Best Friend

久河央理

第1話 友情と勉学

 放課後、二年一組から大声が響く。


「お願い! このとおーり!」


 教室内にいるのは男子生徒が二人。

 一つの席を囲み、一人が立って、一人が座っている。

 前者、近江昴は若干の癖がある赤毛の持ち主だ。

 全国平均とほぼ変わらない身長、ほどよい筋肉のついた運動部らしい体格、他にずば抜けた身体的特徴はなし。まさに、ザ・男子高校生といった見た目である。

 彼は必死の形相で、目の前に座る男子に向かって手を合わせていた。


「頼むよぉ、秀司!」


 後者、拝まれている生徒は遠山秀司。

 まっすぐな黒髪で、表情はあまり豊かな方ではないが、その爽やかな顔立ちと合わさってクールな印象を付けている。


「うーん……」


 彼は僅かに顔を顰め、昴を見上げていた。しばらく見つめ合っていたが、そうしていてもどうにもならないと判断し、秀司は諦めの溜め息を吐く。


「仕方ないなぁ」


「やったー! ホント、頼れるのは秀司だけだぜ〜」


「そっか、じゃあ早速始めよ。二科目もあるんだから」


「待って。おまえ、そこはちょっとくらい照れてもいいんじゃねーの? オレの『特別』なんだぞ?」


「うん、そうだね? でもなぜ昴相手に照れる必要が? 俺たち、親友だろ?」


「お、おう。そう言われると、妙に照れくさいような……」


 秀司がすっと立ち上がると、二人の高さが逆転する。昴と並んで立ったとき、バドミントンのシャトルコック一つ分くらい抜き出るほどの背丈があった。


「ってことでやるよ。まずは英語からでいい?」


「お、おう……任せた」


 ぱっぱと机の向きを変える秀司に従い、昴は自分の机の中や鞄からテキストなどを取り出す。課題として書き留めたページ数を見て、明らかに表情を歪めた。


「げぇ……」


「ほら、時間もったいない」


「なぁ、秀司」


「やだ」


「まだ何も言ってねーけど!?」


「顔に書いてある。まずは自分だけで進めて、分からなかったら聞くこと」


「むぅ……」


「返事」


「あーい!」


 昴が秀司の席に戻ると、彼もまた勉強道具を用意していた。課題をやる昴に付き合う傍ら、彼自身はテスト勉強をするようだ。

 秀司は二学期の期末試験が迫る中で、時間を無駄にするような生徒ではない。どんなテストでも総合一位は当たり前で、ついでに運動もできるから女子人気は相当なものである。

 さすが、と昴は感心した。見習わなくてはなるまいと思いつつも、自身には若干の無理を悟りながら席について課題を進める。

 五単元中、三単元半――。

 それは終わっているものではなく、終わっていないものだ。ページにすると、まとめも含めて計九ページ。我ながら溜めたものだと、昴はため息を吐いた。


「秀司〜本当に写しちゃダメ?」


「ダメ。俺の苦労を楽に貰わないでほし――じゃなかった。昴のためにならないからダメだ」


「ほとんど言ってんじゃねーか!」


「まあ、どっちも事実だから」


「くっそ〜!」


「昴はズル、しないよね?」


「もっちろん! オレは清純派だからな」


「…………」

 何言ってるんだコイツ。

 という意味の籠もった視線を感じ、逃げるようにして昴はドリルと向き合う。


「あれ、動名詞と不定詞ってどっちがどっちだっけ……?」


「不定詞が未来。前置詞で考えるといいよ」


「なるほど~」


「二回は言わないからな」


「書いとくぜ!」


 屈託のない笑顔で敬礼をしてみせる。

 その様子に秀司は呆れの表情を浮かべ、手をひらひらとして先を促した。



 ――数分後、再び疑問が生まれる。

 今度の昴には迷いがなかった。


「なー、これは何が違うんだ?」


「選択の有無。『しなくてもいい』と『しちゃダメ』……これもテスト範囲だよ」


「めっちゃメモするぜ!」


「……心配しかない」


 秀司から零度の眼差しを受け、昴はあからさまに居心地悪そうな表情で目を逸らす。


「なんだよなぁ。せっかく今日が、テスト前最後の部活日なのに。何してんだオレ!」


「今後は、課題を忘れて溜め込まないように」


「実感したよ。けど、本当にありがとな、付き合ってくれて」


「部活行っても、一人じゃバドミントンは出来ないし」


「そうだな。あぁ、しくった!」


 三年生が引退してから早数ヶ月、現在の部員は昴と秀司の二人だけになっていた。

 元より特に力を入れているわけでもないため、「楽しく運動!」をモットーにしたサークルのような部活ではある。

 それでも、昴はバドミントン部が好きだった。


「ま、終わり次第できるだろ」


 水筒を開けて茶を飲む秀司の一方で、昴は希望の響きに瞳を輝かせる。


「……! 秀――」

 彼の名前を感動ながら口にしかけたところ、蓋を閉めながら秀司は呟いた。


「終わらないと思うけど」


「ぐふっ」

 昴の希望は、すぐさま見事なまでに打ち砕かれた。


  **


 数式を書きながら、はてと昴は首を傾げる。


「なぁ秀司、なんで勉強しなきゃいけないと思う?」


「将来のため」


 秀司は手を止めぬまま、迷いなくそう答えた。

 だが、昴が求めていたのはそういうことではないらしく、天井を仰いで不満げに言葉を続ける。


「まあそーなんだけど、実感が湧かねーっていうか。具体的にどう役立つんだろうとか考えちゃったら、なんか意味ないように思えちゃって」


「ん?」


「大人はみんな言うだろ、あれしとけこれしとけって。分からなくはないんだけどさぁ。マイナスになるからやめとけって言うならまだしも、プラスになるからやっとけって言われても、オレには分かんないな」


「そうかな?」


 なぜ勉強するのか――秀司にとって、それは愚問だった。

 考えたことのないことで、考える必要もないこと。考える意味を感じないこと。

 今がそのときだから、やれと言われたからやる。やるなら半端はしたくない。それだけなのだ。


「オレはそうなの! まだこれって夢はないし、将来を考えてみても、何をしたいか分かんねーんだ。高校を卒業して、大学に行ってその後は……。何がしたいんだろーな」


 シャープペンシルをくるくると回しながら考えはじめる昴に対し、秀司は溜め息を吐く。


「それを考えるのは、今じゃないだろ」


「うー、そうだけど……! 勉強してるときってこう、現実逃避したくなるだろ?」


「気持ちが適当だからじゃない?」


「言うな、言うな!」


「昴、か・だ・い」


「あいよぉ!」


 涙声になる昴を見て、秀司は僅かながら眉をひそめた。何がそこまで嫌なのだろうか、と。


「大丈夫? テストはこれからなのに」


「分かってるよ」


「本当に? 来週もちゃんと勉強しないとだぞ。部活のない期間中にみっちり勉強して、無事に乗り切らないと。……また、バドミントンできなくなる」


「それは困る!」


「じゃあ、やるしかない」


 ペンを取って、お互いにまた勉強をはじめる。

 すると、ふと思いついたように昴が口を開いた。


「……あのさ、お願いなんだけど――テスト勉強、一緒にしてくれないか?」


「一緒に、テスト勉強を? なんで?」


 目をぱちくりとし、秀司は首を傾ける。これまでは一人で自宅に籠もるばかりだったため、それは新鮮な提案だった。


 ――と、同時に疑問が浮かんだ。

 今だって、手伝ってと言われたからこうしているが、そうでなければ理由がない。

 テスト勉強には上限がない。だから、誰かといる時間を作ったら、無駄な話だってしてしまうだろうし、効率を考えると良策ではないように思う。


「その……今日めっちゃ助かったし、ちょっと楽しかったからさ」


「楽しい必要はなくないか? それに、一人の方が効率良く出来るだろ?」


「いやいや。オレは家じゃ、まーったく集中できない。すぐさっきみたいになるんだよ。なんなら永遠に考えちまうもん」


「……ふぅん」


 そういうものなのか、と秀司は飲み込む。確かに、先刻の昴の様子にはそれとない説得力があった。


「あとは、あれだ。秀司自身の勉強にもなるだろ? ほんと、ついでにちょちょいと教えてくれねーかなって。あ、いや、秀司の勉強になるかは、実際には分かんないけど……」


 昴は控えめな調子になって、ごにょごにょと言葉を探しながら訴える。あまりにも必死なその姿が、部活勧誘のときを思い出させた。

 どう存続させるか、どうやったら秀司に入部してもらえるか――上手い答えが出なくとも諦めない彼に感化されたのだった。


「いいよ」


「マジで? うぉっしゃぁ!」


「昴がちゃんとやってるか、監視もしなきゃだ。むしろそっちのが大事かもね」


「ヨ、ヨロシクオネガイシマース」


 明るくなったり暗くなったり、喜んだり無になったり。コロコロ変わるその態度も表情も、秀司にとってはとても滑稽で救いだった。

 自然と頬が綻び、静かに吹き出す。


「なんで笑うんだよー!」


「……別に、なんでもない」


「なんだよぉ……」


「で、昴の目標は?」


「お、そうだな。部活禁止だけは――赤点だけは、避ける!」


「低い……」


「しょーがねえだろ!」


 じっと見据えてくる秀司の視線が痛いのか、昴は少し居心地が悪そうに睨むようにして正視した。


「なんだよ、秀司」


「俺とやるなら、最低ラインは平均以上ね」


「げっ。ま、まあ、オレなりに……。いや、とにかくがんばるぜ! 秀司とやるバドの時間をちゃんと守るぞー!」


「それは当然。あっ、そこの答えちがう」


「えっ、どこから?」


「ここの計算から」


「んんん――?」


 時計の針先はあと半周で最終下校時刻を示すところまで来ていた。


  **


「秀司が、総合一位を逃した……!?」


 掲示板を見上げながら、昴は絶望に近い声を上げた。

 遠山秀司――その名前があるのは上から三番目の場所だった。


「あ、本当だ」


 昴の背後から、ぬんっと覗くように秀司が姿を現した。彼があまりにもあっけらかんと言うものだから、昴は少しばかり拍子抜けをしてしまって、一歩後ろに下がる。


「しゅ、秀司! おま……っ、えっ……」


「おはよう、昴……ん? なんでそんな、試合に負けたみたいな顔してるの?」


「だって――ごめん。オレが一緒に勉強しようとか言い出したせいで……」


「ちがう、別に昴のせいじゃない。それに――」


 ふっと微かに笑う。頬が赤らんでいるわけではないものの、そこには確かな照れが浮かんでいた。


「昴と一緒に勉強するの、悪くなかった。楽しかった。だから、順位なんておまけみたいなものだ」


「秀司……!」


 感動ながらに彼の名前を口にした。さっきの笑顔はあの日々を思い出してくれていたのかな、なんて思って昴は嬉しくなった。


「でも、次は総合一位を取り返す」


「なんだよー。案外、気にしてんじゃんか~」


 ういやつめーとノリノリで小突いてくる。そんな昴をチラリと見た後、秀司は顎に手を当てて考える動作を見せた。


「……よし。昴には次、平均八割取ってもらおう」


「おー、平均八――なんて?」


「学年五位以内取ってもらう、って」


「オレの目標、どんどん上がってんだけど!?」




 秋の暖かな風が二人を包み込んだ。

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