お姉ちゃんと水槽とアタリさん。

石井 行

お姉ちゃんと水槽とアタリさん。

 学校が終わると、僕はいつも団地の裏に回ってベランダを見上げ、そこに人影があるか確認してから家へ帰る。

 団地の端っこの、三階の、いちばん左。僕の家だ。

 夕方、大抵アタリさんはベランダにいる。ベランダで煙草を吸っている。

 もしその姿がなかったら、家に帰ってもつまらないから誰か友達の家に遊びに行く。

 もしアタリさんがいたら、すぐに階段を駆け上がって玄関ドアを開け、ランドセルを放り投げてベランダへ向かう。


 アタリさんは、お隣のおばさん曰く「お姉ちゃんのヒモ」だそうだ。

 仕事らしい仕事はしていない。

 昼間は寝ているか、漫画を読んでいるか、ゲームをしている。

 夕方になるとベランダに出て煙草を吸い、夕飯を作ったり作らなかったり。

 そして夜になるとふらりと出掛け、お酒を飲んで夜中か明け方に帰ってくる。


 僕はアタリさんが大好きだ。

 一緒にゲームで遊んでくれるし、作ってくれるご飯はおいしいし、優しいしかっこいいし。

 アタリさんは背が高い。高いというか、細長い。腕も脚も細いけれど、弱々しくはない。ちょっと怖い顔と相まって、なんとなくケンカが強そう。

 少し長めの髪に、無精髭。彫りが深くて頬はこけていて、外国の映画俳優にいそうな渋い感じ。

 大きな手の長い指で煙草を吸う仕草は手品のように滑らかで、ベランダで黄昏れている姿は映画のワンシーンみたいに極まっている。

 溜め息混じりに話す声は、小さいけれどとても落ち着く声。

 僕が好きなそれらは、全部お姉ちゃんの好みだ。

 アタリさんが初めてうちに来たときは、全然そんなんじゃなかった。

 アタリさんはお姉ちゃんの為に、お姉ちゃんが好きな見た目と仕草と話し方に変わった。


 今日も学校から帰ってきて一緒にゲームをしていたら、お姉ちゃんからメールが来た。残業で遅くなるって。晩ご飯はアタリさんに作ってもらいなさいって。

 冷蔵庫を覗いたアタリさんは、軽く溜め息を吐くと「一緒に買い出しに行くか?」と言った。

 僕は嬉しい反面、ちょっと嫌だな、とも思った。

 一緒に出掛けるのは楽しい。でもアタリさんと歩いていると、僕の知らない人が話し掛けてきたりするから。

 お酒を飲む友達なんだと思う。

 うちにはお父さんもお母さんもいないから、お姉ちゃんより年上の人と話すのは苦手だ。

 声の大きいおじさんとか、化粧の濃い女の人とか。

 親しげにアタリさんに話し掛けてきて、ついでに僕にも何か言う。僕はついアタリさんの後ろに隠れてしまう。

 そういう人達と話すアタリさんは、知らない人みたいで寂しくなる。


 晩ご飯を食べ終わって、僕が食器を洗っているとお姉ちゃんが帰ってきた。

「ただいまー」

 と疲れた声で言い、バッグを引きずりながら自分の部屋へ入っていく。ぼすっ、とベッドに倒れ込む音が聞こえた。

 アタリさんは脱ぎ散らかされた靴を揃え、キッチンでコップにお茶を注ぐとお姉ちゃんのところへ行った。

「おかえり。ご飯食べてきた?何か食べる?」

 優しい声が聞こえてくる。お姉ちゃんの返事はよく聞こえない。ベッドに突っ伏してもごもご言っている。

 暫くするとアタリさんが戻ってきた。

「そのまま寝るってさ。」

 そう言って、お姉ちゃんの為に取っておいたおかずにラップを掛け、冷蔵庫にしまう。

 その後洗い物が終わった僕とまたゲームで遊んでくれて、九時を過ぎた頃にいつものように出掛けていった。

 僕はアタリさんを見送った後、お姉ちゃんの部屋へ行った。

 電気は消えていたけれど、カーテンが開けっ放しの窓から外の街灯の灯りが差し込んで部屋の中は思ったより明るかった。

 お姉ちゃんの部屋には入ってすぐ目の前に低い棚があって、その上に大きな水槽がある。

 今は空っぽで何も入っていない。

 その横に写真立てがある。入っているのは家族写真だ。お父さんと、お母さんと、お姉ちゃんと、僕じゃない弟が写っている。

 四年前に事故で死んでしまった。

 弟だけはぎりぎり助かったけれど、いつ死んでもおかしくない状態だった。

 そのときの、水槽に向かって祈っていたお姉ちゃんの姿を僕は覚えている。水と砂の入った水槽に、お姉ちゃんは祈っていた。

 その後一度空になった水槽は、今から一年前にまた水と砂が入れられ、またお姉ちゃんは祈り、そしてまた空になった。

 一年前。アタリさんがうちに来たときだ。


 僕がそのときのことを思い出しながら水槽を眺めていると、ベッドが軋む音が聞こえてお姉ちゃんがむくりと起き上がる気配を感じた。ベッドの上のお姉ちゃんは窓からの灯りで逆光になって、真っ黒いかたまりみたいだった。

「アタリさん、飲みに行っちゃったよ。」

 僕が言うと、黒いかたまりは左右にゆらゆらと揺れた。

「お姉ちゃんは一緒に行かないの?」

 かたまりはまだ揺れている。

「ねえ、お姉ちゃんとアタリさんは恋人同士なんだよね?」

 僕がそう言った瞬間、揺れがぴたりと止まった。そして呟くような小さな声で、

「誰が…」

 とお姉ちゃんは言った。

「あいつとは絶対そんな関係にはならない。馬鹿なこと言わないで。」

「でもアタリさんはお姉ちゃんのこと好きだよ。お姉ちゃんもアタリさんのこと好きでしょ?」

「そういうんじゃないんだよ、あいつの好きは。」

 お姉ちゃんはまたベッドに倒れ込み、もう喋らなかった。

 僕はお姉ちゃんを起こさないようにそぅっとカーテンを閉めると、部屋を出た。

 テレビの音を小さくして、ゲームの電源を入れる。一人じゃつまらないなあと思いながらコントローラーを握る。

 お姉ちゃんとアタリさんが恋人同士じゃないことは、知っている。

 お似合いだし、仲良しだし、本当に恋人同士になっちゃえばいいのになと思っている。

 でもアタリさんは夜になると一人で出掛けて、いろんな人とデートしている。

 アタリさんは断らない。

 好意を向けられたら、応えてしまう。

 自分はアタリさんの恋人だと思っている人はきっといっぱいいるだろう。

 わからないんだ、アタリさんは。

 そういう人達の好きと、お姉ちゃんの好きと、僕の好きと、アタリさん自身の好きが。

 仕方ない。

 だって、まだ一年だもの。


 初めてアタリさんがこの家に来たとき、お姉ちゃんはとても楽しそうだった。

 僕が「名前は?」と聞いたら、お姉ちゃんは悪戯っぽく笑って「アタリ、だよ。」と『当たり』と書かれたアイスの棒を見せてくれた。

 「これで砂を掘ったから、アタリ。」

 それから、お姉ちゃんは仕事で疲れて帰ってきては水槽を眺め、僕に愚痴を言ったり、アタリさんに話し掛けたり、家族の思い出を話してくれたりしていた。

 アタリさんがどんどんお姉ちゃんの好みに変わっていくに連れて、お姉ちゃんは笑わなくなっていった。

 どんなにアタリさんが優しくしても、お姉ちゃんは頼ったり甘えたりしない。

 アタリさんはお姉ちゃんの為にお姉ちゃん好みになったのに、ひどいなって思う。

 水槽だって、空っぽなんだから捨てちゃえばいいのに。



 一年前、水槽にはぐにゃぐにゃの生き物が入っていた。

 大人の片手からはみ出すくらいの大きさで、白くて、手か足か見た目では判断できないものが何十本も生えていて、顔はどこにあるかわからないけれど目のようなものが十個、身体のまわりにぐるっと並んでいた。耳らしきものは見当たらないけれど、話し掛けると聞こえているようで目のようなものの瞬きで応える。

 頭と身体の区別は付かず、手足のようなものと目のようなもの以外は日によって形も質感も違った。

 それは、もともとは海にいるものだ。

 お姉ちゃんは砂浜でそれを見付けた。打ち上げられて、乾いて、砂に埋もれて死にかけていた。その辺に落ちていた棒で掘り起こし、ビニル袋に海水と一緒に入れて持ち帰ってきた。

 最初はじっと水槽の底に沈んで動かなかった。

 でもお姉ちゃんが毎日話し掛けて世話をしているうちに、元気になり、大きくなり、表情がわかるようになり、言葉を喋るようになり、水槽から出てきた。

 そこからは速かった。

 背が伸びて、お姉ちゃんが好きな俳優の顔になって、お姉ちゃんが買ってきた服を着て、お姉ちゃんが理想とする男の仕草をして、僕とゲームをして、ご飯を作って、外に出掛けて。

 死にかけていたのを助けてくれたのだから、恩返しは当たり前だ。

 お姉ちゃんはずっと寂しかったから。

 家族が死んで、一人きりで、仕事で忙しくして忘れようとしてもずっと寂しくて。

 そんなお姉ちゃんの望みを叶えてあげたいのに。

 お姉ちゃんは絶対に水槽を捨てない。

 かっこよくて優しいアタリさんを好きになってしまわないように。アタリさんがその水槽にいたときの姿を、元の姿を忘れないように。

 どんなに完璧に人間のように振舞おうと、その水槽がある限りお姉ちゃんは絆されない。

 弟を助けて、と。一人は嫌だ、と言っていたのに。

 人並みに恋人が欲しい、と。想い想われ支え合う人が欲しい、と言っていたのに。

 水槽の中にお姉ちゃんの祈りは届いていたのに。



 例え元の姿がバケモノだったとしても、今の姿を見て欲しい。

 お姉ちゃんの為の姿を。

 大丈夫。誰にもバレないよ。



 朝になってお姉ちゃんが目を覚ましたら、もう一度お願いしてみよう。

 水槽を捨てて、って。

 水槽がある限りお姉ちゃんがあの姿を忘れないように、

 水槽がある限り、アタリさんも僕も水槽にいた自分をずっと忘れられないんだ。

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