第14話 病院◆

 そこから先は、はっきりと覚えていない。気付けばあさきは帰り支度をして、走り出していた。校門には、見慣れたバンが停まっていた。バンは門から斜めに飛び出して停まっていて、運転の得意な父らしくなかった。父はあさきに気づくと、運転席から身を乗り出すようにして迎えた。

 父の顔は、蒼白だった。異様に目を大きく見開いて、白目は真っ赤に充血していた。


「乗って!」


 扉の開く電子音を食うように、父は叫んだ。ゆっくり開くドアがもどかしく、あさきは空いた隙間に体をねじ込んだ。ランドセルが引っかかって、革の潰れる音がした。あさきはまだ開いている途中のドアを引っ張ると、閉めた。音を立てて、ゆっくりまたしまり出すドアを待たず、父は車を発進させた。ぐんと体が揺れ、あさきは座席に倒れ込んだ。


「お父さん、どういうこと!? お母さんは大丈夫なの?」


 あさきは車がすごい勢いで周りの景色を置き去りにする中、運転席にかじりついて尋ねた。声はうわずっていた。何が起こったかわからないのに、状況にのまれて、あさきの心はぐらぐらと揺れていた。父はあさきの問いには答えず、しばらく運転をしていたが、あさきが二度尋ねると、眉をひそめ歯を食いしばり、苦悶と言うにふさわしい表情をした。そして、絞り出すように歯の隙間から一言だけ言った。


「わからない」

「何で? 何? お父さん、何があったの!?」

「もうつくから静かにしなさい!」


 父が耐えられないという様に、ハンドルを叩いて叫んだ。衝撃で、クラクションが鳴った。父の声は割れて、ヒステリックに揺れていた。あさきは父の剣幕に飲まれて、言葉を失った。父が声を荒げるところなど、聞いたことがなかった。あさきは、ただならぬものを感じて、唇を引き結んだ。不安が、心の中でひどく暴れていた。胸に手をあてなくても、心臓の音が響いていた。

 何があったの。あさきは何も知らない。けれど、真っ白に揺れる頭の中に浮かんだのは、なぜかあの日の母の姿だった。


――あさき、待っていてね――


 その時、あさきの体がぞっと震えた。鳩尾からお腹に汗が伝ったのだ。拳を強く握りしめ、頭を振った。あの事と、病院と何も関係がないではないか。そのはずなのに、いやな予感が、心にのしかかって、あさきの気をもっと落ち着かなくさせた。

 とにかく、母に無事でいてほしかった。何もないことを祈った。きっと、病院に着けば、元気な母が迎えてくれる。


「お父さんもあさきも、大げさね」


 と笑って――


 病院につくと、父は車を捨てるようにして置いて、中に入っていった。あさきはランドセルを脱ぎ捨て後を追った。父は異様なほどの早足で、走らなければ置いて行かれそうだった。周囲の人が何事かという様な顔で、あさき達を見る、その視線も置き去りにして進んだ。置いて行かれたくなかった。

 病院の中をくるくると曲がって、たどり着いたらしい、父は、ちょうど部屋から出てきた壮年の医師に声をかけた。


「城田です。先生、妻は――」


 医師は黙って一礼すると、目線を首ごと後ろにやった。父はその仕草に引かれるように、中に入り込んだ。医師はとても落ち着いていて、それは正常なのだが、あさきには異様に見えた。

 母はベッドの上に仰向けに寝ていた。白い病室の中に眠る母の姿というものは、あさきの心をひどくすくませた。お母さん、心の中でははっきりと呼んだのに、息にしかならなかった。


「七緒!」


 父は声を上げた。悲痛としか、形容のできない声だった。それから、すぐに医師を顧みた。医師は、残念そうに目を伏せて、言葉をつむいだ。


「奥様はひどい興奮状態でしたので、やむをえず鎮静剤を使用させていただきました。今は眠っておられます」


 ご理解をいただきますよう、そう言ってやんわりと頭を下げた。父は、目を見開いたまま、医師と母を交互に見て、それから、母に滑り込むように駆け寄った。医師が後に続く。あさきは二人の後に続いた。

 病室の中には、母の他にも人がいた。女性の看護士二人と、男性四人だ。その内二人は青のシャツを着ていて、もう二人はスーツを着ている。看護士は立ち働き、彼らは姿勢良く壁際に立っていたが、父が入ってきたのに気づくと、頭を下げた。父は、それに反応せず、ベッドのそばにひざまずいた。父は、母の手を取り、包むように握り込む。父は母の他に、何も見えていないのだろう。反してあさきは、何にも頭が回らないのに、なぜだか周りがよく目に入った。上の空で小さく彼らに頭を下げると、ベッドのそばにしゃがみこみ、母の顔をのぞいた。


「お母さん」


 もっとはっきり呼んだはずだった。けれど口からこぼれた自分の声は、あまりに頼りないものだった。震えていて、今にも泣きそうだ。そう思った時に、視界がゆれて、目尻をぬらした。

 返事はない。眠っているのだから、当たり前だった。けれども、あさきはシーツを強く強く握り込んだ。

 母は静かに、静かに眠っていた。蝋人形のように白い肌に、青みがかかった陰が落ちている。わずかに顎があがっており、そこから鎖骨にかけてのラインは作り物のように美しかった。さらされた白いのどが、蛇の腹のように生々しくて、不穏だった。


「今日は一日、休まれていった方がいいでしょう。今後のことについて、旦那様にお話があります」

「今後? どういうことですか」

「くわしくはこちらで」

「私どもからも、お話があります」


 医師は父の動揺を、それを慣れた様子で受け止めた。そうして、外へ父を誘導する。それに合わせて今まで壁際に立っていた男性四人が、父の後ろについて歩き出した。動揺しているのは、父だけだった。

 病室に残されたあさきは、母にもう一度声をかけた。


「お母さん」


 今度はもはや、ぐずるに近い声だった。シーツをマットレスごと強く握り込んで、不安を散らそうとした。


「大丈夫。眠っているだけよ」


 看護士は、あさきに優しい声で言った。あさきが見上げると、看護士は言葉に反して痛ましそうな顔をしていた。それをどうにか笑顔に変えて、あさきに頷いて見せた。


「お母さん、何で倒れたんですか?」


 とっさに出た言葉だった。不安をぶつけたと言ってもいいに等しかった。看護士はあさきの問いに、困った悲しい顔をして、目を伏せた。


「私のお母さんは、どうしちゃったんですか? いったい、何があったんですか」


 彼女は答える代わりに、あさきの背をさすった。あさきは答えてほしかった。しかし、同時にその気遣いが、痛いほど心にしみるのを感じていた。

 何でこんな事になったんだろう。全くわからない。


――あさき、待っていてね――


 あさきは頭を振った。あの日の声がずっとあさきの心に陰を作り、脅かしてくる。自分の弱い心がひどく情けなかった。

 その時、隣の部屋で父の怒鳴る声が聞こえた。突然だったことと壁に阻まれ、言葉までは聞きとれなかったが、すごい剣幕で怒っているのがわかった。父はずっと大声をあげている――そんなことを場違いに思う。あさきは迷子の様に、母の手を強く握った。その時、ちょうどヒートアップした、父の言葉がはっきりと聞こえてきた。


――フザケルナ、ツマハビョウキナンカジャナイ――テイヨクシマツシヨウナンテ、ソウハイクカ――


――コチラハサイバンシテデモ、アンタタチヲオイコンデヤル――


 耳慣れた母国語なのに、父が何を言っているのか、理解するまでに時間がかかった。ただならぬ様子や台詞に、あさきは固まる。そして母の手をいっそう強く握った。

 これはただごとではない。そんな予感が、足下から這い寄ってきた。

 入院? このまま、もしかして、母に会えなくなってしまうのだろうか?

 そんなはずはない。きっと今日具合が悪かっただけだ。家に帰って少し休めば、母はいつもの母にもどるはずだ。だから、きっと大丈夫だ。大丈夫、大丈夫――

 あさきは何度も何度も唱え続けた。

 病気って何? 始末って、裁判って何――裁判? 誰かともめたの? それで、こんな風にお母さんは寝ているの? どうして――

 あさきはぐるぐるあたりを引き込む不安の渦の中に、飲み込まれていった。早く話が終わって、父が帰ってくることを願った。何を話しているのか、教えてほしかった。けれど、一番は、


「大丈夫だよ」


 と、言ってほしかった。それは叶わないことを、どこかでわかっていながら。

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