短編「朝焼けの烏」
みなしろゆう
「朝焼けの烏」
死の淵と生の果てを彷徨う彼らには、
命の終わりが見えるらしい。
彼らは人間の体から真っ黒な翼が生えていて、名前通り烏と同じ。
彼らは人間から遠く離れ、空高く聳えた巨木の上で暮らしているそうだ。
少年は目深に被った薄布を少し上げる。
爪先すれすれに木の破片が転がっていて、
上を見ると屋根に大きな穴が空いていた。
何かが上から落ちて来たのだと、理解するには一目で済む。
問題なのは住処にしているボロ屋の屋根が壊れた事と、落ちてきたもの自体にあった。
砕けた屋根の破片から、
真っ黒な翼が蠢いている。
それは話に聞いていたのとは違っていた。
黒い翼はひとつきり、頼りなく揺れては、ぼろぼろと羽を落として今にも崩れそう。
少年は片手に持っていたランプで蠢く黒を照らした。
すると蠢きは激しさを増して、灯りから逃れるように暴れ出す。
同時に漂った血の臭いに、少年は思わず声を上げた。
「怪我してるの?」
問い掛けた先、暴れていたのが急に大人しくなって、黒い翼がたたまれる。
片方しかない翼で、必死に自分の姿を隠していたそれは、蹲ったまま少年を見上げた。
「……にんげん?」
声からして、女の子だ。
問い掛けたのはこちらなのに、相手からも問いが返ってきて、少年は困ってしまう。
黙っているとまた翼が蠢いた。
ずるずると何か引き摺りながら、彼女は闇を背に立ち上がる。
「わたし、もうすぐ死ぬから。
ここに居させてほしい。朝になったら消えるから。跡形も無く」
思わず灯で照らした少女の体は、
腹の中身が溢れて真っ赤に染まっていた。
少年は垂れ下がる臓物を見ながら、
何処か冷えた頭で彼女の言葉を反芻する。
もうすぐ死ぬから。
──まあ、そうだろうなと思った。
烏羽族の少女は灯りを嫌がった。
自分の姿を見られるのが嫌なのと、烏羽族は強い光が苦手なのだという。
少年は少女の為にランプを消した、
けれど屋根の壊れた所から月明かりが落ちるから、真っ暗闇にはならずに、
少女は小さく丸まって、ひとつしかない翼で体を包み込んでいた。
「その怪我、手当てしようよ。血を止めるくらいなら何とか此処でも出来るから……」
「別に良い、治らないから」
少年は何となく、彼女から離れる事なく床に座った。
屋根に空いた穴から見える夜空を眺めて、
こんなに大きな月を見たのは初めてだと思う。
あの月の向こうから、少女は落ちて来たんだろうか。
傍の彼女は、穏やかに息を吐いて微睡んでいる、死にかけているとは思えなかった。
近いうち死ぬのだとも、思えなかった。
「治らないって、どうして?」
少年は少女に話しかける。
理由はまた何となく、だった。
何となく彼女を独りにしたくなくて、
何となく彼女と話してみたかった。
「烏羽族は、ほんとなら怪我を負わないの。
翼に加護があって守られてるから」
「……君には、その加護がない?」
「そう。片っぽしか翼が無いから。
それに烏羽族に人間の治療は意味が無い。血を止められたとして、その先はない……喋る事くらいは暫く出来そうだけど、
一度地上に落ちたらわたし達は助からない」
饒舌な少女は、伏せていた顔を上げて少年を見た。
頭の上から薄布を被った彼は、目しか見えない。
「君は優しそう。わたしの姿を見て悲鳴も上げなかったし」
「驚いてはいるよ。烏羽族なんて本で読んだことしかないし、屋根ごと落ちてきたし」
少年の言葉を聞いて、少女は面白くなって笑った、
勢いで溢れ出す腹の中身を抱き締める。
熱いのに冷たい、痛くは無い。
少女をじっと眺める少年は、何を考えているのか分からなかったけど、
多分朝まで此処にいるつもりで。
少女もどうせ看取られるならと、思うまま口を動かし始める。
「わたしは烏羽族の中でも変な奴だから。翼が揃ってない癖に飛ぼうとしたの。
そしたら木の上から落っこちて、お腹から枝に突き刺さった。
引き抜いたら血が沢山出て、お腹の中身も全部出て。
ふらふらしてたらまた落ちて、気付いたら屋根を突き破って此処に来た」
壊してごめんね、君のお家なんでしょう?
向けられた少女の目から、少年は視線を逸らして曖昧な返事をした。
人と一緒に暮らせなくなって逃げて来た先で、誰も住んでいないボロ屋があったから寝床にしただけ。
そう答えるのが何故か大変だった。
「なんで飛ぼうとしたの?」
「ずっと厄介者扱いされてまともにご飯を食べられないのが嫌だったから。
皆みたいに飛べたら仲間として認めて貰えるって、思ったんだけど失敗したんだ」
少年は少女の横顔を見て寂しそうだと思う。
その寂しさには少年も覚えがあったけど、
彼女を理解した気になるのは辞めておく。
寄り添うような綺麗な言葉を言う暇も無く、少女から問い掛けられる。
「君はどうして人と暮らせなくなったの?
人間は皆仲良く暮らすんでしょう?」
「それは、えーと」
少女はお喋りで、次から次へ少年に問い掛けてきた。
その度に腹から血が出るものだから、喋らない方が良いと言ったけれど、
少女はそれすら可笑しそうに笑う。
死を恐れるなんて人間だけだと、
笑う彼女は痛みも感じていない様だった。
少年は少女の問いに答えるか迷って、言い淀んだ末にまあいいかと息を吐く。
──正直、誰かに話したいとは思っていたのだ、自分で抱えるのが限界だったから。
「僕は、半魔なんだ。半分人間で半分悪魔。
だから普通の人間からは怖がられて、気味悪がられる。中には優しい人も居たけど、僕に優しくする事で損をさせてしまったりもして、嫌になって逃げて来た」
少女は瞬きをして少年を見た。
目しか見えない少年は気弱な人間そのもので、とても悪魔の血が入っている様には見えない。
話の続きを待つ彼女を見て、少年はそっと被っている薄布に手を掛ける。
「僕の母さんが悪魔だったんだ。人間好きな悪魔でさ、父さんと一緒に街で人間のフリをして暮らしてたんだけど、
僕が産まれたせいで、悪魔だってばれて殺されちゃった」
真上から落ちた月明かりは、ちょうど良く少年の姿を照らし出している。
青い光の向こうで少年は体を覆う薄布を外した。
少女は驚くでもなく、ただ少年の姿を見つめている。
頭から生えた白い角、青白い肌に浮かぶ水色の模様。
長い爪と、口の端から生えた牙。
人を食らう悪魔の姿。
「こんな姿だからさ。人間は一目見ただけで僕が悪魔だって分かる。
母さんが死んで、父さんも死んで、それからずっと隠れて生きてきたけど、もう疲れた」
半魔の少年は笑みを浮かべる。
月に照らされた彼は疲れ果てて、今にも泣き出しそうにしていた。
少女は怖がりもせず少年の姿に魅入って、
自分が死にかけなのも忘れて起き上がり、
腹を押さえて這って行く。
少年の近くまで来て、血塗れの手を伸ばす。
少年は少女の手から逃れようとはしなかった。
だから少女は彼の頬に触れて、青白い肌に血を残す。
「わたしはとても綺麗だと思うよ」
「初めて言われた。そんな事人間ならまず思わない」
黒い翼と白い角、人に良く似て人じゃない。
少女は自分の体を支えきれなくなって少年の元へ倒れ込んだ。
今にも崩れてしまいそうな彼女の体を、
少年は黙って抱きとめた。
少年は、死に際の少女を宝物のように抱いている。
少女は、少し死ぬのが惜しいと思い、
これが怖いという事かと知った。
血に濡れた翼は黒を滲ませ、
折れた骨が覗いている、片方だけの翼は飛ぶことを知らぬまま壊れた。
巣から落ちた雛は、親の元へは帰れない。
落ちた雛を見つけた者も、美しい雛に見惚れて巣に返す気が無くなっている。
さっき会ったばかりの相手なのに、
ふたりは離れ難いのだと手を繋いだ。
死にかけているから、
少女は少しおかしくなっていた。
生きるのに疲れたから、
少年も少しおかしかった。
「翼、触ってみても良い?」
「じゃあわたしも角を触る」
笑い合って互いに手を伸ばす。
こんな風に触れられた事なんて一度もなかった、こんな近くで誰かの息を感じるなんて初めてだった。
互いの鼓動を感じるのが嬉しくて、片方はもうすぐ止まるのだと、寂しくなる。
「ねえ、烏羽族は命の終わりが見えるって本当?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ僕はいつ死ねるのかな」
囁き声が擽ったくて身を震わせ、少女は穏やかに微笑んだ。
少年も微笑みにつられて頬が緩む。
寂しい同士が夜の終わりに笑っている。
互いが一等美しい、狂った頭の勘違いだって良い。
月の下で死ぬ女も、女を抱きしめる男も、
もう此処以外に居場所が無かった。
「近いうちに、ちゃんと死ぬよ。
だから安心してわたしを看取ってね」
返ってきた答えに、少年は深く息を吐く。
久しぶりに肩の力を抜いて、安堵する。
少年は孤独でいるまま生きるのが限界で、誰かに終わりを告げてもらいたかった。
少女は彼に生きていて欲しいと言える程、綺麗では無かった。
後を追いたいし、追って欲しい。
二人の間ではそれが救いで、他のものは欲しくない。
「きみと子どもを作ったら何が産まれてくるだろうか」
「変な話をするね。わたし達は天界に近い種族だから、もしかしたら天使が産まれるかもしれないよ」
これ以上、お腹の中身が出て行かないように、優しく囁き合う。互いに肩を震わせて。
朝が来るまでくだらない話をした。
そうしていれば寂しく無いから。
「──朝まで居てくれてありがとう、楽しかった。また会おうね」
「うん、またね。今度は名前を教えてよ」
やっとの思いで顔を上げて、少女は少年を見て言った。
少年も頷き返して、顔を寄せる。
君は綺麗だと言い合う、本当にそう思う。
月明かりが遠退いて、朝が来る。
光の気配に翼が震えた、
けれど持ち上がる事は無い。
少年の腕の中で欠伸をして微睡む彼女は、やはり死ぬとは思えなかった。
だけど死ぬのだ、飛べない鳥が生きていけないように。
親から離れた雛が死ぬように。
眩しい光に黒翼が煌き、
一度だけ羽ばたいて、それが最期だった。
白んだ雲の向こうから覗いた朝焼けに照らされて、少女は跡形も無く消えた。
溶け消えて塵一つ残らず、まるで夢のように彼女は死んだ。
余韻を残すように落ちた烏羽を、少年は拾い上げる。
後に残されたのは血と羽だけで、
少女の死に際を知るのは少年だけ。
最期に孤独を癒やしてあげれて良かったと、そう思ったのはどちらだったのか。
知っているのは、ひとりだけで構わない。
朝焼けにそっと羽をかざせば、
まるで飛んでいるみたいだった。
短編「朝焼けの烏」 みなしろゆう @Otosakiaki
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