壊れた心にさよならはできるの?

@r-sawaki

プロローグ

 それはいたって平穏な日常だった。悲劇が起こるとは到底信じられない街並みがそこにはあった。フランス、パリ。人が溢れるメトロの一角で事件は起こった。

 留学を終え、何年目かの滞在の後に凌はパリでの生活に慣れ親しんでいた。いきつけのカフェもできたし。嫌いだったエスプレッソも生活の一部として取り入れていた。

 メトロの階段を下りホームに出た時に肩を叩かれた。振り返ると同じ様にモンマルトンの路上で観光客相手に絵を売っている友人だった。彼とはたまたま隣に居合わせて会話をするようになった同業者だ。モロッコから来たという彼は凌と同じ片言のフランス語で喋る愛想のいい男だった。何度か彼の家に呼ばれモロッコ料理をご馳走された。凌は笑顔で「旨いね」と言いながらもスパイスが効いた肉料理には馴染めずにいた。ただそんな事言ったって相手が喜ぶはずもなく雰囲気も良くなるはずもなかったので、笑顔を向けながら我慢していた。エスプレッソの様に口に会う日がある事を信じながら。

「どうしたやけに楽しそうだな」とモロッコ人が訊ねた。

「そうか? 実は日本から親友が遊びに来るんだ」と凌は答えた。

「ほう。同じ画家か?」

「いや。彼は精神科医なんだ」

「精神科医?」

「ああ。心の病気を治す仕事だよ」

「もちろん知ってるよ」

 モロッコ人は、物知り顔で頷いた。だが彼にはその仕事の意味合いがあまり理解出来無いようだった。なぜなら彼には信じる宗教があり、精神科医なるものは必要無いからだ。信仰以外頼るべきものには意味が無い、それが彼らの考えなのだから。

「祐二って言うんだけどさ。彼は日本ではけっこう有名なんだ」

「どうして有名なんだ?」

「ニューヨークに留学している時に、『心のなかの秘密』って本を書いたんだけど。それが日本で出版されてベストセラーになったんだ。それで彼は周りの人や、企業のお偉いさんに助言を求められてさ。まあそんな関係でたまには日本のTVにも出演しているんだ」

「ムービースターか」とモロッコ人は肩を竦めて笑った。彼特有の冗談だ。それは、凌にも分っていた。「どうして精神科医が企業に呼ばれるんだ? 普通俺らみたいな人間を見るのが仕事だろ?」

「そうでも無いらしいよ今は。なんだっけ。そう、企業の上司が部下を育てる時の手助けをしてるらしいんだ。部下をやる気にさせたり、ナーバスになった部下をどう立ち直らせるかとか。そんな事の助言をしてるらしいんだ。まあ、現代の社会病やストレス病のケアだっていってたな」

「じゃあ俺も頼もうかな」

「ストレスを抱えてんのか?」

「いや」彼は笑いながら答えた。「絵を描くのにスランプを覚えた時にだよ」

「言えてるね。二人で見てもらうか」

「いいね」

凌が笑ったその時、ドガン! というけたたましい雑音が辺りに広がった。鼓膜が破ける程の音量だった。

 なんだ? と凌は周りを見ようとした。だが、それ以上考える間も無く、激しい揺れがホームを支配した。激しい火と粉塵が辺りを埋め尽くす。マグニチュード7以上のゆれと飛行機並みの轟音だった。隣の壁が崩れる。人々の悲鳴が聞こえてくる。泣き叫ぶ子供。発狂寸前の主婦。凌は何が起こったか分らないまま、瓦礫に埋もれて気を失っていた。


 耳にまとわりつく雑音で目が覚めた。

 視界がぼやけている。上手く焦点が合わなかった。心配そうな男の顔がかすかに意識できる。凌はその顔を覚えていたが、誰だかは一瞬分らなかった。彼は何か話しかけていた。はじめは上手く聞き取れなかったが暫くすると耳と感覚が戻ってきた。

「気がついたか凌! 僕だよ、分かるか? どこか痛むか?」

 懐かしい日本語の響きだった。

 だが凌は何も答えられなかった。目を開けたはいいが、頭が真っ白で何も考えられなかったからだ。

「聞こえてるのか? 分かるか? 名前を言ってみろ」彼は凌に問いかけた。

「え? 僕は、そう……桜井凌…だ……君は誰だ?」

「祐二だよ。分るか?」

「ああ。祐二か。どうしたんだ僕は?」凌は記憶を探りながら問いかけた。

「どうしたか覚えていないのか?」

「分らない。僕はどうして此処にいるんだ?」

 祐二はまじまじと凌を見ると考えながら「少し待っててくれるか」と優しく微笑みながら言った。

「ああ」

「君は疲れているんだ。少し眠った方がいい。分るか?」

「ああ。少し眠るよ」

 そう呟くと凌は目を閉じて安らかな眠りの世界に落ちた。それに費やした時間はものの2分も無かった。彼の肉体と精神は極度に衰弱していた。


 眠った凌を見て安心した祐二は彼の身体にシーツを掛けると病室を出た。

 そこには凌を診ている担当の医者が立っていた。

「彼は目を覚ましましたか?」と医者は訊ねた。

「はい。少し混乱していますが」と祐二は答えた。

「そうでしょうね。あんな事件にあった後では。しばらくは安静にしていなくては成りませんし。精神的な後遺症が残る可能性もあります。後は私が担当します」


「メルシィ(ありがとう)私は彼の両親を迎えに行かなくてはならないんで……」

「心配しないで下さい。この病院にはすべてそろっています。優秀な医者も看護婦も。さあ、彼の両親を迎えに行ってください。さぞ心配している事でしょうから」

「ありがとう。彼をお願いします」

「任せて下さい」

 祐二は凌を病室に残すと、彼の両親が着くだろうシャルル・ドゴール空港にタクシーを飛ばした。これからの事を考えながら……。


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