その三 ダユー
かの女はもはや人体でなかった。
三島由紀夫「花ざかりの森」
お父さま、どうしてあれ以来わたくしを抱いてくださらないのですか。
あれを間違い、大きな過ちとおっしゃいますか。わたくしをお母さまと思われたと。亡くなられた方が戻ってきてくれたのだと、確かにお父さまはそのようにおっしゃってわたくしを抱いてくださいました。
酔っておいでだった。ええ、それも存じておりますわ。では今夜も酔っておしまいになられたらよろしいのです。ねえお父さま、このわたくしが手ずから血のように赤い葡萄酒を盃にお注ぎします。わたくしもご相伴に預かります。
キリストさま、それはどなたですの?
ローマの神さま、かみさまですって。まあ、おかしい。かみさまがわたくしとお父さまの仲を邪魔するのですか? そのローマからいらしたコランタンさまとゲノレさまがわたくしを遠くへやれとおっしゃるのですか、だからわたくしにその二人の息のかかった男を宛がって海辺の街へと追いやると? このコルヌアイユを治める偉大なお父さまがたったふたりの修道士のいうことを真に受けるだなんて。
そのふたりはローマから遣わされたから偉いとおっしゃいましたか。それはでも、とても遠くの街のことでしょう?
*
お母さま、そこにいらっしゃるのでしょう? わたくし存じておりますわ、海の底においでなのを。人魚が波間から顔を出したときに教えてくれるのです。
この街がこんなに早くできあがったのも、竜が嵐を起こして船の積み荷を奪っていることも、なにもかもお母さまの不思議な力のせいだとわたくしはちゃんとわかっているのです。お返事してくださらなくてもかまいません。好き勝手に話します。
わたくしがこの潮のにおいのする街に閉じこめられてから、お父さまのおそばには例の修道士たちが侍っているそうです。わたくし知っています。お母さまが海へと追いやられたのはあの粗末な服をきた、口幅ったいことばかり言う男たちのせいだと。
お父さまがわたくしに宛がった男、あのローマから来たという赤い衣をまとった男がわたくしを可愛がってくれるのはベッドの上だけです。
お父さまはわたくしのおねだりをなんでも聞いてくださった。薔薇色の絹のドレス、たくさんの宝石に飾られた黄金の指輪、わたくしになんだってくださった。焼きたてのパン、みずみずしい果物、美味しい葡萄酒、手ずからおまえが先にお食べとさしだしてくれました。それに比べてあの男はベッドでしかわたくしに優しくない。いえ、ベッドでだってお父さまに比べたら少しも優しくはない。とても乱暴で、でもそれが好くて、お父さまと初めてしたときみたいなきもちがして。赤い男は他の男とちがっておどおどしなくてお父さまのように立派なようにおもったのです。でも、考えてみたらお父さまはどこにいても何をしてもわたくしを甘やかしてくださった。
わたくしは馬鹿でした。お父さまのご命令だからと結婚の約束などして。あの男よりお父さまのほうがずっといい。いえ、一点だけ、赤い男はお父さまよりずっと若くて美しい。わたくし、お若いころのお父さまに抱いてもらいたかった。
お母さまはずるい。お父さまの愛を独り占めして、あんなにきもちのよいことをしてわたくしを生んで、海の底で安らいでおいでだ。
でも、しかたがありませんわ。だって、お父さまはわたくしでなくお母さまをお好きで、わたくしがお母さまに似ているから、「間違った」とおっしゃるのですもの。だからわたくしをこんなところへ押し籠められた。
わたくしだって愛されたい、誰かの代わりでなく、わたくしのことをちゃんと愛してもらいたい。赤い男は少なくともわたくしをわたくしとして抱いてくれる。
結婚式はお父さまの内陸のお城ではなくこの街であげることになりました。そっといらしてくださってもよろしくてよ、お母さま。
*
お母さまおかあさまおかあさま、お父さまはわたくしを捨てました。一度ならず二度も捨てました。憎い憎い憎い。お父さまに復讐をしたい。いいえ、いいえ、わたくしはお父さまのおそばにいたい。ただそれだけ、それだけでいい。
お父さま、わたくしは海の底で息ができます。でももう陸へはあがれない。あしが、なくなってしまいました。からだがぬるぬるしています。うろこがあります。きっともうわたくしはかわいがってもらえない……
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