夏の想い出

惟風

夏の想い出

『どうしてそんなにも蒼いの?』


 ブラウン管に、白人の老婆のアップが映し出されている。

 俺はぬるい菓子パンをかじった。蝉がうるさく鳴いていて、音量を上げないと役者の声がほとんど聴こえないことに苛々いらいらしている。

 扇風機が生暖かい空気をかき回していた。


 ◇ ◇ ◇ ◇


「パパ、どうしたの?」


 浩太こうたに声をかけられ、俺は我に返った。


「……ああ、いや、懐かしいな、と思ってさ」


 右手に握っていたリモコンをテーブルに置きながら答えた。

 週末の夜。夕飯も風呂も済ませ、ひんやり涼しいリビングのソファで寛いでいた。

 まだ寝るには早い時間だから、何か映画でも観ようと動画配信サービスのホーム画面を眺めていたところだった。有名どころは粗方あらかた観てしまったから、昔の作品でも観返してみようか、と。

 ふと、見覚えのあるタイトルを見つけたのだった。小学生の時に夢中になって観ていた海外ドラマシリーズの、スペシャル版である。

 自分が子供の頃はインターネットどころか録画機器も家に無く、好きなTV番組は一分一秒たりとも見逃さないように、まさに画面にかじりついて観ていたものだ。

 今は手元のリモコンを操作するだけで新作から旧作まで好きなだけ観ることができるのだから、良い時代になったと思う。


「これ知ってる映画なの?」


 浩太が画面を覗き込みながら言う。大きな家の前に女性が数人立っているサムネイルだ。


「映画じゃなくて、古いドラマだよ。ちょうどパパが今の浩太と同い年くらいの頃にTVで放送されてたやつでね」

「へえー」


 浩太は興味無さそうに手元の携帯ゲーム機に視線を落とした。


「浩太、ゲームより先にランドセル片づけてー」


 キッチンから妻の佳代子かよこの声が飛んできた。


「……はあい」


 渋々、といった調子で浩太がランドセルを持って子供部屋に入っていった。


「もう、言わないとずっと出しっぱなしなんだから」


 佳代子は缶ビールとタンブラーを載せたトレイを運んできた。ぶつぶつと小言を言ってはいるが、その表情は柔らかく、口元には笑みをたたえている。そんな妻を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「これ観るの? 大分古いミステリー作品って感じだね」


 二人分のビールを注ぎながら佳代子が聞いてきた。


「昔TVでやってたんだけど、佳代子は観たことない?」


 俺は冷えたタンブラーを受け取り、再生ボタンを押した。


「知らないなあ。私、アニメとかしか観なかったから」

「そっか。一緒に観る?」

「ちょっと観てみよっかな」


 佳代子はビールを片手に俺の隣に座る。ふわりとシャンプーの香りがした。

 確か、どんでん返しがあった気がする。意外な人物が犯人で、「私が殺した」と白状するシーンがあったはずだ。


 端的に言って、自分の生家は貧乏だった。六畳の部屋が二間、あとは台所とトイレと申し訳程度の浴室があるだけの、狭い長屋で育った。

 隙間風だらけで害虫と共同生活を送るような暮らしの中で、TVから流れてくる物語の世界は憧れだった。

 学校が終わると急いで家に帰り、ランドセルを投げ出すと後は画面に釘付けだった。父親は遅くまで働いて家におらず、母親は寝込みがちだったので、止める者は誰もいなかった。

 今では到底考えられない悪環境で暮らしてたな、とOP映像を観ながら感慨にふける。


 しばらくして、あれだけ必死になって観たはずなのに、具体的な内容はほとんど覚えていないことに気づいて愕然とした。

 地味なお婆さんがブロンド美人の助手と共に難事件を解決していく、というあらすじだったはずだが。

 こんな赤ら顔の中年男はいたっけ?

 被害者は一人ではなかったのか?

 ドラマの中身は思い出せないのに、かび臭い家の記憶ばかりが蘇ってくる。

 畳の目を這う黒い蟻。

 べったりと貼り付くシャツ。

 汗疹あせもを搔きむしった赤い爪痕。

 物語が進んでいくに従って、昔自分が観たという記憶すら怪しくなってきた。不安がこみあげてくる。

 今、俺が観ているものは何だ?

 本当に観たのか?

 俺は、本当にあの場所にいたのか。あの家で暮らしていたのか。仕事にかこつけて無関心な父と。起きている間はヒステリックに喚き散らす母と。

 画面の中で、知らない男が知らない風景の中で死に、知らない人物が話している。

 被害妄想に取り憑かれた隣人が実家の窓を割ったのは、このドラマを観る前だったか後だったか。

 中年男に続いてメイドが死に、老女が屋敷の中で聞き込みをして回る。若い助手が豊かな髪を揺らしながらその後を追いかける。次第に明らかになる、古い洋館にまつわる因縁。鍵を握るのは、昔失踪した金髪の子供。

 この後はどうなったんだっけ? 記憶を辿ろうとすればするほどそのイメージは曖昧になり、掴もうとするそばから消えていく。


 誰が犯人なんだ。

 俺は知っているのか。

 知らないのではないか。

 元から。


 あの焼けつくように暑かった夏の日、惨めだったあの頃。

 物語に触れている間は気持ちが明るくなったあのひと時が、不遇な子供時代を慰めるための幻想ではないと何故言い切れる?

 確かな想い出とは何なのか。

 自分の足元がおぼつかないような心細さを感じながら、いつの間にか画面に向かって前のめりになっていることに気づく。

 静かなリビングに、TVの音声だけが響き渡っている。すぐ隣に妻が座っているはずなのに、怖くて振り向くことができない。

 過去だけでなく、現実までもが曖昧になっていく気がした。


『ねえ、ルーシー』


 物語はクライマックスを迎えている。探偵役の老婆が対峙している助手に向かって話しかけた。


『犯人が名乗り出たって言うのに、貴女の顔は』


 不意に、口の中に甘い味が蘇る。


『どうしてそんなにも蒼いの?』


「ああ」


 思わず、声が漏れた。

 ほとんど忘れ去ってしまった中で、このシーンだけは覚えている。そうだ。確かに、観た。視界が輪郭を取り戻す。


『それは』


 ブロンドの彼女は目を伏せる。涙が一筋流れた。


『私が殺したからです』


 観念した助手の、独白が始まった。


『過去を、消してしまいたかった』


 子供時代の自分と、手を繋いだような気がした。頭の中で蝉の声が響く。



 タンブラーのビールはまだ十分に冷たく、一気に飲み干した。


「面白かったー! 意外な犯人だったねー」


 佳代子が立ち上がって伸びをした。アルコールのせいか、頬がほんのり紅い。


「さ、浩太はそろそろ寝る時間だよ」

「えー! まだ起きてちゃダメ?」


 いつの間にか子供部屋から出てきていた息子が不満そうに口を尖らせる。


「仕方ないな。明日は休みだし、もうちょっとだけなら良いよ」


 佳代子が口を開く前に助け舟を出してやった。


「やった! アイス食べちゃおっと!」

「もう、貴方ホントに浩太に甘いんだから」


 佳代子がくすくすと笑う。冷蔵庫に走る息子の後ろ姿に昔の自分を重ねようとしてみたが、どうしても無理だった。

 記憶の中の自分は、いつも薄汚れた服を着てじっとうずくまっている。


 俺は消さない。


 口の中でそっと呟いた。






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夏の想い出 惟風 @ifuw

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