夕顔
涼雨 零音
第1話
「ええ。それはもうお気の毒なことです。はい。そりゃあもう私にも痛いほどわかるんですけどね。ええ。わかりますわかります。わかってないかもしれませんがわかるつもりです。でもですね、ちょっとそれを交通事故としてあれするのはね、え? いえそういう話をしているのではなくてですね。はい。わかってもらえますか。ね。お気持ちはよおくわかりますがね。ちょっと手続き上難しいんです。ええ。もちろん同じ命。みんなみんな生きているんで友達なんです。でもね。カエルが自転車に踏まれたのを交通事故として処理するのは難しいの。わかってくださいね。ええ。もちろんはい。僕らはみんな生きてますね。ええ。カエルだって生きてます。ミジンコもボウフラも生きてますね。え? ボウフラ知らない? いえ、いいです。ボウフラわからなくてオーケー。はい。はい。ではひとつそういうことで。はい。はいどうも」
電話を切ると巡査は立ち上がって腰を曲げたり伸ばしたりした後、顔中の筋肉を確認するみたいに動かしてから大きく息を吐いた。巡査が伸びを終えて腰を下ろしたところで一人の女が駆け込んできた。
「あの」
女ははやる息を抑えながら言った。
「いなくなってしまったんです」
座ったばかりの巡査は再び立ち上がって椅子を勧めた。座るとキコキコと音が出る、あらゆる平面部分がぺたんこの交番専用みたいな椅子だ。女が息を整えながら腰を下ろすのを見届けると巡査も座った。
「いなくなってしまったんです」
座るなり女は繰り返した。
「まあまずは落ち着いてください。水でも飲みますか? いらない? それで、何がいなくなったんです? 迷子ですか。それとも猫かなにかですか?」
もともと大きな目をめいっぱい開いた女はほとんど化粧をしておらず、地味な服を着てゴム製のつっかけを履き、肩からキャンバス地のトートバッグを提げていた。
「探してもらえますか」
女はうつむきながら上目遣いで言った。
「探せるかどうかは場合によりますが、まあまずはお話を聞かせてください」
「行方不明なんです」
「ええ。わかります。不安ですね。だからこそ今は落ち着いて、詳しく聞かせてください。行方不明者の場合は所轄の警察署へ届を出してもらうことになります」
「警察ってここでしょう」
「ここは交番なので警察署とは少々違うんですね。この辺の所轄は東署になります」
「東署になるんですか。いつからなるんです」
「あーと、えー、そういうなるではなくて、えーと、あー、いえ、東署にはなりません。このあたりの所轄は東署です。東署にはなりませんでした。ごめんなさい」
「東署にならない東署ですか」
巡査は両の掌を女に見せながらわずかにのけぞった。
「うーんと。まあそんなところです。ご存知ですか東署。ほら、環状通沿いにあるでしょ、バス停。東警察署前。あそこです」
「東警察署は警察でここは警察ではないんですか」
「いえここも警察ではあります。ここは交番。交番は警察の施設ですが警察署ではないの」
行き場を失くした両手を机の上で合わせながら巡査は答えた。
「ここでは探してもらえないのですか」
「まずはお話を伺います。ちょっとそこのスーパーでおばあさんとはぐれたとかそういう話なら私が探しに行くこともありますよ」
「誰のおばあさんですか」
「いえいえ、おばあさんは例えです。たとえばの話」
「おばあさんなら探してくれるんですか」
「いえ。あー、つまり、この近所で誰かとはぐれちゃったとかいう話なら行方不明者届を出す前に私が探すのを手伝いますよっていうような意味です」
「おばあさんじゃなくても探してくれますか」
「ええ。ええ。探せるかもしれません。まずはお話をね。聞かせてもらわないと。様子がわかりませんのでね。いなくなったのは誰ですか?」
「夕顔」
「ユウガオ? それはあの、ユウガオという名前の方という意味ですか?」
「夕顔は夕顔です。いなくなってしまったの」
女の答えを聞いた巡査は、椅子の上で姿勢を直して文字通り腰を据えた。
「そのユウガオさんというのはどなたですか?」
「昨日の晩はいたんです。でも起きたらいないんです。どこにも」
巡査はミシンの針みたいに何度も頷いた。
「それは困った事態です。わかりますよ。心配ですね。でユウガオは猫?」
「猫。猫がどうかしたんですか」
「いえ。では猫ではないんですね」
「猫は歩いても音がしません」
「は?」
「猫です。犬がフローリングを歩くと音がしますのに、猫は音もなく歩きます」
「ああ。飼っていらっしゃるんですか」
「亀ですか」
「亀?」
「亀は飼っています」
「亀なんですね。その亀がいなくなった?」
「亀は水槽に入っておりますのでいなくなりません」
「いえ、いなくなったという話で」
「いなくなったのは夕顔です。亀はちゃんといます」
「じゃユウガオは犬?」
「うちに犬はおりません」
巡査は深呼吸をしながら口の中でもごもごと唱えた。
「キレちゃダメだ。キレちゃダメだ。キレちゃダメだ」
女は巡査の口元を見つめた。
「あ。こりゃ失敬。なんでもありません。ちょっと私の中のチルドレンがね。自らを鼓舞しただけです。夕顔は猫ではなく、犬でもない。まして亀でもない。と」
そんなことを言いながら巡査は手元のノートにボールペンをぐりぐりとのたくらせた。女はその手元を見つめた。
「では」と言って言葉を切ると、巡査は指揮者がフェルマータを示すみたいに両手を広げてしばらく静止した。
「状況を整理しましょう。あなたはいなくなったユウガオさんを探してほしくてここへいらした」
「はい。最初からそのように申しております」
「キレちゃダメだ。キレちゃダメだ。ユウガオというのは誰ですか?」
「夕顔は夕顔です」
「ええ。昨夜まで一緒にいたんですね?」
「はい。寝るまではいました」
「それで今朝起きたらいなくなっていた?」
「そうです。探してもらえますか」
「ええ。探さんこともありません。それにはまず、夕顔というのがなんなのか誰なのかどんなあれなのかなんのそれなのか、知る必要があるんです。おわかりになりますか」
「わかります。夕顔の免許証見ますか」
「免許あるのかよ」
机に両手をついて腰を浮かせながら巡査は叫んだ。
「はい。これが夕顔の免許証です」
差し出された免許証を受け取りながら腰を下ろし、巡査はそこに書かれた名前を読み上げた。
「
巡査の視線は免許証と女の顔を何度か往復した。
「もしかしてあなたはヒルガオさんですか?」
「昼顔がどうしたんですか」
「いえ、双子かなと思いまして」
「植物の話ですか。アサガオやヒルガオの仲間はヨルガオです。ユウガオはヒルガオとは関係ありません」
「ああそうなんですか。朝昼夕かと思っていましたが考えてみたら朝昼とくれば夜ですわな。なるほどはっはっは」
「なんの話ですの」
「あ。こりゃ失敬。この免許の方は夕顔さんですがあなたではないんですか」
「どうして夕顔が私なんです」
「いえ単に確認しているだけです。あなたは夕顔さんではない。でもこの免許証の写真はあなたにそっくりです」
言いながら巡査は免許証を女に返した。女は免許証を受け取ると初めて見るみたいに覗き込んだ。
「これは夕顔です」
「そうですね。そう書いてあります。その方は小鳥遊夕顔さんとおっしゃるようだ。警察官の私が見て、その免許証はあなたのものに見えます」
「これは夕顔のです」
巡査は背もたれに寄り掛かって息を吐いた。
「キレちゃ、ダメだ。もう一度整理しましょう。あなたには双子の姉妹はいない?」
「おりません」
「その免許証は夕顔さんのものだ」
「そうです」
「夕顔さんは昨日の晩まではあなたと一緒にいたんですね?」
「はい。寝るまではおりました」
「起きたらいなくなっていた。で、あなたが夕顔さんの免許証を持っている」
女は真新しいタオルのような顔で巡査を見つめた。巡査はその顔にしばし見とれた。
「惚れちゃダメだ」
「なにか」
「いいえそのあのええ。ちょっと取り乱しました。失敬。うほん。ここまで間違いありませんか?」
「はい」
「わかりました。私にはあなたが嘘を言っているとは思えません」
「どうして嘘を言う必要があるんです」
「ええ。ありませんありません」
巡査は走り幅跳びの着地みたいに頷いた。
「ええと、ところで、あなたはなんという名前ですか?」
「私に名前はありません」
「周りの人はあなたを夕顔さんと呼びませんか?」
「夕顔は夕顔です。私ではありません」
「でもあなたと夕顔さんは同じ体の中にいた。そうですね?」
「はい」
「あなたは一人でその体を動かすのは初めてなんですか?」
「いつもは夕顔がいますから」
「これはやはり私の手には余りますね」
「東署に行った方がいいんですか」
「いえ、東署でもだめでしょう。夕顔さんを探せるのは警察ではなくてなにかそういった筋の専門のお医者さんだと思います」
「病院へ行くということですか」
「ええ。そういうことになりますがちょっとあなたが一人で行ってもなかなか話が通じないと思うので私が一筆書きましょう」
巡査はそういって机の引き出しをあちこち開けたり閉めたりし始めた。
「ところであなたお金は持ってますか? バスに乗るぐらいの」
袖机の引き出しからレポート用紙を取り出しながら巡査は言った。二重人格の片方がもう片方を探している、と書きつけながら、巡査ははたして病院の窓口がこんな話をまともに聞いてくれるのかと不安になった。
「私は持ってませんが夕顔の財布はあります」
女はトートバッグを開きながら言った。
「使い方わかりますね?」
「はい」
「あなたは夕顔さんじゃないかもしれませんがその体は夕顔さんのものだし、持ち物もみんな夕顔さんのものです。夕顔さんがいない間その体の持ち主はあなただから、持ち物もみんなあなたのものです。病院へ行くまではあなたが夕顔さんの役を演じてください」
「お芝居ということですか」
「そんなところです。大丈夫。他の人だってみんな芝居みたいなものだし、あなたは誰が見ても夕顔さんにしか見えない」
「私にできるでしょうか」
「できますよ。はいこれ。紹介状。この辺だと厚生病院がいいですかね。総合的にいろんな科があるから。駅前からバスに乗れば厚生病院は東警察署の二つ先です。受付へこれを出してください。本官は医者じゃないけれど一応警察官だからきっと信じてくれるでしょう」
巡査は書いていた紹介状を三つ折りして茶封筒に入れ、女に手渡した。
「バスに乗るだけだから。ね。バス代は夕顔さんの持ち物から払ってください。大丈夫。病院へ着くまではあなたが夕顔さんですから」
「ありがとうございます。病院へ着くまでは私が夕顔」
女は受け取った封筒を見ながらつぶやくと立ち上がった。
「お気をつけて」
巡査も立ち上がって交番の外まで女を見送りに出た。
「あ、ちょうどバスがいますよ。あのバスです。あれに乗れば厚生病院へ行けますから。交番で紹介されたと言ってその封筒を受付に出してみてください」
女の目が手にした封筒と巡査の顔を行き来した。
「ありがとうございました」と言って巡査に背を向け、女はバスターミナルに停車していたバスへ乗り込んだ。巡査はバスが走り始めるのを見届けてから交番の中へ戻った。
十分と待たずにバスは厚生病院へとさしかかる。
「厚生病院入り口。開くドアにご注意ください」
バスの自動アナウンスが録音された音声で言った。最後列の窓際に座っていた女が手にしていた封筒を小さく折りたたんでポケットへ入れた。
バスは再び走り始めた。
「私が夕顔。小鳥遊夕顔」
女は車窓を眺めながら小さく呟いた。
《了》
夕顔 涼雨 零音 @rain_suzusame
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