちひろの所へ戻ることにした。波が日中より激しく打ち返して海が荒れ出した。私の周りを何匹もの海猫がニャーニャーと泣き出していた。
足早に元ちひろがいた場所に着くと彼女はのんきに缶ビールを飲んでいた。絵を描き終えたらしく、結構、酔っ払っていた。私がさっきあったことを話すと、ちひろもそれは危険なやつだ、と言うので私達は二人して大急ぎでその場所を去ることにした。ちひろいわく何かの亡霊らしい。
予約していた民宿に着くと、安い所だったので、想像以上にボロかった。いかにもお化けが出そうな民宿だった。私達は二人して、目を合わせ、大丈夫かな?と不安気になった。とは言えちゃんとした名前のある民宿なので、その後、宿の人に聞き、近くの海鮮居酒屋を紹介してもらった。
その海鮮居酒屋は民宿から歩いてすぐの所だった。お店には大きな魚拓がいくつも飾ってあって店内は常連客から、旅行者やらで賑わっていた。海の近く独特な匂いがした。ちひろと私はとりあえずビールで乾杯するととりあえずお刺身の盛り合わせをと生牡蠣を二つ頼んだ。
「夕日見れなくて、残念だったね。」
「仕方ないじゃん、また変な亡霊に取り憑かれたたら大変だよ。」
あの穏やかなちひろが、今回ばかりは本気で同様しているみたいだった。海辺の亡霊は流石に
「海の絵みせてよ!」
「こんな感じ。」
と言って持ってきたスケッチブックを私に見せてくれた。その絵はなんとも素敵な絵だった。一枚ずつ海だけでなくちょっとしたものが描かれていて絵葉書になりそうだった。いわさきひちろの絵よりも海がより一層リアルに描かれていた。青の使い分けがすごく綺麗だった。
「すごい!やっぱり上手だね。これどの絵みても売れるよ!」
気付くと。ちひろは抜け殻のようになっていた。先に飲んでいることもあり、早々に酔いが回り過ぎてしまったらしい。仕方なく、早々とお会計を済ませるとちひろを支えながら民宿へ戻った。夜の海辺は潮の香りでいっぱいだった。
十一
翌朝、私はその民宿ではすっきり眠れたが、ちひろはあまり良く眠れなかったらしい。この日は二人で水族館へ行く約束をしていたので、朝から民宿のあるとこから水族館まで車を走らせた。私はここの水族館へ来るのは二回目だった。
子供の頃、家族と一緒に来たのが初めての記憶としてあった。その時もイルカショーを見た記憶が微かにあって私はちひろとイルカショーを一緒にみていたらデジャ・ヴュに襲われて急にノスタジックな気分になってしまった。子供の頃の感性で見るイルカショーと今見るイルカショーに対しての相対性的な感覚が妙にリンクしてしまって妙にに時の流れを感じてしまった。イルカ達の遊泳が子供頃と全く同じだったからか、そんな感覚になったのだろう。
ちひろはイルカショーを見るのは初めてだったらしく飛びっきり興奮していた。デジカメのシャッターを何度も切り、絶妙なイルカのポーズを写真に押さえていた。隣で見ていた私はちひろの写真の芸術的才能にも感動していた。彼女の視点や構図の撮り方は芸大を出てるだけのことはあるな、と感心されられるくらいの腕前があった。
イルカショーが終わると二人で水族館の中を見回った。一番大きなガラスのエリアに行くと。ちひろがどうしても絵を描きたいというので二人でベンチに座ってこの日はずっと水族館にいることにした。
ちひろは持って来たスケッチブック一杯に魚をスケッチしていった。その一匹一匹を描くのが上手で、水中と絵の中が一緒になって、私も水の中にいるような錯覚がした。その感覚はもう夢の中のようだった。ふわふわする感覚と共に私達は二人、水族館の中を魚達と一緒に泳いでいるみたいだった。
その感覚が何時間も続いたのはきっとちひろが創り出す独特な空気感がそうしたのだろう。あんまりにも長い間、水族館の中にいたから、目に見えるものが青色ばかりで気持ちがよかった。ここにずっと居れるような気さえして、ずっとここにいたいと思った。
体の感覚がなくなって、海と一つになるような、まるで魂が人には本当に存在してその形がはっきりとわかるような気分にさえなった。その時間が二人には天国にいるようだった。ちひろはスケッチブックの最後のページまで描ききると、満足したみたいで、私に抱きついてきた。とても例えようのないやさしさを感じた。
「お腹空いたね。」
「そう言えば朝から何にも食べてないね。」
「帰りにお寿司食べようよ?」
「え、ラーメンがいいな。」
「あ、それすごくいいな。」
水族館の館内にふるさとの曲と閉館のアナウンスが流れ初めた。人足はもう殆ど無くなっていた。私達は時間を忘れてほぼ一日中水族館の中にいてしまった。夏を通り過ぎる人達がすれ違う感覚が私達の回りを軋めいていた。その時、何故だか無性に今年も夏が終わるのだと私は確信してしまい、ただ泣きたくなった。平凡な会話が愛おしかった。来年もまた海に来ようと思った。
十二
新潟から二泊三日の小旅行を終えて戻って家に着いた次の日、私はちひろと一緒に拾った貝を洗って良いものを更に厳選した。
「巻貝って耳に当てると波の音がするんだよ?」
ちひろが拾ったきた大きな巻貝を私の耳に近づけてそう言った。私がその貝を手に取って耳に近づけると『ざぁーざぁー』っと言う昨日まで聴き慣れた音がした。
ちひろは私にそのことが教えられたことが嬉しかったらしくやけにニヤニヤと微笑んでいた。
その巻貝は後々、市松人形の横に置くと言うので、並べてみるとなんだか収まりがよかった。
私は同時に、にっこりとする市松さんの表情を再確認して安心した。海に行ってから、岬にあったあの意味深な日本人形のことがどうしても頭から離れなかったのだ。
家の市松さんとあの人形を比べると持っているオーラ事態が全然違った。物にはそれが放つ独特なオーラがあると言うことを私はこの時改めて感じて神妙な感覚に浸っていた。
私の回りにはそう言った超常現象みたいなことが常だったから、現に市松さんの帯紐がうごいた時も、私は一人きりだったのでポルターガイストか、座敷童の仕業としか言いようがない。私はその実態を解明したいと日頃から思っていたが、実際、こう言うことは解明のしようがないと言うことを私は肌身を持っ知った。それに加えて、ちひろは実体が見える上に話まで出来ると言うから興味深い。
明くる日、小次郎がいないことにちひろが気付いて二人して、家中を探し回った。しかし小次郎の気配は何処にもなかった。猫は死に際を人に悟られないようにすると言うから、本当に何処かへ行ってしまったのかと心配になって近所まで散策して探したが、小次郎は一向に見当たらなかった。
近くでは夏祭りらしく、しめ縄に紙飾りが飾られて、町内は心なしか賑わっていた。祭り囃子の練習が夕方になると聞こえきて、より小次郎が心配になっきた。
「小次郎帰ってこないね、神隠しにでもあったのかな?」
ちひろは寂しそうにぽつりと、いった。
「気分変えて、西瓜でも食べよう、、そのうち出てくるよ。」
「そうだといいけど、、大丈夫かな、小次郎。」
ちひろはいつになく心配そうだった。
それから小次郎は八月の暮れまで一切顔を見えない日が続いた。
その日は丁度、ちひろが絵を応募したコンテストの結果発表の日だった。
なんと朝から小次郎が庭先の松の木の上で「ニャーニャーニャーニャー」と鳴き続けているではなないか。
あまりにも珍しい光景だったので私は急いでちひろを起こすと、ちひろは寝ぼけ眼のまま、後で絵を描くからとデジカメでパシャパシャと何枚も写真撮っていた。すると小次郎は降りられなくなったのか鳴き止んで恐る恐る下を見ていた。三十分しても降りて来ないのでちひろと私は心配して、直ぐに庭師をやっている小谷さんと言う人に電話をしてきてもらった。
たまたま仕事の空き時間だったららしく、軽トラックで駆けつけてくれた小谷さんは二台から脚立を下ろして松の木にかけて小次郎を救出してくれた。
ちひろは「ありがとうございます。」と小次郎を抱き抱えて受け取ると、そおっと地面に下ろしてあげた。
「この猫、名前小次郎っていうのか!助けられてよかったよ。この猫さぁ、家にもよく来るんだよ!電話もらった時近くで仕事だったからよかった!」
「そうなんですか!忙しい所、本当に無理言ってしまってすみません。」
「いや、それより猫に怪我がなくて何よりだよ。だけどもこの木もう駄目だね。切らないと危ないよ!松食い虫にやられちゃってるよ」と小谷さんが言う。
「え?この松の木ですか?」
「もう、中まで虫が巣食ってるから駄目だね。」
「そんなに深刻だとは思いませんでした。全く気づかなかったです。」
「きっと猫が教えてくれたんだな!もう何年も生きてるから化け猫だと思ってはいたけど、近々切った方がいいよ![#「!」は縦中横]」
「小次郎、小谷さんの団地の方にも出歩いているんですか。」
それで、最近見かけなかったのかと思っていると、小谷さんはその後も仕事があるからとお茶を出す間もなく現場へ行ってしまった。
松食い虫の被害についてはポストに入っていたチラシでなんとなく気にしてはいたが、まさか家のシンボル的な松の木が切らなければいけないことになるとは思ってもみなかったので私はショックをうけた。このことは小次郎が命をかけて教えてくれたんだろうとしか思えなくて私もちひろも唖然としてしまった。
小次郎を救出してひと段落して午後になってから二人でコンテストの会場に向かった。
艶やかな女性の肖像画が金賞と貼られてあり、その隣でちひろの市松人形の絵は銀賞と貼られてあった。私は感動してしまい上手く言葉に出来なかった。銅賞と貼られていたのは二頭の馬の絵だった。その三点以外にも応募作品が展示されていて、二人でゆったりと鑑賞することにした。全部見終わるとやはり大賞の三つにはそれなりの説得力があるなと私は思った。
「わたしの市コさんが本当に銀賞でいいのかな?もっといい絵沢山あるじゃん!」
「大丈夫だよ!ちゃんと厳選された結果だから!ちひろ本当にすごいね!」
「わたしてっきり普通に落選すると思ってたから嬉しい。おばあちゃんにも感謝しなくちゃ、、」
「このあと何処か、喫茶店に行こうよ、お祝いになんか奢るよ!」
普段はあまり行き慣れない喫茶店に入るとちひろはクリームソーダを頼んだ。スプーンをくわえて子供みたいにニッコリしていたから本当に来て良かったと思った。
「入賞おめでとう!」
「ありがとう。まさか自分が入賞すると思わなかったからびっくりしたよー!」
「本当にこう言うことってあるんだね。僕も驚いたよ。」
「やっぱり市コさんすごいパワーあるんだって!物凄い守護霊が宿っているんだよ!」
「初めは疑ってたけど、ここまでくると本当に守護霊がいること、僕も認めざるを得ないなぁ、、」
「でしょ!そう言えば、あれから山姥には魘されなくなた?」
「海に行ってからは特にこれと言って心霊的なことはないから大丈夫だと思うけど、今朝の小谷さんの話はびっくりしたなぁ。」
「本当だね、でも小次郎が見つかってよかった。入賞したこと教えてあげなくちゃ!」
ちひろといると不思議なことも段々と受け入れられる私がいたが、実際には言葉では言い様のない怪奇現象ばかりが起きているような気がした。この間も私は幻聴かも知れないが誰かに話掛けられるようなことが多くなっていた。喫茶店を出るとちひろが近くに由緒正しい神社があるからお参りに行こうと言う。
その神社には鳩が沢山群がっていた。『鳩の餌五十円』と言う張り紙があったので私とちひろは鳩に餌をあげることにした。餌の豆をちひろに渡すと写真を撮る間も無く大はしゃぎで鳩と戯れていたので私笑ってしまった。そのあと礼拝通り頭を下げ鐘を鳴らすと二人でお参りをした。
「ちひろは何を願ったの?」
気になった私は聞いてみた。
「家族の健康!あと入賞のお礼も伝えた!わたしが渡したお守りここのなんだよ!」
というので持っていたお守りを見ると同じ神社の名前が書いてあった。どうやら長野県内でも結構なパワースポットらしい。私はそこを離れる時もう一度深くお辞儀をしてその神社を後にした。
十三
工場では相変わらずスコープを作り続けていた。自衛隊の訓練用にしても可笑しな数だと私は疑い初めていた。
夏の間、休憩中は地下の荷物運搬用の通路が風通しが良くて一番涼しかったので一服したあと私はそこで休憩時間を過ごすことが多くなっていた。工場の中は粉塵で空気が悪かったが、そこだけは空気が綺麗だったのもあり心地よく休めたのであった。
その日は何故か藤本さんも的場さんも定時で上がってしまった。工場には私と同じ派遣社員が数名残っているだけだったので工場はがらんとしてしまっていつもより静かだった。一時間も機械を回していると妙な気分になった。人がいないのに工場の中に誰かいるような気がするのだ。その影がこっちに近いて来たり遠ざかったりする。私はその感覚が残りの一時間も続いたので怖くなってしまった。きっとまた姨捨山から変な霊を引き連れてしまったのだろう。その霊は姿を表す訳ではなったがそれから一週間程ずっと居ついていた。私はお守りを持っていたことでなんとか救われたような気がしたが、その時は本当に身震いがして、脈拍数も少し上がっていたと思う。しかし、姿は表さないのだ。遠くから見張られている様ななんとも言えない感覚がより一層気持ち悪かった。一体何なのだろうという気持ちで週末まで働いていたら派遣会社の社員の一人が亡くなった。その話を社員の噂で私は知ってしまった。元々欠勤が多く、社員の間では妬まれる様な存在だったので社内では小さな騒ぎになった。その一件があってから私は自分の霊感がなんだか本当に強くなって来たような気がして怖くなってしまった。なので私はいよいよお祓いを頼めるお寺を小谷さんに聞いて紹介してもらった。
十四
その週末、私は散らかった祖母の遺産の沢山ある土蔵の片付けをしていて、釘の刺さった藁人形を見つけてしまった。誰が一体こんなことをしたのだろう?と疑問に思ったが、私は晴れてやっとこの呪いが消えるんじゃないかと思って少し安心した。それと、もうこれ以上こんなことはないだろうと思った。それにしても藁人形を作ってまで呪いたい人がいたなんて一体どんなことがあったと言うのだろう?事の真相は本当に闇の中だった。
その日はお祓いをお願いしていたので十時には片付け終えると私は身支度を済ませてお寺へ向かった。
その御寺への道は姨捨山よりも険しい山道で高低差のある凸凹道が続いた。一見すると天狗でもでて来そうな深山なので運転に気が抜けなかった。自宅から二時間もした頃だろうか、やっとお寺らしい建物が見えてきたのであった。
駐車場に車を停めると、まず立派な門構えが目に入った。木造で古く、年季がはいっていた。
動物をあしらった彫物がしてあってそれがなんともその辺り一体を落ち着かせるような空気を放っていた。中へ入ってゆくと、お待ちしておりました。と一人の僧侶が出てきて、そのまま本堂の方へ通された。
本堂の中は煌々とお日様が差していた。暫く待っていると白い髭面のご住職が出てきて、言った。
「君はあれか、小谷君の紹介で来たらしいね、それでどんな訳だね?」
「はい、実は悪霊に取り憑かれているらしく、金縛に魘されるのです。これと言って何か原因がある訳ではないので私自身困って、相談に来ました。」
と言うと先程の若い僧侶がお茶を持ってきた。
「まぁ、とりあえず、お茶でもどうぞ!」
暫くすると、その白い髭面のご住職が立ち上がって私の周りの様子をぐるっと一周みてまわった。
「端的だが、お祓いをしてみるか。」
そう言い放つと本堂の奥の方に行くので、私は待つことにした。初めてのことなのでなんだか身構えていたが、自然とお寺の雰囲気のお陰かリラックスしていた。そして白い髭面の住職が紙のついた棒を持ってくると
「目を瞑っていなさい」と言うので私は目を瞑ってそのお祓いを受けた。
すると数分後、太鼓の音がして、正座している私の周りを何かが踊るように動き始めた。そのあと実際に体が浄化されていくような感覚があったので、私はこれは効果があるな、と思った。
二十分か三十分だっただろうか、お祓いは終わったらしく、私の全身の力は何故か抜けてぐったりとしていた。それは何か、本当に取り憑かれいたものか去ったような不思議な感覚だった。
「今晩は危ないから、泊まっていきなさい。」
と言われて、私も流石に断わる訳にはいかず、お言葉に甘えさせていただきます。と言って泊めて頂くことになった。
その夜、はお寺で精進料理のような食事を頂いた。お祓いをしてもらったこともあり、いつもより頭がスッキリとしていて、心から清らかになったような気がした。
十五
翌朝、これでもう、魘されなくなるだろうと、何やら大層なお札を頂き、お寺を後にした。
また、長い凸凹道を崖を気にしながら運転をした。こんなに山奥にお寺があること自体不思議だったけれど、しっかりとお祓いが出来たみたいで私は意気揚々として家に帰った。
家に帰ると、ちひろは沢山の種類の花を生け花のようにして、絵を描いていた。また新しいコンテストへ向けて絵を描くみたいだ。
「お祓い、どうだった?」
デンッサンの下書きをしながらちひろが聞いてきた。
「ああ言うのって本当に紙振るんだね。最初はちょっと嘘臭いとおもったけど、一泊してきたらやたらスッキリしちゃってさ。なんだか体軽いよ。」
「え、やっぱりあのイメージ通りの紙振るんだ。ドラマみたいだね。」
ちひろはくすくすと少し小馬鹿にするように笑った。実際にお祓いを受けた私ですら笑ってしまいそうになったくらいだから仕方ない。とは言えまぁ効果があればそれで良いのだ。
「次の絵描いてるんだね、感心感心、」
「今度は花の絵のコンテストなんだ。市松さんの絵は銀賞だったからこの調子でまた賞取って有名になってやるんだから!」
ちひろは前回のコンテスト以来、以前にも増して絵に力を入れていた。本格的に画家としての道を歩んで行くようだったので私は傍でそっと応援することにした。お祓いを受けてからの私は、生まれ変わったみたいで、何もかもがリンクしていて、繋がっているようだった。
花や植物が生きているのがリアルに感じられた。その生命力の力が私にも手に取ってわかるような気がした。ちひろがいつも絵で描いて伝えたがっているような芸術の本質性や、その奥に潜む深い感性、精霊や霊体などと言った不可思議な力の根源を私は目の前にしているような、新鮮な気分だった。宗教的に表現するのであればカースト性の階級が少し上がって徳の高い僧に近くような、そんな複雑な気持ちにさえなれた。ただ日常に潜む何かの気配だけは変わらなかった。私は自分の霊感を信じて、更にそれを研ぎ澄ます事にした。
翌日、小次郎がバシバシと凄い音で部屋中を駆けまわるかと思うと雀を取ってきた。これも何かの予兆なのかと私は疑ってしまった。何から何まで事がシンクロしていくとつい何か自分に特殊な力があるような錯覚に陥ってしまうが、この時は私も何故か不思議な力があるような気がしてしまった。丁度その日、夏祭り当日だったのだ。
「ちひろ、小次郎が雀取って来ちゃった。」
「え、わたし今朝その雀触ったやつかも?弱ってたのかな窓際にいて触れて話せたの、でも見せようと思ったら何処か行っちゃって!」
「すごい、そんなこと出来るのちひろ、なんて言ってたの?」
「もうすぐお別れだから悲しまないでって言ってた。」
「そしたら小次郎食べられちゃったのね。」
ちひろは本当に不思議な力を平然と発揮するから私はそれを信じた。ネット調べると、猫は飼い主の身を心配すると飼い主に狩りを教えるように餌を取ってくることがあるらしい。私はその話には何か信憑性があるなと思った。
私はちひろを慰めてから、一緒に雀はちゃんとお墓を作って埋めてあげた。
午後になるとお祭りの太鼓が鳴り出したので、ちひろは浴衣をきて私を急かした。ちひろの浴衣姿は市松さんに似て可愛らしかった。
お盆と言うこともあり、通りには沢山の人が賑わい始めていた。これがこの辺りでは夏の最後のお祭りだ。家から歩いて行ける所の神社のお祭りなのだが、毎年このお祭りの時は花火が上がる。川沿いにかけて人の波がわっと押し寄せる。
七時になるといよいよ花火が上がった。屋台から漂うイカ焼きや牛串の臭いが食欲をそそった。ちひろはどうしても金魚救いがやりたいというので、花火が上がる中、私はちひろの手を引いて神社の境内の方を目指して川沿いに歩いた。
すれ違う人が屋台からの煙りに隠れて揺れ動く様が亡霊のように見える。私はお祓いをしてもらったばかりなので、いつもだったら見えないものもクリーンに見えるような気がしていた。花火は一旦止まってアナウンスがスポンサー企業を紹介する。ちひろが綿飴の屋台を見つけたので、私たちはその場で綿飴を買って次の花火が上がるのを待った。
お盆にもなると私は毎年霊魂のようなものが見えるような気がした。それは煙りとは少し違うぼやっとした光の塊のようなもので毎年このお祭りの頃にはさ迷える魂を見かけるのだ。人混みに紛れて妖怪や幽霊がいるような感覚はきっと本当なのだろう。寧ろこう言う昔からの習わしが余計にそう言ったものをリアルに浮き彫りにするものだな、と私は考えていた。
タバコを一本吸い終えると、花火は再開した。沢山の花火は空にけたたましい音と共に激しく散った。
「きれいだね!」
上を見上げるちひろの輪郭が花火に照らされる。
「きれいだね!金魚救いの屋台あるかな?もう少し先に行ってみようよ」
夏の風物詩として儚いもの程風情があるけれど、金魚救いはその中でも私は昔から好きだった。金魚のひらひらとした遊泳は花火を観る人々が徘徊する様に似ていて美しく感じた。
「金魚も絵に描くんだ!お祭りって何描いても絵になりそうだから大変!」
ちひろの感性で世界をみることが出来ないことが残念なくらいに私はちひろからの目線で今のこの光景をみて見たかった。彼女には一体どんな風に世界が見えているんだろう。ちひろの世界観に立って私も風景を写真に収めたくなった。
私の予想通り、金魚救いの屋台は神社の境内にあった。思ったよりも人集りがあって賑わっていたので二人でその列に並んだ。小さな子供も大人も一生懸命になって金魚を追うこの感じが私はとても好きだった。己の集中力との戦い。ちひろと私の番がきて二つポイを頼むと二人して金魚に挑んだ。
「どうすればいいかな?」
「水面に浮いてきたとこをさって取るんだよ!端っこに追い詰めるのもいいかも!」
私は大人気なく、もう既に集中していた。割と動かずに居座っている大きめな変わった柄の金魚を選んでそいつだけを狙うことにした。バシャっとギリギリのところを逃げてポイは破けてしまった。
「惜かったね!どれ追ってたの?」
ちひろも私が狙っていたやつを取ろうと仇討ちに向かうが、結局取れなかった。深追いすると本当にドツボにハマってしまいそうなのであと一回だけやることにした。ばっと私はさっき追っていた琉金をとった。その調子で二匹取れた。ちひろはお大喜びだった。
「金魚救いって本当に取れるんだ。」
ちひろは単純に感動していて、嬉しそうだった。花火はもう後半に差し掛かっていた。目的を果たせたので私達は家に戻る路地へそれながら帰ることにした。
家に着くと、ちひろは小さな金魚を水槽へ移しかえて絵を描き始めた。なんでもすぐに形にしてしまうところがすごいなと私は関心した。ビールを開けて一服すると小次郎がやってきた。
「小次郎!金魚食べちゃダメだよ!」
ちひろと金魚と小次郎。私はただこれだけで幸せだった。他に何もなくていいと思った。なんともいえないその安息を私は大事に閉まっておきたいとすら思った。
十六
月曜日からまたいつものように出勤だった。社員が死んだ噂は本社の中でも広まりつつあった。的場さんも同じ派遣社員だったので「あんな奴、死んで当然だ。」と暴言を吐いていた。あれから社内は自粛ムードが進みなかなか、情報が入ってこなくなった。急に発注が無くなったのも何か因縁があるのかもしれないと、私は考えたが、それはちょっと話が肥大化し過ぎたかも知れないとも思った。その日の休憩中、的場さんがタバコを吸っていると変わった話を聞かせてくれた。
「俺は昔、トラックの走り屋やってたんだけどさぁ、昔は真夜中交差点とか警察に捕まらないようにライト消して走ってたりしたもんだよ。トンネンルの長い道なんかはやっぱ出るよね!後ろの方から生首がついてくるんだよな、それがバックミラーにだけ写るの!あれが怖いんだよなぁ、深夜運転してるとトンネンル出るまでそれがずっと続くんだからさ!今じゃ考えらんないよな!」
と言って的場さんは爆笑する。その物言いだからきっと本当なんだろう。私もたまに通るトンネンルだから少し怖くなったが、本当にそんなことがあるらしい。
機械での作業は淡々と流れ作業で続いた。派遣会社の社員が亡くなっても、かわらずに動く機械に私はなんだか相変わらず怖さを感じていた。機械によっては巻き込まれたら指を一瞬で飛ばすような物もあるらしい。そんな話を的場さんから聞いてこわくなり、派遣社員とは言え私は身を引き締めてまた仕事に臨むことにした。
その週の金曜日は障子を貼りたかったので私は残業を断って早めに切り上げた。家に帰るとちひろはコンテストの絵の続きを悩んでいた。私が障子を貼るのを手伝ってくれないかと相談すると難なく受け入れくれたので二人で障子を張り替えることにした。
「小次郎が破ったところもあるからな!」
「そのくらい許してあげなよ。」
「今度は許さないからな!」
手始めに私は古い障子を剥がそうとした。するとちひろが私の手を止める。
「今日いるよ。今、その障子から覗いてる!あ、あっちいった!」
と指を差す。お祓いをしてもやはり市松さんは現れた。私はなんとなくそんな気がしていたが、やっぱり私の目には見えない。ちひろの方が霊感が強いから当然だ。
「ちひろ、そっとしておこう。」
「うん、市コさん手伝いたいみたい!」
障子を全部綺麗に剥がして、新しい障子をぴったりと合わせて貼っていった。ちひろがいなければきっと上手く貼れなかっただろう。障子貼りは意外と難しかった。市松さんが現れて私は何故か逆に安心してしまった。
次の日、夏に撮った写真を整理していると心霊写真に気付いた。ちひろが前回のコンクールで銀賞を取ったときの日の写真だった。遠巻きに神社を撮った写真なのだが、手振れをしていてやたらと人影が写り込んでいる。私はこんな写真撮った覚えはなかったので怖くなってすぐにその写真は捨ててしまった。その後にお祓いに行っているからこれで全て抹消出来ただろうかと私は一抹の不安を覚えた。
十七
お盆も過ぎて少し肌寒くなった頃、小谷さんが庭先の松の木を切りに来てくれた。私としては何年も見慣れた巨木の松だったから名残り惜しさでいっぱいだった。
「やっぱりこの間来たときより侵食されてるよ。早めに気付いてよかった。」
と言いながら、小谷さんは庭師が使う個人用のクレーン車を使って上の方がらチェーンソーで松の木をどんどんと切っていった。その仕事っぷりが見事でちひろも私もただただ口を開けて見ているだけだった。
切られた残骸はまとめて森林の人に引き取ってもらい、あんなに存在感のあった松の木は一日にして切株となってしまった。
この異変に始めに気付いたのは小次郎だったから、もしかしたら小次郎は木の寿命も知っていたのかもしれないと思うと不思議だった。
そもそも小次郎がいなくなった時、ちひろは真っ先に気付いて心配していた。それを思うとちひろと小次郎にはやっぱり特殊な力があるのだろうと考えるしかなかった。小次郎は長生きだから祖母のこともよく知っているんだろう。私はこの時になって改めて、花の手入れをする祖母と小次郎の夢が気になった。とは言っても猫は人の言葉を喋るわけではないので、いくら餌をあげて尋問しても「ニャーゴ」としか返事が帰って来ないのであった。
松の木を切り終えて小谷さんはそのあと家でお茶を飲んでいった。
「今回の一件は猫の小次郎のお陰だなあ!増えてるんだよね、松食い虫の被害。」
と言いながら小谷さんは小次郎の頭をわしゃわしゃと撫でた。
小谷さんの言う通り実際松食い虫の被害は絶大だった。私の勤めてる工場の近くもかなりの数の松の木が枯れて伐採されてしまっていた。
「それでさ、松食い虫対策用殺虫剤の空中散布の反対の署名お願いしたいんだ!」
と言って小谷さんは書類にサインを求めたので私は手早く名前をかいた。
「もう、ここまで拡大しちゃうと止めようがないんだよな、福島の原発事故以来、森が自ら再生しようとしているんじゃないかって思うよ。」
小谷さんはいつになく真面目に言った。確かにそうなのだろう。人一人では出来ることは限られているが、小谷さんの言うことを聞いているとその話には一貫した説得力があり、なんだか賛同せざるを得なかった。森に精霊がいて、大地を修復していると聞くとなんだかファンタジックな気がした。
「大木には結構纏わる話があって、切ると人が亡くなる場所とか、駐車場の変な所に大木があって神木だから切れないとか、面白い話しがあるんだよね。俺は庭師だから木の事はそんなに本場の林業の人程わからないけど、木はやっぱり年輪の分、物事を知っているんだろうね。」
そうやって小谷さんは変わった話をいくつか聞けせてくれると、お茶ご馳走様。と言って丁寧に頭を下げて帰っていった。
十八
松の木がなくなって玄関先の風通しが変わってからちひろは花屋の仕事をやめてしまった。私はそのことを心配しながら仕事へ通っていたが、家に帰る度にちひろが迎えてくれる環境に安心感を感じるようになった。
「私、画家として食べてくわ。この間受賞して以来自信ついたから!」
「大変だろうけどちひろにはその道がきっと向いてるよ!」
ちひろは既に新しく生け花の絵を大部分の下書を終えていた。今回から水彩画にタッチをかえて描くらしく私は期待している。
「この上からお祭りで取った金魚が泳いでるみたいに描くの!」
「もう、それ聞いただけでイメージからしてすごいや。僕だったら絶対そんな発想ないから、やっぱりちひろは天才だね。一端コーヒー飲んでまた休憩しようよ!」
長野は秋口の肌寒い風が吹き始めていた。ちひろに出会ってから丸二年になる。そろそろお互いの関係性も深くなったので私は結婚も視野に入れて付き合っていかないと、と少し焦りがあった。ちひろの方はもしかしたらプロポーズを待っているかもしれないのだから。
「お祓いしてもらってから魘されなくなったね。」
ちひろがなんの気なしにそんなことを聞く。私はここ最近のことを思い出してみるが、めっきり魘されなくなった。一時は毎晩のように夢に重苦しい何かが出てきたが、それがなくなったのも、ある種ちひろのお陰なのだと思う。
ちひろがこのまま画家として絵描きを志してくれるのは私は本当に嬉しかった。ちひろは影が薄く感じる面もあって私はとてもその純粋な透明さが気がかりだった。やっぱり両親を早くから亡くしたことが大きいのだろう。私は踏み込みがたいその話を聞いてみたい気持ちになっていたが、まだ何処かで焦らなくていいと、声が遠くから聞こえるような気がしたのだった。
十九
花屋の仕事をやめてからはちひろは私のお弁当を毎日作ってくれるようになった。それで気づいたのだが、ちひろは料理も何気なく才能があるのだ。私とは全然味付けが違うのだが薄味の中でも食材を美味しく活かした調理法をとるので、私は惚れ直してしまった。これはひょっとするとお祓いよりも効果があるんじゃないかと私は思い始めるくらいだった。
「ちひろすごい、料理上手なんだね。」
私は仕事から家に帰って真っ先にちひろにそのことを伝えた。
「そうかなぁ、有り合わせで作ってるだけだよ。」
「いつも、ありがとう。」
「なんか、いつも元気ないからさ、料理だけでも支えられると思うとやる気でるよ!なんか悩んでることない?」
「悩み事かぁ、そうだなぁ、あ、この間お祓いに行く前土蔵の片付けをしてたんだ。そししたら藁人形みつけちゃってさ!なんか気になってるんだよね。」
「え!こわい!どーしてそう言うこと黙ってるのよ。ちゃんと言ってよ。相談になれるのに!」
「そうかなぁ、そうは言っても祖母のはもう亡くなってるから、確かめても仕方ないと思って」
「お母さんには聞いてみたの?ちゃんとそう言うことは聞いてみないと駄目だよ。人間生きてる時じゃないとなんでも聞けないんだから!」
「そう言えばそうだった!ぼけっつとしてたよ今度、電話しみるよ。」
「今度じゃ駄目。今電話して、そう言うことはちゃんとして!」
ちひろはいつになく真剣になって怒っていた。彼女の普段みない側面なので私はびっくりした。女の勘と言うやつなのだろうか、私は少し冷やっとしながら彼女の話を了承して、母に電話をかけた。
タバコに火をつけて、コール音を二回、三回とすると母が出た。
「もしもし?」
「もしもし、僕だけど母さん。」
「あ、久しぶりどうしたん?」
「急で悪いんだけど変な事聞いていい?」
「どうしたの?子供でも出来た?俺々詐欺なら受け付けていないよ。」
「違うよ、あのさ土蔵の片付けをしていたら藁人形みつけちゃって、怖くなちゃってさ」
「え?私の親がそんなことする訳ないじゃないの?お前怖がりだねもっとちゃんとよく見たの?」
「いや、そう言われても。」
「きっとあれだよ、釘の先端が危ないから藁に刺して保管してあっただけよ!あんたはやとちりなんだから!そんなことで電話してこないでよ。」
「ああ!そうか!やっとわかった。そう言うことか!じゃあ呪いじゃなくて藁人形でもないんだね![#「!」は縦中横]」
「そうよ、何疑ってんのよ。それより彼女出来たの?早く嫁でもとって安泰して欲しいわよ。」
「それが、今付き合ってる子いるんだ!」
「なんだ、そう言うことは早くいいなさいよ。よかったじゃない。たまには実家にも帰ってきなさいよ!」
「うん、ありがとう。悩みが一つ解決してよかった。また連絡するね!」
「はいよ!またね。」
タバコ一本吸い終えるまでの一瞬の通話だった。こんなに一瞬で謎の呪いが解けた上に、ちろと付き合ってることを公言してしまったことを私は変に思った。が、目の前でちひろは全部聞いていたから爆笑していた。藁人形が勘違いの上に母に自分のことを電話越しにでも言ったことが嬉しかったのだろう。それにしても対象物が藁なだけになんて紛らわしいのだろう。見方が変わるだけで藁と釘は道具と呪術品とぐらいかけ離れた物として見間違われてしまうのだから怖いものだ。その時は私も過労で病んでいたのだな、と考え直し結果なんにしてもお祓いの効果は絶大なようだった。
「それじゃあ、やっぱりおばあちゃん悪くないじゃん。誰も呪ってなくてよかったよ」
「ちひろの言う通りはやく電話してよかったよ。ずっと謎の呪いに悩まされるところだった。やっぱり物にはその人の念が残るね。」
「そうだね、あとは市コの念だけが気掛かりだね。」
「今度紅葉を観に行こうよ!市松さんのことについてまた何かわかるかも知れないからさ」
だんだんと秋に近付いてる。その夜はちひろの作ったハンバーグを二人で食べた。ほっこりとやさしい気持ちになれた。
二十
落書きで簡略化されて描かれる市松さんは黒目にキノコ狩りの頭をしたかわいらしい絵だった。そう言う風にちひろは何も無いとこをじっと見ては何か物体を捉えてそれを現実にある様な表現でキャンパスの中にそれを描いた。いわゆる抽象画と言うやつだ。その洞察力は研ぎ澄まされていて、本当にそこに霊体がいる事を私にもわかるようなくらい写実に描くので毎回のように驚かされた。
家の中で読書をしたりするのが趣味らしく、良くその描写を見かける。ちひろは絵に描いて私にも見えるようにその存在を教えてくれるので、実態として見える市松人形とは少し違ったものなのかもしれないが、彼女にはそれがはっきりと見えているらしい。
物がなくなった時なんかは市松さんに頼むとすぐ出てくるよと、ちひろが言うので、私もお願いしてみたら割とすぐに見つかったことがあった。それも、何故こんなところにと、言うような、少し変わったところにあったりする場合が多いから不思議だった。
ちひろは両親が亡くなってから急に霊感が強くなってしまったらしい。それまでは見えなかったものが見えるのが普通になるまで、そんなに違和感はなかったと言うから大したものだ。
私は段々とちひろの心の傷を癒したいと思っていた。それは市松さんの見えない哀しみに通じるものがあったからだ。人は誰でも言いたくないとこの一つや二つお腹にしまっているものだが、果たして私にちひろの哀しさがわかるだろうか。その日はなんとなく自然にそのことが聞けるような気がしていた。
「ちひろ、両親の亡くなった時のこと聞いてもいい?」
「いいよ、わたしも話しておきたい。」
ごくっと息を飲むと、部屋の中の空気が重くなった。ちひろは手に持っていた水彩絵の具のついた筆を水入れに置いて椅子に腰掛けると長い前髪をかき分けて頭を抱えた。
「実は私の両親、死ぬ前に書き置きがあったの。」
ちひろは大きくため息をついた。
「それじゃあ死因は、心中?」
私はそうやって聞くのが精一杯だった。ちひろの持ってる禍々しいその感情の揺れは表現のしようのないくらい強いものだった。彼女の背負っている全てを向けられて肩代わり出来るだろうかと私は気合いを入れて思案しながら次の言葉を待った。
「保険かけたまま二人で車事故で死んじゃったの。手紙にはちひろは頑張って生きてって書いてあって私はその手紙、捨てたの。二人の気持ち全く分からなくなっちゃって、何度も何度も理解しようとしたけど駄目だった。わからなかった。だから私、振り込まれてきたお金だけ、たくさん貰ったわ。全然嬉しくなかったけど、殆どお葬式に使っちゃった。それから私、長野に引っ越して来てお花屋に勤め始めてたの。それであなたに出会って、、」
そこまで言うまでにちひろはボロボロと泣いてしまって涙が止まらなかった。溢れる涙を止める術が私も見つからなかった。一緒になってただ悲しかった。私はちひろの手を取って寄り添った。
私はその夜、ちひろの秘密を知ってしまった。ただ、そうなることが当たり前の事実のように私の前にそれは突きつけられていた。
花は枯れていく。ただ、花が花であるように。その営みは何にも変えられなくて、自然と生きている一つの流れでしかなかった。私はちひろを強く抱きしめた。私はここにいるよ。と強く抱きしめて伝えたかった。
二十一
九月の中頃だった。ちひろは生け花と金魚の絵の下書きを終えて細かい部分の筆入れをしていた。夏と同じ格好ではもういられないくらい長野は寒くなっていて遅れて来た台風が上陸しつつあった。私は家の周辺の風で飛びそうなものを徹底的に片付けて、小次郎も家から出さないように気をつけていた。小次郎は目を離すとすぐに家の中でかくれんぼしてしまうので、なかなか見つけられなかったが、一先ず台風の中雨に打たれる心配はなくなった。
「風強いね。雨漏り大丈夫かな?」
「間に合わせで風呂桶を下に置いてるけど、一時間おきくらいには変えないと水、溜まっちゃうんだよね。」
「天然の砂時計だね。」
「そんな、呑気なものじゃないよ、深刻なんだから!」
「雨漏りくらい大目に見ないと今回の台風は大きいからなんかあると思うよ。」
「ちひろがそう言うと天気予報のニュースより信頼性があるな。窓にも板打ったいいかな?」
ちひろが引っ越してきてからは市松人形は成り行きで居間に移していた。それと言うのも玄関だと客人に会う時市松さんが嫌そうな顔をするから家の中へ入れてあげてとちひろが懇願したからだ。大雨の音が響くなか、居間でちひろはパレットに絵の具を広げてじっとキャンバスに向かって集中していた。
私は隣でそれを鑑賞しながら一時間ごとに雨漏りの風呂桶の水を捨てていた。何故か大風が吹くと市松人形が微かに揺れるのを私は見ていた。雨音は次第に強くなって本州まで台風は上陸したようだった。風と一緒に雨が海辺の波のように『ザーッザーッ』と数回にわたって押し寄せた。
「小次郎、何処いっちゃったかな?そろそろコーヒーにしようか?」
時計は午後の三時を過ぎる頃だった。ちひろが絵から目を離して市松さんの方をしばらく見続けていた。その時だった。物凄い大風が来て家が軽く揺れたかと思うと庭先の木が『バキバキバキバキバキ!』と音を立てて薙ぎ倒された。その時、白い光が部屋中を包むような気がした。
ちひろと私は雷が落ちたかと思うほど驚いて二人で身を屈めていた。
「庭の木が薙ぎ倒されちゃた!」
「こっちまで来てたら窓割れてたね![#「!」は縦中横]」
「白い光見えた?」
「うん、見えた!」
庭の木が薙ぎ倒されてから風はぴたりと治まって、雨も次第に弱くなっていった。二人して謎の白い光に包まれたショックで動けなかった。
「光ったよね?雷?」
「ううん、わたし市コさん見ていたら何か来ると思って、そしたら白く光ったから市コさんが守ってくれたんだよ」
私は今し方その様子を見ていたことを思い出して、その光は確かに市松人形から溢れ出した光だったことを思い出した。
「そうだ!僕はちひろの方見てたから光ったのは確かに市松さんの方からだった!」
「守られちゃったね。」
外をみると庭の木は無残にも薙ぎ倒されていた。玄関先の松の木がなくなってから強い風が吹くのはこれが初めてだったからだろう。
「ちひろ、これ何の木かな?」
「多分ポポの木だと思うよ。」
「へーよくわかるね。また晴れたら片付けないと。」
「実がなるからもう少しで食べられるんだけど、わたしも見るまで気づかなかったな。」
「本当だ。なんか実がついてる。」
その実はバナナのようなかわいらしい見た目の実だった。私は晴れるのが急に楽しみになって家の中で調理法なんかを調べてみた。日常のふとしたことから発見があることに私はなんだか嬉しくなった。ちひろは花屋さんに勤めていたこともあるから植物にはやたらと詳しかった。
花言葉や心理的効果、風水なんにも知識があったので私は常々感心していた。それにしても白い光はなんだったのだろう。ちひろの予知通りまた一つ不思議な体験をしてしまった。
翌週、台風はすっかり過ぎていい天気の日が続いていた。私は薙ぎ倒されたポポの木を鉈で伐採すると束ねて薪にした。そして、実の収穫に成功したのだ。
外側の見た目は緑色のその果実は包丁で切ると中は黄色で南国のフルーツのような香りがした。ヨーグルトに入れて私はちひろと一緒に食べてみた。
「おいしい。台風が来なかったら食べられなかったと思うとすごいね。」
「本当だよ。ちひろのお陰だな。奥の方にもう一本木が残ってたから何年か経ったらまた食べられるよ。」
その実は独特な味だった。近いもので言うとアケビのような味がした。アイスやムースのように加工してもよさそうな味だった。
二十二
いつのまにかちひろの絵は背景に絵の具が塗られて、あと金魚の色を塗るだけだった。あともう少しと言うところだったので完成にかけて血が漲っているようだった。
今回の作品はなんと言っても透明感がすごかった。この夏に起きたことを一枚の中に封じ込めたようなそんな不思議な力がこの絵にはあった。既にちひろの等身大の霊魂が絵と一つになった勢いのある作品だった。私は完成までに一体この絵がどんなふうに見違えるだろうと楽しみで仕方なかった。
「よくそんなに上手に描けるね、尊敬するよ。」
「私は絵描きとして食べてくって決めたんだから当然だよ。花屋もその為に辞めたし、強く思わなくちゃそのイメージには辿り着けないから。例えどんなに辛くても私は絵を描き続けるわ。これは死んだ両親にも約束したんだから!」
ちひろは前にも増してやる気に満ちていた。私に話したことで両親のことの哀しみの比重も軽くなってくれるといいなと思った。彼女は連日徹夜で絵を描いていたから少し痩せてしまっていた。ちひろ自身の魂が絵に向いて、描く作品にその熱量が込められていた。画家と言うのはここまで自分の魂みたいなものを削って一重に作品を作り出すものなんだなと、私は心底感銘を受けてしまっていた。そのものが訴える声が聞こえるような気さえした。
ちひろは少し窶れたのもあって私は身体を壊さないか心配だった。コンテストまではあと一週間を切っていたのだ。それでも何処かにちひろは大きな余裕があるようにみえた。それはもう既に画家としての力量を身に付けていて、その才能が彼女自身を覆っていたからだろう。だんだんとちひろは話しかけ辛いくらいに集中力が高まっていてまるでその空間だけ時間が止まっているみたいだった。繊細な線が幾つもの鱗を書き出していく。ともて常人では真似の出来ない技だった。
「お茶煎れたからちょっと休んだ方がいいよ?」
「うん、ありがとう。」
珍しく茶柱が立っていた。
きっと何かいいことがあると思った。外を見ると秋の紅葉がどんどんと進んでいた。ポポの木が薙ぎ倒されてしまったので視界に入る風景が変わってしまってなんだか変な感覚だった。
その夜、遂にちひろは絵を完成させた。金魚に鮮やかな赤色が入って絵から飛び出しているようだった。その目には力があり。恰も生きているようにこっちをみていた。自分が少し小さくなって絵の中に入り混んでしまったような錯覚が起こる作品だった。花は白と藍色のグラジオラスの花だった。庭先にある花をちひろが前提して飾ったものだった。
「ちょっと前の夏にいるみたいで、この絵を見てると不思議だなぁ」
「ふふふ、思ったより上手く描けたの。」
ちひろは満面の笑みで笑っていた。その日はもう遅かったので発送は翌日にすることにした。
二十三
梱包して前回と同じように郵送でコンテストに作品を送った。
「今回のは自信作品だから結果が楽しみだ!」
仕事を終えたちひろはエネルギーに満ちていた。家に帰ると次は等身大の小次郎が描きたいからとデッサンをはじめた。
小次郎はちひろの前でいつになく大人しくしていた。餌をあげているのはいつも私なのに、ちひろに懐いているみたいでなんだか悔しかった。その日は絵を描いて貰っているからかやたらと上機嫌で何度も「ニャーニャー」と鳴いてちひろに甘えていた。
しかし、ちひろが描きたいポーズと違うらしく、そのうちにちひろは嫌気がさしたのか投げ出してしまった。どうやらちひろは人物画は苦手らしく、人を描いていることを余り見かけたことがなかった。とは言えいつもの生活に私くらいしか会う人がいないと思うと不思議はなかった。
「ちひろは人物画は描かないの?」
「私苦手なんだよね。小次郎全然こっち向いてくれないから少し待つことにした。」
「一応、小次郎も動物だからね。人のようにはじっとしていられないよ。コーヒー煎れるから待ってて。」
私は台所へ行くと手早くコーヒーを煎れてちひろに渡した。
画家の道は険しいと思った。描く対象はなんにしても、その人が描いたそれがその人の絵として他者に伝わるには何年も積み重ねた努力が必要だろう。ちひろはそう言う世界に足を踏み入れていた。個性が絵に出るくらいの画家はやはり世の中でも評価が厚く、ぱっと見の印象で割と名前が出てくるものだった。
ピカソやゴッホなんかは絵に感心のない人でもある程度ポピュラーに受け入れられてる画家だろう。ちひろの絵はその点まだまだ若かった。それでも何を書いても楽しそうなちひろが私はとても尊敬出来る存在だった。
夕方になるとちひろはスケッチブック二冊分のスケッチを終えていた。なんとしてでも小次郎を描こうとするひちろのその執念みたいなものを私は強くかんじた。念じる力とはなんと強いものだろう。その力が作品を生み出していく根源にあることをちひろは目の前で教えてくれているみたいだった。
ちひろが頑張っているから、私は料理をもっと頑張ろうと思っていた。実の所、今の仕事はもううんざりしているので辞めてもいい頃だろうと私は思っていた。貯金も大分溜まったし。何か新しいことを見つけるには一歩を踏み出さなければと、私は想い悩んでいた。いつまでも市松さんの御加護に頼ってはいられないのだから。
その日私は台所の掃除を端から徹底的に済ませた。普段手の届かない換気扇の汚れや、ガス代の隅々まで思いつく限りの掃除をした。台所はピカピカになり風水上も良くなっただろうと私は一安心して一服した。
煙が綺麗になった換気扇に吸われていく。毎日が普通に訪れて、毎日が平坦に流れていく、私は何処かに逃げ出したかった。ちひろがいるのに何故か急に物凄く孤独を感じてしまった。普通でいることが普通になってしまって怖かった。私はその気持ちが抜け出したくて、渾身のペペロンチーノを作ることにした。全身全霊のペペロンチーノ。ちひろが魂をかけて絵を描くみたいに私も何か本気で作ってみたくなったのだ。
ニンニク二つを丸のまま包丁の平で潰す。もう二欠けは微塵切りにする。それをフライパンで焦げないように油の中でじっくりと火を通していく。唐辛子を入れてその後パスタの茹で汁で一気に乳化させる。醤油だけでさっと味をつけたら。茹で加減を見てから、パスタを湯から切って、軽く炒めたら完成だ。
「ちひろ!ご飯出来たよ!」
「はーい、今行く!」
居間からちひろの声が台所まで響く。その時だった。廊下を小さな女の子影が通り過ぎていった。ついに私にも座敷童が見えたのだ。
「ちひろ!僕にも見えた!市松さんと同じ女の子!」
「本当?わーすごいパスタ!」
「ペペロンチーノだよ!」
なんともない会話だった。それが日常で普通だった。料理は上手く出来たし、ちひろも大喜びで食べてくれた。私はきっともっと何かに打ち込んだ方がいいのだろうと思った。自分にとって出来ることを着実に形にしていきたいと思った。さっき見えた座敷童はその力の現れなんだと私は思った。ちひろみたいなちょっと上の能力がある人に私は簡単には慣れないけれど、私は私なりにその力を身につけていきたいと思った。簡単なちょっとしたことが人を変える力があるし、ちょっとしたことが大きく世界をかえるのだろう。今日、料理をしていたらそんな風に私は心から感じた。
それからちひろと相談して私は工場を辞める手筈を整えた。辞めるまではあと一カ月働き続けないとお給料は出ないが、仕事を辞めるとなると妙に私は楽観的に物事を捉えれるようになった気がしていた。実際家では料理に集中できたし、自分の時間の方を優先して日々の生活を送ることが出来る方がいいと考えるようになっていた。
私は気づけば料理が相当好きになっていたので工場を辞めたら料理人になろうと決意していた。独立までは長い道のりだろうけど、ただ人に使われる仕事よりも、自分からやりがいのある仕事をした方が私自身の為にいいんだと思うようになっていた。この考えはちひろが私にくれたものだから私はこの感性を大事にしたいと思った。
二十四
良く晴れた秋晴れの日、私とちひろは紅葉を見に行こうと出かけることにした。二人でお弁当を作って湖までやってきた。ちひろは今回もまた画材道具一式を持ってきていたので何処で絵を描こうかと二人で思案しながら歩いた。
「あひるボートがあるよ!一回四百円だって!」
湖畔の通り沿いにちひろがあひるボートを見つけた。波も穏やかで気持ち良さそうだったので、二人であひるボートに乗ることにした。
「すみませーん。あひるボート乗せて下さい!」
声をかけるとお店の中から腰の曲がったおばちゃんが出てきた。
「はいよ!お二人さんね。」
「どのくらい乗ってていいんですか?」
「今日は天気も良いいからねぇ、ちょっと長めに乗ってもいいよ」
「ありがとうございます!」
「はい、では気をつけて」
見渡すと他のボートも揺れて波に乗っていた。あひるボートに乗ると思ったよりも中は広くて快適だった。十分程漕ぐと岸からだんだんと離れた。二人で全力で漕いでも時速十キロも出ればいい方だった。
「思ったより大変だね。あひる。」
「そうだね、意外と漕ぐね。」
「でも、あひるさん嬉しそうでよかった。」
「結構レトロな顔つきしてるから昔からあるんだろうね。」
「昭和のデートって感じ?」
「あはは、今じゃこの辺寂れちゃってるけど昔は人気あったんだろうね。」
そうやって平凡な会話をしながらそれから三十分程あひるボートに乗っていたらさっきまで晴れていたのに、急に霧がかってきて辺りが見えなくなり、どっちが岸かわからなくなってしまったのだ。ちひろが怖がっているのであひるボートを止めた。
しらばらく経っても霧がはれない。風が止まって、辺りが静かだった。その光景は黄泉の国の淵にきたような不思議な光景だった。視界一面が真っ白な世界に覆われてしまったのだ。
「ひちろ、岸に戻ろう。」
「うん。」
私はお寺で受け取ったお札を思い浮かべながらちひろと一緒になって必死にさっきと反対方向へ漕いだ。五分も漕ぐと霧が晴れて岸辺が見えてきた。
「すみません。返すの遅くなっちゃいました。」
「はいよ。」
受け付けのおばちゃんはこれと言って特に変わった様子はなかった。だがしかし、ちひろと私は確かに変わった世界の淵を見たような気がして、きょとんとしてお互いに目を合わせた。
「変な所に迷い込まなくてよかったね。」
ちひろは安心したようでほっとため息をついた。私も安心して深呼吸をした。また二人で不思議な体験をしてしまった。さっきまでの光景は夢の中のようで気持ちが悪かった。一種の神隠しみたいな物なのだろうか?
「私お腹空いちゃった。」
「僕もだ。お弁当にしようか。岸に辿りつけて良かったね。一時はどうなるかと思った。」
「あれは湖の神様かな、なんだかそんな気がしたな。」
「あ!ちひろが言うとなんだかそんな気がしてきた。」
少し歩くと小さな公園があったので私達二人はそこのベンチに座ってお弁当を食べることにした。私はリュックからお弁当の包みと水筒を出した。梅干しと鱈子、具の違うおにぎりにウインナーとサラダ。ちひろの案でウインナーはタコにしたやつだ。
「お弁当、作って来てよかったね。」
「そうだね。この公園もなんだか、昔からある感じだね。どれも大分錆びてる。」
「あとで一緒にぶらんこしようよ。」
「いいよ!」
お弁当を食べながら私達は湖畔の紅葉を楽しんだ。さっき乗ったあひるボートが近くで波に揺れていた。人気がなくて、平和な午後だった。
「ご馳走様でした。」そう言うとちひろはぶらんこの方へ駆けていった。私は食べ終わったお弁当の包みを包みながらちひろをみていた。そのまま、ちひろは凄い勢いでぶらんこを漕いでいた。彼女は今にも空に飛んでいってしまいそうだった。
私は何故だか急に長い工場での生活が終わるのだと思うと泣けてきてしまった。苦しい残業に耐えて過ごしてきた時間の長さと辛さを思った。同僚との楽しかったことや、仕事上揉めたことを思い出して頭の中がぐるぐるとした。涙で視界が狭かった。ちひろがぼんやりと滲んでみえる。この淡い風景を、この淡い幸せを私は守りたかった。ちひろは高く高くぶらんこを漕いでいた。何かに届きそうなくらいな気がした。ちひろはぶらんこを飛び降りると私の方に向かってきた。
「どしたの?」
ちひろが心配して。私の肩をやさしく抱きしめた。
「今日はもう帰ろ。」
私は頷きながら自分が子供みたいだな、と恥ずかしく思った。ただ何かが無性に悲しくなって泣けてきてしまったのだ。ちひろにこれ以上心配はかけたくなかったので私はタバコを咥えた。それでも震える唇からタバコが落ちた。ちひろがそれを拾っていった。
「タバコも辞めなきゃね。」
「うん、ごめん。絵、描きたかったでしょ?」
「大丈夫よ。今日はもう帰って休みましょう。」
ちひろの言葉に甘えて、その日は帰ることにした。私はストレスからなのか、この日からやたらと涙脆くなってしまっていた。帰り道のラジオ忌野清志郎のスローバラードが流れていた。
二十五
それからの一カ月はあっという間に過ぎていった。私は工場を退職して、余裕を持って次の仕事を探すことにした。人生になんだか疲れてしまって、心も体も精一杯だった。過労でこんなにも人生を揺さぶれるとは思っていなかったから、これからはゆったりと生きていこうと思った。
ちひろはやっと小次郎の気にいったポーズが見つかったらしくまた新しいキャンバスに下書きをきっちりと始めていた。両手を合わせて床についたそのポーズは招き猫のようでなかなか様になっていた。
化け猫とまで呼ばれる小次郎だったが、いつの間にか家にはしっかりと懐いていて、いつしか招き猫的存在になっていたことに気付いたのもちひろのお陰だった。そうした日常の小さな力に気づけるようになったのは間違なくちひろの魔法のような些細なことに気付く力を分けて貰ったからだろう。ちひろに知り合ってからの私はだんだんと変わりつつあった。そのエネルギーを活かして生きることが人生の正しい道のような気がした。
そんな、十月の終わりのことだった。ふと、私の姉から電話が掛かってきたのである。
「久しぶり!元気?[#「?」は縦中横]」
「あ、なんだ姉貴かぁ、どうしたの?」
「実はこんど新しい彼が出来て引っ越すことになったんだけど、お前の家にあった市松人形、今度送ってくれないかな?夢におばあちゃん出てきてさ!」
「どんな夢だったの?」
「それがさぁ、今度世の中に疫病が流行るから物を動かしなさいって言うのよ。今まで閉まってあった物とかそう言うものをね。」
「なんだかそれ予言みたいだね、わかった。じゃあ送るよ。いつまでがいい?」
「暮れになっちゃうと忙しくなるから霜月までにはお願い。じゃあまたね。」
と、言って電話を切った。その、霜月と言う言い方が耳に残って私には響いた。これは多分何かあるだろうと思って私は買い出しに出かけたちひろが帰ったらその事を話そうと思った。
ちひろは両手にスーパーの袋を抱えて帰ってきた。鍋が出来そうなくらいの大量具材だったので私はそのまま提案した。
「ちひろ、夕ご飯は鍋料理にしようよ。」
「あーいいねぇ!」
めっきり寒くなった信州はもう、鍋にしてもおかしくないくらい朝夕が寒くなっていた。冷蔵庫を開けて、具材を並べるとちひろは鍋作りの準備をもう済ませていた。
「手際がいいね。」
「だって、早く絵の続き描きたいんだもん。」
「そっか。代りに作ろうか?」
「いいよ。最近、料理全然出来てないからさ、私にやらせて!」
ちひろが料理をしてくれている間、私は台所でちひろが料理しているのを見ながらビールを飲んだ。禁煙しようと思ってもなかなか出来ず。気づけばタバコに手が伸びていた。煙りを見ながら心地よく酔って来たな、と思っていたら小次郎がやってきた。寒くなってきたからから、心無しか太ってきたような気がした。
ぐつぐつと鍋を煮るいい音と共に部屋全体になんとも言えない、いい匂いが部屋に立ち込めた。待ち切れずにちひろもビールを開けて飲み始めた。
「姉から電話があってさ、引っ越ししたから市松人形送ってくれって急に連絡があったんだよね。」
「ああ、前にお姉さんの持ち物って判明したっていってたもんね。じゃあ市コさんともお別れか。なんか寂しくなるね。」
「そうなんだよ。これで僕達も見かけることなくなっちゃうのかな?」
「そうだと思うよ。」
「そう思うと本当に、なんだか寂しいね。」
「都会っこになるのかぁ市コさん。」
「そう言えばちひろが長野に引っ越してきた理由って何なの?」
「わたしは東京に住んでいて人混みより自然を感じられる場所がいいなってずっと思ってて、そしたらなんとなく長野に行き着いたんだよね。わたし予知能力とか霊感あるからさ、偶然と言うか引き寄せられたって言う感じかな。」
「なんか、姉も予知夢のような話ししてたな。」
「そう言う所でわたしたち引かれあったのかもね。」
「そう思うとなんだか不思議だなぁ、本当にそう言うことってあるんだね。」
そうこうするうちに鍋はもう食べ頃になっていたのでそのまま、二人で鍋をつついた。
「ちひろの描いた金魚とグラジオラスの絵のいつ選考なの?」
「十一月なんだよね。」
私は霜月が楽しみになった。
二十六
その日、長野県は初雪が降った。全国的にもニュースになったくらいでとても寒かった。
ちひろの絵は季節感のせいか佳作だった。それでも私はあの時の感動を忘れられなかった。
生命が生命として生きている様を斬新なタッチで描いたあの絵を私は生涯忘れないだろうと思った。生き物が辿り着く死への恐怖に触れるようなあのちひろの、狂気が表現されたあの絵を私はもう一度思い出していた。それは間違いなく何か大きな力があった。
仕事を辞めた週末。私は姉に頼まれた通り市松人形を厳重に包装していた。これで長く付き合った市松人形ともお別れだと思うと変な気分だった。ちひろに出会ってから幾度となく不思議なことがあったなぁ、と私は回想しながらこの市松人形を包装していた。最後に見たその表情はとても穏やかで何処となく嬉しそうだった。
市松の花 @jjjumarujjj
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