エッフェル塔を二度売った男

みよしじゅんいち

エッフェル塔を二度売った男

 1949年8月31日。ニューヨーク・タイムズ紙は、伯爵と呼ばれた天才詐欺師ヴィクトール・ルースティッヒの死去を報じた。ヴィクトールの弟であるエミールがニュージャージー州カムデン郡の裁判所で伯爵の死について証言したのだという。調査によれば、伯爵はサンフランシスコのアルカトラズ連邦刑務所内で肺炎に掛かり、1947年3月11日ミズーリ州スプリングフィールドの医療センターで死亡していた。57歳だった。


 1950年8月1日、ニューヨーク州ソーホーのガソリンスタンド。フランス人ジャーナリストのピエール・ベルマーレは、店頭にいた五十がらみの婦人に声を掛けた。

「ビリー・メイ・スカイブルさんはおられるでしょうか」

「ビリーはあたしだけど?」

「ああ、やっとお会いできた。じつは私、こういう者で。伯爵の生涯をまとめた伝記を作りたいと考えているのです。いまゆかりのあった方々に取材しておりまして――」

「何のことだか」出版社の名刺を胡散臭そうに眺めてビリーが言う。

「あなたの恋人だった、ヴィクトール・ルースティッヒさんのことです。ギャングスター達と渡り合い、エッフェル塔を二度売ったという、伝説の天才詐欺師の」

「ふん。それでヴィクトールを警察に売った私のところへ来たってわけかい。帰っとくれ。こっちはいま油を売るのに忙しいんだ」

「そう言わないでください。あなたほど伯爵の事を知る人はいないんです。お忙しいようでしたら出直しますが、お礼ははずみます。私も他で調べてきたことを色々とお話できると思います」

「あの人をダシに儲けようったって、そうはいかないよ」

「いえ、そんなつもりは。私はですね、スカイブルさん。伯爵に惚れているのです。調べれば調べるほど彼を歴史の闇に埋もれさせてしまってはいけないと思うようになりました。あんな生き方をした男は他にいない」ベルマーレが懐から何か取り出す。「これなんですが」エッフェル塔の絵葉書に「10万フランで販売」と書いてある。

「何だい、それは」

「伯爵らしいとは思いませんか。アルカトラズの独房の壁に貼ってあったそうです。昔話を聞かせて頂けるなら、差し上げることもできますが」

「ふうん」しばらく考えてビリーは言った。「話してやらないでもないがね。明日の10:00。グリニッチ・ヴィレッジのカフェ・ダンテに来れるかい」

「ええ、もちろん」


 1950年8月2日、カフェ・ダンテ。ベルマーレがビリーに尋ねる。「今日はありがとうございます。よろしければまず伯爵と出会った頃のことを聞かせて頂けますか」

「初めて会ったのは、私が22歳のときだから1916年か。いまじゃ見る影もないが、あの頃のソーホーは歓楽街だったんだ。昨日あんたが来たガソリンスタンドの所にはソーホーでも一番の娼館があったんだよ」

「活気があったと聞いています。ソーホーがさびれてしまったのは、つい2~3年前からでしたか。繊維工場の南部移転がきっかけだったとか」

「ヴィクトールも若かったはずだが、本当に伯爵然とした身なりで洒落ててね。左頬にはミステリアスな頬傷があって。私にはブロードウェイミュージカルのプロデューサーだと名乗っていた」


 1916年、ソーホーの娼館。ルースティッヒは白いボルサリーノ帽をかぶり、支払いの段に懐から50ドル(現在の約700ドル)を取り出して、ビリーにひらひらさせた。

「ちょっと、そんなに貰えないよ」

「いいんだ。でもね、このお金は魔法のお金なんだよ。だから、今日中に取り出したりしたらさ、ただのティッシュペーパーに変わってしまうんだ」ルースティッヒは大げさな素振りでお札を畳んで、ビリーのストッキングの中に押し込んだ。

「ふふっ。何だいそれ。シンデレラか何かかい」

「本気にしてないな。いいかい、僕には魔法が使えるんだ」伯爵が立ち上がってビリーの目を見つめた。「取り出すのは明日になってからだよ」

「分かった分かった。分かったよ。分かったからそんな目で見ないでおくれ」

「よし。じゃあ、約束だからね」

 にっこり笑って伯爵が去る。気前のいい客だったなと思いながら、ビリーは咳払いをした。そっとストッキングから報酬を取り出す。すると、果たして50ドルはティッシュの束に変わってしまっていた。


「一瞬だけどさ、本当の魔法使いじゃないかって思ったよ。もちろん50ドルは上手く隠して、初めからティッシュを詰めてたんだろうがね。ちいっとも気が付かなかった」

「なるほど。それは初耳でした」ベルマーレが言った。「手先が器用なのはトランプのイカサマで鍛えたんでしょうね。第一次大戦が始まるまでは、フランスとニューヨークを結ぶ大西洋航路の蒸気船を根城ねじろにずいぶん稼いだと聞いています」

「そうなのかい」

「ブロードウェイのプロデューサーというのもその頃の定番ですね。ショービジネスに憧れている人々を相手に、ありもしない作品への投資を募ったとか」

「知らなかったよ。あんた詳しいじゃないか」

「ありがとうございます。それで、あの有名なエッフェル塔の詐欺ですが、伯爵から当時の話を何か聞いてないですか」

「いいや。ヴィクトールの作った、詐欺師の十戒って聞いたことがあるだろう?」

「はい」

「『自慢するな。自分の重要性が静かにわかるようにせよ』って奴さ。あの人は絶対に自慢しなかったんだ」

「そうですか。伯爵らしいといえばらしいですが。残念です」

「でもね、相棒の偽造屋。ダン・コリンズはちょっと口が軽かった」


 1925年、パリ。コンコルド広場にあるホテル・ド・クリヨンのスイートルームでルースティッヒはル・フィガロ紙を手に取った。1889年に建設されたエッフェル塔が老朽化し、維持管理が困難になって来ているという記事に目がとまった。ルースティッヒの脳裏に大きなアイデアが閃いた。新聞を置いて重い象嵌インレイライターで煙草の先に火をつけ、ゆっくりと吸い込む。そして、セーヌ川の向こうの美しい塔をバルコニーから眺めた。

 相棒のダン・コリンズを呼んで官製便箋を偽造させ、スクラップメタルの大手5社に招待状を送った。5社の代表がホテルのパーティールームに集まった。ルースティッヒは「郵便・電信局次長」と名乗り、高価な食事とワインの後で「じつは今日みなさんに重大な発表があるのです。政府がエッフェル塔を取り壊すことを決定しました。私はエッフェル塔の撤去に伴って発生する、7000トンの鉄くずを処理する業者を探しています」と告げた。業者たちがどよめく。「業者は最終的に入札で選ばれますが、ひとつご理解頂きたい点があります。それは世間を騒がせないため当面のあいだ、撤去の決定を秘密にする必要があるということです」

 そのまま彼らをリムジンに乗せてエッフェル塔の見学に連れて行き、偽造した電信局のカードを見せてカウンターを通過した。ルースティッヒは多くを語らなかったが、業者達は郵便・電信局次長のことを信じ込んだ。詐欺師の十戒が役に立った。


 ・忍耐強く聞き役に徹すること(詐欺師を成功に導くのは言葉の巧みさではない)

 ・相手が政治的な意見を述べるのを待って、それに同意せよ。

 ・相手が宗教的な意見を述べるのを待って、それに同意せよ。

 ・相手の個人的な事情を詮索するな(相手はいずれあなたにすべてを話す)


 徹頭徹尾付和雷同でありながら決してそうとは思わせず、業者達の行動や興味を冷静に観察した。そしていちばん契約を欲しそうにしていたアンドレ・ポワソンという男をターゲットに選んだ。後日、ルースティッヒは彼の家に招かれることになった。

「どうぞゆっくりしてください。自分はパリに来たばかりなので、他のディーラーが持っているようなコネがないんです。いつも契約を取られてばかりいます」

「いや、立派なお家ですね。私などただの下級官僚でして——」ポワソンの注いだマリアージュ・フレールの紅茶を飲みながらルースティッヒは呟いた。「エッフェル塔の買い手を見つけるという大きな仕事を任されてはいますが、公務員ですから収入は少なく、生活費にも事欠くような有様です」

 これを賄賂の誘いと受け止めたポワソンは手付金として2万フランを払い、さらに「ほんのお近づきの印です」と5万フラン。計7万フラン(現在の約100万ドル)をルースティッヒに手渡した。

「どうぞお任せください」お金を受け取ってから1時間もしないうちにルースティッヒはパリを発ち、ダン・コリンズとともにオーストリアのウィーンに逃亡していた。


 新聞にエッフェル塔詐欺の記事は載らなかった。そろそろポワソンも騙されたことに気付いたころだが、笑い者になることを恐れて当局には通報しなかったようだ。半年後、ルースティッヒは再びパリに戻り、5人の鉄くず屋を相手に全く同じ手口で詐欺を働いた。しかし、今度はターゲットとは別の業者が警察に通報し、ル・フィガロ紙の一面を飾ることになってしまった。ルースティッヒはすぐにヨーロッパを離れ、新たに手に入れた10万フランとともにアメリカに渡った。


「騙されたことに気づいても訴える人間はそう多くないみたいですね。しかし、大胆不敵というか何というか」

「そうだね」

「それと、詐欺師の十戒は厳しいですね。誰にも心を許せそうにない。伯爵は孤独だったんじゃないでしょうか」

「そうかもしれないね」時計は11:30になろうとしていた。

「ええと。伯爵がアメリカに戻ってからのことを教えて貰えますか」

「ティッシュの後もインチキの贋金製造機を売りつけられたり、水増し株を掴まされたりろくな目に合わなかった。ヴィクトールの手に掛かったらかなわないんだ。だけど、なんだか憎めなくてね。知っての通り恋仲になっちまった」

「逮捕されるまでの主な商売は贋金関係が多かったみたいですね」

「その頃の仕事については私は詳しくないんだ。ただ、あれだけは許せなかった」

「あれというのは。——浮気ですか」

「ああ」


 1935年5月10日、ブロードウェイ。ビリーからの密告を受け、連邦捜査官はチェスターフィールド・コートを身に纏った頬傷の男を取り押さえた。逮捕されたのは伯爵と呼ばれた天才詐欺師に間違いなかった。


 1935年9月2日、ニューヨーク連邦拘置所三階の独房。銀行や競馬場に数百万ドル(現在の数千万ドル)相当のニセ札を出回らせた咎で告訴されたルースティッヒは、裁判を明日に控えたその日の白昼堂々、シーツ数枚をロープ状にして拘置所の窓から抜け出した。支給のダンガリーシャツとスリッパ姿のまま窓拭きのふりをして、さりげなく窓を拭きながらビルを降りて行った。彼を見ていたはずの何十人もの通行人は気にも留めなかった。


 27日後ルースティッヒはピッツバーグで再逮捕された。脱獄の罪を上乗せされて20年の懲役が確定した。


「本当に浮気だったんでしょうか」ベルマーレが尋ねる。

「贋金作りの相棒だった化学者のトム・ショーから電話が掛かって来たんだ。ルースティッヒの奴が俺の女に手を出しやがったってね。頭に血が上って、そうかもしれないって思っちまった。単なる仲間割れだったのかもしれないが、いまとなっては確かめようがないね」

「——お腹がすきましたね」

「ああ、気分転換にフレンチトーストでも食うか。食前酒はどうする?」

「頂きましょう。あ、このネグローニ・カクテルっていうのをお願いします」

「あたしもそれにしよう」


「ちょっと気になることがあるんです。ある筋から聞いたんですが、スプリングフィールドの医療センターで、死の間際に伯爵が大笑いしたらしくて」カクテルを傾けながらベルマーレが言う。

「なんだいそりゃ?」

「『あっはっはっはっは。あんたたちは見事に騙されちまったんだぜ。本当に俺がやったと思ったんだな』と言ったとか」

「本当かねえ。そんなときにそんなハッタリを言うかね。どうもヴィクトールらしくないね」

「そうですよね。孤独の果てにおかしくなってしまったのかとも思いましたが。伯爵はスカイブルさんには心を開いていましたか?」

「さあ。私はそう思っていたけど、本当のところは分からない。ところで、昨日の絵葉書、もういちど見せて貰えるかい?」

「いいですが、絵葉書がどうかしましたか?」

「もしかしたらと思ったんだが。——これヴィクトールの字じゃないね」

「ええ。本当ですか! 詐欺師なら他人の筆跡を真似ることくらい簡単なのでは?」

「いいや。エッフェル塔の詐欺のとき、どうして偽造屋と組んだと思う?」

「そんな、まさか」

「どんな魔法だか手品だか分からないけどね。ストッキングの中のティッシュと一緒で、どこかですり替わったんじゃないかね」

「そうすると脱獄の後で逮捕されたのは伯爵ではない? 伯爵はまだ生きている?」

「分からないけど、そんな気がするよ。あたしはいまそう信じたい気分なんだ」

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