あほろくのショパン
増田朋美
あほろくのショパン
あほろくのショパン
ある日、杉ちゃんとジョチさんは、スーパーマーケットに買い物にいった。その日は、杉ちゃんたちの住んでいる地域ではさほどでもなかったが、何処かの地方では大雨が降ったらしい。そこで、大規模な土砂崩れもあったようで、テレビやラジオでは、必ずそのことを口にするほど大規模なものであった。杉ちゃんたちが出かけたスーパーマーケットでも、被災地へ寄付する物を募集するなど、支援活動をしている人が多数いた。杉ちゃんたちも、お釣の一部をそこへ少し寄付したりして、少しでも、役に立てるように、という気持ちになっていたのであるが。
さて、杉ちゃんたちが、買い物をし終わって、さて、帰るか、と、スーパーマーケットから外へでて、狭い道路を歩いていた時の事。丁度、そこにあった家が解体されたばかりで、現在は空き地になっている、広い場所の前を通りかかった時の事だ。行きなり杉ちゃんが、
「おい、あれ何かな!」
と言って、車いすをとめたので、ジョチさんはびっくりする。
「杉ちゃんどうしたんですか?」
と、聞くと、
「あそこに、変な事をしているやつがいるんだよ。」
と、杉ちゃんが、空き地を顎で示した。確かに、一人の青年が、空き地の隅に立っている。その青年は、一見すれば珈琲缶と思われる空き缶を右手で持っているが、その空き缶の中身は、本当に珈琲なのか、疑わしいものであった。杉ちゃんもジョチさんも、明かにそれは本物のコーヒーではないのではないかと思った。
「おい、お前さん!お前さんだよ!」
杉ちゃんがデカい声でそういうと、青年は逃げようと思ったが、この空き地は周りを住宅に囲まれているし、周りを板で囲まれているし、出入り口になりそうな場所は、すぐに杉ちゃんとジョチさんの二人でふさがれてしまっていたから、逃げようと思ってもできないのだった。そうなると、名の知れた自殺者であれば、すぐに毒物を飲んでしまうかもしれないが、この青年はそれをしなかった。もしかしたら、もうみつかってしまったのであきらめたのかもしれない。いずれにしても、彼は、杉ちゃんたちにお前さんといわれて、がっくりと落ち込んで、持っていた、珈琲缶を落とした。
「へへん、簡単に死のうなんて思ってはいけないよ。そうなっちゃったら、必ず誰かに悲しみというものはあるからな。お前さんはきっと、本当に悪い奴じゃないぜ。だって、本当に悪い奴は、缶を落としたりなんかするかよ。」
杉ちゃんにそう言われて、青年はわっと泣き出してしまった。杉ちゃんが、
「お前さん名前はなんていうの?」
と聞くと、青年は、
「田代泉。」
と名乗った。何だか、男性らしくない変な名前だった。そういうところから判断すると、高尚な身分の家の青年だったのだろうか?
「で、どっから来たんだよ。」
杉ちゃんがそう聞くと、
「わかりません。何もわからないんです。気が付いたらここに来てました。」
という彼。はああ、と、杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。
「これじゃあまるで、あほろくじゃないか。お前さんの事をあほろくとよぶことにしよう。」
ちなみに、あほろくとは、岐阜県の昔話に登場する障碍者である。やはり、記憶をなくしていたので、そう呼ばれたのだ。
「もしかしたら何か精神に異常があるのかもしれません。影浦先生のところへ連れて行って、見てもらいましょう。」
と、ジョチさんがいうと、青年はぎょっとした顔をした。でも、もうその時、体調がかなり悪かった
と自覚していたのだろうか、その場から逃げてしまおうとか、そういう態度はとらなかった。
「じゃあ、行きましょうか。大丈夫ですよ。僕たちは、あなたのような人を悪い奴だとはみなしませんから。」
ジョチさんは優しく言った。彼、つまり田代泉君は、ジョチさんのその態度に少し意外そうな顔をするのだった。なぜ、自分がこんなに優しくしてもらるのかわからないという感じの顔だった。ジョチさんが、影浦先生にスマートフォンで電話をしているときも、青年は、不思議そうな顔をしているのだった。
「じゃあ、話しがついたので、行きましょう。影浦医院は、ここからだと歩いて行けますから。歩いて、5分程度のところです。」
ジョチさんの先導で、田代君は、それについて行った。後ろを杉ちゃんに挟まれで、まるで登山でもする時の隊列のような感じだった。
「はい、ここです。影浦医院ですね。なんか、病院らしくないって感じだけど。」
と、ジョチさんが影浦医院と小さな看板のある建物の前で止まった。確かに、病院にはよくある四角い建物ではない。まるで小さな隠れ家的な喫茶店、といった感じで、気軽に訪れることができるようになっている。杉ちゃんとジョチさんは、田代君を連れて、影浦医院に入ってみると、院内はお香の香りが漂っていて、オルゴールの音が流れていた。待合室には、患者が一人二人いて、しばらく待たなけばならなかったが、それがかえって彼の緊張を解いてくれるようになっていた。
「次の方どうぞ。」
影浦が診察室から患者を呼んだため、急いで杉ちゃんたちは、田代君を連れて診察室へ行った。ジョチさんが、影浦千代吉医師に、彼を助けた概要を話すと、影浦は、田代さんと二人で話してみたいと言ったので、杉ちゃんとジョチさんは、診察室を出た。しばらく待っていると、影浦が、戻ってきてくれと言ったので、二人は診察室へ行く。
「で、彼の様子はどうなんでしょうか?」
とジョチさんが聞くと、
「ええ、記憶をなくしているというか、ご自身の名前ははっきり思いだせるそうですけど、どこに住んでいたかとか、どのようにしてこの富士まで来たのか等は、全く覚えていないと言っています。いわゆる、昔の区分で言えば、解離性遁走という物だと思います。とにかくですね、彼自身、何処からきたのかとかそのようなことは全く思いだせないんですよ。家族の名前も、ほかの親戚の関係もわからないようです。そうなると、入院させるのも、保証人がないので、難しいですね。」
と、影浦は事実をシッカリと言った。
「そうですか。医者というのは、病状のことはよく知っているが、」
杉ちゃんが話し出すが、ジョチさんが、それは言ってはいけませんよと言って、やめさせた。
「分かりました。しばらく、僕たちのところであずかることにしましょう。SNS等で写真を公開したら、身元が判明するかもしれません。何だか動物を拾った時のようですが、同じことですから。」
「ええ。僕もそれが良いと思います。申しわけありませんが、曾我さんのやっている施設で、しばらくあずかってください。」
ジョチさんがそういうと、影浦は申し訳なさそうに言った。
「分かりました。じゃあ、彼の身内がやってくるまで、僕たちが、面倒を見ることにします。」
「ありがとうございます。もし、彼の言動に変化がありましたら、すぐ連絡くださいね。」
影浦とジョチさんはにこやかに笑って、そういうことを言い合った。杉ちゃんだけが一人不満そうに、二人のやり取りを見ていた。
とりあえず、杉ちゃんたちは、影浦から薬を出してもらって、影浦医院をあとにして、製鉄所に戻った。杉ちゃんが、急いで即席のキーマカレーを作って、彼に食べさせるが、彼は食べようとしなかった。なんでだと聞いてみると、ぜいたくは敵だからという。代わりに、パンを与えてみるとおいしそうに食べた。飲み物も、杉ちゃんがだした紅茶は飲まないで、代わりに牛乳を飲んだ。
「まるで、パンとか牛乳しか与えられて来なかった、ガスパーみたいだな。」
パンを食べている彼を見て、杉ちゃんは思わず言った。
「そうですね。もしかしたら、そういう監禁事件などに巻き込まれていた可能性もないとはいえませんね。もうかなり昔ですが、新潟でしたっけ、そこで10年近く女性が監禁されていた事件がありましたね。」
ジョチさんもそう言わざるをえないほど、彼は食べるものが偏っていた。ほかの利用者たちも、不思議な人物がやってきたというので、彼に近づいてきたが、田代君は、人間をこわがった。特に、女性というものをこわがるようであった。それはなぜなのか知らないけれど、とにかくそうなるので、彼の世話は、数少ない男性の利用者が担当することになった。男性たちは、彼に自分の服を貸してやったり、一緒にテレビを見たり、風呂に入ったりしてやっていたのだが、田代君は家族の事とか住んでいたところなどを思いだすことはできなかった。
とりあえず、田代君が、製鉄所にやってきた翌日の事。その日は、男性利用者がわざわざ仕事を休んで田代君の話し相手をやったりしていた。午前中に、杉ちゃんがやってきて、炊きこみ飯のような物を作ったが、田代君はそれを受け付けなかった。杉ちゃんたちが、なんでアイツは、ぜいたくは敵だみたいな態度をとるんだろうと話をしている間、四畳半からピアノの音が聞こえてきた。水穂さんが弾いているのだ。すると、椅子に座っていた田代君が立ち上がった。そして、音のする四畳半に行ってしまった。
杉ちゃんたちが、田代君は何処にいったのか、急いで探していると、四畳半から、ショパンの幻想ポロネーズが聞こえてくる。四畳半に行ってみると、ピアノを弾いていたのは、なんと水穂さんではなく、田代君であった。水穂さんは布団に座って彼の演奏を聞いていた。なんでこんなにうまいんだろうかと思われるほど、彼の演奏は卓越したものがあった。
「はあ、あほろくが、幻想ポロネーズ弾くとは驚きだ。一体何処で勉強したのかな。あんな難しい曲、独学ではなかなかできないぞ。」
杉ちゃんが、彼の演奏を聞きながらそういうと、水穂さんが、
「あほろくはかわいそうだよ、杉ちゃん。」
といった。
「しかし、こんな難しい曲をよく簡単に弾けますね。これはちょっと失礼な言い方になるかもしれませんが、こういうおしゃれな曲に触れる事ができたということは、平民じゃありませんよ。」
ちょっと頭の硬い男性利用者がそういうことを言った。それを耳にしてやってきたジョチさんも、そういうことは口にしないようにと注意するのを忘れるほど、上手な演奏であった。彼が幻想ポロネーズを弾き終わると、杉ちゃんたちは、大拍手してほかの曲もやってと催促する。彼は、にこやかに笑って、今度は、幻想曲を弾き始めた。これも又うまい演奏だ。次は、舟歌。ショパンの曲ばかりだけど、とにかく上手な演奏なのだ。舟歌を弾き終えたのと同時に、
「おーい、水穂居るか?ちょっとお前に話があって来たんだけどさあ。」
と、玄関先で声がする。声の主は、指揮者の広上鱗太郎だ。水穂さんとは音楽学校で同級生だった。でも、水穂さんは、音楽学校にいた時、彼と直接関わったことは少ないといっていたが。
「あ、広上さんだ。今ちょっととりこんでいるからさ、上がってきてくれる?」
と、杉ちゃんがいうより早く、鱗太郎は製鉄所の中に入ってしまう。製鉄所の玄関は、段差がないので、いつでも誰かが入れるようになってしまうのだ。
「おう、ずいぶん綺麗な演奏じゃないか。水穂、又新しい弟子が来たのか?お前もそれで良くなるかな?」
と、鱗太郎は縁側にやってきた。
「まあ、一寸訳があって、ここであずかっているんだけどね。名前は、田代泉さんという変わった名前だ。ちょっと、監禁されたガスパー・ハウザーみたいなところがあるけどさ。何とかして、記憶を取り戻してほしいと思っているわけ。」
と、杉ちゃんがいうと、
「田代泉!」
と、鱗太郎は急いで言った。
「何か聞き覚えでもあるんですか?」
とジョチさんが聞くと、
「おう、覚えてるよ。俺、クラシックコンクールの審査員してたから、その時に、田代泉という出場者が出て、ものすごいうまい演奏を聞かせてくれたのを覚えているよ。俺、その時、この男は必ず大物になると思ったけど、、、。今頃は、バークレーみたいなところに行っているんじゃなかったのか?」
と、鱗太郎はとても驚いた顔で言った。
「ちょっとお待ちください。広上さんが、クラシック音楽コンクールの審査員をしていて、その時に、田代泉さんという出場者がいたということでしょうか?」
とジョチさんが聞くと、
「おう、いたよ。俺、ちゃんと覚えているよ。あんなうまい幻想ポロネーズを聞かせてくれたのは、何年ぶりだったかなあ。物忘れが多い俺が覚えているっていうくらいだから、相当うまかったと思うけど。」
鱗太郎はそういうのだった。いつの間にか、演奏は止まっていた。田代君の顔は凍り付いている。
「ああ、ああ、あの、気にしないでくださいね。この方は、僕が音楽学校時代に、同級生だっただけの話しでそれ以外、何もありませんから。」
と、水穂さんがそういうと、田代君は大変悲しそうな顔をした。
「水穂さんもやっぱり、この人の仲間だったんですか。其れなら、僕、水穂さんにだまされていたのかもしれない。」
「ちょっと待て、あほろく。どうしてそういうことをいえるのか言ってみてくれよ。もちろん、思いだせる範囲でかまわないけどね。」
と、杉ちゃんがすぐそれに突っ込む。杉ちゃんというひとは、そういう風に、直ぐに人の発言に、首を突っ込む癖がある。
「僕は、高校生までピアノを習っていたんです。それで、音楽コンクールに出たこともあったんですけど、三年生の時に、あるコンクールで敗北して、そのあとから、ピアノの先生の態度が変わってしまったんです。突然、冷たくなって、僕に嫌味をいうようになって、僕がおかしくなったのは、其れからだと思います。」
「はああ、なるほど。全く困るよな。教育者ってのは、どうしてこうなっちゃうんだろう。なんか知らないけど、そういう風に悪い方へもっていってしまう、ピアノの指導者っているんだよね。残念だなあ。俺が、審査した時は、こいつは大物になれそうだと思ったのにな。」
鱗太郎が、できるだけ軽い感じでそういうことを言ったのであるが、ジョチさんも杉ちゃんも、これは深刻な問題だと思った。これで、田代君はひどく傷ついたのに違いない。
「そうですね。確かに、指導者とか、そういうひとは、行き過ぎてかえって生徒さんを傷つけてしまうことはよくありますよね。それは、本当に悲しい思いをしたと思いますよ。」
水穂さんが、そういうことを言った。聞き上手というか、そういうところが優れている水穂さんは、すぐにそうやって相手の話しにあわせるのは達人だった。
「ほんなら、今からやり直せばいいじゃないか。この水穂さんに、幻想ポロネーズの稽古をつけてもらえ。大丈夫、水穂さんなら、阿羅漢でもないし、傷つくような発言はしないよ。」
と杉ちゃんがデカい声で言った。
「そうだそうだ。それで、もう一回コンクールに出てくれよ。それができたら、俺のオーケストラでも、ソリストとして参加してほしいな。」
鱗太郎が、そういうことをいうと、田代君は又悲しそうな顔をして、
「でも、僕はそんな事もうできませんよ。学生の時だったらできるかもしれないけど、もうやり直せないって、言われましたから。」
といった。
「だれにそんな事言われたんですか?」
と、利用者が彼に聞くと、
「ええ、病院のスタッフさんにです。よく言われました。お前の面倒を見てあげているのは、俺たちだけだと。」
と田代君は答えた。はあなるほどねえと、杉ちゃんとジョチさんは、顔を見合わせた。本当に、精神関係も阿羅漢が多いなと杉ちゃんはがっかりした顔をした。ジョチさんも、確かに精神科医療は牧畜と一緒と聞きましたからね、と、大きなため息をついた。つまり田代さんは、ここに来る前は、精神関係に入院していて、そこのスタッフにまで存在を否定され続けてきたのだろう。
「確かにそうかもしれないけどさ、俺は、人生ってのは、やり直せると思うよ。きっとまた、君がコンクールに出てくれるのをさ、俺、楽しみに待ってるから。」
と、鱗太郎が彼を励ますが、
「まあ、それは、一度も傷ついた事のなくて、忘れ物の多い、広上さんだから言えることですね。」
とジョチさんは小さい声でつぶやいたのだった。
ちょうどこの時、利用者のスマートフォンがバイブレーションを立てたので、利用者はすみませんと言って、スマートフォンの電源を切ろうとするが、
「あれ、精神科病院が、大雨の被害を受けたようですね。何だか解体される予定のようですが、こうなると、患者さんたちも、いい迷惑というか、困るんじゃないかな。」
と、流れてきたニュースアプリの画面を眺めながらそういう事を言った。
「それは確か、土砂崩れがあったところですね。まあこういう事もあるんでしょうが、他人事とは思えない大災害ですね。」
と、ジョチさんが利用者の話しにあわせる。
ちょうどその時、一台の車が製鉄所の前で止まった。医療関係者とわかるような恰好をした、何人かの男女が、段差のない製鉄所の玄関から入ってくる。
「失礼いたします。ここに、田代泉さんという方がいらっしゃいますね。あずかって頂いてありがとうございました。じゃあ田代さん、行きましょう。皆さん、これをお納めください。」
と言って、医療スタッフの代表者と思われる女性が、ジョチさんに封筒を渡した。多分、お金が入っているんだと思うけど、何も嬉しくないとそこにいる全員が思ったくらいだ。
「彼をあずかって頂いてありがとうございました。それでは失礼いたします。」
女性たちは、まるで犯罪者を捕まえるかのように、田代泉を捕まえて、そのまま連行して言ったのであった。田代泉も、こうなることはわかっているように、抵抗もしないで、彼女たちに従って行った。
みんな、彼はこうなるしかないのかと悲しい気持ちになった。いつも明るい鱗太郎でさえも、悲しいなというくらいだから、かなり衝撃的な光景だったんだと思う。
「おい!あほろく!」
玄関を出ていこうとする田代泉に、杉ちゃんがデカい声で言った。医療スタッフたちはそれを無視して、彼を車に乗せようとしたが、杉ちゃんはかまわずつづけた。
「幸せになれよ!二度と死のうなんて思うなよ!」
あほろくのショパン 増田朋美 @masubuchi4996
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