冬熊(終)
逃げないと――。
この残滓の活動できる場所はこの山の中だけのはず。幸い坂を駆け下りれば直ぐに入り口がある。
けれど、そう甘くはなかった。振り返るとそこには黒い影がいた。もはや熊ですらない歪な正体を与えられたそいつの二体目が――。
僕は悟った。もう巻き込まれてしまったのだ。怪奇現象に。いや、今回ばかりは巻き込まれという表現は正しくない。
僕が自分から足を踏み入れた。触わってはいけないものに触ってしまった。
その代償は、目の前にある。
二体が、ゆっくりと近づいてくる。幸い動きは遅い。走って離れられる。僕は太い道の端へ移動した。
前後の残滓がゆっくりと方向を変える。それは決して逃がさないというように、表情のない顔で僕を見つめていた。
そして山の入り口側にいる残滓の動きを注視して、隙を見て駆けた。幸い通り抜けることが出来たが、僕が逃げることのできるその坂道から、同じ影が登ってくる。何体も、何体も、何体も。
「嘘だろ……」
体を左右に揺らしながら、ゆっくりと全てが僕に近づいてくる。
これは最悪の想像だが、コイツらはどうあっても僕を逃がさない気でいるのではないだろうか。
例えば山道ではい近くの茂みから山を出ようとする。簡単に出られるはずだ。けれどそこから出ようとしたらまた――。
今は走れる程度の道だから対応できる。けれどぬかるんだ土で足を取られて万が一逃げられなくなったら……。
考えている余裕はもうなかった。僕は駆け出した。下ではなく、上へ。山道をかけ上がる。
僕にすぐ近くにいた残滓の一体が腕を大きく振り上げていた。それが振り下ろされるのを見る前に必死で走った。
あれに捉えられたらたらどうなるかなんて考えたくもない。ちらりと横目で見ると案の定、木々の間から同じ影がゆっくりとこちらへ進んでくるのが見えた。
「いくらなんでも数が多すぎる!!」
あの時の偽物の神様はそこまで強力な存在だったのか? そこまでの力が土地に根付いていたのか?
僕一人では答えの出ない問いを頭で考えながらがむしゃらに走った。
一体一体から逃げ切るのは容易でも、新しい景色になる度に数を増やしていく。
ひとまず目指す場所は、5月ほこらと共に訪れた小屋……その近くにある大木だ。
ほこらがでっちあげた神様が生まれかけた場所。コイツらの大元がその神様なら、そこになにかヒントがあるはずだ。
あの場所へいくには途中の山道からそれてけもの道を進まなければならない。
それは危険な賭けかもしれないが、怪奇現象が始まってしまった以上、それを対処しきるまで逃れる術はない。僕はそれを嫌というほど知っている。
けれどその賭けはあまりにも簡単に終わった。なんとかあの小屋の場所への道を思い出したその時、その方向から列をなしてやってくる黒い影。一つ一つが左右に揺れて一匹の巨大なムカデのようだった。
そして僕を認識すると、一列に並んでいたそいつらは左右に広がり、まるで僕の道を阻むように近づいてくる。
「じゃあどうしろって言うんだよ!」
叫びながら走る。僕だけを狙って無数の黒い影が近づいてくる。その数を増やしながらただ確実に僕の逃げ道だけを塞いで。
正解かわからない分かれ道を行く。体力も限界を迎えながらも、なんとかこの方法を考える。
この山で対処法を見つけられないのなら、あと頼れるのは自分の記憶――ほこらとの会話のみ。
コイツらは特殊な怪奇現象だ。コイツらになにかルールがあるとするなら、それは僕の頭の中にあるはずだ。
思い出す。ほこらはこの残滓をどう定義したのか、僕はそれをどう解釈して頭の中に置いたのか、それはどう反映されたのか。
「うわ?!」
考えることに集中しすぎて、周りを見ていなかった。横から現れた一体が掲げた腕を振り下ろそうとしていた。とっさのところで交わす。
そのまま体制が崩れて、地面を転がった。そして間抜けなことにもう一つ見落としていたものがあった。
がむしゃらに山道を選んで走ってきたその先は、2m程の崖になっていた。僕は転んだ反動で、そのまま崖から転がり落ちた。
意識を失わなかったのは、本当に幸運だったと思う。
けれど体が痛い。あちこち擦りむいて、左足に至っては腫れ上がっている。
「……折れてるのか、これ」
僕が落ちた崖下はどういった場所なのか、木が少なく辺りの景色がよく見えた。
けれど目に映るものに自然はなく、異常な数の黒い影で埋めつくされていた。
これは賭けだ。この賭けに負けたらきっと、僕はこのまま帰ることはできないだろう。
ほこらはどうなるのだろう。神奈ちゃんはきっと泣くだろう。相変わらず左右に揺れてゆっくりと近づいてくるそれらを見る。
コイツらは僕の認識から生まれてしまったものだ。僕がどれだけコイツらから興味をなくそうが、僕が認識されている限り状況は変わらない。
そもそもなぜ僕はここまで狙われているのか。なぜ僕を殺そうとしているのか。
まあ、それは多分、最初に反映されたのが熊だから、コイツらの大元になったものが僕に襲いかかってたからとかその辺だろう。
多分、この怪奇現象そのものの目的は別にある。それはきっとこの大量発生に対する理由でもある。
僕を取り囲む無数の残滓達。痛みで飛びそうな意識を堪えて、僕は叫んだ。
「お前達はこの山の番人! この山を荒らそうとする人間に警告を与えるためにいる! 僕はこの山にかつていた神を傷つけようとした! だから今警告を受けている! あくまでも警告だ! だから大人しく帰ると決心した僕を、お前らは許した!」
僕が不用意に山に踏み入ったせいで、消えてなくなるはずだった残滓は形をなし、特性を得た。正体を得た。けれどそれはまだ不完全だった。コイツらは、完全になりたかったのだ。
もっと詳しい正体を、自分たちがどのような怪奇現象なのかを知りたがった。その欲求が生まれた。だから数を増やし僕を取り囲んだ。
そして今、僕はコイツらの正体を叫び、一応僕を見逃すとまで付け加えた。
上手くいっただろうか。思考できているということは僕はまだ生きているということだが、どうだろう。
どの道意識を保つのは限界そうだった。完全な暗闇に落ちる直前、「先輩!先輩!」という聞きなれた……酷く泣きそうな声を聞いた気がした。
そして気がついた時、僕は病院にいた。詳しくは忘れたが、なんだかあまり良くない折れ方をしていたらしく、クリスマス超えて年末まで僕は入院することになった。
「いい加減にしてください! 一歩間違えたら足だけじゃすまなかったんですよ! 怪奇現象の怖さなんて先輩が一番わかってますよね?! あまりにも軽率すぎますよ! わたし言ったじゃないですか! なんならもう二度と勝手なことを出来ないように治ったらもう一回わたしが足を折りましょうか?!」
真っ先にお見舞いに来たほこらは、それはそれはとんでもない剣幕で怒っていた。見かねた看護師が止めに入るぐらい。
ああ、さすがに僕も懲りた。心から懲りたし本気で反省もした。けれどほこらの怒りは治まらなかった。
神奈ちゃんもお見舞いに来てくれて、泣き出した神奈ちゃんを見てさらに怒った。
どうすれば許して貰えるのか一度だけ聞いたが、「許しませんよ」と一言だけ言われた。
それでも、毎日のようにお見舞いに来てくれた。
本当に、反省している。
ところで僕が詳細な正体を与えてしまった例の怪奇現象についてだが、ほこら曰く、正体を得たいという欲求は収まったのだからどっかの馬鹿が余計なことをしない限りこれが広く誰かに危害を及ぼすことはないだろうということだ。
ただ、僕は絶対にもうあの山に近づいてはいけないらしい。
言われなくても近づく気はない。全てが自業自得とはいえ、ここまで痛い目を見たのも人から怒られ続けたこともない。
色んな意味で、忘れることは出来ないだろう。
僕が退院したら退院祝いも兼ねてクリスマスパーティーをやろうと神奈ちゃんが提案してくれた。
ほこらはそこでもまだ説教をする気満々のようだったが、さすがに勘弁してくれないだろうか。
一度だけ戸橋もお見舞いにきた。一度だけというのは冷たいと少し思ったが、友達の見舞いという文化は僕にはよく分からないので、そういうものなのかもしれない。
その時ちょうどほこらはおらず、戸橋はいつものようにマイペースに、病室のカーテンを勝手に開けて日光を浴びている。
一応だが、僕は山で足を滑らせたということになっている。
他愛もない会話をしながら、戸橋はポツリと僕に言った。
「お前って、そんなに熊が好きだったのか?」
……戸橋は、僕が熊を見たいがために山に入って行ったと思っているらしい。そして奥まで入り込んで足を滑らせ足の骨を折ったと……馬鹿すぎるだろうそいつ。
大きくため息を吐く。この怪奇現象……と縁のない男が、心底羨ましく腹立たしい。ああ、逆恨みだ。それぐらいはさせて欲しい。
「もう嫌いになったよ」
そう答えて僕は布団に潜り込んだ。
神憑き怪奇とめぐり逢いて 林きつね @kitanaimtona
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。神憑き怪奇とめぐり逢いての最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます