卑劣な旦那様が私を誘惑してくる

黒うさぎ

卑劣な旦那様が私を誘惑してくる

「メリー、そろそろ無駄な抵抗は止めたらどうかな?」


 ニコニコと笑みを浮かべるその顔に、焦りや苛立ちは見られない。

 この男にとって私の抵抗など、取るに足らないものなのだろう。


 追い詰められた私は、男に突き付けられたものから視線を逸らし、諦めずに歯を食いしばって耐える。

 私の考えが甘かった。

 まさか、嫁ぎ先の旦那様が、これ程卑劣な人だったなんて。


 ◇


 艶やかで流れるような黄金の髪。

 初雪のように透き通る白い肌。

 エメラルドのように輝く碧の瞳。

 肉感的でありながらもスラッと引き締まった肢体。


 それはこの世の美を全て詰め込んだような姿。

 男は目を奪われ、女はため息を漏らす。

 神に愛されし者として貴族界で名を馳せる人物。

 それが私、メリー・ローランドである。


 地方の男爵家に私は産まれた。

 貴族といえば聞こえはいいが、所詮は男爵家。

 実際は平民と変わらない、場合によっては平民より貧しい生活を送っていた。

 特に貧しさが直結したのが食事である。

 酷い時は三食蒸したイモだけなんて日もあったほどだ。


 領地経営が下手だったというわけではない。

 ただ、男爵家当主である父は、節制を是とする人物であった。

 税の徴収は最低限とし、不作などで厳しいときはその税すらも免除したりしていた。


 私はそんな父のことが嫌いではなかったが、パーティーなどで他家の貴族が煌びやかな世界に生きている姿を見ると、憧れずにはいられなかった。


 いつか私もあんな世界に生きてみたい。

 しかし、この男爵領にいる限り、そんなことは不可能だろう。


 ならば方法は一つ。

 裕福な貴族に嫁げばいいのだ。

 そうすれば、夢にまで見た贅沢な暮らしができるはずである。


 だが、ここで一つ問題が発生する。

 裕福な貴族というのは、比例して家格も上がってくる。

 男爵家出身の者が嫁げる先などたかが知れているだろう。


 悩みに悩んだ末、私が導きだした答え。

 それは美しくなることだった。

 貴族社会において、女の美しさというのは、ときに家格すらも上回る武器となる。


 幸い、私の素材は悪くない。

 美人だが、病弱ゆえに嫁ぎ先が男爵家くらいしか見つからなかったという母。

 その母譲りの美貌は、そのままでも十分に通用するだろう。

 だが、それだけでは駄目だ。

 この最高の素材を磨いて、磨いて、磨き上げる。


 規則正しい生活。

 適度な運動に、徹底管理された食事。

 スキンケアは欠かさず、髪の手入れにだって余念はない。

 貧乏ゆえに上流貴族の間で流行している美容用品は手に入らなかったが、安く済む代替品を日々研究した。


 それだけではない。

 姿勢や歩き方。

 表情や仕草に至るまで、人に美しいと思わせることのできるものは全て磨き抜いた。


 たゆまぬ努力の結果、いつしか私は貴族界一の美貌を手に入れていた。


 そしてついに、待ち望んでいた高位貴族からの婚約の申し込みが来たのだ。

 相手は若くして侯爵家の当主となった、ロックウェル・ルブランという男である。


 この男については、以前から私も知っていた。

 彼の持つ甘い相貌は、令嬢たちに絶大な人気を誇っていたからだ。


 客観的に見て、この貴族界に私とロックウェルほど似合うカップルはいないだろう。

 まさしく美男美女。


 相手が遥か格上の貴族からの申し込みとあって、家族も乗り気である。

 もちろん私も、だ。

 こうして私は婚約を経て、ルブラン侯爵家へと嫁ぐことになった。


 だが、このとき私は知らなかった。

 まさかロックウェルがあんな残酷な仕打ちをしてくるような男であるということを。


 ◇


 嫁ぎ先でも私は己を変えるつもりはなかった。

 即ち、美人であること。


 私が侯爵であるロックウェルと対等足り得るものはこの美貌のみ。

 美貌の力で、男爵令嬢風情が侯爵と結婚しても「メリーなら仕方ない」と周りに思わせることができた。


 美しくあり続けることこそ私の存在意義であり、私を支える揺るぎのない柱なのだ。


 その柱を維持するため、私は努力を怠らない。

 日の出と共に起床し、動きやすい格好に着替えると、私は侯爵家の広い庭園へと向かう。

 朝日に照らされながら体をほぐし、朝露に濡れた芝の上を軽くジョギングする。


 侯爵家お抱えの庭師が手入れしている庭園は、単調なジョギング中に私の目を楽しませてくれた。


 じんわりと汗をかいたところでジョギングを止めると、タオルで汗を拭いながら屋敷へと戻る。


 すると屋敷の中には芳ばしい香りが広がっていた。

 この匂いはパンだ。

 焼き立てのパンの匂いで間違いない。

 こんがりと小麦色に焼けた表面。

 ふんわりと柔らかい内相。

 侯爵家の朝食でよく出される丸パンである。

 侯爵領内で作られた上質なバターを一欠片すくい、割り開いた丸パンの間に挟む。

 焼き立てのパンの余熱で溶け出したバターは、白い内相へと染み込んでいく。

 一口サイズに千切り口へと運ぶと、芳醇な香りが鼻腔を通り抜ける。

 濃厚なバターの甘味と、柔らかなパンの甘味。

 舌の上でそれらが合わさり、私を天上へと導くのだ。


 くうぅ~


 不意に私の腹が音を立てた。

 神に愛されし者が奏でていい音ではない。

 こんな姿、誰かに見られでもしたら。


 私はさっと周囲を見渡す。

 そして目があった。

 玄関の横でバスケット一杯に積まれたパンを団扇で扇いでいるロックウェルと。


「……旦那様、こんなところでいったい何をなさっているのです?」


「おはよう、メリー。

 きっとメリーがお腹を空かせて帰ってくると思ってね。

 すぐにパンを食べてもらおうと待っていたんだよ」


 ニコニコしながら話すロックウェルだが、パンを扇ぐその手は未だに止まっていない。

 食欲を刺激するその香りに、思わず伸ばしかけた右手を、どうにか左手で止める。


「……パンは朝食の席でいただきます。失礼しますね」


 私はロックウェルが次の言葉を発する前に、自室へと駆け込んだ。


 ◇


「危なかった……」


 私はジョギングでかいた汗とは別の冷たい汗を拭った。


 ロックウェルの元に嫁いで初めて知ったこと。

 それは、ロックウェルはことあるごとに私に何かを食べさせようとするのだ。


 美味しいものをたくさん食べられる生活。

 確かにそれは、私が望んでいた煌びやかな生活の一部だろう。

 だが、同時に私の美貌を損なわせるのに十分な環境でもある。


 嫁いで間もない頃、私はロックウェルに勧められるままに、美味しい料理を食べていた。

 貧しい生活をしていた身としては、毎日美味しいものを食べられる生活というものに感動すら覚えていたものだ。


 だが、そんな幸せに浸っていられたのは、ほんのわずかな間だけだった。


 ある日の朝、私はいつものように寝間着から着替えていた。

 男爵家にいた頃は自分で着替えていたが、侯爵家に来てからはメイドが支度を手伝ってくれていた。

 最初は着替えを手伝われるなど恥ずかしかったが、さすがに毎日のこととなると慣れる。


 私は着せ替え人形のように、着替えさせてくれるのを待つ。

 そんな時だった。


「そろそろお召し物のサイズを、もう少し大きいものにした方がいいかもしれないですね」


 不意にメイドが呟いたその言葉に、私は耳を疑った。


 サイズが合わない?

 嫁ぐ少し前に仕立てたばかりだというのに?


 まさかと思い、私は着せてもらっている途中の服を急いで脱ぐと、姿見の前に己の裸体を晒した。


 鏡の中には、磨き抜かれた肢体が写し出されている……のだが。


「……ちょっと太った?」


 パッと見では分からないが、確かに肉感が増した気がする。

 特にお腹周り。

 綺麗なカーブを描いていたくびれの角度が緩くなっているような……。


 努力に努力を重ねて築き上げた美貌。

 そして嫁いだ今でもその努力は怠っていない。


(どうしてこんなことに……)


 私は思考を巡らし、そして結論にたどり着いた。


「食べすぎね……」


 朝起きて運動後の軽食。

 着替えて朝食。

 ロックウェルの職務を手伝いながらお菓子。

 お昼になり昼食。

 書斎で本を読みながらおやつ。

 日が暮れたところで夕食。

 寝る前に夜食。


 思い返すと、一日七食、というより常に何かを食べている気がする。

 これでは明らかに運動で燃やすエネルギーよりも、食事で摂り入れるエネルギーの方が多い。

 食べるものが片寄らないよう、メニューには注意していたが、量まで考えていなかった。

 これでは太るのも当然だろう。


 どうして間食ばかりしているのか。

 それには訳がある。


 この侯爵家で出される料理はどれも非常に美味しいのだ。

 貧乏男爵家で生活していた私には、それはもう衝撃的な味だった。


 さらに問題なのが、ロックウェルがやたらと料理を勧めてくるということだ。

 食道楽だという話は聞いたことがなかったが、どういうわけか、ロックウェルは私にたくさん食べさせようとしてくる。

 私としても、嫁いで間もなく、ロックウェルとの人間関係も確立できていない段階で、彼の方から歩み寄ってきてくれているということが素直に嬉しかった。

 そのため、勧められた料理を断るなんてことはできなかった。


 勧められるままに一日中美味しいものを食べ続ける生活。

 そんなことをしていれば、太るのも当然だろう。


(このままではいけないわ……!)


 私は決意した。

 この美貌を手放さないために、どれだけ勧められようとも間食はしない、と。


 ◇


 朝食に向かうと、そこにはテーブル一杯に置かれた料理があった。

 侯爵家の料理だけあって、味だけではなく、その見た目にまで趣向が凝らされている。

 そのため一皿辺りの量はそれほど多くないが、それでも朝から食べるような量ではないだろう。


 私はいつもの席、ロックウェルの席の対面の席へと座る。

 基本的にこの屋敷で一緒に食事を取るのは私とロックウェルの二人だけだ。

 私たちに子供はまだいないし、ロックウェルの両親も隠居していて屋敷には住んでいない。


 使用人たちが共にテーブルを囲むこともないので、必然的に目の前の料理は二人で食べることになる。


 少しするとロックウェルが食堂に姿を現した。

 その手には先ほど持っていたパン入りのバスケットがある。


「お待たせ、メリー。ほら、さっきのパンだ。

 少し冷めちゃったけど、まだ美味しく食べられるはずだよ。

 朝食のときに食べてくれるんだよね?」


 ニコニコしながらロックウェルがバスケットを私の手の届くところに置く。


「……ええ、もちろんいただきますわ」


 あの場を逃れるためにとっさに言ったこととはいえ、食べると言った以上嘘にするわけにはいかない。


 私はロックウェルが自身の席について食事を始めたことを確認してから、パンへと手を伸ばした。

 まだほのかに温かいが、バターを溶かすほどの温度ではないだろう。

 私はそのまま一口サイズに千切ると、口へと運んだ。

 小麦の豊かな風味と共に、優しい甘味が口の中に広がる。

 もっちりとした食感を楽しみつつ、薄く味付けされた野菜のスープで流し込む。


(ああ、幸せ……!)


 食事をしているその瞬間だけは、太ることも美貌を維持することも忘れ、美味しいものを食べるという原始的な幸福を噛み締める。


 広い部屋の中にロックウェルと二人きり。

 時々雑談をしながら食事をしていると、「ああ、私たち夫婦なんだな」としみじみと思う。


 ロックウェルはいい人だ。

 初めは侯爵家当主という身分と、貴族界でも有名な甘い相貌だけを見て婚約することを決めた。

 だが、こうして一緒に生活をしていると、高位貴族特有の傲った部分もなく、気さくでおおらかな人だということが分かる。

 ロックウェルの口添えがあったのか、元々人格者を雇っているのか分からないが、使用人たちも皆良心的で、嫁いできてから一度も肩身の狭い思いをした覚えはない。


 貴族としての幸せが手に入れば十分だと思っていたが、ロックウェルとの生活は私に一人の人間としての幸福も与えてくれていた。


 まあ、なぜか隙あらば、何かを食べさせようとしてくるのだが。

 そういえば、どうしてそんなことをしてくるのだろうか。


 嫌がらせ、ということはないだろう。

 誘惑に負けて食べてしまう私を見ながら、ロックウェルはいつもニコニコしている。

 あの微笑みが、悪意からくるものだとは思えない。


 わからない。

 わからないが、こうも誘惑の多い生活を強いられると、いつしか屈してしまうかもしれない。

 そうなれば、これまで苦労して磨き上げたこの肉体も、あっという間に丸々と太ってしまうことだろう。


 私は食事の手を止めると、ロックウェルを見た。


「旦那様、一つお聞きしていいですか?」


「どうしたんだい、急に?」


「旦那様はよく私に何かを食べさせようとなさいますよね?

 確かにどれも美味しいものばかりでしたが、どうしてそのようなことをなさるのかと。

 美味しいものを勧めてくださるお気持ちは嬉しいのですが、あまり食べすぎると私も身体の管理が難しいのです。

 旦那様も、丸々と太った私など見たくないでしょう?」


 私の問いに、ロックウェルはゆっくりとその口を開いた。


「そういえば、まだメリーにちゃんと話したことなかったね。

 どうして僕が君をパートナーとして選んだのか」


「自分で言うことではないかもしれませんが、私の容姿に惹かれて、ではないのですか?」


「もちろん、それもないわけではないけど。

 一番の決め手は、メリーが美味しそうに料理を食べていたからなんだ」


「えっ!?」


 私が美味しそうに料理を食べていたから?

 そんな理由で?


「初めてパーティーで君を見かけたとき、それはもう美味しそうに料理を食べていたよ。

 貴族のパーティーで出される料理は、どれも一流の料理人たちがその腕をふるって作ったものばかりだ。

 でも、貴族たちが料理に目を向けることはない。

 それは当然のことだけどね。

 貴族にとってパーティーとは社交の場であり、料理を食べる場所ではない。

 情報を交換し、仲間を作り、家同士の繋がりを作る。

 そういうところだ」


 ロックウェルの話を聞きながら、私は冷や汗を流していた。


(パーティーって、美味しいものをたくさん食べられる場所じゃなかったのね……)


 貧乏な暮らしをしていた私にとって、パーティーで出される料理は滅多に食べることのできないご馳走ばかりだった。

 会場を去れば、また質素な生活が待っている。

 そう思うと、料理を食べる手が止まらなかったのだ。


「そんなある日、君を初めて見た僕は衝撃を受けたよ。

 こんなに美味しそうに料理を食べる子がいるのかってね。

 メリーの幸せそうな顔を見ていたら、いつの間にか僕は一目惚れしていた。

 だから君をパートナーに選んだんだ」


 嬉しそうに話すロックウェル。

 実は私の食い意地が張っていただけだなんて、夢にも思っていない顔だ。

 本当の私は玉の輿を狙って嫁いできただけだというのに。

 なんだか、とても申し訳ない気分になる。


「旦那様のお気持ちはわかりましたわ。

 少し恥ずかしいですが、私の食べている姿を旦那様が好きだと仰ってくださるのは、私もその……、嬉しいですし。

 ですが、せめて食事のときだけにしてくださいね。

 間食ばかりだと、体型の維持が難しくなるので」


 私だって、美味しいものを食べるのは好きだ。

 ロックウェルが私の食べる姿を好きだと言うのなら、少しくらい食べすぎてもいいのかもしれない。

 その分、私が頑張って運動する時間を増やせばいいのだ。


「それともう一つ、言ってなかったことがあるんだけどね」


「何ですか?」


「実は僕、もう少しふくよかな方が好みなんだ。

 具体的には腹周りの径が、身体の中で一番大きくなるくらいかな。

 だから、メリーにはもっとたくさん食べてもらいたいな」


「絶っっ対に嫌ですわ!!」


 まさかロックウェルがデブ専だったとは。


「まあまあ。ほら、デザートもあるよ」


 ロックウェルの声に合わせて、メイドがデザートを運んでくる。


「あんな話を聞かされたあとで、食べられるわけがないでしょう!」


「ええっ!?食べてくれないのかい?

 折角料理人たちが腕をふるって作ってくれたのに。

 メリーはそれを残すというのかい?」


 悲しそうな顔のロックウェル。

 この顔が私に食べさせるためのものだということはわかっている。

 だがそれでも、そんな顔を向けられたら、食べないわけにはいかないではないか。


「……間食はいただきませんからね」


 私は渋々デザートを口へと運ぶ。

 うん、美味しい。


「たくさん食べて、大きくなってね」


「言い方!!」


 この先大丈夫だろうか。

 私を太らせようとしてくる卑劣な旦那様から、逃げ惑う日々はこれからも続きそうだ。

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