かいらんばん

藤光

かいらんばん

 クラスのなかで「回覧板」が回っている。授業中に回っている。なにが書かれているのか知らないけれど回っている。教壇にたつ教師が生徒たちに背を向けて板書をはじめると、それは生徒たちのあいだを回りはじめる。


 くすくす、くすくす。


 声にならず音にも遠い、かすかな笑い声が教室のなかを伝播してゆく。


【文化祭の出し物はなにがいいですか】

【学食のメニューからカレーコロッケがなくなるって、ほんと?】

【ヘルプ! 英語の宿題わすれちゃった】


 きっとくだらないことが書かれているに違いない。なのに、どうしてクラスの生徒たちはあんなに楽しそうなのだろう。ことさらひみつめかしてノートの切れ端を回覧してまわるのだろう。ぼくにはその理由がよくわからない。「回覧板」はぼくのところへは回ってこないから。


 回覧は繋がっている人のあいだで回される。右から左へ、前から後ろへ、ぐるりとクラスを回っているようでもそこにはルールがある。メモを渡す机と渡される机とのあいだは回線の開かれている。オンラインだ。そうでないところはオフライン。インスタやツイッターと同じ。オンラインでないところにメッセージはやってこない。


 ぼくはだれとも繋がっていないから。


 チャイムが鳴り、今日の授業は終わりだと教師が告げると、クラスの空気がうれしそうにざわめいた。しかし、続けてホームルームの時間は中庭の草抜きと告げられると、ネガティブな方向にクラスの空気がざわついた。


 それはそうだ。梅雨の晴れ間、校舎に挟まれた中庭は蒸し暑い。だれが言い出したのか、はやく済ませちまおうぜ――いくら文句を言ったところで、教師の計画は覆らない。早く済ませられるなら、それがもっとも建設的だ。クラスメイトたちが重い腰を上げはじめた。


「これ」


 立ちあがろうとしたぼくの目の前に、白いノートの切れ端が差し出された。「回覧板」だ。


「……ぼく?」

「あなた見てないでしょ」


 だれだっけか――名前が出てこない。この赤いメガネの女子生徒は、ぼくにクラスの回覧板を見ていいと言ってくれているようだ。


「いいの」


 何人かの生徒がぼくと彼女のことに気づき、じっとこちらを見ている。机の上を片付けながらじろじろ見る男子生徒。口元は手で覆い、目だけで笑っている女子生徒。いや……それは。いたたまれない気持ちになって、ぼくは目を逸らしてしまう。


「……そう」


 その子はメモをもったまま、ぼくの前でくるりと背を向けた。ぼくはじぶんから開かれようとした回線をシャットダウンしたのか。仕方がない、いつもそうなんだから。


 しかたがない。


 思っていたよりずっと暑かった。春からだれも手入れしていない中庭は雑草に覆われ、日差しの差し込んむ花壇は草いきれにむせかえるほどだ。クラスメイトたちは、軍手をはめ、草取り道具を手にしながら、さっそく文句を言っていた。


[草生えすぎ]

[すでに手遅れじゃない?]

[これって生徒の仕事? 先生がやるべきじゃない]

[おーい、聞こえてるぞ]


 文句をいいながら、草を抜いているならまだ良いほうで、気の合う者同士しゃべってばかりいる者、道具を手にふざけはじめる者、いつのまにかいないくなってしまう者、中庭の草抜きをしてるのはじっさい半分くらいの人数だった。


 いちばん最後にやってきたぼくに、軍手や道具は残されていなかった。人数分用意されていなかったのだろうか。


 じゃまにならないよう人のいない花壇を選んで、草を抜きはじめる。花壇とはいっても、レンガで仕切られ一段高く土が盛られているだけで、花が植えられているわけではない。春にいくつかの花が咲いた後、雑草に覆われるままになっている。


 痛っ――。

 力まかせに引き抜くと手を切ってしまう。慎重にいこう。


 草をむしっては引き抜く、むしっては引き抜く。

 単純作業は好きだ。なにも考えなくていいから。

 根こそぎ引き抜く、根に付いた土を払う。

 勉強のことも、クラスのことも、なによりぼく自身のことを考えずに済む。


 額の汗をシャツの袖で拭う。土がついていて黒い。草抜きが終わったら手を洗わなくちゃな。


 木陰に咲いている小さな紫色の花を見つけた。「ムラサキカタバミ」だ。

 日陰であっても鮮やかに紫色の花弁ひらくムラサキカタバミ。でも、この美しい花は実をつけない。しかも、地下茎に球根を結んで際限なくふえる雑草だ。


 どうしてこんな可憐に花を咲かせるのだろう。実を結ばせる必要もないのに。

 ムラサキカタバミの花を一輪とって眺めた。花壇に咲く花が、みな愛でられるというわけではない。雑草の花は咲いても雑草だ。くしゃと握りつぶして雑草を抜いてゆく。


 ここは、おまえのいていい場所ではない。


 とおくでクラスメイトたちが、ふざけあっているのが見える。女子生徒たちの笑い声が聞こえてくる。額を伝う汗が目に染みた。構わず草を抜いてゆく。どんどん、どんどん。ぼくは草抜きの作業に没頭していった。草をむしっては引き抜く、むしっては引き抜く。名前のない感情がすこしずつ指先から溶けてゆく。


 気かつくと、中庭からクラスメイトたちの姿がなくなっていた。ホームルームは終わっていて、あちこちにこんもりと盛り上がった草の山がある。そばにあの赤いメガネの女子生徒が立っていて、ぼくを見ていた。ぼくが立ち上がると、なにも言わずに校舎に向けて歩いていった。


 また、ぼくがさいごで、彼女がさいごから二番目だったのだろうか。


 トイレの洗面台で手を洗う。軍手をはめなかったものだから、手は泥に汚れていて小さな擦り傷もたくさんあった。爪のあいだには黒く土がこびりついていて、指の傷に水が染みた。水を流しながら、ゆっくりと汚れを落とす。


「いつまで洗ってんだ、いいかげんにしろよ」

「糞でもつかんだんじゃねえの。きたねえな」


 めんどうな連中にみつかったと思った。トイレで手を洗っているぼくのなにが気に入らないっていうんだ。ぜんぶ――そうなんだろうな。


 これで拭けよと、だれかがトイレットペーパーを投げつけたのが、きっかけとなった。掃除道具入れから、つぎつぎとトイレットペーパーを取り出して投げつけはじめた。


「おもしれー」

「きたねー」


 頭といわず。肩といわず、白い紙の巻かれた円筒がぶつかる。頭も肩も痛くはない。もちろんそうだ。彼らは楽しいからそうしているだけで、ぼくを傷つけたいと思っているわけではないから。ただ、ほんとうにぼくが傷つかないでいるかということとは別問題だが。


 ぽんぽんと、身体に当たる。痛くない。ぐるぐると渦を巻いてちらばっては、トイレの床を埋め尽くしてゆく。ひとしきりそうしていた彼らは、きたねーからいこうぜと笑いながらトイレから出ていった。ぼくはひとりトイレットペーパーのなかに残された。


 胸の奥が――痛い。


 男子トイレの入り口を取り囲むようにして何人もの生徒たちがなかの様子をうかがっていた。だれもなにも言わないし、ちらばったトイレットペーパーを集めはじめたぼくを手伝うわけでもない。それだって仕方がない。これはぼくの問題で、みんなは無関係オフラインだから。集まっていた生徒たちもちりぢりに分かれていく。


 トイレットペーパーはトイレから、廊下にまで転がり出ていた。汚いものであるかのように、避けて歩いてゆく生徒たちは考えて。みんなこの紙使ってるだろ。


「あ」


 そのトイレットペーパーのひとつを取り上げた細い手がある。紺色のスカート、白いブラウス、引っ詰めた髪と赤いメガネ。


「……ありがとう」

「わたし――」


 赤いメガネの女子生徒は、ぼくにトイレットペーパーを渡して言った。


「あなたのこと嫌い。みんなもそう」


 女の子とのあいだの距離が、瞬間広がったように感じた。ぼくの周囲でだけ空気が凍りついた。


「あきらめて。なにもしてもらえないことばかり数えてて。じぶんのこと可哀想だと思ってるでしょ。助けてもらえないか考えてるんでしょ。そんなのいちばん気持ち悪いんだからね」


 とたんに涙があふれた。ほおをひとすじ伝ってトイレットペーパーに落ちた。なんで? なんでぼく泣いてんだ。


「あ……」


 知ってる。わかってた。ぼくが、だめなやつだなんてことは。でも、きみにそんな残酷なことは言えないって思ってた……思い出した! きみの名前。


 サキサカ――さん。


 ぽた、ぽたぽたっ、粒になって零れ落ちた涙が廊下で弾けた。悲しいわけじゃないんだ。彼女はひっぱたかれでもしたかのような顔になって、あわててぼくに背を向けた。ごめん、きみのせいじゃないんだ。トイレにも廊下からも、人はいなくなってしまったけれど、ぼくはひとりトイレットペーパーを片付けはじめた。ふしぎだ。涙のぶんだけ気持ちが軽くなっていた。




 放課後、校舎玄関の靴箱のまえで、匂坂さきさかさんと出会った。

 彼女はすこしためらってからぼくの隣をすり抜けていこうとした。いましかないと思った。


「ごめん」

「……どうして?」


 いぶかしむ彼女。胸の前で通学鞄を抱えている。

 逃げ出したいけど、ちゃんと言わなくちゃ。


「ひどいこと言ったのはわたしなのに」

「でも、ほんとそうだから。ぼくも、じぶんのこと嫌いなんだ。だれかにしてもらうことばかり待ってて、傷つくって知ってるのに。だれかにしてあげることがなくて。だから――」


 ぼくの涙は匂坂さんのせいなんかじゃないんだ。


「ごめんね」


 ぼくはそう言って匂坂さんの答えを待ったけれど、彼女はなにも答えてくれなくて。どんどん不安になっていく僕の前で、急に通学鞄を開けてなにか探しはじめた。そして、鞄から取り出したのは……。


「はい」


 白いノートの切れ端だった。ぼくたちのクラスで回されていた「回覧板」だ。


「読んでいいの」

「もちろん、あなたの順番だから」


 開いてみると、ノートにはいくつもの小さな落書きや染みがあって、大勢の人の手を渡ってきたことが分かる。真ん中にマジックで一言だけ書いてあった。みんなが回し読みしていたのは、これだったのか。


【先生のズボン、穴開いてない?】


「……くだらねー」

「でしょ」


 だれもいない靴箱の前で、ふたり。くすくすと笑った。

 だれかと笑っていられることは、すこし好きになれるかもしれない――はじめて、そう思った。


(了)

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かいらんばん 藤光 @gigan_280614

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