第2話
個展はリヨンの近代美術館近くの画廊で行われた。ギャラリーはエグゼクティブビジネスマンや政治家、中小企業の社長、ファッション関係のデザイナーなど、さまざまな顔ぶれでひしめきあっていた。
凌はそれぞれの顧客予備軍をポールに紹介され、パリの個展同様に様々な職種の人々と何回も握手し絵についての会話を交わした。
ギャルソンがレセプションのシャンパンを配ってまわる。
慣れなかった社交的な会話も、2回目となるとそつなくこなせるようになっていた。
「とにかく笑顔だ! 笑顔を絶やすな! それ以外はどーにでもなる」
ポールのアドバイスを凌は忠実にこなしていた。当初は引きつっていた笑顔も、しだいにまともなものになってくる。日本人特有の愛想笑いもそつなくこなせる様になっていた。
ただ会話はまだぎこちなさが残っていた。どんな会話をその時にしていいのか、凌にはまだ掴めないでいた。
「適当に聞いて、さも、わかった振りをして、頷いとけばいーのさ」
これもポールの助言だった。
簡単に言うが、その適当に頷くのが凌には苦痛でならなかった。
ほとんどのゲストへの紹介が済むと、皆各人知った顔を見つけて何かしら喋り始めた。凌は少しの疎外感を感じたが、それは逆に安堵としてここちのよいものだった。
ひとりになると逃げ出すように凌はギャラリーを出た。外の空気を吸って緊張感から一息つきたかったのだ。
「個展も楽じゃないな……」
凌は誰にも聞こえないように、日本語で呟いた。
「そんなこと云ったら、ムッシュ・ポールに怒られるわよ」
後ろから日本語の声が返ってきた。
「ええ!」
凌は驚きながら自分の耳を疑った。確か個展の客には日本人は居なかったはずなのに。
恐る恐る後を振り返る。
「そんな驚いた目で見ないでくれる? フランス語を話せる日本人が要れば、日本語を話せるフランス人がいても不思議じゃないでしょ?」
さっきは突然で認識していなかったが、よく聞いてみると、その日本語は日本人が喋るそれでは無かった。外国人が覚えた少しぎこちない違和感のある日本語だった。
「フランス人は母国語以外に興味がないものだと思っていたから」
凌はそこに立っている黒髪の引き付けられる程の魅力的な青い目の女性を眺めた。
どこかで、見たことが……。
「それは大昔の話じゃなくて? …まあ、殆どの人が母国語しか話せないけれどね。
あなたが、リョウ・サクライだったのね。初めまして、カトリーヌ・アルレーよ」
カトリーヌ・アルレーと名乗った女性は凌に握手を求めて来た。
「ボンソワール。マドモアゼル・アルレー。リョウ・サクライです」
差し出された手を握りながらリョウは光の加減で反射するアルレーの青い瞳を見詰めた。
「あ! 昼間、美術館に行く時にぶつかった人ですよね?」
「やっと気付いてくれた? そんなにあたしって魅力の無い女性かしら?」
「いえ、そういう訳じゃじゃなくて……」
そう云った受け答えに慣れていない凌は、しどろもどろに返事を返すしかなかった。
「冗談よ」
そんな態度の凌をアルレーは半ば楽しんでいた。
「へえ……あなただったんだ、アノ絵の作者は。私は好きよ、貴方の絵。そうね何処が好きかって言われたら、情緒的なところかしら。それって日本人独特の文化よね。私が思うに日本には梅雨というものがあるからかしら?」
「そうなんですかね? ぼくには…その…わからないんです」
「自分の絵なのに?」
「自分の絵だからだからです。確かに絵で生計を立てて有名になりたいと思っていましたよ…けど、実際に自分の描いた絵が売れ出すと…なんだか、逆に現実味がなくなっていくんです。ホントに売れてるんだ…どこがいいんだろう…とか、考えちゃうんですよ。確かに自分にとって満足いく作品は書き上げているって自負はあるんですけどね……価格が僕の想像の上をいっちゃってるんで……」
「自信が無い?」
「そういう訳じゃないんですけど……あ! すみません変な話しちゃって。こんな事ポールには言わないでくださいね」
アルレーは楽しそうに笑った。
「貴方の絵には、それだけの価値があると、私は思うわ」
「……?」
「だって、私の目にかなったんだから」
ここまで自信たっぷりに語る女性に、凌は出逢ったことが無かった。
上流階級のフランス女性とはこういうものなのか?
彼女は凌が今まで出会ったフランスの女性とは少し違った感じがした。
「カトリーヌ!」
ギャラリーのドアから出てきた中年男性がアルレーに近づいてきた。60歳前後だろう白髪をオールバックにした、体格のいい威厳のある男性だった。
「ボス! 遅れてすみません」
「かまわんよ。そんなところで何をしてるんだ? こっちに来なさい、作家先生を紹介しよう。ポールは知っているな?」
「ええ。作家とはもう自己紹介をすませましたわ。ボス」
「……?」
ボスと呼ばれた男は、訝しげな顔をしたが、そばに立っている凌の顔を認めると微笑んだ。
「君はプライベートでも有能らしいな」
「ありがとうございます」
凌はアルレーと共にボスと呼ばれた男の方に歩いていった。そこに、ポールが現れた。
「マドモアゼル・アルレー。お久しぶりです。」
満面の笑みを浮かべながらポールはアルレーの手を取った。
「今回はお買い上げ頂きまことに有難うございます。あなたは非常にお目の高い方だ。ムッシュ・セヌー氏も大変気に入られたようで、満足されてますよ」
ポールは凌を認めると、彼の肩を抱いた。
「紹介しますマドモアゼル・アルレー。こちらが期待の新人リョウ・サクライです」
「初めましてリョウ」
アルレーはスマートにポールとリョウに挨拶を交わすと、握手をした。
「今回はお招き頂きありがとうございます、ムッシュ・ポール。本当はパリの個展に伺いたかったのですが、どうしてもリヨンで重要な会議がありまして」
「いえいえ。残り物には福があるというでしょう。どうぞゆっくり楽しんでいって下さい。リョウ、こちらはフランスを代表する大企業FCエレクトリックの重役ムッシュ・セヌー氏とその秘書の、マドモアゼル・アルレーだ。アルレー女史は君の絵を高く評価してくれている方でね、もうすでに1点ご購入済みなんだよ。……ええっと確か」
「『悲しみの赤い豚』ですわ」
「そうだとも」
「有難うございます」
リョウは感謝の念をこめてお礼を言った。
「FCエレクトリックは携帯電話の部品メーカーでね。世界の市場を担っている大企業なんだ。確か、日本とも取引があるくらいだよ」
「日本は最大の取引相手ですよ」
セヌー氏はポールの賛辞に答えた。「初めましてリョウ」凌に握手を求めたる。「わたしも何度か日本を訪れましたが、素晴らしい文化をお持ちですね。特に水墨画は素晴らしい。浮世絵に北斎、あの色彩や、白と黒だけでおりなす曲線は正に人の心の津波を感じさせるものがある。リュウさんの絵にもどこかそんな日本文化の大胆さと繊細さを感じましたよ。あれは、日本特有のフゼイというものかね?」
「そういって頂くと感銘です」
握手を交わした凌の代わりにポールが答えた。
こういうときは笑顔を作るだけで、凌は会話をポールに任せ自分はあまりその中に入らないように心がけていた。特にポールの目配せが無い限りは。
相手をビジネスに誘い込むポールの話術と雰囲気を壊さない為だ。
「リョウさんの絵も、このアルレーに進められて観に来たのだがね。彼女はビジネスも優秀だが芸術にも目が無くてね、玄人はだしの素晴らしい眼力を持っているんだよ」「ありがとうございます。ボス」
「まあ……ときたま集中しすぎて時間を忘れて、遅れてくることが玉に傷なのだがね」
セヌー氏はアルレーの肩を抱きながら笑った。
「ボス。ここでそんな話しなくても。プライベートだけですよムッシュ。……プライベートで息を抜かなきゃいつ抜くんですか?」
「すまんすまん。そのとおりだ」
セヌー氏は貫禄のある雰囲気を出しながら豪快に笑った。
「こんな所で立ち話もなんですから中にはいりませんか?」
ポールが提案した。
「ささやかながら、わが国が世界に誇る最高のシャンパンもご用意しておりますので、どうぞ」
「セレモニーと言えばやはり、モエ・ドン・ペリニヨンかしら?」
「いえいえ…今回は貴女が来られるので、特別な品をご用意いたしました。有能な女史には有能な女傑といいますでしょう?」
「あら嬉しい。と云うと…」
「はい。ボランジェ RDエクストラ・ブリュットの96年ものです」
「まあ、素晴らしい。私の好みを何処で調べたのかしら」
ポールはアルレーのご機嫌を取ると、セヌー氏の肩を抱きながら凌に目配せをし、ギャラリーの中に入っていった。
私はセヌー氏と商談をするから、アルレー女史をご案内…接待しなさいと云う意味合いだった。
凌はポールの指示に従った。
「どうぞ、マドモアゼル・アルレー」
「ありがとう、ムッシュ・リョウ。楽しみにしてたのよ。貴方の新作が鑑賞できる事に。もちろん、あなたに逢える事もだけど…」
「光栄です。マドモアゼル・アルレー」
「堅苦しいのは抜きにしてくれます? プライベートなもので。先刻の時みたいで構いませんのよ、ムッシュ・サクライ」
「ウイ。アルレー」
「じゃあ、リョウ。ギャラリーを案内してくれます?」
「喜んで」
ドアを開けると凌は、先にアルレーを館内に招き入れ、歩きながらギャラリーを案内した。
ひとつひとつの作品に対してのテーマを凌はアルレーに語った。アルレーは凌の話に口を挟まず、黙って頷きながら絵を鑑賞した。
アルレーは絵を鑑賞しながら凌という画家を観察していた。おおよそは作品から想像していた画家のイメージに一致した。けれど想像と違う一面もあると感じた。ある部分は絵と比例しているのだが、どこか感じと違う違和感を感じるのだった。確かに作品と描く人間が必ずしも比例しているとは限らない。アルレーがよく目にする経営者も、イメージとその人の仕事の進め方は異なっていたりする。
ただ、アルレーの直感は、そういった事ではない別の何かを凌に感じていた。
秘書という仕事上、様々な人間、時には成功者、時には破産者を身近に見てきたこともあり、アルレーはその人間の奥に潜むもの、例えばエゴを見抜く目は肥えていた。裏切りや利権が渦巻く大企業間の取引では、一つの間違った信頼が莫大な損失をこうむる事がある。
そういった意味では、彼は安全な方の人間に入るとアルレーは感じ取っていた。
心の奥に感じた何かは、決して仮面では無かったからだ。
「シャンパンをどうぞ」
凌はポールが云っていた、アルレーに合わせて取り寄せた、ボランジェ RDエクストラ・ブリュットの96年物のボトルをギャルソンに告げて運ばせた。
「ありがとう。美味しい」アルレーはシャンパンを美味しそうに一口飲むと。「いい絵ばかりね」と凌に賛辞の言葉をかけた。そこにお世辞や嘘はなかった。ビジネスの時は別として、プライベートで人に気を使う事をアルレーは好まなかった。むろん、最低のマナーは忘れずにだが……。
ビジネスで関わる人間に対して愛想を振りまく事はかまわないが、プライベートは別だ。疲れてしまう。そのためかアルレーは極力ビジネスだけの繋がりの人間とはプライベートでは会わないようにしていた。それは社会に対して愛想笑いと嘘や偽善を長く続けていくアルレー独自の秘訣でありルールだった。
アートもそんなアルレーにとって窮屈な毎日を忘れさせてくれる魔法の1つだった。
アート以外でもアルレーには色々な魔法があった。魔法で重要なのは1級品と云う合言葉だった。アートにしても料理にしてもお酒にしても、アルレーは1級品の物しか好まなかった。どうしてか? 確かに金銭的余裕もあるが、アルレーにとって1級品とはそれだけに没頭して出来た芸術作品であり、そこに誤魔化しや妥協や嘘が無いからだ。アーティストはデザイナーと比べて貧困だが、社会や顧客である企業に対して決して媚を売らない。一流の料理人は素材に対しても、ソースに対しても唯のガルニに対しても、少しの妥協も許さず、例え5時間煮込んだメインだろうが自分が駄作と感じたものは破棄し、自分が納得する本物で最高の味しか提供しない。それが、アルレーの思い描く一流であり、そこから生まれた作品が一級品だった。
壊れた心にさよならはできるの? @r-sawaki
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