第5話『カールの実験の顛末』
2012年、アメリカの研究者がマウスの脳に直接記憶を書き込む実験を成功させた。
この実験は死んだマウスから取り出した脳に情報の書き込みを行ったものである。
そのニュースを知った当時医科大学院生のカールはこう考えた。
「生きたマウスに別のマウスの記憶を書き込むことはできないだろうか」
外科医を志していたカールはかねてより手先が器用であったが、より一層研鑽を積み、麻酔で眠らせたマウスから神経細胞を完全に取り出し、情報を書き込んでから体内に戻してマウスが動き出すようにすることがかなりの精度でできるようになった。
一つ問題だったのは、書き込んだ記憶が拒絶される可能性だ。
元から存在する記憶と人工的に移植された記憶に齟齬が生じた場合、どちらの記憶が優先されるのかが気掛かりだった。
仮に元々の記憶が優先される場合、記憶の移植に成功していたとしてもそれを行動から読み取ることは困難である。
また矛盾する記憶を抱えたマウスが自己同一性を失い実験に使えなくなることも危惧していた。
カールは一計を案じ、マウスのクローンを使うことにした。
クローンをできるだけ同じ環境で同じように育て、生後同じ日数のときに別の個体から記憶を移植し、同じ日数の後に記憶が定着しているかの実験を行うことにした。
その実験というのがチェス盤のような場所を使った迷路のことである。
通ってはいけない場所を踏むと強い痛みののち死に至るようなトラップをカール自ら設計し、大規模な実験装置を作った。
マウスの迷路実験でよく使われるものは壁で仕切られた迷路だが、カールはあえて仕切りの無い迷路を選んだ。それにはいくつか理由があった。
一つには仕切りがある迷路はルートの自由度が小さく、たまたまゴールに最短距離で辿り着く可能性が比較的高いことが挙げられる。
またマウスがズルをして仕切りに登って迷路をクリアしようとしたとき、それが記憶の中の死を恐れての行動なのか、それとも単に知恵を働かせただけなのか区別できないということもある。
仕切りにも即死の罠を仕掛ければズルは解決できるが、不意に仕切りにぶつかって死ぬケースが多発することを恐れ壁で仕切るのを諦めた。
もっとも実験で使用したチェス盤の迷路においても足を踏み外したり尻尾が当たったりして死ぬケースは多少あったのだが。
マウスは痛みと死への恐怖から死に際の出来事を海馬に鮮明に記憶した。
カールはそのマウスが死んだ直後に記憶を取り出し、麻酔で眠らせた次のマウスの頭を開いて記憶を書き込んだ。
カールは当初、チェス盤と同じ8×8の迷路を作って実験を行っていた。
簡単な迷路だったが最初にクリアしたのは17匹目、時間にして1か月半を要した。
カールは実験結果を論文にまとめ指導を受ける教授のところへ持って行った。
しかし論文は教授によって切り捨てられた。教授曰く、
「こんな簡単な迷路では偶発的にクリアできた可能性が否定できない。やり直せ」
教授の一言でカールは一時的に燃え尽き症候群に陥ってしまった。
しかし研究者を目指す友人やゲーム好きの甥っ子にヒントを得て立ち直り、今度は32×32の巨大迷路を製作した。
最初の迷路Aはスタートからゴールまでは一本道だったが、新たに製作した迷路Bはいくつも分かれ道を設置した。また曲がり角も多めに配置した。
実験Aの時点で記憶移植の成功を確信していたカールは、今度の実験も順調に進めば遅くとも自分が卒業する1年前までには実験は終わるだろうと見積もっていた。
だがその考えは甘かった。
正しいルートでクリアするにも30回以上も曲がる必要がある。
曲がり角には視覚的な目印が床の模様しかないため、どの曲がり角でも例外なく一度は直進しすぎて死んでしまっている。
また枝分かれは曲がり角以上に多かった。
曲がり角は過半数が丁字路の下から侵入する形になっていたが、それ以外にも丁字路の横から侵入するタイプのものがあった。
意地の悪いことに、丁字路の横から入って下に抜けるのが正解のルートが幾つか仕掛けられていた。
そのような丁字路は発見すること自体が難しく、実際マウスは総当たりのようなことをしてやっと正しい枝分かれを進むことができた。
結果、カールの予想以上にクリアに時間がかかってしまった。
とはいえ迷路の複雑さが悪いことばかりではなかった。
最初の分かれ道の左が行き止まりであることを理解したとみられる39匹目以降はその枝分かれを迷いなく右へ曲がった。
これは記憶移植がうまくいったことの根拠である。他にも行き止まりが確定した分岐は迷わず曲がるようになった。
カールはその部分までを論文にまとめ提出した。教授は論文を渋々受理し、論文を科学誌に送りカールは博士号を取得した。
カールは実験を途中で辞めてしまうことが癪だったので准教授の職に就いてからも実験を続けた。
マウスの世話や実験装置の管理は大学院生のジェシカに押し付けつつ、記憶を書き込む手術だけは相変わらず自分で続けていた。その方が効率が良かったからだ。
そしてついにその日がやってきた。
686匹目のマウスが迷路を無事にクリアしたのだ。
カールは歓喜したが、それで実験が終わりではない。
記憶移植が成功していないのにたまたま成功した可能性を否定するため、その686匹目の記憶を次の個体に引き継がせた。そして再び迷路をクリアするのを確認し、さらに次の個体にも記憶を移してテストした。
こうして偶然の可能性を完全に否定したことでカールの実験は終わった。
「この実験はマウスの立場からすればタイムリープの経験に近いだろう」とカールは自分の実験の総評を述べた。
ネズミだけが知っている転生体験 アカイロモドキ @akairo_modoki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます