第15話 露見◆

「お母さんはだまされたんだ。あさき、わかってくれるよな」


 父は言った。涙に埋もれた赤い目が、ぐらぐらと揺れていた。大きく見開かれた目は、にらんでいるのと大差なかった。

 あさきは、息も忘れてその顔を見ていた。忘れていることさえ、気づかなかった。


 あれからしばらくして、父は突き破るように病室に戻ってきた。あさきの腕をつかみ引いて、強引に立ち上がらせた。余りに強く握られたので、肘の関節が広がって、周辺の血が膨張する心地がした。

 父はあさきを見ず、医師と事務的に――ひどく冷淡に――会話を交わすと、あさきに向かって「行くぞ」と言った。あさきに向けた言葉であり、あさきの為ではなく、医師に対して、線を引くための言葉だった。

 そんな風な言い方をする父は、見たことはなかった。今日はずっと、初めてのことばかりだ。父の手の肉と骨が、肘のやわいところに食い込んで、痛かった。

 不意に父はあさきの腕を放した。血が肘からどっと流れるのを感じる。あさきは腕を揺すった。

 父は、ベッド脇にひざまずくと、そっと母の顔の輪郭を撫でた。羽が降りるような、かすかで優しげな動きだった。


「待っていてくれ。必ず迎えに来るから」


 優しい、優しい声だった。いつもの父の――あまりにいつもの――だからそれが今、とても異常に聞こえた。

 父はあさきの腕をつかみ直すと、病室を後にした。女性の看護師が、小さくあさきに会釈をした。あさきは、目でそれを返したが、父があまりに速く歩くので、看護師の姿は、壁の向こうへとすぐに消え去ってしまった。

 いつのまにか、四人の男たちはいなくなっていた。

 それから、家まで無言だった。玄関のドアを開けると、留守番をしていたはるひと空が、転がるように駆け寄ってきた。


「お母さんは!?」

「おかーさん」


 父はそれに応えず、通り過ぎて行ってしまった。ネクタイをゆるめ、ジャケットをたたくように脱ぎながら。二人はついて行こうとしたが、いつも温厚な父のただならぬ気配に、足がすくんでしまったようだった。二人はその場に立ち尽くした。


「おねえちゃん」


 はるひがあさきを呼んだ。頼りない――迷子の子供があたりを見渡すような声だった。あさきは靴を脱ぐと、玄関にあがり、ひざまずいて二人を強く抱きしめた。


「大丈夫」


 二人は、せきを切ったように泣き出した。

 あさきは、その声に、不思議と心が落ち着くのを感じていた。小さな妹、弟の体はやわらかく、あたたかかった。ようやく、自分がどこにいたか、わかった気がしたのだった。二人は胸を膨らませ、体をはねさせて泣いた。あさきは、二人をなだめながら、なぜか玄関のフローリングの溝を眺めていた。息をつめてずっと。

 ――かわいそうに。

 向けた言葉は、二人へのものか、誰へのものか――全くわからなかった。

 二人が泣いて、泣いて、ずっと泣いて、疲れて泣きやむまで、あさきはずっと玄関にひざまずいて、二人を抱きしめていた。

 父はそれからもずっと黙って、自室にこもっていた。父はいつでも、自分たちと、母のもとにいてくれたので、部屋などあってないような人だった。その分、はるひと空の不安も大きかった。

 あさきはひとまず飯を炊いた。真夏の温い水が、やけに生々しく、あさきの手にからみついた。心の中のざわつきを流すように、あさきは米をとぎ、水を捨てた。

 全部流れろ。

 ふと、そう思った。何をともわからない無意識の叫びだった。

 炊飯のスイッチを押すと、何か仕事をしたような気になった。しかしそれも一瞬のことで、また、焦りに似た不安が、あさきの胸を、皮膚の内側をかきむしった。

 その分、あさきは、はるひと空にかまった。二人を慰めていれば、自分の心は、真ん中にいれくれる気がした。

 何も考えられなかった。いや、何も考えたくなかったのかもしれない。

 父は一時間ほど後に、部屋から出てきた。あさきを一瞥すると苦しそうに目をそらした。それから冷蔵庫を開けて、取り出した缶ビールをあおった。

 あまり勢い込んだので、あふれ、口を伝いのどを伝い、シャツをぬらした。父の手はひどくふるえていた。それでも飲むことは止めなかった。

 父は、キッチンの流しの縁に、缶ビールの底を叩きつけた。はるひと空は、気を取り直して、父に駆け寄ろうとしていた足を止めた。しんとあたりが静かになる。家電の電子音が、モスキート音のように耳の奥に響いた。

 父は振り返った。目を伏せ、口を引き結んだその顔は、どう形容しようもなかった。悲しみでも怒りでもない、何かもっと重く暗い――おおよそ人間の表情ではなかった。

 あさきの胸に恐れと不安が走った。

 父は、一足一足ぎこちなく、まるで足が荷物になったかのように歩いてきた。そうしてあさきの前を通り過ぎると、くずおれるように、はるひと空を抱きしめた。かたくかたく抱きしめて、体をふるわせた。

 あさきは、父の手から広がる、はるひと空の服の強いしわを見た。


「お母さんは、すぐ、かえって……」


 それきり、形にならなかった。どうにか絞り出した、というような声は、これ以上ない痛ましさだった。父は、はるひと空を抱き、泣いていた。血の色が肌の全てから浮き上がり、父は赤黒くなっていた。

 はるひと空は、常にない父の様子に怯えたが、父の腕をそっとさすった。顔を不安にくもらせ、涙にゆがませながら、父の肩や腕を撫でた。


「いたいの? おとうさん」

「だいじょうぶだよ」


 泣きながら、二人は父をなぐさめた。父は頷き、ずっとずっと泣いていた。

 あさきは一人、少し離れて、それをずっと見ていた。

 泣きたい。泣きたかった。

 なのに涙は頬骨を痛めるばかりで、胸骨を広げ、背骨をきしませるばかりで、ちっとも出てきてはくれなかった。

 あさきも、父の背をさすりたかった。輪に入りたかった。けれど、一歩が出なかった。私は――なぜ、どこにいるべきなの? そんな疑問がしらじらと浮かんだのだ。

 あさきは三人が抱き合い、慰め合うのを、ずっと見ていた。

 それからどうにか、はるひと空が眠って、あさきは父と二人きりになった。

 父は、キッチンのテーブルのいつもの席に座って、斜め上の天井を見ていた。父の隣の席が、誰も座っていないのが、ひどく際だっていた。

 あさきは、父と視線が合わないのが、不安だった。しかし、自分から声をかけるのも、ためらわれた。口をつぐんで黙っていると、父が、あさきの方に向き直った。

 先までうつろだった目が、らんらんと開かれていた。


「あさき」


 あさきはそっとつばを飲み込んだ。意識的に、ゆっくりと。膝の上に置いた手が冷たい。

 父の目に映る自分は、怯えてはいないだろうか――心のどこかでそんなことを気にしていた。


「お母さんはだまされたんだ」


 強く、太い声だった。返答の余地を作りながら、その実それを許していない、そんな強い独白に近い話し方だった。あさきは意図をつかみかねて、次の言葉を待った。


「同級生の碓井さんは知っているな」


 父は冷静に話そうとしているようだった。声音は表面はぞっとするほど固いのに、中が不安定にふるえていた。そして、あさきからまた目線を外した。


「うん」


 あさきは頷いた。柳のように細くはかない印象のクラスメートの姿が浮かぶ。

 しかし、それがどうして今?

 疑問に思いながら、あさきは胸の奥が鉄のように重く冷たく、血のにおいがし出すのを感じていた。自分からおりた陰が重い。


「その子の父親と、母さんが……」


 父の目が、またうつろになった。また目線がうろりと天井へと向かう。頬が微細にふるえている。父はあさきを見なかった。見ないように、努めているように感じた。

 沈黙がおりる。あさきは、お腹の底が冷たく、足に力が入らなくなってきていた。

 ――まさか……。あさきの中に一つの予想が生まれる。

 父は、あさきの動揺を知ってか知らずか、視線を戻した。目はまた強い光を宿していた。


「あの男のせいだ」


 父はそう言った。はっきりとした声だった。こんなに怖い声を、あさきは今まで聞いたことはなかった。


「あいつは、妻が病気だからと、お母さんの優しさにつけこんで――そして、お母さんを」


 それ以上は言葉にならなかった。悲しみからではないのが、すぐにわかった。テーブルの上で握られた父の拳が、真っ白になっていた。テーブルがふるえる。


「どういうこと?」


 この言葉を言うのには、相当な努力が必要だった。必要な問いなのに、父の心を荒立てるのが、わかっていたからだ。けれど、一度口にすれば、あさきも黙っていられなかった。


「お母さん、その人とどうなったの?」


 言いながら、あさきは吐き気がしていた。

 ――あさき。お母さん、今、恋をしてるの。

 心の中で、もう問いの答えは浮かんでいたからだ。けれど、はっきりと確かめずにはいられなかった。


「お母さん――浮気したの?」


 覚悟を持って問うたはずだった。しかし、あさきは自分の声が、軽々しくいっそ笑っているようだとさえ思った。答えはあった。けれど、空虚だった。覚悟もなかった。

 だって、あまりにも現実感がない……浮気だって? お母さんが……もしかして、自分は今、笑ったりなんてしているだろうか?

 しかし、父は、その言葉に、目を、顔を、全身を――真っ赤にして膨らませた。


「あいつが七緒を狂わせたんだ!」


 父はすごい目であさきを見て、叫ぶなりテーブルを叩いた。テーブルがはねて揺れる。叩くなんて音ではなかった。テーブルと床が殴り合う音について、バネのような金属音が、わんわんと反響した。

 あさきは目を見開いて硬直した。何も言えなかった。ただ、自分の言葉が、父をひどく傷つけてしまったことだけはわかった。しかし、父はあさきに何を求めてもいなかった。


「母さんはずっとお前たちを愛していた! 僕を愛してくれていた! 僕だけをずっと見ていたんだ――それをあの男が、全部、あの男が!」


 たたきつけた拳はわなわなとふるえテーブルを押しやった。テーブルがゆらゆらと揺れていた。

 父はうめいた。もはや泣き声ではない、何かもっと強い感情をのせたうめきだった。あさきは、黙り込んでいた。聞きたいことはまだあった。けれど、一番必要なことは知ってしまった。

 父は息を長く吐くと、ゆらりと顔を上げた。真っ赤に充血した目を見開き、唇からはこぼれでるように歯をくいしばっていた。


「お母さんはだまされたんだ」


 一音一音、刃物のような息とともに吐き出された。赤く濡れた目が、あさきを映している。


「あさき、わかってくれるよな」


 幾分やわらかに響いた苦悶の声は、哀願の余韻を残し、あさきの喉元にからみついた。

 その問い――確認に、あさきは頷いたか、頷かなかったのかは、わからない。

 ただ、一人のような心地で、その時を過ごした。父はそれきり何も言わず、あさきを見なかった。あさきはそれに、心許なさとわずかな安堵を覚え、席を立った。時間ももう遅いから、といいわけをした。

 あさきはそれから風呂に入った。事務的な日常の行為をこなして、部屋に入った。父の背はずっと、キッチンのテーブルにあった。かけよって抱きしめたい衝動にかられたが、どうしてもそれができなかった。

 ベッドに入り、布団に頭までくるまった。クーラーをつけていないから、すぐに汗だくになった。なのに、体は氷のように冷たかった。あさきは自分の手がふるえているのに、そこでようやく気づいた。

 気づいた瞬間に、せきを切ったように、心が体を圧迫した。あさきは頭を抱え、口を開いた。叫んだはずの声は、のどがふさがって、音にならなかった。

 うそだ

 あさきは髪を引っ張った。手が濡れて、ドライヤーをかけ忘れていたことに気づいた。

 うそだ、うそだ、うそだ

 あさきは心の中で何度も何度も叫んだ。心の中の全てを、その言葉で埋め尽くそうとした。

――あさき、待っていてね――

 しかし、頭がもう一つあるみたいに、必ずあの日の母の声が、あさきの頭を浸食した。あさきは細い金切り声を上げた。黒板を釘でひっかいたような、不快な声だった。

 母さんどうして?

 否定し尽くして、母に埋め尽くされて、疲弊したあさきの頭に浮かんだのは、その一言だった。

 どうして、どうして?

 わからなかった。目を閉じれば、母の笑顔がよみがえる。「お母さん」と駆けていけば、いつも、笑って受け止めてくれた。手の、腕の温かさをはっきりと思い浮かべられる。優しく、無邪気で、あたたかな母の笑顔。ずっと生まれたときからそこにあって、続いていたもの。

 ――大好き。みんな、私の宝物よ――

 母さん、どうして、どうして――


『お母さんはだまされたんだ。あさき、わかってくれるよな』


 父の言葉がよみがえる。

 わからない。お父さん、わからないよ。

 どうしてもわからなかった。

 だから、うそだ、とあさきはまた繰り返す。

 そうして、また、母の笑顔を――

 夜が明け、脳が限界を迎え気絶するまで、あさきはずっとずっと繰り返していた。


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真昼の月は燃え上がる 小槻みしろ/白崎ぼたん @tsuki_towa

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