届け!

柚緒駆

届け!

 車の窓に小雨がぶつかる。一昨日の大地震の影響は街にはもうほとんど見当たらない。崖崩れで二人死者が出たのは悲しい事だが、それ以外の人的被害が階段から落ちて捻挫ねんざしたお年寄り一人、火災も津波もなく大震災とよばれる規模の被害が生じなかったのは不幸中の幸いと言えた。


 編集部から車で約三十分、賃貸マンションの六階の一部屋が漫画家瀬波せなみ甚一郎じんいちろう先生の自宅兼アトリエ。インターホンを押そうとして、私はちょっと戸惑った。男の人のマンションに入るなんて初めての経験。女の子が当たり前のようにインターホン押したりしていいものなのだろうか、はしたないとか思われないだろうか、とか考えているうちに、一緒に来ていた兼井かねい先輩がインターホンを押していた。


「おめえ、おせーよチビ助」


「す、すみません」


 謝る私の横でドアが開く。




 本棚からは本が溢れかえり、床には作りかけのプラモデルがいくつも転がっている。兼井先輩はそれを適当に足で横に退け、スペースを作ると胡座をかいた。


「おめえも座れ座れ。遠慮してる場合じゃねえぞ」


「は、はい」


 言われて私も兼井先輩の少し後ろに正座する。目の前にはあの瀬波甚一郎先生が椅子に座っていた。いわゆる誰でも知ってる大ヒット漫画家ではないかも知れないが、我が社の月刊漫画誌「少年SPACE」で20年近く連載を続ける「超光ロボ ギア・カイザー」はアニメ化もされ、コアなファンもついている紛れもない看板作品だ。だが。


 いま、三面モニターのパソコンには電源が入っていない。仕事中には見えなかった。


 実際に会ったら物凄いクリエイター独特のオーラとか発してるんだろうな、と勝手に想像していたのだが、こうして見る限りどこにでもいそうな、ジーンズにTシャツ姿の四十過ぎのオジサンである。


 兼井先輩は手鏡で自分の髪型が崩れていないかチェックしながら、瀬波先生に話しかけた。


「センセ、このチビ助がうちの新人、久地来くじらい貴美子きみこ。すんごいコンサバ系の名前でしょ。たぶんセンセの担当になると思うんで、ついでに顔見せしときます」


 瀬波先生はチラリとこちらを一瞥しただけ。椅子に座って不満げに黙り込んでいる。兼井先輩は手鏡を胸ポケットにしまって小さくため息をついた。


「そこはツッコむとこですよね。漫画描かないのに担当なんかいらん、て」


 あまりの驚きに、私は思わず声を上げた。


「え、描かないんですか」


「らしいよ。昨日もう描かないって編集長にジカ電したらしくって、おかげであの人怒り狂っちゃって」


 兼井先輩は振り返りもしないでそう言った。


「で、何で描かないんです。金ですか。原稿料ですか。そりゃうちの社は金払い悪いですけど、センセくらいなら印税あるじゃないですか。理由も言わずにいきなり描かないはないでしょ」


「金の問題じゃない」


 瀬波先生は初めて声を出した。


「じゃ何です。何が気に入らないんです。センセだって趣味で漫画描いてる訳じゃなし、ビジネスでしょうが。ある程度は飲み込んでもらわないと」


「そんな事はわかってる」


「わかってんなら描いてもらえませんかねえ」


「……ネタがない。もうアイデアが何も思いつかないんだ」


 痛みの中から絞り出したかのような声。よほど思い詰めての事なのではないだろうか。しかし兼井先輩は鼻先で笑う。


「なあんだ、そんな事ですか。いまさらでしょ。ネタ切れだアイデアの枯渇だって騒ぎながら設定の後付け後付けでこれまで何とか乗り切ってきたんでしょうに」


「今回はいままでとは違う。本当に何も、何一つ思い浮かばないんだ」


 瀬波先生の目には絶望と苦悩が浮かんでいるのだが、兼井先輩には見えていないのかも知れない。


「んじゃ仕方ないですね、中を取って今月は休載で来月からまた再開って事で」


「もう無理なものは無理なんだ! 来月も再来月もない! 俺はもう描けない!」


 悲痛と言っていい叫び。瀬波先生は嘘はついていないのだろう。だが少し違和感がある。その疑問が私の口を突いて出た。


「一つ、いいでしょうか」


 兼井先輩が振り返る。瀬波先生も横目でこちらを見た。私は、はやる胸を押さえながら間違えないように言葉を選んだ。


「いま先生は描けないとおっしゃいましたが、その描けない理由をご自身では理解されているのですか」


 瀬波先生の目が鋭く光ったように見えた。思わず震え上がる私に、兼井先輩はニッと笑う。


「ああ、なるほどね。原因がわかるなら取り除けばいいってか。どうなんですセンセ、原因わかってます?」


「原因はわかっている。だが取り除く事はできない」


「何でですか。みんなの仕事と生活がかかってるんですよ」


 取り除けない原因とは何だろう。いや、ここで考える事は無意味だ。本人にたずねるしかない。


「差し支えなければ、お話しいただけませんか」


 私の言葉に瀬波先生はしばらくムッとしていたが、やがて諦めたように口を開いた。


「一昨日、大地震があった」


「ああ、ありましたね。それが? PCのデータでも飛んだんですか?」


 兼井先輩の言い草に気を悪くするのではないかとヒヤヒヤしたが、瀬波先生はまるで聞こえないかのように淡々と言葉を続ける。


「山の方で崖崩れがあった。小さな崖崩れだったが、家が一軒潰され、中に居た兄弟が死んだ」


 私の脳裏に映像が浮かんだ。この件はいまちょっとした問題になっている。災害の発生場所から被災者が救助される場合、警察や消防、自衛隊などはブルーシートで目隠しをする。だがこの現場は足場が悪く、最少人数による救助を最優先にしたため、被災者が掘り出された場所には目隠しがなかった。これをテレビが望遠で撮影し、その瞬間を生放送で流したのだ。


「ええ、映像は見ましたよ。可哀想だなとは思いましたけど、それとこれとがどうつながるんです」


 少し言葉に苛立ちの混じった兼井先輩を、瀬波先生は見つめた。悲しい目で。


「掘り出されたとき、小学生の弟の遺体が、抱きしめていたんだ」


「抱きしめていた? 何を」


「ギア・カイザーのフィギュアをだ!」


 瀬波先生は怒鳴ると同時に頭を抱えた。そして苛立たしげに髪の毛を掻き回す。


「あの子が何を考えたと思う。土砂に家が押し潰される一瞬の間に、何を願ったと思う。何を祈ったと思う。その手にギア・カイザーを抱きしめながら、何を、いったい何を! 助けを求めたんじゃないのか、ギア・カイザーに!」


 その怒りとも悲しみともつかない気迫に、私はもちろん兼井先輩も圧倒されていた。


「ああそうさ、ギア・カイザーの設定は後付けだらけだ。だがそれでも、俺は全力を尽くしてきたんだ、面白い物語を創るために。いつだって作品からは逃げまい、読者だけは裏切るまい、そう思って、それが自分の役割だと信じて」


 丸まった背中が震えている。


「……ギア・カイザーは奇跡を起こせなかった。ギア・カイザーはあの子を守れなかった。あの子を裏切ってしまったんだ」


「いや、でもそれはセンセの責任じゃないでしょ」


「責任がないから何だ。責任がなきゃ罪もないのか。俺はこれからどんな顔をしてギア・カイザーを描けばいい。正義を信じろ? 勇気を燃やせ? そんな事を描いて何になる。誰も助けられないのに。子供一人助けられないんだぞ。もう無理だ。俺にはもう無理なんだよ」


 嗚咽を漏らす瀬波先生を見つめながら、けれど私の心は穏やかだった。ああ、この人は本当に瀬波甚一郎なんだな、と。想像と現実が一つに合わさってストンと腑に落ちる感覚。私は間違っていなかったのだ。


 しばらくの静寂の後、兼井先輩が面倒臭そうに口を開く。


「あのねセンセ、こんな話知ってますか」


 しかし瀬波先生は目を向けない。もはや聞く耳など持たないといった風に。


「ちょうど十年前、十二歳の女の子がいたんです」


 それでも兼井先輩は続けた。


「心臓の弱い子でね、小さな頃からずっと入退院を繰り返して、当然学校にもあまり行けないし行ったところで友達は誰もいない。両親は自分の治療費を稼ぐために働き詰めで家に帰っても誰もいない。その子はこう思ったんだそうです。自分は何のために生きてるんだろう、何の意味もないじゃないかってね」


 あれ、この話は。


「それである日、親に黙って海に行ったんです。一人っきりでね。別に何かをしようって思ってた訳じゃない、でも別に何かが起こってもいいや、みたいな捨て鉢な気分で。堤防の上で、ずっと海を見てた。そしたらそこに漫画雑誌が捨ててあったんです。これといって興味はなかったんですが、何気なく手に取って開いてみたら、そこに何て書いてあったと思います」


 そう、それは「超光ロボ ギア・カイザー」百十八話のラストシーン。これまで死闘を繰り広げてきた宿敵グローズン帝国のエースパイロット、ガリア・テラムが味方に裏切られ陰謀に陥れられて絶体絶命の危機に瀕したとき、ギア・カイザーに乗った主人公ケン・ユウキが現われる。だが過去の経緯から素直に手を取れないガリアに向かってケンが放った言葉。


「こう書いてあったそうですよ。『もしおまえの命に意味がないなら、俺の命にだって意味なんかない。だがおまえの命には意味がある。おまえになくても俺にはあるんだ!』。それを読んだとき、女の子は作者の声が聞こえた気がしたんだそうです。そしてこう思った。この漫画を描いた人は私の事を知らない。でも、私のような子供たちがこの世界にいる事を知っている。この人がいる限り、私は一人じゃないんだ、てね」


 驚愕に目を見開いて顔を向けた瀬波先生に、兼井先輩はニッと歯を見せた。


「なんて事を履歴書の志望動機欄に延々と書き連ねたヤツがいましてね。まあ偶然いまこの部屋にいるんですけど」


 瀬波先生の視線が私を見つめる。私にいまできるのは、微笑みうなずく事だけ。


 兼井先輩がたずねた。


「さあどうします、センセ」


「どうするって、何をだ」


「とぼけちゃ困るな。つまりセンセはギア・カイザーのファンが死んだ事を悲しんで、ギア・カイザーを描くのをやめる、すなわち読者を見捨てるって事でいいんでしたっけ」


「い、いやちょっと待て。それは違う」


「違わないでしょうが、何言ってるんです。ギア・カイザーを描かないって事は、これからギア・カイザーと巡り会って勇気や希望を信じられるかも知れない子供たちを、もうここで切り捨てるって事でしょう。ギア・カイザーを読んで大人になって、これから子供たちを守る側に立つ読者を見捨てるって事でしょう」


「違う! 俺はだれも見捨てたり切り捨てたりしない!」


「子供を守りたいのは、この世界でセンセ一人だと思ってます? 何でもかんでも背負い込んで、調子乗ってません?」


 瀬波先生は絶句すると、椅子の背もたれに体重をかけた。そしてしばしの沈黙の後。


「調子に……乗ってるんだろうか」


 それを聞きながら兼井先輩はスマホをいじり始める。


「漫画家は作品の中じゃ神様ですけど、実際に神様じゃないですからね」


「でも、俺なんかがのうのうと漫画を描いていていいんだろうか」


「忘れなきゃいいでしょ。キチンと覚えておくべき事を覚えたまま、自分が思った事を漫画に描きゃいいんですよ。いままで自分がしてきた事を過小評価するもんじゃないと思いますけどね」


 瀬波先生はうつむくと、深い深い息を吐き出した。


「……わかったよ。もう一度アイデアが出ないかチャレンジしてみる」


「とりあえず編集長には、たぶん大丈夫だって送りましたんで」


「早いな」




 それからしばらく打ち合わせをして、私と兼井先輩は瀬波先生のお宅を後にした。外の雨は上がり、雲間から日が差している。


 知識として、情報としては知っていた。でも今日、瀬波先生が改めて教えてくれた。創作された作品には作者の心が込められているのだという事を。それは読者に向けた、思い、祈り、メッセージ。私はこれから編集者として、それを伝える仕事をするのだ。


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