鳥居道の逢瀬

音無 蓮 Ren Otonashi

無題

 真っ赤な鳥居の下をくぐる。そうすることで簡単に、この世とあの世の狭間に降り立つことができる。神社の境内っていうのは、霊験をまとった空気に満ち満ちていて、今にもお稲荷様だったり、氏神様だったりが化けて出てきそうな風合いだった。とりわけ、月がよく見える夜だと、ほの白いまぼろしのようなものが社の裾に聳え立つ大杉の周りをふよふよと巡っている、なんて噂が後を絶たない、とかなんとか。


「むしゃくしゃした気分になったら、稲荷大社の鳥居をくぐるんだ。そうすると、大抵のことはどうでもよくなる」

「……なるほど、実に先輩らしいですね」

「僕らしい?」

「単細胞というか、単純というか」


 ひょっとして、褒めてないな? 

 おもむろに眉がひくつく。


 鳥居の間から差す煙月の薄明かりが、隣の小さな顔に控えめな、雪白の化粧を施す。彼女はわざとらしく、憎らしくも愛くるしい、反則の笑窪を浮かべた。


 僕は、どうしてか、後輩である藤代遙と稲荷大社の中を散歩していた。ほんの五分ほど前まで、誰もいない鳥居の手前で、なぜか天神を決め込んでいた彼女は、銀鼠の外套ですっぽり顔まで覆っていた。彼女は僕を見つけると、フードをぱら、と脱いで、百花妍を競って、並び立つものなしと言わんばかりの尊顔を露わにした。唇の端、犬歯をちらと見せつける笑みは、僕からしてみれば、なんと憎らしいことか。


 口に手を添えて、先輩の暇をわざとらしく茶にする遙のこめかみを、僕は両側からぐりぐりと揉んでやった。彼女はけらけらと、邪気もなく会心の笑みを浮かべるものだったから、怒髪も夜露の重さに耐えず、しなびてしまった。


 興が削がれてしまったもので、そこからわけもなく、ただ、行く先が重なっていたという所以で、僕と彼女は並んで、大社の目抜き通りを悠々自適、逍遥していた。そもそも、散策に態々理由をつける必要もない。


 僕と彼女の関係は、おおよそ希薄なものだ。部活や委員会の先輩と後輩、というわけでもなく、それでは幼馴染か、と言われるとそうでもなく。ただ、二人に共通する論理積があるとすれば、学校の屋上がホームグラウンド、ということくらいだった。


「お前、油絵の方はどうなんだ? また、いつかのように黒のベタ塗りにしてんのか?」

「題名を『午前〇時』にでもしておけばそれだけでエモ消費世代には刺さるってもんですよ」

「大多数に失礼だから謝ったほうがいいと思う」


 冗談ですよ。遙は嘘っぽく笑ったあとで、


「でも、黒は好きですよ。暗色ではなく、真っ黒」

「知ってるよ。じゃなきゃ、きっとお前はこんな夜に散歩なんてしない」


 彼女は、絵のこととなると途端に獲物に目線を合わせた狼のように声を殺して、つぶやく。


 遙にとって、絵とは獲物だ。描くという行為をもって、獲物をカンバスに詰めて、完成をもって己の血肉とする。オーディエンスに見せる、その完成形は、常に死闘の様だった。鮮やかな血液の流れと、筋繊維の裂開、骨の粉砕。野生。藤代遙は、イーゼルの手前で筆を持った途端、食物連鎖の圧倒的な天辺に聳え立つ。


「……実は、私もむしゃくしゃしていたんですよね」

「じゃなきゃ、大の女子高生が無人の鳥居の前であぐらかくわけないだろうな」

「私とてあぐらはかきますよ」

「スカートがはだけるからやめろよ」

「あら。先輩もちゃんと男の子だったんですね。てっきり不能かと……」

「お前のようなやつで反応してしまうってのは、染色体も見る目がないよな」


 脇腹を小突かれた。地味に痛い。斜め下を見やるとこちらの肩を頭の先でぐりぐりと擦りながら、目角を立てた遙が、


「素直に認めちゃえばいいのに。『藤代遙は魅力的だ』って」

「自意識過剰も大概にしておけよ。可愛げが半減だ」

「でも、先輩っていい子ちゃんとかぶりっ子とか毛嫌いするタイプですよね?」

「お前に僕の好みを伝えたおぼえはないけど」

「じゃあ好きなんですか?」

「無理」


 ビンゴ。僕の額に人差し指を突き立てて、遙の完璧なウインクが炸裂する。厄介な女に懐かれてしまったものだ。おかげで天手古舞の日々を馬車馬の如く駆け巡る羽目になっている。


「……こうやって鳥居の小道を並んで歩いていると、気づいたら、知らない街まで繋がっていそうですね」

「あの世だったり、な」

「天国か、地獄か。当然先輩は地獄行きでしょうね……」

「失敬な。僕ほどの善人がこの世に何人いると」

「五万も六万も、いや、もっといますよ。善人は善人と名乗らないし、それに、……先輩って私に優しくないですし」


 遙はぶす、とわざとらしく不機嫌になってみせた。

 そういうところが気に食わない……、なんてダメ押しをしてしまったら、面倒くさい反応をされるのは行間を読まずとも想定できた。


「僕は、不器用だから」


 遙はふうん、と意味ありげに長く息を吐いて、それっきり、押し黙ってしまった。


 煙幕をまぶした中天から、かすかに月明かりがこぼれる。鳥居と石畳を淡く照らす。えんじ色の柱どもが濡れたように耀う。薄く霧雨をまぶしたような、しっとりとした空気が触れそうで、触れない、僕らの手の甲を湿らせた。


 しばらくして、鳥居道の切れ間が現れた。

 そこには侘しさが漂う小さな祠が佇んでいる。


 一夜の散歩はもう終わり。ふたりきり、不思議な夜の終着点。


「先輩」


 僕の手の甲を遙の掌が覆って、侵食する。外気に冷やされた皮膚を、彼女の血の温みが溶かしていく。


 遙の頭が、僕の肩へしなだれかかる。やめろよ、なんて言う気はなかった。野暮だってことくらい、弁えている。


「先輩は、いつかきっと、私の手で描いてみせるので。そうじゃないと、きっと、私の収まりがつかないので……だから、その」


 月が雲間に隠れて、世界の輝度が失われていく。彼女の好きな色に包まれて、僕と遙の輪郭が見えなくなる。あいまいになる。あるいは、ゆるい糸のようになって、優しく、激しく、絡み合う。



 ——唇がぬるい体液で濡れた。

 彼女がよく噛んでいる、ミントのガムの味がした。



「……遙、」

「先輩はもっと、私を大事にしてくださいね? さもないと、カンバスごとお焚き上げして差し上げますから」


 黒っていうのは、ずるい色だ。

 夜っていうのは賢しい時間帯だ。

 そして、そのどちらもが、果てしなく藤代遙という、虚構のような後輩に似合うものだった。




 僕はあえて、今、遙がどんな顔をしているか、考えないようにした。

 溶けた輪郭の真正面、黒漆の唇だけが、彼女の存在を証明している。

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