「今」の旅人

夢幻

「今」の旅人

 水平線が見える断崖の上で泣き崩れていたのは、アスラという一人の少女だった。少女の嗚咽と波の音だけが響く静かな断崖の夕暮れに、やがて足音が聞こえてきた。


 背後から聞こえる、小石と砂を踏みしめる音……。それはゆっくりと近づいてきたが、まだ少し遠い場所で歩みを止めた。背後からの視線にアスラは息を詰めて、涙を拭った。


 村の誰かが慰めにでも来たのだろうか。それでもアスラは顔を上げる気にはなれなかった。


「…………」


 そっとしておいてほしいという気持ちと、なにか話しかけねばならないという気持ちがぐるぐる渦巻いているうちに、長い沈黙の時間が過ぎていった。やがて相手が先に痺れを切らし、口を開いた。


「どうして泣いてるの?」


 見知らぬ声だった。見知った関係の中で発せられるはずの馴れ馴れしさに溢れたその言葉は、かすれ気味の若い男の声で奏でられていた。


「誰、ですか……?」


 驚いて顔を上げると、そこにはあまりにも異様な男がいた。アスラと同じぐらいの歳に見える少し背の低い青年だった。


 一目で貧しいことがわかるほどやせ細った身体に、痛々しい数多の傷、もはや布きれ同然のボロボロな服。そして、ここらでは珍しい黒い肌……。


 だが、それ以上にアスラの気を引いたのは、その細い腕が抱えるには少し重そうな分厚い本だった。明らかに高価そうなそれは遠目に見ても表紙がしっかりとしており、その身なりにはあまりにも不釣り合いだった。


 本を抱えたまま立っていた彼は誰何すいかに答えた。


「ぼくはユア」


 それを見る誰もが憐れむような姿をしている彼は、それでも笑っていた。掠れている声には控えめな明るさがあり、その瞳は強くまばゆく輝いていた。


 しかし彼は、どこから来た何者で、なんの目的でここにいて、その本がなんなのか——そういった名前以外の一切を語らずに、先程の尋ねを繰り返してきた。


「どうして泣いてるの?」


 そのことに疑問と不信感がよぎるものの、一人では受け止めきれない気持ちを吐き出したいという誘惑に逆らおうとも思わなかった。アスラは時間をかけてゆっくりと呼吸を整え、浅く息を吸ってから話しはじめた。


「わたしね、独りになっちゃたの……それで、これからどうしたらいいかわからなくて……」


 ぽつりぽつりと、心の内を吐露とろする。


「お父さんが、戦争に駆り出されてね……あと一週間もすれば、帰ってくるって言ってたのに……」


 再び、アスラの目に涙が溢れた。


「…………戦死したんだって」


 それは頬を伝い落ち、地面を濡らした。脳裏に亡き父親の優しい笑顔がよぎり、嗚咽おえつがこぼれた。


「今朝、黒封筒が届いたの……何かの間違いなんじゃないかと期待した……開けたら一枚の紙が入ってた……真ん中に小さく、戦没されましたって……遺書も入ってたんだけど、読む気にもなれなくって…………」


「…………」


 うずくまって震えているいるアスラの隣に、ユアは何も言わずに腰をおろした。


「わたし、お母さんは小さい頃に亡くしちゃったからさ……病気で、ね……」


 呼吸が再び空回りをはじめる。


「だから……わ、わたし、もう独りぼっちになっちゃって…………」


 そして、再び堰を切ったように泣き始めてしまった。はちきれんばかりの感情が叫びとなり涙となり、濁流の如く押し寄せる。すでに泣き枯れた喉から絞り出される悲痛な叫びは、ユアの心をきつく締め付けながら二人きりの断崖に響き続けた。


 赤子のように泣き続けるアスラの隣で、ユアはじっと水平線を眺めていた。


「泣いてもいいんだよ……人はね、苦しくなったら、泣かないと壊れちゃうんだ」


 アスラの心を突き放す事も、不用心に踏み込んでくる事もないユアの言葉は、より涙の粒を大きくした。


 今日初めて出会った謎の青年は、ただただアスラを許してくれた。そして、そのままアスラの涙が枯れるまで待ち続けた。長い時間を待ち続け、やがて叫びが咳となり呼吸が落ち着いた頃を見計らってユアは口を開いた。


「……落ち着いた?」


「うん、ありがとう……。その、ごめんなさい……もしよかったら、うち来る?」


 話を聞いてくれたお礼にと、そしてこの痩せ細った青年を放ってはおけないという思いで、アスラはユアを家に招き入れることにした。




**********




「お待たせ」


 木の香りと蝋燭の明かりが混じり合う質素な部屋の中、アスラはユアにお茶とパンを出して向かい合うようにしてテーブルについた。


「ありがとう」


 いただきます、と小声で言ってからそれを食べようとするユアに、ずっと抱いていた疑問を投げかけた。


「それで……あなたは一体何者なの?」


 パンを口に入れた矢先に聞かれ、ユアは忙しなくお茶でパンを流し込んだ。


「ん……。僕は旅人だよ」


「じゃあ、南の方から来たの?」


 矢継ぎ早にアスラは疑問を投げかけた。


「さぁ?」


「さぁって……あなた何か隠してるの?」


「ううん。来た場所の方角がわからないだけ」


「じゃあどこに向かって旅をしてるの?」


 ユアはもはや答えるのが面倒になり、例の本をアスラに差し出した。


「これを読むのが一番早いと思う。どこに向かってるかは書いてないだろうけどね」


 何年も使い込んだ貫禄のある緋色の表紙には『導きと記憶の書』という掠れた字があった。そしてその下には『ユウ=ティアラモンド』と、女性の名前が小さく記されていた。背表紙の上の方からは細い紐が出ており、その先には丈夫そうなペンもついていた。


 中身は年季の入った上質紙で、手沢の染み込んだそれには高価な羽筆で書かれた線の細い字が並んでいる。


「『この本を持って目覚めたあなたにこの本を贈ります。あなたの名はユア。』……」


 丁寧な文字だった。アスラはそれを読み上げてみようとしたのだが、少しばかり読み書きがおぼつかない農民の娘にはわからない場所が多かった。しかしなめらかに読み上げることができずともその内容を掴むことはできた。


「……ユアは、記憶がないのね?」


 パンを頬張っていたユアは頷いた。


「うん、僕は寝るたびに記憶が消える呪いに罹ってるんだ」


 ――呪い。それは病とは違い、生まれついてすでに罹っている身体の狂いである。どんな名医にも治せず、生まれてから死ぬまで苦しみを抱え続けて生き続けなければならない。


 しかし、そんな呪いに罹っているという当の本人に、悲嘆の色は全くなかった。かすれ気味の声でなんでもないかのように自分語りをする姿は、まだ無邪気な子供のそれだった。


「今日の朝は、山の中で目覚めたんだ。この本を枕代わりにして、岩陰に隠れて寝ていた。昨日のことも、家族のことも、ほとんどなにも思い出せなかった。でも、全くなにも覚えていないわけじゃないんだ。お腹が空いていたけれど、この本を見たらなぜか読まなくちゃいけないと思った。そして開けたら、読まなくても大体の内容を覚えていたんだ。思い出せない部分だけ読んで、そのあとは食べ物を求めて山を降りた」


「へぇ、思い出せることもあるんだ」


「多分、本当に昔から何回も見たり聞いたりした事は忘れられないんだと思う。だからその本の中身も、最初の方だけは覚えてるんだ」


 先ほど読んでいたところから少しページをめくると、そこからは日記が始まっていた。筆跡は速さのあるものに変わっており、言葉使いも堅苦しさが無くなっていた。見開きに四日分の日録が記されており、どの日も余白を残すことなくみっちりと書き込まれていた。


 最初の方は、二年ほど前の暦だった。百ページ以上にもわたってティアラモンド家の屋敷の中での穏やかな生活の様子が描かれていたのだ。


「このユウ=ティアラモンドさんって?」


「昔、捨てられてた僕を助けてくれたらしいんだ。僕を助けて、育てて、ずっと世話をしてくれたんだ。この本も、ユアという名前も、ユウがくれた。ユウは僕に人生を与えてくれた人なんだ。彼女がいなかったら、僕はどこかで野垂れ死んでいた」


「すごい優しい人ね」


 ユウという女性はユアより少し年上らしく、日録からはユアのことを弟のように世話していた日々をありありと思い浮かべることができた。


 アスラはまとめて紙をめくる。そこに記されていたのは、ティアラモンド家での穏やかな日常ではなかった。人家を求めてぬかるむ山道を走る日々、水を求めて乾いた砂漠を彷徨う日々、平穏を求めて戦火から逃げる日々……。


 ふとアスラは顔をあげ、まだパンを食べていたユアを見た。痩せほそった身体、腕や顔に残る切り傷や火傷の跡、よく日焼けした黒人の肌……。


「そっか……ユアは本当に旅人なんだね」


 日記の中のユアは旅をしていた。野を越え山を越え、来る日も来る日も歩き続けた。その中で傷を負い、日に焼けて、ここまで辿り着いたのだろう。


 紙を一枚めくるたびに文字から浮かび上がる景色が変わる。街の中でいろんな人と出会った日もあれば、賊に襲われた日もあった。血が滲んでいるページもあれば、土の香りが染み込んでいたページもあった。


「ね、旅をするのって、つらくないの? いっぱい危険な目に遭ってるし、いっぱい怪我もしてるし……」


 アスラは素直に思ったことを聞いた。


「つらいのかな? わからないんだ、記憶がないから。朝目が覚めたら、昨日の嫌な記憶もなにもかも忘れている。お腹が減った状態で、怪我をたくさんしてる状態で一日が始まるから、その状態に違和感を覚えることはないんだ。君はさっき、失ったって、泣いていたけどさ……僕には元からいなかったように感じられるんだ。本当は、いたはずなんだけどね」


「そっか……」


 はじめからないから失うものがないから、悲しむことがない。そういうことなのだろうとアスラは悟った。さっきまでは自分の不幸を嘆いていたけれど、はじめからなにも失うものがない方が幸せなのだろうか。それとも、失うものがある方がまだ幸せなのだろうか。そもそも幸せとはなにか。自分とユアはどちらが幸せでどちらが不幸なのか。


 気づけば、アスラはぼうっと虚空を眺めていた。開いてあるだけの日記に手を置いて、テーブルの何もない場所を見つめていた。


「……大丈夫?」


「あ、ううん、なんでもない。ちょっと考え事してただけ……」


 ふと窓の外を見やれば、すっかり陽が落ちていた。灯りの少ない農村の外れの夜はシンと鎮まっていて、二人でいても孤独感を感じるほど寂しかった。


「ちょっとさ、星空でも見に行かない?」


「星空? ……うん、いいよ」


 ユアの提案に、アスラは戸惑いながらも頷いた。


 薄い防寒着を羽織って腐老ぼろけた扉を開けると、心地良い冷たさの夜風が髪を撫でた。それから二人はなにも言わずに、潮風の吹いて来る方へ向かった。


 特になんの打ち合わせもなく歩き始めた二人は、やがてすぐに水平線の見えるあの断崖に着いた。海は夜の暗さを吸って真っ黒だった。海面では明るい月影が波と共に歪み、夜空では無数の星が輝いていた。


「ね、なんでユアは今日私に声をかけたの?」


 二人は硬い岩の地面の上に座り込んだ。


「なんとなく。立派な意味とかなにもないよ」


 答えながら、ユアは抱えてきた日記の表紙を撫でた。


「じゃあさ、なんで旅してるの?」


 ユアは少し考えてから、首を傾げた


「う〜ん……なんでだろう?」


 少し気恥ずかしそうに苦笑いをしてから、言葉を続けた。


「旅立とうと思った頃の記憶なんてもちろんないからさ、最初に思った理由はここに書いてある以上のことはわからないんだ」


 言いながら、肌身離さず抱えて持ってきた日記を地面に置いて開いた。


「お屋敷での生活が退屈だった、そして、ずっとユウ達に頼って生きるのが心苦しかった……そう書いてある。この時はユウに反対されたんだ、危ないからって」


 日記の内容を見ながら、ユアは答える。


「反対を振り切ってここまで来たの?」


「お屋敷にいても、なにをしたらいいのか、なにが僕にできるのかがわからなかったんだ。だから出たかったらしい。たまに、ユウのところに戻りたいって書いてる日もあるけどね。……少なくとも今日の僕は、後悔してないかな」


「なんで?」


「僕は過去も未来もわからないからさ……自分の好きなように今を生きるのが一番なのかなって」


「……ユアは本当に旅が好きなんだ」


「おかしな話だけどね。綺麗な景色を見ても、珍しい体験をしても、明日には忘れてしまうし」


 またユアは苦笑いした。


「それでも、誰かに頼って生きていたあの頃よりは今の方がずっと気持ちが楽なんだ。だからこうやって、旅をしながら生きている」


 アスラにはない、不思議な考え方だった。おそらく、記憶がないゆえの価値観だろう。過去よりも、未来よりも、今。


「アスラは、お父さんをなくしたんだよね……?」


 恐る恐るの尋ねに、アスラはうなづいた。


「うん。だから、もう両親がいないから、これからどうしようかなって……。畑は元々お父さんの物で、今は多分私の物になったんだけど、これからもここで麦を育てながら暮らすことになるのかな?」


 さっきまで紛らわせていた悲しみと不安が再び押しよせて来た。他人事じゃないという事実を突きつけられ、胸が苦しくなった。


「ゆっくり、気楽に考えたらいいと思うよ。大切なのはね、過去を振り返りすぎたり、未来を心配しすぎたりしないことだよ。記憶があるから僕みたいにほとんど考えないことはできないだろうし、親のことを忘れることもできないと思う。それでも、今をおそろかにし続けるのはダメだよ」


 そんな苦しさをユアはまた紛らわせてくれた。


「ふふっ、そうだね」


 そして、アスラは大きく深呼吸した。


「ありがとね、ほんと。ユアのおかげですごい楽になった」


「うん。そろそろ戻ろう、もう夜が深いし」


 気づけば、いつもはすっかり寝ているはずの時間になっていた。


「本当だ、こんな時間まで起きたの、初めてかもしれない……」


 身体が突然思い出したように疲れ、猛烈な眠気がアスラを襲う。


「ふあぁ……」


「大丈夫?」


「ん……ごめん……。今夜はうちに泊まって行ってもいいよ、お父さんの寝床が空いてるから…………」


 少しづつ意識が朦朧となりはじめたため、アスラはユアを連れて急ぎ足で家に戻った。


 帰り着けば、ユアは今日の日録を書き始めたのだが、アスラはたちまち死んだように眠ってしまった……。




**********




「ふあぁ……」


 アスラが目覚めたのは、すでに陽が高く昇ったころだった。服装を整えて部屋を出ると、そこには静かに日記を読むユアの姿があった。


「おはよう、ユア」


「え……お、おはようございます……」


 ユアは緊張し、戸惑いながら答えた。その様子を見て、アスラはユアの記憶が消えていることを思い出した。


「そっか、ごめんね。記憶がないもんね。私はアスラ」


 ユアはうなずいてから、気まずそうに口を開いた。


「その、昨日はありがとうございました……」


「ううん、こっちこそ」


「…………」


 記憶を失ったユアとの会話が、どうも別人のようで気まずかった。その雰囲気をどうにかできないものかと考えながらアスラはお茶を沸かそうと立ち上がる。


「えっと、その……僕はもう行きます」


 しかし、本人が居るに堪えなかったのだろう。そそくさと出て行く準備を始めてしまった。


「あ…………そう……」


 呼び止めようと思ったのだが、呼び止める理由も見当たらず、ただその姿を眺めているだけになってしまった。


 昨夜、寝る前に別れの挨拶をしておくべきだったなとアスラは悔やんだ。


「それじゃあ……」


 悔やんで、それでもやれることがあるんじゃないかと思った。


「待って!」


 今を大切にする。その思いで……


「私もいつか、旅に出るから……!」


「…………」


「その時は、私がユアを探しに行く。だから、また旅先で会おう!」


「……うん」


 昨日のことを覚えていないユアは、少し飲み込めないでいるようだった。だが、それでもよかった。


「私のこと、覚えてなくてもいいからちゃんと書いておいてね!」


 出ていこうとしていたユアに、アスラは念押しした。


「うん、約束するよ」


 日記を抱えて、明るく掠れた声でユアは約束した。


「ありがとう」


「それじゃあ……」


 扉を開け、晴れた青空を背に別れを告げる。


「「また会う日まで」」






   了

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