ミッション:3次会を阻止せよ!




 私の会社では昔から、女子社員の間である有名な噂話がある。それは——。


『二階の北側の女子トイレ。そこのトイレで稀に、トイレットペーパーに文字が書かれている部分に出くわすことがある。もし、そのトイレットペーパーのミッションをクリアすることができたなら、報奨インセンティブは計り知れない。だがしかし、万が一にもクリアできなかった場合は、地獄の底に堕とされるであろう』


 ——そんなこと、ある訳ないじゃない。


 そして私は、いつしかそんな噂話など、すっかり忘れてしまっていたのだった。あの日、あの時までは——。


「もう! なんで一階のトイレが全部修理中なわけ!? 信じられない」


 これから外勤に行かなければならないと言うのに、トイレが使えないとはまさかの事態。私は、一緒に出かける後輩を待たせている焦りから、仕方なしに二階のトイレに駆け込んだ。


「なんとか間に合った。どれ」


 ゴロゴロとロールが転がる音を聴きながら、トイレットペーパーを手繰り寄せる。しかし——。少し鼠色がかった再生紙のトイレットペーパーに黒い文字が浮かび上がっていた。


「え!?」


『今晩の懇親会。総務課長の3次会行きを阻止すべし!』


「は、はあ!?」


 ——これはもしや。あの、あの噂のトイレットペーパーミッション!?


 気味が悪かった。まさか、本当にこんなことに出くわすだなんて。誰かの悪戯ではないだろうかと疑うが、その文字は、私の目に入った後、まるで嘘のように消え去ったのだ。


 ——幻覚!? やだやだやだ。総務課長って、あの酔うと絡んでくる牛乳瓶底眼鏡オヤジじゃん! なんで私がそんな奴の3次会の参加を阻止しなくちゃいけないわけ? 最悪ー。こんな悪戯……でも、


『クリア出来なかった場合は、地獄の底に堕とされるであろう』


「や、やだな。それに、今晩飲み会だなんて聞いていないし」


 私は気を取り直して、階段を降りた。すると、待っていてくれた後輩がにこやかに手を振った。


「先輩。今日は総務と営業で飲み会があるんですって。課長命らしいですから、予定あるとか言えませんね」


「飲み会だって!?」


 私は反射的に、断りの言葉を口にしそうになって、はったとした。


 ——だめだ。参加しないということは、そもそもミッションをクリアしなかったことになるってこと? まさか、そんな。本当に飲み会が? これは一体。


 私は不安な気持ちを隠しきれない。なんとか総務課長の3次会行きを阻止しなければならない。


 ——でも、あの総務課長だよ? ないないないー。ないわー。話をしたこともないじゃない。ありえない、ありえない。


「総務の女の子たち、可愛いもんなー。おれ、楽しみです」


 一人浮かれている後輩の後ろ姿を眺めながら、ため息しか出なかった。



***



 結局。私は、その変なジンクスみたいな噂話を、心のどこかで信じてしまっていたらしい。仕事を終え、指令通りに飲み会に参加。そして、2次会終了後に「3次会でもやるか……」と言いかけていた総務課長の腕にしがみついたのだ。


 その時の私は必死だった。もう、2次会までの間、どうやって総務課長を思い止まらせるのかと考えていると、酒を飲むペースもヒートアップし、その時の記憶が定かではない。


 ただ、いつもみんなから、うざたがられている総務課長の腕にしがみつき、必死に「課長! 3次会なんてやめて、私に付き合ってください!」と叫んでいたことと、そんな私を見て「ありがとう」と両手を合わせていた女子社員たちの眼差しだけが、朧げに脳裏に焼き付いているのだ。


「あー。頭痛いわあ。私、昨日、どうしたんだっけ?」


 ガンガンとハンマーで殴られているみたいに頭の芯が痛む。のそのそと手を伸ばして躰を起こすと、目の前には見知らぬ男がいた。

 そうだ。見知らぬ——いや、見知った男だ!


「きゃっ! か、課長!?」


 彼は逞しい裸体を惜しげもなく見せつけてくる。目眩がして、まさに。昨晩の私になにが起こったのか、一瞬で悟ったのだ。慌てて、そばの毛布を引き寄せる。


 ——だって、私も裸じゃーん!


「鈴木くん。まさか、君がそんなに僕のことを熱烈に恋してくれていただなんて。とても信じられない朝だ」


 ——恋なんてするか! 誰が。それに信じられない朝だ、なんて。それは私のセリフだー!


「もう、あんなに強引に腕にしがみつかれて、『だめ。私といてください。3次会になんて行かないで』って泣きつかれちゃうなんて。——大胆なんだね」


 ——いや、確かに言ったかもしれない。しれないけど! でも! そうじゃなくて……。


 私は誤解を解こうと、口を開いた。しかし課長は今の状況に夢中になっていたのか。矢継ぎ早に言葉を紡いだ。そして、それは私の想像を超える展開へと転がっていく。


「僕は、女性で営業の最前線で踏ん張っている鈴木くんが好きだ。君は、どんな場面でも頭を下げているだろう? この前も、自分の責任ではないのに、あんなに必死に頭を下げている君を見ていたら、なんだかすごくキュンとしちゃった」


「え、あの。課長は私のこと、知っていてくれたんですか」


「もちろんじゃないか。営業の大変さは僕が一番知っているよ。僕も営業だったからね」


 男性が多い部署で、女性としてやっていくのは大変だ。取引先の男性にも「女だろ」と足元を見られたり、ニヤニヤとした視線を受けることもあったりするのだ。もう、嫌になってしまう時も多い。だけど、同僚や先輩男性職員には、なかなか理解してもらえない悩みだった。だから、いつでも男には負けるものかと意気込んでやってきた。恋もしないで。結婚なんて考えたこともなくて——。それなのに。


 それを、この人は見ていてくれた? 

 そして、労ってくれたの?


 なんだか嬉しい気持ちになって、じんわりと目頭が熱くなった。


「鈴木くん」


 総務課長は、私の肩を抱き寄せてから「よしよし」と頭を撫でてくれた。


「お父さんみたい」


「お父さんはないでしょう? 僕、これでもまだ40前ですよ」


「え——?」


 いつもの牛乳瓶底眼鏡を外した総務課長は同年代の、そして驚愕するほどのイケおじでした。




***



 結局——あのトイレットペーパーミッションがなんだったのかはよくわからない。

 だけど私は、あれから課長とお付き合いを続けて、見事にゴールイン。寿退社をして、今では悠々自的な主婦業を送っている。

 あの日、あの時、あのトイレットペーパーを使わなかったら、私の人生はどうなっていたのだろうか? 

 ミッションをクリア出来なかったら?

 課長を3次会に行かせていたら?

 私の人生はどうなっていたのだろうか?


 それは今となってはわからないこと。人生に『もしも』はない。私の人生は一度きりだからだ。


 退職してしまって、あのトイレがどうなっているのか、私には知るよしもないが、もしかしたら。私の他にも、いや——今まさに、トイレットペーパーミッションを下されている女子職員がいるのかもしれない。





−了−

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ミッション:インセンティブをゲットせよ! 雪うさこ @yuki_usako

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