第1話

 鼓動が聴こえてくる。いわれもなくあたたかい鼓動だ。それは闇の中を振動と云う光であたためていた。まるでひな鳥をふ化させるために、自らのぬくもりを捧げる母鳥のような柔らかな時間……。

 ドクドクという優しい心臓の響き……。


 桜井 凌は目を覚ました。

 白いレースのカーテンの隙間から、朝もやの光が差し込んでいる。その光は徐々に移動していき、彼のちょうど目元のあたりを照らしだした。

「朝か……」

 凌はベッドから体を起こすと立ち上がって窓際まで歩き、カーテンを全開にした。外界から差し込む朝の太陽の優しさを全身に浴びながら、凌は目を擦って脳を覚醒しようとした。少し向こう側には小高い丘に建った、レンガ造りの旧市街地が望ける。窓から首を出し、下界を覗き込む。そこには街のレストランが連なる細い街路地が迷路のように広がっていた。たたずむ石畳には朝市に出かける人々や朝食の用意をするレストランの従業員の姿が見受けられる。生き生きとした足取りと、活気のある声が聞こえてくる。魚を運んだのだろうか、店の脇には3センチぐらいの氷が数個散らばり、朝の日差しを反射してキラキラと涼しげな趣きを演出していた。

「リヨンなんだ」

 凌は自分に言い聞かせる為に呟いた。 

 フランス第2の都市リヨン。

 彼は2日前からここに滞在していた。

 目的は自分の絵の個展を開く為だった。パリの南方、フランスのちょうどへその緒にリヨンは位地している。ここリヨンは昔より繊維産業の盛んな街で、年に数回世界的な繊維フォーラムが開催される。それに集まる人々を意識した個展だった。

 数年前に画家をこころざし、日本からパリに移り住んだ彼は、絵の創作や生活をしていく為にアルバイトに追われる日々を過ごしていた。だから、フランスではパリ以外の都市をあまり見たことが無かった。

 初日にしてこの地方都市リヨンは、凌のお気に入りの街になった。ここには彼を引き付ける空気感があった。パリには無いアットホームで気さくな雰囲気、のんびりした生粋のフランス人、キスギスした都会でも無く森林ばかりの田舎町でもない中間的な街の趣き、彼を和ますものがこの街には環境としてそなわっていた。国際都市として君臨しているパリは、他民族が入り混じって確かにウイットで、センセーショナルで刺激を受けることに事欠かないが、リヨンの様に古都フランスののんびりとした和やかさは無かった。

 窓を半分閉めると、凌はシャワーを浴びながら、歯を磨いた。これは彼の癖だった。洗面所では歯を磨く事を忘れてしまうのだ。シャワーを浴びながらでしか歯を磨く事を思い出せない。身体をバスタオルで拭きながら浴室を出て服を着替えた時、ホテルの電話が鳴った。受話器を取るとポールからだった。

 ポールはフランスでは少し名の知れた画商で、今は凌の画商兼スポンサーだった。

「おはようリョウ」いつもの爽快で元気な声が受話器越しに聞こえてくる。彼の大きすぎる声もはじめは耳障りだったが、馴染むと心地良いい。「目は覚めたかい? 覚めて無いなら、カフェでもどうだい?」

ポールはフランス人の殆どが掛かっている、カフェイン中毒の患者のひとりだった。苦笑しながら凌は10分後にポールとロビーで待ち合わせの約束をすると受話器を置いた。


 ポールの出会いは、友達とパリで開催したストリートパフォーマンスのアートショーがきっかけだった。

 画家を目指し日本を旅立って、フランスで生活をしはじめた凌は、芸術家の卵が誰でも経験する様にストリートで絵を描き売り始めた。風景画や観光客相手の似顔絵。だが、そんなに簡単に日の目を見ることは皆無だった。ただ、うまいだけの絵描きの卵なんてここ芸術の都にはごまんと溢れていたからだ。

 おのずとうまいだけでなく人々に魅せるパフォーマンスやコネも必要になってくる。

 語学を覚えるために入学したスクールで凌は何人かの同じような夢を追っているアジア人と仲良くなった。中国人、韓国人、タイ人、フィリピン人。様々な国の人種がそこには溢れており、目指しているものも様々だった。ファッションデザイナーに成りたい者、建築家、彫刻家、哲学者を目指す者。そこは、まだ叶わぬ夢を追い求める若者が集まる場所だった。共通点はたった一つしかなかった、全員がアジア人と言う事だけだった。

 初めは馴れない異国の学校という事もあり、お互いに警戒し距離をとっていたが、自然に彼らは話を交わす様になり親しい友人となった。そう、西洋では多々ある若干の差別と闘う戦友となった。

 彼らは日々、誰かのアパートメントに募っては、スーパーで買った安価なワインを飲み、パリでの生活や身の上話をしながら馬鹿騒ぎをした。話が深まっていくうちに専攻の学びは違うがアートと云う観念では同じ方向を向いているとみんなが感じるようになっていた。それはひとつの共感だった。誰が言い出したのか定かではないが、同じアジア人なのだから共同で何かしようという提案が出され。世間を賑わせられる自分たちにしか出来ない何かを。いつしかアイデアを議論するうちにアジア人が開催する、「ヨーロッパにアジアの美を」という題材でアート・ショーを開催しようという話で盛り上がった。

「双頭の龍だな」

 中国人のチャンが赤ワインをあけながら笑った。

 集まった7人の頭を龍に擬えたのだ。

 開催名は「双頭の龍……セプト・ドラゴン」と名づけられた。


 開催場所はパリ北部にある、モンパルナス駅近くの蚤の市の一角を借りて行われた。

 アジア人だからか初日は見向きもされなかったが、3日目になると観光客らの足を止めるようになった。

 特に双頭の龍をあしらった生地で作ったチャンのファッション・ショーは観光客や同じ蚤の市で出店している人たちにも、かなりの反響を呼んだ。背が高い同郷のモデルがチャンの服を着てウォーキングする。手には凌の絵やコーの陶器などをインド人みたいに頭に載せて観客にアピールする。それは見る者を魅了した。それには観光客や地元の人間のフラッシュも沸いた。

「ワールドだって。これ日本の企業だよな?」

 チャンの服は、注目を集め日本のワールドからオファーが来るほどだった。

「第2のゴルチェか?」

 彼等はアートショーの数日間、充実した日々をおくった。

 最後の日、凌にもオファーが来た。

 フランスで、パリとリヨンにギャラリーを持つ画商、ポールだった。

「あなたの絵の面倒をみてみたいと思っているんだが、どうかね?」

 ポールは流暢なフランス語で凌に話しかけた。

 まだたどたどしい凌のフランス語の知識ではついていけない綺麗なフランス語だった。それに気付いたのかポールは言葉を英語に変えて喋り始めた。彼はアイリッシュ系のフランス人で、アメリカの大学で教育を受けていた。

 ポールの屈託の無い笑顔に惹きつけられ、凌は彼に絵の面倒を見てもらう事を決心した。

 一週間のアート・ショーはそれぞれにとって、それなりの成果をあげていた。

 7人はアート・ショーを終えると、記念に左の腕に双頭の龍の刺青を彫ってもらった。

「君等のショーは斬新だったよ」

 ポールは凌に賛辞の言葉を贈った。

「ショーをアジアのインドに設定し、ファッションを楽しませ、その中に絵や陶器などを織り交ぜて、生活と共に共存する、アジア的アートはなかなかだったよ」

 凌にはポールがいわんとする事の意味が理解できなかった。

 ただ、思うように、自分達のアイデアを形にしただけなのだ。

「しかし、まだリョウの絵は荒削りすぎるね。他のみんなもそうだが、まだ、個人の力が出し切れてはいない感じがするよ。若干だがマーケットも意識したほうがいいかな」

 凌にはマーケットを意識する事がどういうものか飲み込めなかった。

「そこでだ、アジア的な意識も必要だが、僕が気に入ったのは、豚や猫などの動物の絵だね。悲しみの彼女という代のアジア女性の抽象画もインパクトは在るが、ぼくが求めているのは空想や現実の動物達の君らしい絵なんだ。わかるかい?」

「はあ……なんと無くですが」

「はじめは龍や豚を題材にした絵を描いて欲しい……描けるかい?」

 ポールは凌の目の奥に潜む意思を探っていた。

 凌は直ぐに答えなかった。変わりにそれらの絵がどういったものになるのか空想していた。

「そうだね」ポールは凌の返事を待たずに、もう了解を取り付けたかの様に、話を続けた「全部で20点描いて欲しい」

「え!20点もですか」

「そうだ。出来るかね?」

「……はい。やってみます」

「それでは、期限を決めたい」

「……期限ですか」

 多くの若手の画家を見てきたポールは凌の中にある光る才能を読み取っていたが、同時に凌に足りない何かをポールは認識もしていた。

良いところではほんのりしたあたたかさ、逆に言えば切羽詰った緊張感の無さだった。

 そこでポールは凌に絵の期限を与える事にしたのだ。それで潰れようがどうなろうがポールには関係無い事だった。変わりの画家は他にも沢山いた。

 画家の卵なんてパリには腐るほど溢れている。だが磨き上げれば光る、金の卵はほんの一握りしかいない……。

 凌にはその素質があるとポールは直感していた。なぜだか解らないが彼にはあたたかさと生への強い執着と安らかな死への臭いがしてならなかった。

 どうしてそう感じたのかは解らなかったが、それは時に人々を魅了する。

「3ヶ月だ」ポールは断言した。それは在る意味命令だった。そこに疑問や反論を挟む余地は無かった。「それまでに絵を描き上げて欲しい。3ヵ月後にはこのギャラリーで君だけの個展を開く。他の用意はすべて私がする。リョウはただ没頭して絵を描き上げてくれればいい。画材費や生活費が無ければ言ってくれ、私が用意する。3ヶ月間は私が責任を持って面倒をみる。それは、私の責務であり仕事だ。その代わり、リョウには必ずその期間で絵を……自分が納得できる絵を描き上げてほしい。ビジネスだからね。まあ、ギブアンドテイクだと考えてくれ。……今なにかアルバイトをしてるかね?」

「はい。日本料理店に週3回ほど」

「それは今すぐ辞めてほしい。自分で言いにくければ、私が話をする」

「いえ、大丈夫です。生活費も3ヶ月ぐらいならなんとかなります」

「だが、その先は分からないだろう。君が絵を描き上げたからといって私が納得するかどうかは別の話だよ。駄作であれば私は手を引くかもしれない。そうだな、、まずはショーの時に出した絵の中で、気に入った5点を私が買おう、それをこれからの軍資金にすればいい。

……そうだねえ」

 ポールは考える振りをしながら、心の中でその余興を楽しんでいた。

 どれくらいの、プレッシャーをかけるべきか。大きすぎても小さすぎてもいけない。ほどよい曖昧な数値が一番いいだろう彼には…。

「しめて5点で……3000ユーロで私が引き取ろう。それを、これからの創作活動のたしにすればいい」

「3000ユーロ……わかりました」

 平静に頷きながら、凌は一点600ユーロで自分の絵が売れる事に驚いていた。

 これは現実なのか?

 このやり取りを凌は、現実としてまだ受け止められないでいた。

 ただこれから3ヶ月でそれに相当する金額の作品を創作しなければいけない焦りは実感していた。

「君のアパートメントが観て見たいな」

 程よいプレッシャーをかけた後、ポールは人間味溢れる笑顔を凌に向け立ち上がった。

「え?!」

「これからパートナーとなるのだから。まずは親交を兼ねて、君のアパートメントに招待してくれないか? それから、君のアトリエを何処にするか決めよう」

 ギャラリーを出ると前の路地に止めてあるポールの車に2人は乗り込んだ。ポールの車はフランスの国民車プジョーだった。

 凌はポールに自分のアパートメントの住所を告げた。ポールはカーナビにその住所を打ち込んだ。

 プジョーの車内で2人は自分達の好きな画家やタッチ。フランスの芸術を含めた歴史観について語りあった。

 ポールは自己紹介がてらに、アメリカの大学に留学していた事を話した。それで凌も納得できた。ポールは凌が知っているフランス人とはどこか違っていたからだ。フランス人にしては芸術を愛しているとはいえ、少しビジネスライクな所があったからだ。それはニューヨーク仕込みだったのだ。

 プジョーは凌のアパートメントの路上に止った。

「ここか」

 凌のアパートメントは清楚な佇まいの一角にあった。

 住んで2年になるこのアパートメントは古めかしい2DKで中庭を囲んで建物が建っている。中庭の窓から差し込む光の渦を凌は気に入っていた。

 凌はキーを差込み重い真鍮の門を開け敷地内に入った。その奥に建物の入り口がある。ドアを開けいつ止るか分からない年代物のくたびれたエレベーターに乗ると4階のボタンを押した。

 ポールを部屋に案内しながら、少しは掃除をしとけばよかったと凌は思った

「ほう!」

 ポールは部屋に入ると全部屋を見て回った。

 これは、いつも自分がスポンサーになると決めた時の習慣だった。

 画家の住んでいる場所の雰囲気を味わい散策する。そうする事によって、その画家が秘めている感性や画風を肌に感じることができるからだ。

 部屋は創作する画家が住む日常であり未来へと繋がっている。

 いくらよい絵を描いても、売れなければ画家としては意味がない。

 画商としては時代を直感できるセンスが無ければ現代の顧客を掴めない。

 凌の部屋は古い時代の建物をリフォームしたもので、十分な広さがあった。キッチン、寝室はそれほど大きくないが、アトリエとなる部屋は広く、中庭に向かって大きな窓があった。アトリエには今まで凌が描いた絵が所狭しと立てかけられている。奥には現在製作中の、エッフェル塔に昇る龍の絵が、イーゼルに立てかけられていた。

 ポールは部屋を観察しながら、心の中で、これはいけるかもしれないと思っていた。キッチンにあるスプーン一つにしても何かしらのセンスがあった。

「何か飲みますか?」

 凌はキッチンをかたずけながら、ポールに聞いた。

「カフェを頂けるかな?」

 凌は蚤の市で80ユーロで買ったイタリア製のエスプレッソマシーンに豆を入れ、エスプレッソを2杯煎れた。

「ここにはながいのかい?」

 ポールは狭いキッチンで、凌に出された椅子に座りながら訊ねた。

「そうですね、多分2年ぐらいになると思います」

「多分……?」

 ポールには凌の言葉の意味合いがうまく掴めなかった。

 日本人特有の言い回しなのだろうか?

「日本はいい国かい? わたしは行った事がないんで、詳しくは知らないんだけどね、サムライ、芸者、ぐらいかな……着物はいいねあの模様と色づかいは素晴らしい。あと、食事も素晴らしいものがあるね、スシにテンプラ。一度日本人が経営しているレストランに連れて行ってもらった事があるんだけどね、確か…テッパンヤキっていう店だったかな、いや、あれは旨かったな、新鮮な肉や魚を目の前で焼いてくれてね、その手さばきが素晴しかったね。あのソースもなかなかだったよ、確かショ……」

「しょうゆですか?」

「そう! それだ! ショウユだ。はじめは口に合わなかったんだけどね、バターと組み合わせたら、これが絶品でね、肉や魚に合うんだよ」

 ポールは喋りながら凌の異変を感じていた。故郷の話題になるとどうしてか元気をなくした風に感じられた。

 彼は故郷を捨ててきた側の人間なのだろうか?

「日本は嫌いかね?」

 ポールは口に出して訊ねてみた。

「いえ、すみません……そう云うわけじゃないんですけど……」

「……?」

「…その……あまり覚えていないんです……日本での事を…」

「……?」

「……フランスでの最初の頃の事も」

 ポールは凌が何を伝えたいのか見つけ出せずにいた。

 凌は立ち上がると冷蔵庫から赤ワインを取り出し、グラスをテーブルに二つ並べた。

「もしよかったらですけど、飲みませんか?」

ポールは差し出されたワイングラスを無言のまま受け取った。

画家とスポンサーとはひとつの共同体であるべきだとポールは常々思っていた。画家を見出し、理解し、才能を最大限に引き出させ開花させ、世間に売り込む。それがスポンサーの役割だ。ただ、横から横へ流すのは、ただの画商に過ぎない。画商兼スポンサーをかねるポールは、まず画家の心境や想いを共同できなければならなかった。

「いただこう」

 凌はポールと自分のワイングラスに、赤ワインを注いだ。

 乾杯をして飲み干す。

「先に言わなきゃいけないとは思っていたんですが……。その…隠していても仕方のない事なんで……」

 3杯目のワインを空けた頃、凌はようやくポツリポツリと喋り始めた。

 ポールは笑顔を向けたまま、ただ黙って凌の話に耳を傾けていた。

「なんだか夢みたいな話だったんで……。逃したくなくて、話せなかったんですが……悪印象になるかもしれなかったので……」

 凌はただ、怖かっただけなのだ。

「わかるよ」

「……」

「私も、ニューヨークの大都会に留学していた頃は、色々隠していたものさ。フランスの田舎者だと思われたくなくてね」

「ありがとう」

 凌とポールは2回目の乾杯をした。

 新しい赤ワインを開ける。

「どう云ったらいいのか……僕には日本での記憶があまり無いんです」

「記憶が無い?」

「ええ。そうなんです。日本で暮らした事や、両親や、親友の事はかすかに覚えているんですが、どう生活してきたのか、彼らとどんな遊びをしたのかという記憶が無いんです」

「生まれついてなのかね?」

「いえ、事故に合ったんです」

「事故に……」

「ええ。気を悪くしないで下さいね。それで、フランスを恨んだりしている訳じゃ無いので。パリに来て4ヶ月後にテロに巻き込まれたらしいんです」

「らしい……?」

「はい。その事も覚えていないんです。両親や友人から聞いた話なんで……こっちに来て4ヶ月後に地下鉄に乗っている時テロの爆破があって、僕はそこに居合わせたみたいなんです」

「あの事件か……。私も覚えているよ、悲惨な事故だった、許せない現実だった。そうか、君はあのテロの被害者なのか」

「はい。……その時、僕は爆風にうたれ、瓦礫の中に埋もれているのを救助され一命をとりとめたみたいなんです……。僕が覚えているのは、病院のベットで意識を取り戻してからなんですが、そこに両親や友人が駆けつけて来てくれてて……無事を確認したのですが……その時にすでに、日本で生活をした記憶を無くしていたんです」

「それは……一時的な記憶喪失なのかい?」

「そうでは、無いんです」

「そうじゃない?」

「はじめは一時的な記憶喪失かと思われたのですが、検査の結果、一時的な記憶喪失ではない事が判明したんです。医者の話では、頭を強く打った時に記憶を保存しておく中枢がダメージを受けて修復不可能な状態に陥ってしまったらしいんです。それは機能しなくなり、一つの記憶の障害になってしまたらしいんです。……軽度の記憶障害だと云ってました」

「記憶障害?」

「はい。生まれながらに持ってる人や、老後に発病する人が殆どらしいのですが。突発的な病気や、高熱、事故などで発生する場合もあるらしいんです……簡単に言えば、全体的なデータの少ない記憶は留めておけるのですが、細部的な記憶はあまり長く留めておく事が出来ない病気みたいです」

「なるほど」

「それは絵を描く上でデメリットになるかも知れないと思い、云えなかったんです……」

 ポールはグラスに残っていた赤ワインを空けた。

「話してくれて嬉しいよ」

「……」

「私は画商で、君を売り出す。率直に云えば君を金儲けの山車にするスポンサーなのだが、まあパートナーだと思ってくれたらほうが嬉しいかな。そう、秘密を分かち合うパートナー。そんな関係の方がうまく行くとは思わないかね?」

「すみません」

「謝る事は無いよ、凌。それに、絵を描く上で、それはそんなに重きをおかないと思うよ。確かに記憶は無くなるのかもしれない、しかし、心の奥の感情は何かしらのイメージを覚えているはずなんだよ、それは現実的な意味合いは持たないかも知れないが、キャンパスをうめる、心の感情で描く絵には大きな意味合いを持つと思うよ。生活をしていたという些細な記憶は無くとも、人間には必ず体験してきた様々な経験は無意識のうちにDNAの中に刷り込まれているもので、それを完全に忘れ去る事なんて有りえない話なんだよ。生きている限りはね。それらは、歌を、言葉を、絵を創作する者に、確実に反響して現れるものだと思うよ」

 凌は黙って、ポールのグラスに赤ワインを注いだ。

「そんな断片を含めて、私は君を気に入ったんだがね。過去の記憶が無くても、私は気にならないよ。無意識に植えつけられた過去の感情を培って、今の感情と掛け合わせた新しい凌らしい絵を描いてくれさえすれば、それで私は満足だよ」

「そう云ってもらえると、嬉しいです」

「無論。これから我々が共にビジネスをし、年月が過ぎ、親しい友人になったら、その状態を非常に残念な事だとは思うがね……」

 凌はワインの酔いと、ポールの言葉に心を打たれていつしか涙ぐんでいた。

 プライベートな気持ちのポールはそんな凌を見て、これから親しい友人になれそうな気がしていた。

 一方ビジネスマンとしてのポールは、感受性豊かな凌の態度を売れるものとして喜んでいた。感情が豊かなものは様々な想いを絵に表現してゆける。いわゆる魂の宿った絵だ。それは時に人を悲しませ、時に人を感動させる。どちらにしろ人を引き付けて止まない美の表現は売れる作家の必然性だった。

 奇行のすえ自らの耳を切り猟銃で自殺したゴッホの様に、感情の波は人を魅了し狂気へと駆り立てていく。

「乾杯しよう!」

 ポールは立ち上がった。もう少しで飲みかけのボトルを床に落とすほどの勢いだった。

「ほら、立って凌も! 2人のこれからのお祝いなのだから!」

 1本半は空けただろうワインボトルを横に、酔ったポールは楽しそうに凌に笑いかけた。

「世界をマーケットにした、アートの世界にようこそ!」

 大げさな身振りで、ポールは左手を胸に当てる。

 ふたりはパリの小さな部屋で、世界に向けてグラスを重ねはじまりの音を鳴らした。


 結局、ポールの提案で凌はそのまま自分の部屋をアトリエとして絵を描く事になった。

 凌はアルバイトを辞め絵に集中し、約束の3ヶ月で20点を描き上げた。

 その3ヶ月は凌にとっては祝福の時であり、同時に苦悩の時でもあった。そう簡単に、満足のいく作品を何点も描きあげられるものでは無い。前の作品の手直し版も含め30点弱の作品を創出できたが、世間の目にさらされても良いと納得出来たものは7点あまりだった。残りはポールが鑑定し選出した。

 初のパリでの個展は、ポールの顔の広さもあり大盛況に終わった。個展にはTVで観たモデルや芸能人、ニュースキャスターも訪れ、握手をするたびに凌はポールの交友の広さを実感し感銘した。

 初の個展にして彼の絵の半分は売約済みとなった。

 凌は自分の絵が高値で売買されているのをめのあたりにしながらも実感がもてなかった。信じられないと云う思いが強かった。

「素晴らしいよリョウ」

 打ち上げはポールの行きつけのカフェで行われた。そこには業界人や、ポールの昔からの知人が集まり賑わっていた。ポールにとってこの店は美の何たるかをワイン片手に、友人たちと夜遅くまで語らえる特別な場所だった。

 ポールは満足そうに凌の肩を抱いた。同時に顔見知りになった人達が凌の肩を叩いた。

「ポールのお陰ですよ」

「いやいや。君の絵の想いが顧客の心を動かしたんだよ。これからも、いい絵を描いてくれよ」

「はい」

「次はリヨンだな」

 個展はパリに始まり、フランスのリヨン、イギリスのロンドン、イタリアのミラノという順番になっていた。

「アメリカは二の次でいいんだよ」

 それは酔った時のポールの口癖だった。

「あいつらは美の何たるかを知らない人種なんだ。ようは投機の為の美でしかないんだ。ドルの力を誇示したいだけなんだ。われわれのユーロに勝てやしないのにね。なあリョウ、有名になったら、君の一番気に入らない絵の贋作を億単位で売りつけてやろうじゃないか。やつらはそれでも飛びつくよ、必ずね」

 そうして数日後、ふたりは2回目の個展の為にフランス第2の都市リヨンに向かった。


「ここのエスプレッソは最高ですね」

「そうだろう」

 ポールは嬉しそうにカフェを飲みながら、トマト&ハムで、チーズとレタスも入っているバニーニを頬張った。ゆうに30センチはありそうなバニーニをポールは瞬く間に平らげてしまう。

 フランス第2の都市リヨン。ここはお菓子のフェスタでも有名だった。年数回世界的なお菓子作りの大会が開催され、世界中の有名なパティシエが集まり腕を競い合う。

 ふたりはベルクール広場を抜けたソーヌ川近くの、新市街にあるキッチン付きのホテルに滞在していた。

 凌はベルクール広場沿いにある、ポール行きつけのカフェで、久しぶりにくつろいだ気分になっていた。どこか雰囲気が京都に似たここリヨンは、懐かしい感じを凌に与えた。

「個展は明後日からだから、リョウはゆっくり街を観光していていいよ。私は何人か会わなければいけない人がいてね、付き合ってあげられないが」

 凌は頷くと、ポールとの軽い昼食を楽しんだ。

 彼の言動やアグレッシブさは凌を引き付けてならなかった。

 どうしてだろうか?

 凌は彼に懐かしさや、あたたかさを感じていた。

「丘の上は見晴らしが良くて、気持ちいいよ。フルヴィエール大聖堂はたいしたこと無いがな。ソーヌ川を渡って少し行った所にケーブルカーの駅があるよ。行ってみるといい」

 しばらく雑談をすると、ポールは勘定をすませ立ち上がり仕事へと向かった。

 凌はしばらくひとりでベルクール広場を流れるリヨンの日常を観察しながら、カフェを啜った。ルイ14世の騎馬像は、街行くカップルたちの会話を祝福しているようだった。

 凌はカフェを出ると、共和国広場まで歩き左に折れソーヌ川まで歩いた。川沿いの道ではマルシェが片付けられようとしているところだった。凌は最後の商品を売ろうと未だ店締めをしていない露店の魚屋を見つけ、好物のムール貝を1キロ、八百屋でエシャロット3個とニンニク1株を買って一旦ホテルに戻った。

 リヨンは凌にパリとは違う活気を与えていた。

 凌はムール貝を洗うとニンニクとエシャロットを刻み、オリーブオイルに香りを移す為に火にかけた。オイルに香りが染み渡ると、ムール貝と白ワインを放り込み火力を上げる。

 残った白ワインはグラスに注ぎ一口飲む。よく冷えた魔法の液体は凌の胃を心地よくさせた。

 ムール貝を蒸す間、凌はTVに目を向けた。画面ではビートルズ40周年を祝う特集をしていた。もう生きているメンバーも少ない。

 ジョンレノンはとうに死んでいる。

 魂として生きているのは、歌と心の叫びとオノヨーコだけだった。

 凌は冷蔵庫からペリエを取り出すと、白ワインに半分注ぎ、これから何処に行こうかと思案した。

 とりあえず、ケーブルカーに乗って丘に登ろう、先ずはリヨンの街全体を体感しなければ……。

 ビートルズの歌声を聴きながら、蒸しあがったムール貝を皿に取り出すと、凌はスプリッツァーの肴にした。

 凌はその曲に懐かしさを感じていた。けれど彼はその曲をどこで聴いたのかは思い出せなかった。

 TVを消すと凌はホテルを出てソーヌ川を渡り、旧市街にある駅で切符を購入し、丘までのケーブルカーに乗り込んだ。洞窟のような駅の出口を出ると真正面にフルヴィエール大聖堂が顔を出した。教会内に入りぐるりを鑑賞した後、隣接する公園でリヨンの街を見下ろした。

 リヨンの古めかしくも新しい街並みは、パリとはどこか違った雰囲気を凌に与えた。

 しばらく凌は公園のベンチに座り自然を楽しむ事にした。公園にはリヨンの人々や観光客が自然の恩地や景観を楽しんでいた。

「日本人?」

 公園をぶらぶらしていると、大きめのヘッドフォンをつけた観光客らしい英国風の男性が声を掛けてきた。

「そう」

 凌は頷いた。

「おー! 素晴らしい。オノ・ヨーコの生まれた国だね!」

 凌は曖昧に頷いた。

「僕はビートルズの大ファンでね! 僕の生まれたリバプールで彼らの音楽は生まれたんだ。僕はリバプールで育った事を誇りに思っているんだ。オノ・ヨーコは素晴らしいね! ジョンの心を掴んだ、ジョンの魂を知っている。ビートルズの音楽の本質を知っているよ。知ってるかい? ビートルズは今年で生誕40周年を向かえるんだ。凄いだろ、40年経っても彼らの音楽は色あせちゃいない、逆に新鮮で僕らの心を魅了してやまないんだ。」

「今日TVで見たよ。特集を組んでたよビートルズの」

「僕も見たよ。日本と云えばアニメと漫画のカルチャーだね」

「ああ」

「君はどの曲が好きなんだ? 僕はこの曲がたまらなく好きなんだけどね」

 断る事も出来ず、凌は英国人が差し出すアイポッドのヘッドフォンの片方を耳に当てた。

「ジャパンとビートルズの魂は、シンクロしてるよ」

 凌の耳元で、ビートルズのイエローサブマリンが弾けた。

「……」

「……どうした?」

 急に顔色を変えた凌を英国人は訝しげに覗き込んだ。

「大丈夫、何でもない」

 凌は平然を装いながら答えた。

 けど、体の中から溢れてくる、熱い感情を押さえられずにいた。

「どうしたんだ?」

「え?」

 自分でも気付かなかったが、凌は知らぬ間に涙を流していた。

 その曲に心を打たれていた。

「感銘したんだよ、ビートルズに……」

 凌は曖昧に答えた。自分でもどうして涙を流したのか分からなかった。

 英国人は納得したかのように、頷くと親指を立てた。

「ビートルズは国境を越えて、人々の心に沁み込む音楽なんだよ」

――イエローサブマリン――

 凌の耳の奥で、ジョンの声と魂と音色は繰り返し繰り返し木魂した。

 どうして、僕はこの曲で、涙を流しているのだろうか……?

 抑え切れない感情のなかで、凌の脳は自問自答していた。


「イエローサブマリン」


「ビートルズ」


 英国人と固い握手をして別れると、考える時間が欲しかったので凌は丘を歩いて降り、ソーヌ川沿いのサイバーカフェに入った。

――ビートルズ。

――イエローサブマリン。

 と検索してみる。

 けれど、画面にはありきたりの情報しか映し出されなかった。凌の知りたい物事はその奥にあった。もっと奥の……暗闇?

 どうして、涙を流したのだろうか?

 凌には思い当たるふしが無かった。

 思い返してみてもこの曲を聞いた覚えもなかったし、とりわけ好きな曲でもなかった、けれど記憶の片隅で凌はこの曲を知っていた。

 どこで聴いたのだろうか?

 思い出せない…。

 事故に合う前の事なのだろうか?

 凌は自問自答した。

 それは、僕にとって重要な事なのだろうか?

 凌は目を閉じて瞑想することにした。そうすれば自分の脳の奥に隠れている記憶の断片が呼び起されると思ったからだ。

――ビートルズ。

――イエローサブマリン。

 記憶の奥にある扉は凌の努力虚しく、直ぐには開こうとはしなかった。その扉さえ見つけることは出来なかった。

 その代わりに、別の記憶の扉が開いた。

 凌はフレデリック・アントネッティと言う、医者との会話を思い出していた。彼と凌が合ったのは事故から意識を取り戻した1週間後の事だった。

 最初は気にも留めていなかったのだが、病院に見舞いに来てくれた両親や友人の祐二と話している内に会話のちぐはぐさにお互い気付き出した。日本語は話せたし、彼らが誰なのか今までのどんな日常生活をおくっていたかは理解できていた。

 ただ時々話がかみ合わなくなるのだ。会話の流れや質問についていけない自分がいたし、それを見る不思議そうな顔をした両親がいた。

 彼らはあたりまえのように知って話しているのに、自分には覚えがないから答えられないのだ。

「結論から言いますと」

 精密検査を受けた後、医師のフレデリックは凌を含む4人に診断を下した。

「凌さんは、記憶の中枢に関する病気にかかっています。正確には記憶障害と云った方がいいでしょう」

「キオクショウガイ」

「たいていの場合、発症する人間は、生まれつき脳の記憶を司る中枢が欠損していて、きちんとした記憶を脳に貯蓄出来ない人なのです。凌さんの場合も、本来持っていた障害なのだと思われます。今まではかろうじて活動をしていたのですが、この事故で頭を強く打ったせいで、中枢が激しいダメージを受けてしまったのだと思われます。それによって、過去の記憶の一部が消失してしまったのです」

「それは一時的なものなんですか? また、何かのショックで記憶が呼び戻されるとか?」

「あわい期待を抱いて生きていくのは感心しませんから、この際率直に言わせて頂きます。ご両親もその方があなたの為だと考えているようですので。これは破損から来る記憶の障害なのです。一時的な記憶喪失ではないのです。消失であって喪失ではないのです。簡単に云うと、君の記憶を保存する組織はほぼ崩壊してしまったのだよ。普通の人間の記憶が100保持できるとすると、君は20しか保持しておけないんだ。そうなると脳は必然的に無駄と判断した記憶は留めようとしなくなる。生きていく上で必要不可欠な記憶しか保持しようとしなくなる。だから、今までの失った記憶が呼び戻る事もないし、これから生活していく上での記憶も、必要ないと判断されれば削除される可能性はありますね。異なる病気ですが、分かりやすく言えば一種のアルツハイマーみたいなものですね。まあ君の場合は一部が損傷しているだけで、これからすべての記憶が無くなる様な心配はないがね」

 両親と祐二は悲しそうな目をしていたが、凌にはそれほどの悲しさもショックも無かった。実感が無かったからだ。まわりの人たちには凌をみる時間枠が存在するが、本人にとって記憶を失うと云う事は、それまでの記憶が存在しないのだから時間枠も存在しない。悲しまなければいけない過去の悲劇も、現在の凌には存在しなかった。

 危惧したのは両親や祐二など、周りの人間たちだけだった。

 ひとつ喜ぶべき事があるとすれば、凌には事故にあった時の記憶も失われていたことだった。その為、時に人が陥る、事故による後遺症、精神的ストレスやトラウマを引き起こす危険性も少なかった。

 退院後も凌はいままで通りにパリで住むことを選んだ。

 両親も祐二も心配はしたが、反対はしなかった。異国の地でこんな事故に遭遇したのだから、「パリを諦めて日本に帰ってくれば」という言葉がでてもよさそうなのになぜかその言葉は両親からはでてこなかった。

 ……というより。

 凌は空港で彼らを送る時なぜか少し違和感を感じていた。

 両親はわが子が生死に関わる事故に遭遇したにもかかわらず、凌を日本に帰って来させたくないふしがあった。言動からしても、このままずっとフランスで過ごさせる方が、凌の為にいいのだという態度だった。

 凌はその時、たまたま自分がそう感じただけなのだろう、彼らは自分の画家への道を応援していてくれているに過ぎないのだと納得し、それ以上気にはしなかった。


 凌は記憶の検索を止め、2ユーロ払いサイバーカフェを後にした。

 ソーヌ川沿いを目的も無く歩いていく。

 医者の助言通り、幸いにして凌は退院してからの記憶は無くしてはいなかった。

 裁判所橋を渡り、旧裁判所のある世界遺産に認定されている旧市街地に足を踏み入れる。

 その川沿いでは、インディーズのアーティスト達や古美術商などが自分の作品や商品を路上で売っていた。

 旧市街地のソーヌ川沿いの石畳では、50を超すそれらの露店の店が列を成していた。絵や小物、アクセサリーやT-シャツなど、アートは様々な分野に細分化され、ひとつのマーケットとして成り立っていた。

凌はビートルズの事は忘れて、アートのマーケットを楽しむ事にした。

 そう云えば、テロー広場にあるリヨン美術館にも行ってみたかったんだよな……。

 そう思いながら凌はしばらくマーケットを散策した。

 次の橋まで歩いた時、凌は骨董品を売っている店で足を止めた。古ぼけているが職人の技が見て取れる木の箱の装飾品や、銀の装飾を施した宝石箱などが、所狭しと並べられていた。

「どんなものを、お探しかね?」

 50代位の主人だろう男が話しかけてきた。

「部屋に飾れる、ピアス入れがあったらいいなと思って」

「なるほど……それなら、いいのがあるよ。是なんかどうだい?」

 男は自分が座っている椅子の後ろにある大きな黒いバックに手を突っ込むと、ビニールに包まれた金の装飾が施された箱を差し出した。

「金は余り好きじゃないんだ。銀のはないんですか?」

 男は少し考えるフリをしてから、

「おお。そういえば最近仕入れた品で、いいのがあるよ。これは、掘り出し物だよ」

 男は日本人の凌になら高値で売れるだろうと思い、うやうやしくもうひとつの後ろのバックを空けると、中からくしゃくしゃの紙に包まれた、銀の宝石箱を取り出して、凌に手渡した。

 宝石箱を手に取った時、凌はゾクリとした感覚を感じ、背中に汗をかいた。

 確実な事は云えないが、凌はその宝石箱を見たことがあった。

 これは俗に言うデジャブーなのか?

 だが、どこで見たのかは思い出せなかった。

 凌は箱をまじまじと見詰め、蓋をあけて中を確認した。そこには四画に折りたたまれた古ぼけた紙が入っていた。

「その箱にはいわくがあってね」男は声を低くしながら、意味深な態度で凌に話しかけた。「ある田舎の貴族が自分の描いた絵に呪いをかけてその箱にしまったらしいんだ。自分だけの秘密のパンドラにね。まさか誰も宝石箱の中に呪いを書いた紙が入っているなんておもわないだろ? どんな呪いが掛けられているかは今となっちゃ分からないがね。今ならその紙付きで安くしておくよ……そうだね、200ユーロってとこかな。宝石箱も値打ち物だしね」

 凌は四つ折にされた紙を広げてみる、そこには何処かの港町のデッサンが描かれていた。左下には漢字で「誇瑠巣」という文字が書かれている。

 凌は目眩がしそうになった。

 このタッチや筆跡を見たことがあったからだ。

「どうだい。なかなかインパクトのある絵だろ? それに、なにやら象形文字らしい呪いの言葉が書かれている。こんな逸品はなかなか手に入らないよ」

「……」

「このセットでこそ値打ちがあるってもんだ」

「けど200ユーロは高すぎるよ」

 動揺を抑えながら、凌は交渉した。

「莫迦いっちゃいけないよ。ホントは、400ユーロはする程の値打ち物だぜ。それをたった200ユーロで手放そうって云うんだから……これ以上安くしたら、かみさんに怒られちまうよ」

「100ユーロ」

 値切りの交渉をしながら、凌は頭痛が襲ってくるのを感じた。とても気持ちの悪い頭痛だった。

 ヒュン!

 何かが頭の中を襲い、出てきては消え、ぐちゃぐちゃになった。

――赤!

 それはただ明るい赤のイメージだった。赤い……いや…これは……火?

「わかったわかった。じゃあ180ユーロでいいよ。それ以上はまかんないよ。あ、そうだその宝石箱とセットで絵もどうだい?」

「絵はいらない。150ユーロだね」

「まーまーあせりなさんな。日は未だ長いよ、日没まではまだまだ時間が有るよ。観てみるだけならソンはないってもんだ。その箱の主が描いた絵だよ」

 男は露店の裏に回り、A4サイズの額に入った絵を持ってきて凌に見せた。

「……!」

 凌は愕然として、何も云えなかった。

 そこにはタッチや色ずかい、抽象的な面も含めて、自分とまったく同じディテェールの絵があった。

 牛を題材にした、油絵だった。

 頭が痛い……もうこれ以上ここに踏みとどまれ無い……。

 凌は言い値でその宝石箱と絵を買う事にした。

「まいどあり。あんたいい買い物をしたよ」

 男は宝石箱を紙で包み、絵を袋に入れるとユーロと交換で凌に手渡した。

「どうした? 顔色が悪いよ」

「ああ。ちょっと偏頭痛持ちなんだよ」

 凌は適当な言い訳をした。

「うちのかみさんもだよ。いい医者を紹介しようか?」

「今度でいいよ」

「また来てくれよな。掘り出し物探しとくからさ」

 凌は荷物を抱え、小走りに歩き出した。石畳を登り橋に足を踏み入れる。凌は一息つくために橋の中央で足を止めアーチにもたれかかった。ソーヌ川はただ静かに街を漂っていた。

 どう云う事だ?

 凌は頭痛と戦いながら、頭をフル回転させた。

 僕の絵のコピーか? いやそれは在り得ない。僕はこの絵を描いた事が無いんだから。なら、同じ画風の他人の空似か? それなら在り得る。この世に何万枚と溢れている絵が誰かと似ていたからって不思議じゃない。だが、この漢字はどう説明する? 彼も日本人か中国人なのだろうか? そんな偶然ははたして在り得るのだろうか?

 ドン!

 思考にふける凌の横を、ひとりの女性が走りぬけようとして運悪く、凌の持っている袋に当たってしまった。中の宝石箱と絵が橋の歩道に散ばる。

ごめんなさい!」

 綺麗なフランス語が凌の耳に木霊した。

 見ると、肩までの黒髪をなびかせた、綺麗な女性だった。

 髪の毛の色とは反対に、目はサファイアのように青かった。

「いえ」

 女性はきびきびとした仕草で、歩道に散らばった箱と絵を拾うと凌に手渡した。

「ごめんなさい。ちょっと急いでたもので。リヨン美術館がもう直ぐ閉まるの……これ、あなたが描いた絵?」

 さっき購入した絵を見ながら、女性が訊ねて来た。

「……さあ? どうなんでしょうね?」

 凌は思ったままを口にした。普段ならもう少しましな返答が出来たはずなのだが、今はそんなよゆうがなかった。

「さあ……?」不思議そうな目で彼女は凌を眺めた。

「分からないんです」と凌は正直に答えた。

 女性はキョトンとした顔で凌を見据えてから、急に噴出した。

「変な人ね。自分が描いた絵なのかどうかも分からないなんて」

「それが問題なんですけどね」

「でも、いい絵ね。タッチがあたしの好きな作家と似てるわ……。あ! そんな話してる場合じゃないわ…行かなきゃ……美術館が閉まってしまうの。ごめんなさい。じゃあね」

 そういうと女性は。凌の前を駆け抜けて行った。

 凌はその印象的な青い目を脳裏に焼き付けながら、昔読んだ絵本の天使を思い出していた。

「分からないか……」

 そう呟くと絵と箱を袋に入れ、凌は橋を渡ってホテルまで歩くことにした。

 ホテルに着くとポールの部屋をノックした。だが未だ帰ってなさそうだった。しかたなく部屋に戻ると荷物を置き、残っていたムール貝を温め直し、半分ほど残っていた白ワインをグラスに注いだ。

 しばらく凌は椅子に座り込み、物思いにふけった。袋からさっき買ったばかりの宝石箱と絵を取り出し、絵を窓枠にかざり宝石箱を手にとってみる。

 今は初めて目にした時ほどのショックやデジャブーは起こらなかったが、確かにこの宝石箱を凌は見たことがあった。蓋を開けたり閉めたりしながら記憶のドアを探そうとする。

 しかし、何も見つからなかった。

 あきらめると凌はTVをつけ、思考を別のものに向けることにした。別の視点からのきっかけが見つかるかもしれないと思ったからだ。


 今まで自分が覚えていない過去について知りたいと思った事は少しはあった。けれど絵を描くことやこれからの事を考えると重要性は低く、いつのまにか覚えていない過去を振り返ろうとは思わなくなっていた。

 忘れられた過去なんて、知る意味が無いように思えたからだ。

 けれど実際に記憶の断片が蘇えってくると、知りたいという欲求も高まってきた。

 それでどうなる?

 凌は自問自答していた。

 過去を思い出したとして、そこになにか意味はあるのだろうか。今現在ここに立っている自分が自分自身なのだし、今まで生きて来たという証なのだから…。

 ドンドン!

 ドアを叩く音で凌は目を覚ました。

 3杯目のワインを飲み干したところで、凌はソファーの上でうたた寝をしていた。

 ノックの主はポールだった。

 隠す必要も無かったのだが、なぜか後ろめたく凌はあわてて宝石箱と絵をクロゼットに片付けるとドアを開けた。

「フルヴィエール大聖堂はよかったかい?」

 舌足らずにポールが部屋に入ってきた。

「隣の公園はよかったよ」

 凌は答えた。「接待酒ですか?」

「ああ。楽しい夜だったよ」ポールは酒臭いまま、いままで凌が寝ていたソファーにズッシリと座った。凌はポールのためにカフェを煎れテーブルに運んだ。

「リヨンの個展も大成功させるぞ凌! 皆なかなかいい奴ばっかりだったよ。セッティングは完璧だ」

 酔ったポールは個展でのことや絵の評価を嬉しそうに話しだした。

 ふたりはいつかの夜みたいに、カフェ片手に様々な夢を語り合った。


 その夜凌は、いつも以上に激しい鼓動の暖かさを感じていた。


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