5
「ありがとうございました」
乗降客のほとんどが大学生だから、駅に戻る時刻はまちまちである。
「ありがとうございました」
部活やサークルに属していても、中高生のような時間的集中は少ない。
「ありがとうございました」
そうしたぱらぱらの学生たちを相手に、長い午後をすごした後、
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
仕事帰りの勤め人たちを相手に、ややまとまった商売を終える。
静枝は、ふう、と吐息し、ロータリーの彼方で暮れなずむ山並みを見晴るかした。
「……ありがたくないねえ」
みごとな茜色の残照をながめながら、静枝は地声でぼやいた。
美しい、とは思うのである。
このあたりが村から町になり、やがて市の一部になるまで、ずっとここで育ち、生き、老いてきた土地である。今はありふれた郊外の駅前になってしまっていても、変わらない山々と共に静枝の郷愁はある。
けれど、もういい。これ以上の思い出は、いらない。
子や孫があれば話は違うのだろうが、今の静枝に、思い残すものは何もない。むしろ、先にどこかへ旅立ってしまった孝吉に、ちゃんと思い残されているかどうかが気にかかる。それでも山際の茜雲を見るかぎり、明日もまた炎天の下で、自分ひとり飲み物を売り続けるのだろう。
この体の電源は、どうやって落とすのか――。
なんとか元のソケットを抜く手だてはないか――。
田沼君が帰りに通りかかったら、思いきって地声で頼んでみようか――。
静枝がそんなことを考えていると、停留所にバスが着き、当の田沼君が降りてきた。
まっすぐ駅には向かわず、朝と同じように静枝の前に立つ。
つい声をかけようとして、静枝は思いとどまった。田沼君の後ろに、やはり連れらしい女子大生の影が見えたからである。
「うまい新製品が入ったんだ」
わざわざ教えているからには、朝とは別口の娘だろう。
モテモテだねえ田沼君、と静枝は目を細めた。
やはり若大将は鍛えてナンボなのである。それに今度の娘さんは朝のアレと違って、なかなか好ましい。星由里子嬢や酒井和歌子嬢には及ぶべくもない庶民顔だが、その笑顔に確かな品がある。同じ教育学部の同級生だろうか。
でも田沼君、女の子には、もうちょっと甘いものがいいんじゃないの? アイスココアとかメロンソーダあたりが売れてるよ――。
静枝のお勧めとは別状、田沼君はまた例の超薄味物件を二つ購い、片方を娘さんに差しだした。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
やや他人行儀なお礼の言葉に、ちゃんと親愛と真心がこめられているところも、静枝の眼鏡にかなった。当然、彼氏より先に飲み始めたりはしないはずである。
案の定、田沼君が一気飲みにかかるのを見届けてから、
「いただきます」
プルタブを引いて中身を口にした瞬間、期待が外れて娘さんの表情が曇るのを、静枝は見逃さなかった。
そりゃそうだ。やっぱりその新製品は、婆さんが飲んでもスベタが飲んでもお嬢さんが飲んでも、そこはかとなくコーヒーとミルクの味がしないこともない程度の水なんだから――。
それでも娘さんは、田沼君の満足げな笑顔に、健気な笑顔を返した。
「とってもおいしいです」
その笑顔は事なかれ主義による世辞か、それとも自己犠牲をいとわぬ慈愛の発露か。
ここで見誤ってはいけない。あえて小姑鬼千匹と化さねば――。
静枝は根性を入れて娘さんを凝視した。
後期高齢者の誇りにかけて、ここまでの娘さんの行動や表情から、人品骨柄を深層分析すること、しばし――。
分析評価、終了。
お
「その子がいいよ、田沼君」
静枝は厳かに断言した。
「は?」
「は?」
田沼君と娘さんの両目が、同時に点になった。
それはそうである。二人きりだった薄暮の駅前で、いきなり店のおばちゃんの声が自販機の中から聞こえたら、誰でも仰天する。
さらにそのおばちゃんが、自販機のガラスをすり抜けて、一歩、外に踏み出してくる。
「悪いこた言わない。つきあうんなら、その子にしな」
あまつさえおばちゃんは、なにやらクラゲのように透き通って見えたりもする。
娘さんは野犬に襲われる丹頂鶴のような悲鳴を上げ、田沼君にしがみついて、その胸に顔を埋めた。
静枝は、いつのまにか自販機ではなくなっている自分に気づき、ただ、とまどっていた。
なんで今、急に――。
あらためて二人に目をやれば、田沼君は丹頂鶴に襲われたカカシのように、しゃっちょこばって彼女を抱きしめている。超自然現象による衝撃と、生まれて初めて密着する汗ばんだ女体の衝撃が拮抗し、思考が飛んでしまったらしい。
そんな二人をながめながら、静枝は、おのずと悟った。
さしずめ今の自分は、遊園地のお化け屋敷のお化け、そんなところか。
作り物やバイト君の扮装ではない正真正銘の幽霊だから、ウブなアベックをくっつけるには格好の役回りである。これすなわち二重橋効果。いや違う。えーと、そうそう、吊り橋効果。
思えば静枝は、自動販売機や納品書の印鑑よりも、田沼君のボッチ問題のほうが、ずっと気にかかっていたのである。そして今、田沼君はお似合いの娘さんと、これ以上くっつきようがないくらいしっかりくっついている。
これで、この世に思い残すことはもう何も――いや、世間様の後始末を思えば、もうひとつだけ。
「それとね、田沼君」
これ以上怖がらせたくないので、静枝はなるべく声を和らげた。
「は、はい……」
田沼君はぶるぶる震えながらも、なんとか静枝に顔を向けてくれた。旧知のよしみ以上に、抱いている娘さんに格好をつけたいという意地が窺える。
静枝は、微笑ましさに目を細め、
「あとでいいから、角の交番のお巡りさんに、ちょっと伝えといてもらえるかい? 『西の峠道のてっぺんあたりで、カローラが一台、崖の下に落っこちてますよ』――そんだけでいいから」
「……はい」
田沼君は、おずおずとうなずいてから、その車種が山田洋品店の車と同じであることを察したらしく、
「あの……これって、もしかして……いわゆる『虫の知らせ』的な?」
娘さんのほうも好奇心が恐怖をしのいだのか、田沼君の胸に頬を寄せたまんま、ちらちらと静枝の様子をうかがっている。
静枝は、ふと悪戯心を起こし、
「――でも、絶対に自分で見に行ったりしちゃいけないよ。旦那もあたしも、エラいことになってると思うから。こう暑いと、
吊り橋効果の駄目押しである。
娘さんは、ひ、と息を呑んで、田沼君の胸に、ますますきつく顔を埋めた。
田沼君は、かんべんしてくださいよ、そんな情けない顔で静枝を見ている。
静枝は満面の笑みを浮かべ、軽くひらひらと手を振った。
「じゃあ交番の件、よろしくね。さよなら」
そのまま薄れて消えてゆく静枝の姿を、田沼君は、ただ呆然と見送っていた。
◎
その後、山田さん夫婦が再会をとげるまでの経緯は、残念ながら詳述できない。こちらの駅前とはまったく次元を異にする彼岸での出来事を、此岸の日本語で描写するのは不可能だからである。ともあれ先に着いた孝吉は、ちゃんと静枝を待ちわびていた。ただし自分がアクセルとブレーキを踏み違えたことは、きれいさっぱり忘れていた。
ちなみに空き家となった山田洋品店は、ある走り屋が「俺はここで真夜中に婆さんの幽霊と勝負した」とツイートしたのをきっかけに、電車一本で涼みに行ける貴重な駅前心霊スポットとして大いに人気を博した。令和のなかば、その廃屋が駅前再開発で撤去されるまで、客足がとだえなかったほどである。
田沼君とその妻も、平成レトロな夏の夜話として、孫子の代まで語り継ぐつもりらしい。
【終】
駅前心霊スポット バニラダヌキ @vanilladanuki
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