イマニモ
高橋 白蔵主
イマニモ
彼女の家は大きな陸橋の脇にあった。
隣が鉄工所だったので、錆を止める塗料の匂いがいつもしていた。
彼女はその匂いに包まれて育った。
中学校の頃、勉強をして少し視力を悪くした。
眼鏡をかけるほどではないが、遠くの看板などは少し見辛い。
県下で一、二を争う高校はどちらも学費が高かったので、彼女は県下で三番目の進学校に進んだ。
入学した当初はその選択を、ほんの少し悔やむこともあったが、一年間通ってみて友達も出来、そんなことを考えることはめっきり減っていた。
彼女は生まれつき、少し前向きなところがあった。
彼女の通う高校は、川のそばにあった。
川幅もそれほど大きくなく溺れるものもないような川だが、暑い日にはそちらから吹く風が心地よかった。
夏になると蚊が多くて難儀したが、どんなところでも一長一短だ、と彼女は思っていた。
彼女は自分の住む町が好きだった。
自宅から学校まで、自転車で丁度15分かかった。
毎朝彼女は自転車をこいで学校へ通った。
川沿いの道を走るのはとても気持ちが良かった。
ある日、通学途中に自転車がパンクした。
彼女は少し文句をいったが、中学に入った頃から不平一つ言わず頑張ってきてくれた自転車が初めて壊れたのだから、と、最後にはむしろ自転車に同情するような気持ちになった。
彼女は不思議と新鮮な気持ちで自転車を引いて歩いた。
いつも余裕を持って出かけていたお陰で、歩いても遅刻はせずに済みそうだった。
彼女は川沿いの、桜並木の道を、自転車を引きながら歩いた。
桜はとうに散って、葉を茂らせるばかりだったがうつくしかった。
やがて彼女はひときわ大きな桜の木の下を通り抜けた。木の葉から桜の匂いがした。
少し彼女は立ち止まり、今まであまり足を止めることのなかったその木を見上げた。
毎日、注意せずに通っていると見逃すものも多いものだ、と彼女は思った。
考えてみると、桜が満開の季節にもここを通っていたはずなのだが、こんなに大きな木を見た覚えはなかった。
ほう、と息をついて彼女は足を止めた。
木の根元に立て札が立っているのが見えた。どうやら木は名所旧跡の類のようだった。
彼女は自転車を押しながら緩い坂を下る。
立て札には「サテハ桜」と書いてあった。
むかし、豪傑に退治されて傷を負った妖怪がこのあたりで、ふ、と消えた。
次の朝改めて豪傑がそこを訪れるとそこには幹に傷のある桜の木が生えているばかりであった。
それを見て豪傑は「さては河童かと思ったが桜の精だったか」と言ったということである。
読みながら、面白い名前の桜だ、と彼女は思った。
サテハ桜、と彼女は口の中で繰り返してくすりと笑った。
桜の木がいまだ元気に繁っているというところを見ると、河童だか桜の精だかは退治され損なったわけだ、と彼女は思った。
なら今でも化けて出るのかもしれない、そこまで考えて首を振った。苦笑いをした。
この現代に妖怪なんて。
「…そんなわけないよねえ」
自嘲気味に呟くと、ごう、と風が起こった。強い風に彼女は目をつむった。
目を開けると、彼女の前に男が立っていた。
身なりはきちんとしているが背のあまり高くない、目の大きい男だった。
男は自分の首元に手をやって、彼女を見た。
彼の背広が軽く風にはためいた。
「今にも」
男は囁くように言って帽子を押さえた。
彼女は呆気にとられたまま目を大きく開き、ただ男の顔を見ていた。
もう一度風が吹くと男の姿は、砂が崩れるように掻き消えた。
がしゃん、と音を立てて彼女の自転車が倒れた。
*
学校に着いて、彼女は少し興奮気味に友達にその話をした。
しかし友達の反応は、彼女が冗談を言っていると思うばかりであった。
ただ一人、読書家の友達が、似たような話をどこかの本で読んだことがあると言った。
彼女は図書館で、怪異について書かれた本を何冊か借りた。
その日は別の道をまわって帰ることにした。
皆があまり笑うので彼女自身、幻をみたような気分になっていたが、やはり少し気味が悪かった。もののついでに市中に寄り、自転車のパンクを直してゆくことにした。
詰めた本のせいで鞄はいつもより重たかった。
彼女は自転車屋でパンクの修理を頼み、出来上がるまでの時間を近所の百貨店で過ごした。
CDでも見て回ろうかと思ったが、それにしても朝のことが気になった。
彼女はエスカレーターの脇のベンチに座って借りた本を開いた。
しばらくぱらぱらとめくるうち、九州に似たような妖怪が出るという話が書いてあった。
明治時代のこと。二人組が歩きながら、文明の世の中には妖怪もさぞ住みにくくなったことだろう、もういないのではないか、というようなことを話していると、不意に妖怪が現われて「今にもいるぞ」と言って消えたと言う。
不思議な話だった。
しばらくして彼女は本を畳み、自転車屋に戻った。
直った自転車を漕いで、彼女は市中の道を走る。
彼女はぐいぐいと自転車を走らせた。
*
明くる土曜日のことであった。
サテハ桜の故事を調べようと、彼女は市立の図書館へ足を向けた。
図書館所蔵の郷土資料の中には、サテハ桜の怪異について詳しく載っているものもあるやも知れないと彼女は考えたのである。
昼前の早い時間に、館内に人はまばらであった。
棚と棚を渡り、彼女は目指す資料に行き当たる。
家に帰ってゆっくり調べようかと思ったのだが、資料には館外持出を禁ずる旨のラベルが貼ってあった。
彼女はため息をつき、一度昼食をとりに家へ戻ることを決めた。
午後から腰を据えて、閲覧室で調べた方が利口のようだった。
彼女は駐輪場に止めた自転車の鍵を外しながら、自分の妙な情熱に苦笑いをした。
彼女の体験したものは、件の桜のことを調べれば腑に落ちるという類のものでもない。
しかし、調べずに放っておくのもすわりが悪い。好奇心というものは厄介だと思った。
よく晴れた空を見上げ、彼女は帰りがけにもういちど、サテハ桜を見に行こうと思った。
桜の木は何の変哲もなく、以前と同じ風に立っていた。
パンクのしていない自転車では通り過ぎてしまうような佇まいだ。
自転車に乗るのと自転車を引くのと、目線の、たった数十センチの差でも、世界は変わって見えるようであった。
近付いて自転車を降りるまでは、それほど大きな桜ではないように見えた。
彼女は少し手前に自転車を止め、桜の根元に歩いた。
昨日の朝と変わらぬ大きな桜であった。
怪異の起こる様子も、妖しい雰囲気もない。するのは土曜日の午後の気配のみである。
「なんだ、つまらない」
彼女は少し笑いながら口に出し、昨日と変わらぬ文面の立て札をもう一度読んだ。
「さては河童かと思ったが、桜の精だったか」
無論文面が変わっていよう筈もない。
土曜日の桜を見上げ、彼女は自転車のところへ戻る。
振り向くも、桜の葉は風にそよぐばかり。
昼食までまだ少し時間があったので、彼女は自転車を引き、のんびりと川を眺めながら歩くことにした。
彼女がまだ子供だった頃、岸にいるのは子供が殆どであった。
ざりがにを釣る子や、虫をとる子らが、嬌声をあげている記憶ばかりがある。
しかし時代は変わるものであった。
時代は流れて、景色は変わっている。
子供の遊びの質も変わる。岸に子供の声がすることはめっきり減った。
造成で川原は小奇麗に変わった。
整備された川原は、すっきりして見えるようになったが匂いをなくした。
それを嘆くのもいいが、別に嘆いたところで何が変わるわけでもない。
その時代その時代の子供にとっては、今あるものこそが現実であり、全てである。
彼女はぼんやりと川を眺めながら歩いた。
*
家に帰り、彼女はのんびりと昼食を作った。
適当に米を炒めている外では、かん、かん、かん、と隣の鉄工所の音が響いている。
熱くなった鍋の炒飯が、じゃいじゃいと音を立てていた。
軽く汗をかいて、彼女は昼食をとった。
麦茶を飲みながら、自分で作った炒飯を食べて、ぼんやりとテレビをつけた。
土曜の午後にふさわしい、はしゃいだようでいて気だるい、ぼってりした雰囲気の番組が流れてくる。
不意に電話が鳴った。
スプーンをくわえてひょいと電話機を見やり、彼女は電話に出た。
咳払いをして、少し低い声で応対をすると電話の向こうからは聞き覚えのある声が響いた。
クラスでよく話をする女友達だった。
地元の神社での夏祭りへの誘いだった。
待ち合わせの場所を決め、すこし他愛のない話をして、電話を切った。
午後の予定を考えながら彼女は畳の上に横になった。
ぺたりと倒れて、窓からのぞく空を眺めた。
「あついなあ」
彼女は呟いた。
しばらくごろごろして彼女は起き上がった。
腕に畳の跡が少し残っていた。
素足のまま彼女は居間に戻り、麦茶を飲んで出かけることにした。
今度は川沿いの道を通らないことにした。
*
午後一番の図書館は眠い雰囲気だった。
足音を吸う絨毯の上を歩き、午前に目星をつけておいた棚から、郷土資料の本を何冊か抜き出す。
さげた鞄が邪魔になって、少しぶかっこうな持ち方になったが、彼女はともかくも自習室へ向かった。
夏休み中でも、受験の追い込み時期でもないそこは、案外空いていた。
見回して、どこかで見たような人がいる、と思うとそれは昨日、怪異についての本を紹介してくれた読書家の友人であった。
友人の前の机にあるのは参考書だった。
「や」
寄って彼女が声をかけると、友人は驚いて振り返った。
口をあけて自分に声をかけたのが彼女であることを確認し、友人はもう一度驚いた顔をした。
「珍しい、勉強?」
尋ねようかと思っていたことを逆に聞き返されて、彼女は肩をすくめた。
友人の目が彼女の抱える本に向く。
「ああ、昨日の」
友人が納得したように呟いて少し笑った。
まあ、と曖昧に答えて彼女は友人の隣に座った。
「知識欲旺盛であるね」
どさりと本を机に乗せる彼女の方へ向き直って、友人は背もたれに肩肘をあずけた。
「うん、まあ、なんだか気になっちゃって」
「ふうん」
「そっちこそ、何、こんな時期から受験勉強?」
「や、まあ」
友人は照れた顔になって、口をむすんだ。
友人の肩越しに、向こうの机で本を読んでいる中年男性と目が合った。
別にその人は咎めるような顔をしている訳ではなかったが、彼女は彼に会釈をして、友人に苦笑いをした。
友人は友人で彼女越しに、別の誰かと目が合ったようだった。
まあ、後で、とお互い頷きあって、二人はそれぞれの机に向き直った。
ただ資料を読むだけというのもつまらない気がしたので、レポートを作るようなつもりで幾つかメモをとった。
しかしサテハ桜についての記述は、どの資料も桜の木の脇に立てられた説明板と似たようなことが書かれているばかりだった。
一冊、妖怪を切りつけた豪傑の名前を記してある本があった。
彼女は、その豪傑の名前を手がかりに他の資料を探してみることにした。
隣で黙々と問題集を解いている友人をちらりと見て、新しく本を探しに向かう。
読み終えた分の資料を棚に戻し、そばに並ぶ本の題名をつらつらと眺めるが、どの背表紙にも今ひとつ心にひっかかるものがなかった。
腕を組んで彼女は時計に目をやった。
別にそれほど疲れたわけではないが、そろそろ休憩をとっても良い時間だった。
結局、新しい資料を棚から抜き出すことなく、彼女は自習室に戻った。
戻ると、ちょうど友人も自分の作業に一段落をつけたところのようだった。
友人は少し疲れたような顔をしていた。
顔を見合わせて、一度外へ出ることにした。
*
おもてへ出て、二人は太陽に目を細めた。
「やはり図書館は涼しいね」
「ね」
そんなことを言いながら、そばのコンビニエンスストアでそれぞれアイスキャンディーを買った。
図書館のおもてのベンチに座って、二人はアイスを食べた。
「…で、どうなのよ」
友人が、綺麗な水色のバーを齧りながら彼女の方を見た。
「どう、とは?」
「例のオバケの話は、何か判った?」
「ああ、ああ」
彼女は二度頷いて、友人と同じようにアイスを齧ってから喋った。
「なんだかね、九州にそういう妖怪がいるみたい」
「九州」
ため息をつくように唇を尖らせる友人に、学校の図書室で借りた本の題名を告げると、おお、と彼女はもう一度息をついた。
「読んだことあるよ。なるほど、それか。思い出した思い出した」
大きく頷いて友人は楽しそうな顔になった。
彼女は対照的に首を振る。
「でも、判ったのはそれくらい。あとはダメだよ」
「さよか」
「うん」
答えて彼女は、暑さに溶けそうになるアイスを吸った。
友人が小さく頷いて感慨深げな声を出した。
「面白い時代だね、九州の妖怪が東京に出る」
「…これも地球温暖化かもしれないねえ」
「なんだ、それ」
彼女が言うと、友人はまるでとんちんかんなことを聞いたように笑った。
合いの手を入れたつもりだった彼女は、少し顔を赤くして弁解した。
「や、だって、九州の蝉が温暖化で東京にも住むようになったって、こないだニュースで見たから」
「でも、妖怪と蝉を一緒にするかなあ」
「似たようなものじゃない」
あはは、と眉をハの字に下げて友人はさらに笑った。
始めは困った顔をしていた彼女も、その明るさにつられて笑ってしまう。
ひとしきり笑って友人は腹を押さえ、ふう、と息をついた。
「しかし、世知辛いね」
「…何が?」
「私たちが大人になる頃には、日本は水没しているかもしれん」
「そんな大袈裟な」
「だって、この間映画見たよ、日本沈没」
「知らないー」
唐突な話の展開にただ笑っていると、溶けたアイスの雫がぽたりと落ちた。
「早く夏休みにならないかねえ」
棒だけになったアイスをくわえて、友人が空を見上げた。
「もし、温暖化が進んでさあ、夏が今より凄く長くなったら、夏休みも長くなるのかな」
友人は彼女の方を横目で見て、い、と口を横にした顔で笑った。
「あんた、真面目なんだか不真面目なんだかわかんないわ」
「まあ、ねえ」
彼女は曖昧に返事をして、友人と同じように空を見上げた。
蝉が鳴いていた。
「でも、あんた幸せだわ」
「?」
「日本の源風景ですよ、妖怪なんて」
「…」
「日本がアメリカになったり、列島が水没したり、太陽が爆発したりする前に見ておけて、幸せだ」
目を細める友人の顔は、午後の、それでも強い光線に照らされて光って見えた。
ふと思いついて、彼女は友人に声をかけた。
「わたしたちが大人になる頃には、妖怪なんて本当にいなくなるかな」
「私たちが大人になる頃には、もう地球は滅んでるかも。隕石とかで」
同時に喋ってしまって、二人で笑った。
なんて言ったの、と聞き返そうとする前に、ごう、と風が起きた。
「そのころには」
二人の真後ろで囁き声が聞こえた。
驚いて振り向くと、そこには昨日、桜の木の下で出会った男が腰をかがめるようにして首をかしげていた。
声もない二人。
「い、いまにも」
昨日、本で読んだばかりのその妖怪の名前を彼女は呼んだ。
イマニモは不思議と優しいようなそうでないような顔で笑い、すう、と風に混じるように溶けていってしまった。
二人はしばし呆然と消え行く男の姿を見送り、それから揃ってアイスを落とした。
*
結局、桜の精がイマニモなのか、それよりも彼女たちが見た<それ>が本当にイマニモもしくは桜の精なのかということさえ、わからなかった。
珍しいものを見た、と興奮冷め遣らぬ様子の友人と別れて自転車をこぎながら、彼女は最後に聞いた言葉を思い出していた。
そのころには。
いまにも、としか言わないからこそイマニモという名前なのではなかったのだろうか。
やはりあれはイマニモという妖怪ではなかったのだろうか。
それよりもあれは、自分が言ったことと、友人が言ったことと、どちらに向けた言葉だったのだろう。
それが気になった。
「色々反則だ」
力強く自転車をこぎながら、彼女は息を吐くように呟いた。
土手へ上がる道が見えてきた。
「地球が、そう簡単に、滅びますか、っつうの」
彼女は力強くペダルを漕ぎながら土手への坂道を登った。
「妖怪が、そう簡単に、いなくなりますか、っつうの」
息を吐ききる彼女の前に、なだらかな川が広がった。
イマニモ 高橋 白蔵主 @haxose
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