その四 女たち

その橋は長くない。あまつさえ三人とも足が早くなっている。

                           三島由紀夫「橋づくし」



ひとが、誰かに何かを話すのは無意識のうちにでも、じぶんを受け入れてくれるものと期待しているからで、そうでない場合は何も話さないと私は思っている。

 前に掲げた文章は一年も経ってマリーが私に送ってきた手紙、というか小説の抜粋だ。

 褒めなくていいから感想が欲しいというので送ったら、それ以降手紙は来なくなった。今ならそんな馬鹿をしでかさないけれど、私は小説の瑕瑾、たとえば大聖堂の鐘の音が冒頭にあるのに作中で活かされていないことや母親が本当は何者なのかわからない不満といったものを書き送ってしまったのだ。マリーが本当に読んでほしかったのはそんなことじゃない。今なら少しはわかるとおもう。でもそのころは、「小説」のことが本当に何もわからなかった。そもそも自分がそれについてほとんど何も知らない、その豊かさも奥深さも本当になにも知らない、ということすらもわからなかった。

 マリーはけっきょく褒めてほしかったに違いない、私のことを都合のいい相手としかみていなかったのだ。そんなふうに勘違いして悲しくて悔しくて泣いた。

 マリーとは短期留学を終える最終週に喧嘩した。旅先のパリで。彼女は突然ブルターニュに行きたいと言い出した。TGVのチケット代は貸す。なんならホテル代は出してもいい。ユースホステルのベッドで酔っぱらって据わった目をして英語で言った。くりかえすけれど私は大学のプログラムで来ていた。引率の先生に誰と何処へ行くと伝えてあった。それに翌日の予定もある。その日もマリーが突然本屋さんに入って長居してオルセー美術館の滞在時間が短くなってしまったのだ。私は唇を噛んで、ずるいという言葉をのみこんだ。はじめの約束ではお互いにフランス語を話すことになっていた。それが今ではマリーが英語を話し、私がそれを聞くようになっている。マリーは立ち尽くす私から視線を外し、シャツを脱いでベッドにもぐりこんで背を向けた。おやすみと言ってそれきりだった。シャワーも浴びず、そのまま寝るマリーに呆れはてた。ビデしか使わないでいいような乾いた環境だけれどあてつけみたいに思えた。

 次の日、マリーは食堂で他の旅行者と座っていた。話しに夢中ですぐに私に気がつかなかった。英語なら会話するんだと醒めた気持ちでそれを見た。早口の英語に苛々しながらぱさぱさしたクロワッサンを珈琲で飲みこんだ。

 けっきょくその日はばらばらに行動し、ユースホステルに戻ったときには猛烈にさびしくなっていて、三日目は手を繋いでパリを歩いた。寮に帰って、私たちはそれぞれにシャワーを浴びて服を脱いでベッドに入った。

 マリーも私もほとんどなにもしゃべらなかった。その背中に生えている産毛が渦を巻くようになっているのがとても不思議で、髪を逆さに撫でつけてあらわになったうなじから尾てい骨まで指でなぞった。頬や首筋に触れる髪がやたらくすぐったくて、からだはところどころ蜜蝋みたいに掌のしたでぐにゃりとして、私が泣きながら藻掻くのをマリーは目を細めて眺め、くぐらせた指は潮のにおいがした。

 海のにおいがする。

 もういちど、こんどはふたりでシャワーを浴びてからベッドへ寝転がって天井を見ながら口にすると、マリーが真顔で言ったのだ。

 人魚だから。人間はまだ海の底にすら辿り着けてない。だから隠れていられる。

 私は肘をついて半身を起こしてマリーをうかがった。さっきまで肌をなぞったやわらかな唇がかたく結ばれていて、くぼんだ眼窩のまんなかの青がいつもよりずっと暗い。

 海の底には女たちの国がある。大地はもう征服し尽くした男たちも、そこにはまだ手が出せない。

 マリーはそう口にして目をとじた。それからイスの都の小説を書いていると言った。SF、それともファンタジーと問うと小説(novel)と英語で返ってきた。

 マリーはそれまで自分の周りにいるふわふわした女の子たちと違った。なにか底知れないものを抱えていて、その重みで私をひきつけた。溺れないでいられたのは彼女とは期限付きの関係と割り切っていたせいだ。

 私はマリーの言葉を、同性愛者である彼女の願望の物語のようなものとうけとった。いま思えば至極勝手な想像だ。若かったというのは言い訳にならないだろう。そういう未熟さは小説の「読み」にもあらわれる。書けばむろん、はっきりと出る。今なら少しわかると書いた通り、彼女はあの小説でキリスト教と異教の対峙を男と女、しかも人間ならぬ女たちの抵抗と敗北として描こうとしていた痕跡があった。少なくとも、そういったものへの目配せがあったのに、私はそれを読み逃していた。

 就職活動が本格化したころに、杏奈から電話をもらった。実は帰国してからも何度か電話があった。そのたびに愚痴だった。帰国子女は面倒だと言いながら彼女の口から出る企業名は華やかで、慰めるのも馬鹿馬鹿しくて電話を切る言葉を探しているとマリーの名前が飛び出した。あの子も母親だけでしょうと言われて受話器を取り落としそうになった。こちらの気配を察して杏奈が言った。わたしなんでも最初に聞いちゃうから、嫌がられることもあるけど後で楽だよ、聞かれたくないこともなんとなくわかるし。そうなんだと上の空でこたえた。すると、電話の向こうで小さく笑ったのに気がついた。いつも困ったときだけ電話してごめんね、なかなかちゃんと話し聞いてくれるひといなくて、ありがとね……。

 御礼を言われたのに、じぶんの鈍感さに殴られたような気がした。私はまともに何も返せなかった。案の定、杏奈からもそれ以降電話が来なくなった。

 イスの都の伝説は、グラドロン王の妻マルグヴェンを妖精とみなすものが多い。その娘ダユーは半人半妖の美女だ。ダユーは妖精を使役してイスの街を造り上げ、竜を従えて嵐を起こし通りがかりの船を略奪する。イスは富み、ひとびとは喜び集う。王は城を捨て美しい海沿いの街に移り住む。ダユーはそこで男を漁り、飽きたら仮面をつけて海に落とす。王は街に聖堂を建てるほど聖コランタンの教えに従っていたはずだ。それなのに、その従者である修道士ゲノレに愛娘の悪行を止めるよう諭されても叱ることができない。そしてそこに赤い男(一説には悪魔)があらわれてダユーを抱いて唆す。いわく、街の鍵を渡せ。

 ダユーは眠っている父王の首から鍵を盗んで赤い男に渡す。囲われた街とは処女に象徴される。父親の娘という立場から別の男の妻となったことを示すのに相応しい語りだ。

 赤い男は水門をあけ街は海水に襲われる。沈む街から逃亡する王と修道士ゲノレ。波間をいく王の馬が足を止め、修道士は振り返る。ダユーが馬にとりついていた。

「グラドロン王よ、その悪しき女を海へ沈めて馬をすすめさせたまえ」

 王は涙を流して首を横に振る。恐ろしい波音が背に迫っている。おとうさまおとうさまと呼ぶ声がする。グラドロン王は振り返る――……


 ダユーが手を離したのだと、マリーは書いていた。父王の眼に映ったその姿がみにくい人魚のそれだったから。ダユーの独白(モノローグ)には捨てられたとあったけど、地の文ではそうだった。ちなみに伝説では王が娘を海へ突き落とす。彼女が男たちにしてきたように。

 私は小説を読み返して、マリーが父親から性的虐待を受けていてそれを母親に伝えたことがあるのではないかと想像し、そういう自分が汚らわしく思えてそれを机の引き出しの奥にしまった。助けを求められたわけじゃない。下衆の勘繰りに違いない。私なら事実を誰かに言わないし、小説に仮託するにしてもこんなわかりやすくは書かない。手が震え、吐きながらそうくりかえした。でもそれなら、私がずっと感じていた彼女の重み、どう足掻いてもそこへ手が届かない静かな暗闇はなんだったのだろう……

 そのとき以来、私のなかに小説を読んで小説を書きたい気持ちと、小説を読んで小説を書くだなんてことはしたくない想いがずっと鬩(せめ)ぎあっている。両方消して、残ったものは掌でちゃぱちゃぱ水面を叩いてるみたいなやつだ。都市ひとつ沈めるなんてとうてい無理だし誰のこころも濡らさない。でも、それにはウソがない。

  

 ここにエッフェル塔の絵葉書がある。杏奈からだ。五月に旅行したそうで約二十年ぶりに彼女の声を聞いた。うちの母親に電話番号をメモらせるのだからたいしたものだ。でも、そんなところも彼女らしくて笑ってしまった。

 ところで、杏奈の話しは愚痴でも自慢でもなくフランスや日本の排外主義についてだった。ひさしぶりにヨーロッパの概念なんぞ熱っぽく語り合い、政治の話しをすると煙たがられてと嘆く彼女と会う約束をして電話を切って、私はこの文章を書きはじめた。

 マリーはもうあの住所にいない気がした。届かない手紙でも出せばいいのに、なんとなくそれは、自分の書いている小説みたいなものだなとふと思ってやめた。

 

 ふたりの名前は誰にも知られたくないからマリア様とその母でありブルターニュに縁のある聖アンヌからもらった。罰当たりだとわらわれるかもしれないけれど、他になにも思いつかなかった私の安直さをゆるしてほしい。

                                   了


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マリーへの手記、或いは沈める寺の一考察  磯崎愛 @karakusaginga

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