【短編】グリーゼのために ~登山家グリーゼとピアノ講師サラ・バーンズの恋愛~

代々木夜々一

サラとピアノ

 このシアトルは、わたしが子供のころは「アメリカの片隅」という雰囲気だった。


 それが今や、世界的な企業の本社も多く、街の中央はハイタワーが建ちならび、人も驚くほど増えた。


 わたしは55番埠頭の近くにあるウォーターフロントパークのベンチに腰かけている。


 近くの店で持ち帰りのホットドッグとコーヒーを買った。昼食の代わりだ。


 街のなかでランチをするより、ここのほうが気楽でいい。混みあう店内でテーブル席をひとり占拠するには、心のタフさが必要になる。


 カウンターで食べればいいのだけど、両隣を知らない人に挟まれて食事を楽しめるほどのフレンドリーさも、自分にはなかった。


 ホットドッグをコーヒーで流しこみ、包み紙を丸めながら海を見つめる。春の海は冬の海のような深い青色が消え、どこまでも穏やかだ。


 海には、たくさんの貨物船が往き来していた。その貨物船の多さを見つめていると、つい考えてしまうことがある。


 わたしは今年で32歳。つまりシアトルで生まれ育って32年になる。すっかり都会になったシアトルで、高い家賃を払い続ける意味はあるのだろうか。


 丸めた包み紙をジャケットのポケットに入れ、ベンチを立った。ベージュのスカートが汚れてないかしら。うしろを少しはたく。


 午後は個人宅のレッスンが入っている。わたしは一つ伸びをして、港に背を向けた。




「左手を急がないで」


 教え子の女の子に注意する。曲は「エリーゼのために」だ。


 以前は街でピアノ教室をしてたけれど、三年前にやめた。教室の家賃が馬鹿にならないからだ。それから個人宅に出張するレッスンだけに絞ったけど、皮肉なことに個人レッスンだけのほうが収入が多くなった。


「デボラちゃん、また左手」


 10歳の女の子に注意する。「エリーゼのために」は簡単な曲だけど、左手の人差し指が親指をまたいでく箇所が連発する。この子はそこがいつもおざなりだった。


「もういい!」


 女の子が立ち上がった。


「ほらほら、せっかく指使いは覚えたんでしょ」

「やだ! リジーは8歳でいてたって言ってた」


 リジーとは友達の名前らしい。たしかに「エリーゼのために」は初歩の初歩にあたる曲だ。わたしは6歳でこの曲を弾いた。


「先生、弾いて!」


 デボラがほほをふくらませ言った。わたしはため息をついてデボラの隣に座る。


 プロを目指すピアニストにとって「エリーゼのために」は目をつむっていても弾ける。目をつむるどころか、ワインを二本飲み干したあとでも弾けそうだ。


「デボラちゃん、左に寄って」


 女の子にイスをずれてもらい、ピアノの中央に座る。第一楽章。この曲の始まりは、右手のメロディを左手のコードが追いかけるように支える。


 追いかけるからか、速度はそれほど早くないのに、どこか切迫した印象を持たせる曲。ベートーベンは何を追いかけていたのだろう。


 スタインウェイのグランドピアノは、響きがよかった。ピアノ講師をしているけど、家にあるのは電子ピアノだ。わたしのアパートにはピアノを置くスペースなんてどこにもない。


「先生?」


 声をかけられて目を開けた。このピアノだと自分で弾いているのに、最後の音が鳴り止むまで聞き入ってしまった。スタインウェイ、やっぱりいいな。


「せっかく、いいピアノがあるんだから、弾いてあげてね」


 小さくてきれいな黒髪の頭をなでた。庭に面した窓から入る日差しが、かなり傾いている。16時すぎ。今日のレッスンは終わりね。


 ふたりでピアノルームから出て廊下を進んだ。


 通りがかりに応接室のドアが開いていた。なかでふたりの男性が話をしている。思わず立ち止まってしまった。


「おお、サラ先生、妻はキッチンにおります」


 デボラのお父さんだ。微笑ほほえんで立ち去ろうとしたら、男の客がわたしに声をかけた。


「さきほどの曲」


 男の顔に見覚えがあった。登山家のグリーゼ・ロジャー。単独登山で少し名のある人だ。この家にいるってことは、デボラのパパは、彼のパトロンなのね。


「プロが弾くと、あの曲もいいものですね」


 あの曲とは「エリーゼのために」のことだろう。


「ピアノがいいからよ」


 わたしは笑って答えた。謙遜ではない。10万ドルのピアノを使えば、その上を猫が歩いたとしても聞き惚れる音がする。


「そういうものですか」

「そういうものね」

「あら、先生、終わりですの?」


 廊下の向こうからデボラの母親がくる。


「それでは、また来週」


 デボラを母親のもとへ返して、わたしは言った。


「先生、ショパンはまだですの?」


 子供の練習曲をショパンにして欲しい。ここ最近、母親から言われていた。


「そうですね、来月あたりから」


 適当にごまかした。この子にショパンは早い。それでも「やらない」と言えば講師を代えられるだけだ。親の希望には沿うフリをしなければ、ピアノ講師なんてこの世に腐るほどいる。


「あら! ベートーベンは卒業できたのね」


 母親が我が子の頭をなでた。わたしは微笑むだけにした。


「では、来週」


 わたしは親子に挨拶をし、大きな家をあとにした。




 19時からバーでの演奏があるが、それまで少し間がある。富裕層の多い住宅エリアから街に降りて、骨董屋に行くことにした。


 世界に名だたる企業ビルが建ちならぶエリアではなく、昔からの店が残る西のエリアに目当ての店はあった。


「三匹のうさぎ


 店名はかわいいけど、裏通りの骨董屋にかかげられた看板の兎は怖い。兎が三匹、前足を立てて会話をしている絵なのだが、悪だくみをしている三人にしか見えない。


 店に入り、マグカップの棚を探した。昨日、うっかりマグカップを割ってしまった。100年以上前の本当のアンティークは手がでないけど、70年代のレトロなデザインの物などは、それほど新品のカップと値段は変わらない。


 いつもレジに座っているひげモジャで巨漢のエドがいない。


 店の奥、裏口の外でなにやら話し声がした。


 裏口から出てみると、路地裏の狭い道路にコンテナトラックが入っていた。トラックは路地裏の幅ぎりぎり。コンテナの後部ドアは開けられ、いくつものダンボールが路地に降ろされていた。


「引っ越し?」


 思わず発したわたしの言葉に、輸送業者と話していたエドが振り返った。


「よう、サラ」

「エド、ここ出ていっちゃうの?」


 このあたりの家賃も高騰していると聞く。残念に思い顔をしかめた。


「ちがうちがう。知り合いの骨董屋が店をたたんだんでな。閉店セールの売れ残りをもらってきたのさ」


 なんだ、そういうことね。


「タダ同然なんで、品も見ずに送ってもらったが、こりゃマイナスになるな」

「どういうこと、マイナスって。無料なのに?」


 エドは「あれだよ」とばかりに開け放たれたトラックのコンテナを指した。


 コンテナのなかをのぞいてみる。


「グランドピアノ!」

「おうよ、さすがに店には入らねえ」


 店に入らないどころか、ドアも通らない。マイナスの意味がわかった。これの処分代ね。


「見てもいい?」


 エドが髭モジャの顔でうなずいた。


 コンテナに入ると、夏はまだまだ先なのに蒸し暑かった。ピアノはコンテナいっぱいの幅で一番奥に残されている。


 ピアノはメーカー名がなかった。スタインウェイでも、ベーゼンドルファーでもない。


 それに珍しいことに塗装がなかった。黒でも茶色でもなく、木目がむき出しだ。表面をなでてみる。つるりと滑るので、コーティングはしてあるようだ。


 鍵盤のふたを開け、Aのラを押してみる。音はAじゃなくAフラットに落ちていた。これは長年にわたって調律されてない。


 CEGの三和音を押す。ここの調律も狂っている。もはや和音になっていなかった。


「持って帰ってもいいぜ」


 エドの声がうしろから聞こえた。コンテナの入口からのぞいている。


「かついで?」

「おう」


 笑いながらEマイナーの三和音を押す。マイナー調の切ない音が響いた。


「ん?」


 オクターブ上でもう一度。ああ、このピアノ、高音の抜けがやけに強い。


「どした?」

「変なピアノ。木目がむき出し。やさしそうな見た目に反して、高音は鋭い」

「なんだ、おめえみてえだな」

「なんで、わたしよ」

「そこそこの美人だが、中身は男だ」


 むっとしたけど、ちょっと当たってる。料理とかもできない。そんなことを覚える前に、ピアノだけを弾いてきた。


「これ、もらってくれよ」

「無理よ、わたしのアパート狭いのよ、このピアノの下で寝ることになるわ」

「いいじゃねえか、ピアノのプロらしくて。そういや寝袋の中古があったな」

「けっこうです。ベッド以外では寝ません!」

「寝る相手もいねえのにベッドかよ」


 にらみつけてやろうとしたら、エドは首をすくめてコンテナの入口から身をよけた。


 わたしの家では無理だ。でも、わたしが夜に働いているバーなら入るかも。スマホを取りだしてマスターに電話をかけてみる。


「ジェフ? タダでピアノが手に入るんだけど。見た目がちょっと面白くて」


 画像を送れと言うので、少し下がり全体を撮って送った。


 店にはすでにピアノがある。壁ぎわに置いたアップライトのピアノだ。あの子を手放すのは惜しいけど、ペダルがもう壊れる寸前だった。


 ジェフのメッセージが入った。メッセージを開けてみる。


「もらった!」


 そう。なら、あとは輸送ね。


「エド!」


 髭モジャの顔がひょいとあらわれた。


「もらってくわ」

「か、かついでか?」

「このまま送れるでしょ!」

「お、おう。よし、寝袋を……」

「職場! 家じゃないって」


 業者に確認すると、まるまる一日分の費用をもらっているので別の場所への輸送も自由だそうだ。お店のほうのピアノも、別料金にはなるが処分できると。


 店の住所を伝え、わたしはバスでむかう。


 バスのドアが閉まった瞬間、思い出した。マグカップを買い忘れた。




「こりゃ、やっちまったな」


 ジェフが腕組みをしてそう言う。


 バー「ドルフィン・ダンス」のオーナー兼マスターだ。顔をしかめると、60近い顔のシワが深くなる。


 メインストリートから一本はずれた、裏通りにあるバーだった。でも店は一階。表に面したガラス戸は夏になればフルオープンになる。そこからピアノを入れるのだから搬入は問題なかった。ただ、思ったより場所を取った。


「あそこの席は、死んだな」


 壁ぎわのアップライト・ピアノを店から出し、その付近のテーブルを二つのけた。それでもグランドピアノの場所は思ったよりかさばり、ピアノのすぐ前にテーブル席が二つほどせまる。


「ごめんなさい、ジェフ」


 言いだしたのはわたしだ。


「まあ、いいさ。テーブルが埋まることもないしな」


 ジェフが肩をすくめ、おどけてみせる。


 バーの名前「ドルフィン・ダンス」はハービーハンコックの曲名だ。ジャズピアニストの曲から店の名前をつけた通り、昔はジャズバーだった。


 ジェフのお父さんが始めた店で、彼は二代目。お父さんのころは繁盛していたそうだけど、もう時代が変わった。


 若い人はクラブに行って飲むし、年配の人もロック世代だ。ニューオリンズのようなジャズ好きが集まる街ならやっていけるけど、年々、お客さんは減る一方だと聞く。


 カウンターにテーブル15席の小さな店だけど、昔はドラムのセットもあったらしい。店の売り上げが減り、ジャズのバンドを呼ぶのはやめ、ドラムも処分したと以前にジェフから聞いた。


「今日は月曜だ。給料は出ねえだろう。帰るか?」


 わたしがこの店に初めて来たのは、客としてだった。店の奥で埋もれていたアップライト・ピアノが可哀想に思えた。弾いてもいい? そうカウンターにいたジェフに聞いたのだった。


 なにが気に入ったのか、ジェフはわたしのピアノを気に入り、いつでも弾いていいと言われている。それに客の入りがよければ売上の一部からギャランティも払ってくれる。


 ちなみに、この歩合制のお給料で100ドルを超えたことはない。


「せっかく調律師も呼んだのよ。弾いて帰るわ」

「なら、飯でも食っとくか。チキンバターのタコスがある」


 このバーの仕事、お給料が出なくても続ける理由。ジェフの料理は美味しかった。




 ジェフの予想通り、夜の9時まで人は来なかった。今日、初めての客は表の黒板メニューを見た男性の4人。20そこそこと思われる若い4人だ。店名で入ったきたとは思えない。お目当てはチキンバタータコスだと思う。


 男の子の一団は、表通りに面したガラス戸すぐの席に座った。わたしはそれを、カウンターに座って眺めていた。


 お客さんから弾いてと言われない限り弾かない。それは、わたしが決めたマナーだ。だれもが音楽を愛しているわけじゃない。実際、ピアノを弾き始めると帰るお客さんもいる。


「帰ってもいいぜ」


 ジェフがそう言って、お皿に載ったティーカップをだした。


「22時まではいるわ。気になるリアリティショーもないし」


 わたしは笑って答え、ティーカップを口にした。


「ハーブティーね。おいしい」


 ジェフも笑った。白髪交じりのマスターだけど、食べ物と飲み物に関する気配りは細かい。ほんと、ジェフがもう20歳若かったら、わたしは彼の奥さんに立候補する。


「今日はノー・ステージですか?」


 若い男がカウンターに来て言った。20歳を超えているが、キャップ帽を反対にかぶり、服はTシャツ。整えられたアゴ髭がなければ、ハイスクールに通えそうだ。


「ノー・ステージ?」


 カウンターのジェフが首をひねって返したが、若い男はピアノを指した。ああ、そういう意味ね。あのピアノにしてよかった理由ができた。目立つ。


「わたしが、ここのピアニストなの」


 若い男に体を向けて言った。


「あー、クラシック?」


 女性のピアニストはクラシック。ありきたりなイメージだけど、当たってる。


「知ってる曲であれば、なんでも弾くわよ」

「わお、じゃあ、仲間に聞いてきます!」

「テーブルに紙があるから!」


 男の子の背中にそう告げ、ピアノへと移動する。鍵盤のフタを開け、しばらく待った。キャップ帽の男の子はカウンターのジェフではなく、わたしに直接、紙切れを持ってきた。折りたたんでいたそれを開く。


" Sugar "


 なるほど、マルーン5ね。


 最初の和音を弾いて、思わず口を曲げてしまった。試し弾きしとけばよかった。調律師によって音程は合ってるけど、音の強弱はバラバラだ。


「これ、すごいクセがありますよ」


 夕方に呼んだ調律師の人も、そう言ってたっけ。


 弾きながら、男の子たちを見た。ビールの小瓶を片手に談笑している。乗りこなせないピアノに手こずりながらも、なんとか最後のフレーズを弾き終える。男の子は、もうひとつの紙を持ってきた。


「ごめん、もう一回、弾いていい?」

「あ、はい……」


 ずいぶん中途半端な演奏になった。一度、低音から高音までを押していく。問題がありすぎる鍵盤が3つ。ここは使わないようにしよう。


 目をつぶった。クセが強いので、ちょっと集中しないと曲が乗らない。


「うわっ……」


 男の子が、何か言った気がする。目を開けると、テーブルに帰っていくところだった。気に入らなかったかな。でも、最後までは弾こう。


 最後はテンポを落とした。こもっていた音が、少し皮がかれたような新鮮な音になった気がする。


 まあ、こんなところかな。弾き終えて目を開けると、さきほどの男の子が立っていた。少しびっくりした。紙の切れ端を広げている。


” Girls Like You ”


 それも、マルーン5の曲ね。わたしはうなずく。今度は少しテンポアップした。男の子のうしろから、ほかの三人もやってくる。四人はやがて歌い始めた。それもいいかも。学校の先生になった気分。


 曲が終わると、男の子4人はハイタッチしあって喜んだ。気に入った? それはどうも。


 マスターのジェフが紙切れを持ってやってくる。あれ? 店内を見ると、お客さんがもう2組ほど増えていた。そのうちのひとりが、わたしを見てロックグラスを持ちあげる。あの人がリクエストした人ね。中年の男性。


 ジェフから紙切れを受けとり、開いてみる。


” Queen ”


 なるほど。あの中年男性は、間違いなくイギリス人ね。マルーン5はロックじゃない。きっと、そんなことを思ってる。


 わたしはジャケットを脱ぎ、そでをめくった。クイーンか。曲の指定はない。でも、期待されてるのは、きっとアレ。


 特徴的な最初の出だしを弾いた。


「Bohemian!」


 中年の男性がさけんだ。そう、ボヘミアン・ラプソディ。ピアノでやるような曲じゃない。そうなんだけど、クイーンを好きな人はだいたいこの曲をやると喜ぶ。


 バラードタッチの一楽章が終わり、変調。わたしはイスに浅く座りなおした。大合唱のパート。それを和音の連弾であらわす。拍手と指笛が聞こえた。


 このピアノ、ほんとに高音の抜けがいい。暴力的に弾いてみよう。大丈夫。フレディだもん。


 力強く大合唱のパートを弾き、ギターソロの部分はカットする。そして、最初のバラードタッチへ……


 曲の終わりを示す和音をそっと置くように弾くと、場内にいた5組のお客さんから拍手を受けた。


 そこから、何曲かロックやポップスのリクエストが来る。これは皮肉ね。弾きにくいピアノだから、集中して弾かないといけない。でも、お客さんは乗ってるみたい。


” Bagatelle No. 25 in A minor ”


 あら? 何枚目かのリクエストが書かれた紙切れを開け、その文字を見て顔を上げた。


 ベートーベン小作品25番のAマイナー。この名で呼ばれることは少ない。エリーゼのために。


 カウンターにいた男と目が合った。昼間の彼。登山家のグリーゼ・ロジャー。わたしは少し考えた。昼間の彼が聞いた音は、10万ドルするスタインウェイのピアノだった。このピアノは、ただの拾ったピアノだ。


 タンタンッと最初の二音を弾き、音のまずさがわかった。目を閉じる。クセのあるピアノだ。わざと引っかかるように弾いてみる。


 この曲の第二楽章は、打って変わって曲調が明るくなる。力強く弾いてみた。これも違う。正解を探して探して、わからないまま曲は終わった。


 鍵盤のフタを閉めて立ち上がる。ぱらぱらと拍手が聞こえ、手を振って返した。


 カウンターに歩いていく。登山家のグリーゼは、ジーンズにシャツという出で立ちだった。雑誌などで見た姿は、すべてナイロン製の登山服だった。よくよく見ないとグリーゼだと気付かれないだろう。


「やっぱり、きみのピアノはいいね」


 グリーゼが笑顔をむけてくる。隣に座った。


「ぜんぜん。なるべく、昼間に聞いたものと遜色ないようにしようと思ったけど、だめね。正解がつかめないまま終わった」


 彼が目を輝かせた。


「すごい、じゃあ、おれに聞かせるために弾いてくれたんだ」

「そうとも言えるわね」

「エリーゼのために、ならぬ、グリーゼのために」


 彼は自分のジョークに笑ったけど、わたしは眉をひそめた。


「ちょっと、ベートーベンに失礼よ」

「コンサート、いや、リサイタルとかの予定は?」


 わたしの注意は軽く流された。


「わたしは、ただのピアノ講師よ。コンサートなんてないわ」

「すればいいのに」


 少しいらだった。世界にピアノ奏者が何人いると思っているのか。


「リサイタルできるようなピアニストは、ほんのひと握り。有名なコンクールででも優勝しないと無理ね」

「きみなら優勝できるよ」


 それは無神経だ。コンクールには数えきれないほど出た。二度や三度ならいい。ひたすらに落ち続け、やがて落ちても悲しくない自分に気付き、コンクールをやめた。


「そう簡単じゃないの。生活もしないといけないしね」


 コンクールを受ける者は、生活の全てをコンクールに向けている。学生時代に取れなければ、ほぼ難しい。親に食べさせてもらいながら、一年中コンクールの準備だけをする相手には勝てない。


「そうか、そうなるとスポンサーが必要か」


 無名のピアニストにスポンサーなんて聞いたことない。


 だんだん、彼がうとましく思えてきた。普通の生活をしている人の気分はわからないだろう。彼は年に何回か、登山すればいいだけだ。


「あー、来週にゴジュンバカンに発つのだが、それまではこの街にいる。良かったら……」


 彼はカウンターの端にあるロックグラスに入った紙切れを一枚取った。それはピアノのリクエストに使う物だ。


 なにか番号を書いて、わたしに差し出した。彼の指に挟まれた紙切れを見つめる。


「それは、わたしが独身だから?」

「そういう意味では……」


 ため息をひとつつき、言い返そうとした時、わたしのイスのうしろに人影が立った。


「今日はもう終わりですか?」


 最初の男の子。まだいたんだ。


「いいわ、リクエスト持ってきて」

「はい! すでに弾いた曲でもいいですか?」

「もちろん」


 男の子は駆けてもどった。わたしはグリーゼが持ったままの紙切れを取り、丸めて返す。


「登山家の休暇につきあうような気分じゃないの」


 イスから立ち、カウンターを背にした。チームを組まない登山家。彼を書いた記事は面白く、何度か読んだ。でも、孤高な人かと思ったけど、軽い男だった。バカンスの相手にされたら、たまったものではない。


 木目のピアノに座り、鍵盤のフタを開けた。


 あの四人のリクエストを演奏して、今日は帰ろう。


 入口から出ていくグリーゼのシャツ姿が見えた。


「いやあ、ひじょうに興味深いのが……」


 男の子が笑いながらピアノに来る。


「いいわ、ちょうだい」


 そう言って言葉をさえぎり、リクエストの紙をもらった。ピアノ用のイスが少し高く感じ、サイドのネジを回して調節する。


 四枚の紙。とりあえず鍵盤の上に置いた。


" Elise "

" Elise "

" Elise "

" Elise "


 4枚ともが同じ。どういうこと? 聞こうと思ったら、男の子はすでに席に帰っている。


 ジェフがピアノの側に来た。ほかのお客さんのリクエストを持ってきたのだろう。


「ジェフ、4人のリクエストが同じだわ」

「おう、ありゃ、よく弾けてたからな」


 冗談でしょ。エリーゼのためによ。だれにでも弾けるわ。


 ジェフが4枚の紙切れの横に、もう1枚足した。


" Passion No8 "


 そんな曲はない。曲はないが、なんの曲かはわかった。


「アルバムを出してたとはな。なんで言わねえ」


 自費出版に近いCDだった。若いころの勢いだけで、タイトルを「情熱」とした。その8曲目。


 彼がなぜ「Bagatelle No. 25 in A minor」と書いたのかがわかった。わたしのアルバムがそうだったからだ。


 アルバムの最後の曲。ありふれた、この曲で締めようと思った。いつまでも初心を忘れないために。


「彼、わたしを知ってたのね」

「ああ、ファンだって言ってたぜ」


 わたしは愚かだ。思わず天上を見つめる。


「これは彼が?」

「いや、俺だ」

「ジェフ?」


 白髪交じりの初老マスターを見上げた。


「だれかのために弾くってな、気合いが入るだろ。その情熱ってアルバムは、言葉通り情熱にあふれたアルバムだったらしい。俺にも聞かせてくれや」


 だれかのために弾く。気合いが入る。その通りだった。


 わたしは昼間に教えたデボラを思い出した。いいピアノがあるから弾きなさい。違うわね。ママに聞かせるために弾かないと。


 わたしはピアノから立ち、4枚の紙をつかんで男の子4人のテーブルに行った。


「あの、何か?」

「この紙に、名前を書いてもらっていい? あなたたちを思って弾きたいから」


 ひとりが急いで、テーブルの上にあるロックグラスの中のペンを取った。


「光栄です!」


 紙に名前を書いてペンを次にわたす。


「あの、名字と名前はどちらのほうが?」


 眼鏡をかけた神経質そうな男の子が聞いた。


「どちらでも。あの、書きたくなかったら、ハンドルネームでもなんでもいいわよ」


 神経質そうな子は宙を見て考えこんだ。


「……フルネームにします」

「ミックずるいぞ! ぼくもそうする!」


 最初に書いた子がペンをもぎ取った。こんなに喜ばれるとは思わなかった。


 名前の入った4枚を持って帰り、譜面台にならべる。それからジェフの紙も。ジェフのおじいちゃんな顔を浮かべると、アダージョ(ゆっくり)になりそう。チキンバターのタコスを思い浮かべることにする。


 4人と1皿を思い浮かべ「エリーゼのために」ではなく「 Passion No8 」を弾こうと思う。情熱。なんてセンスのないタイトル。でもそれを弾く。拾ってきたようなピアノだけど、グランドピアノだ。パワーだけはある。


 鍵盤の上に指をかまえ、目を閉じる。


 始まり。有名すぎる「ミレミレミシレド」のメロディ。とにかくやさしく。ここでわたしは左手のアルペジオをほんの少し16分の1拍、遅らせる。アルバム「 Passion 」でやった弾き方だ。


 左手が少しずれて追いかけることで、曲が途端に不安定になる。どこに行くんだろう、何をめざすのだろう、そんな気分にさせる。


 そこから打って変わって明るいパートへ。だんだんと力強く。


 ベートーベンの曲は、根底に流れるものが、とにかく明るい。難聴の作曲家、ハードな人生。それでも作る曲には憂鬱さの影も形もなかった。


 フレッド、ミック、アンドレオ、ケビン。聞いてる? ベートーベンの曲が持つ「生きる悦び」それが伝わればいい。それにチキンバタータコス! あれこそ生きる悦びね!


 軽快なパートから、もう一度、最初のメロディへ。ここからは左手の「遅れ」は使わない。なめらかに、かつ、力強く。


 少しずつ、少しずつ、クライマックスへの予感。そうだ、このピアノは高音の抜けがいい。音の響き、それだけに集中してみよう。


 物語は後半へ。この曲で一番激しいパート。左手の同音連打。激しさ増すばかりの指とは裏腹に、身体に染みこんだペダルの使いをさらに厳密に。


 このピアノも乗ってきた。いいじゃない。いい音。わたしはそう思う。


 気付けば、明日への夜明けを期待させるような最後のメインメロディを弾き、鍵盤の上で余韻とともに止まっていた。


 お店のなかは静まりかえっている。伝わらなかった? でも、これが今のわたしの精一杯だ。立ち上がり、だれに向けてというわけでなく、お辞儀した。


「Bravo!」


 あの最初の男の子が立ち上がり叫んだ。それを機に、お店のなかの全ての人が立ち上がり拍手をした。


「マスター、マスター!」


 男の子は拍手のなか、ジェフに向かって叫ぶ。


「彼女に飲み物を!」


 ここでピアノを弾くようになって、酔っ払いから酒を勧められたことは何度もある。お客さんに飲み物をおごられたことはない。でも、今日はいいような気がした。マスターのジェフと目が合いうなずく。


 男の子たちのテーブルに近づくと、そのうちの一人が急いで自分のイスをはずし、となりの席からイスを移動させてセッティングした。イスの背もたれを持ち、わたしを待つ。


 若いからといって、子供扱いは失礼なようだ。わたしが座るのをエスコートしている。名前はたしかアンドレオだったかな。


「ありがとう」


 わたしがイスに座る動作に合わせ、アンドレオはイスを押した。マスターのジェフがグラスに注がれた一杯の白ワインを持ってくる。


「ぼくらのための演奏に感謝します!」


 男の子たちと乾杯し、ひとくち白ワインを飲んだ。あら? この白ワイン、お店のグラスワインで出す安物じゃない。ジェフを見ると、こっちを見てウインクした。なるほど、これはジェフからのご褒美らしい。


 さきほどの演奏がいかにすごいか。男の子たちは口々に話した。そうね、専門用語なんて知らなくても、音楽の感想は言い合える。専門用語が必要なのは、批評家という肩書きの人たちだけだ。


 大人になれば、あまり褒められるということもない。背中がくすぐったいような気もするけど、今日の白ワインは格別に美味しい。


「強さがちがうよなぁ!」


 フレッドが言った。


「強さか。どうなんだろう、悦び、そんな感情にも思えた」


 神経質そうなミックが眉を寄せて考えている。よかった。四人には伝わった。それにしても、いい子たちね。最初に入ってきた印象をわたしは反省した。


「さきほど、皆と話したのですが……」


 あらたまってキャップ帽のフレッドがわたしに向いた。


「ぼくらの会社は、いくつかのウェブサイトを運営しているのですが、この前、地元のラジオ局を買収したんです」


 若い風貌の口から「買収」と言葉が出たのに驚いたが、ここはシアトル。IT関連の会社が多いのであり得る話だった。


「ラジオ局はウェブ配信ともからませていきたいのですが、肝心の中身がない。なにか面白い放送はないかと思ってたんです」


 言われている意味はすぐにわかった。うそでしょ。わたしは自分を指さした。


「はい。リクエストを受けて即興のライブ。いや、ピアノだからリサイタル、ですかね?」


 フレッドがわたしに聞いてきた。リサイタル。どちらでもいいけど、グリーゼもそう言っていた。


 ラジオ局のライブ。わたしの子供ころはあった気がする。今ではそんな話はめったに聞かないけど、珍しいぶん、いいかもしれない。


「フレッド、それなら動画配信も同時だな」


 気難しそうなミックが言った。


「配信か……」


 思わずつぶやいてしまった。


「だめですか?」


 フレッドが食い入るように見つめてくる。


「ああ、そうじゃないの。わたしなんかでよければ、なんでも」

「なにか、心配が?」

「心配じゃなくて、そうね、ちょうどいい機会だから教えて欲しいんだけど、配信の音って、なんであんなにつやがないの?」


 四人が意味がわからない、といった感じで首をひねった。


「ラジオの音やレコードの音って、耳障りがいいでしょ。ストリーミングの音って、どんどん新しいのはできるけど、音は変わらないのよね」


 ミックが眉を寄せた。


「それは、おかしいです。FMで流してるデータ量と、ストリーミングのデータ量は比べ物になりません。そもそもデジタル化して……」


 そうか。けっこうこの話は「わかる!」という人もいれば、そうでない人もいる。やっぱり好みの問題だけかもしれない。


「待てよ、ミック」


 フレッドがミックの言葉をさえぎった。


「プロのミュージシャンがそう言うんだ。そうかもしれない」

「そうか?」

「ミック、いつもどうやって音楽を聴く?」

「どうって、スマホで」


 フレッドは、かぶっていたキャップ帽を取り頭をかいた。


「だろ、スマホからイヤホンだ。でも、アナログレコード集めてるやつとかいるだろ。そういうタイプは、ぜったいレコードだし、ハイブランドのスピーカーで聴く」


 わたしに場所をゆずり、うしろで座っていたアンドレオが話に加わろうと身を乗りだした。


「ってことは、あれか。ラジオ電波で発し、ハイブランドのスピーカーから流した音をもう一回取りこんで……」

「そうなんだ、アンドレオ。音がラジオの音になる」

「それ、面白いかも!」


 ミックは逆に、頭を抱えた。


「ぜったいラジオと配信でタイムラグ起きるよ、面倒臭そう」

「せっかくラジオ局が買えたんだ。やろうぜ。ラジオ局のほうにライブ室作って。あっ、待てよ……」


 フレッドは立ち上がり、店のピアノを見つめた。


「ここからすればいいのか」

「ええっ? お客さんの声も入るわよ」

「それがまたいいよ。ラジオ中継と動画配信。ざわざわした空気感もあって」

「うわっ、おもしろそう。打倒ボイラールームだ!」

「ボイラー?」


 なぜ湯沸かし器なのか、首をひねったらフレッドが説明してくれた。


「世界中のクラブからDJがやるライブ配信なんだ」


 なるほど。テクノ界隈では、そんなことをやってるのね。クラシックが時代に取り残されるわけだわ。


「あの人、店長かな。おれ話してくるよ」


 アンドレオが席を立ち、カウンターのジェフのもとへ向かった。すごい行動力。このシアトルで会社をやってるだけある。


「でも、さっきの話」


 フレッドが話し始めた。


「ラジオと配信の違い。そういう専門家の話って面白いな。トークでもラジオに出てくれる?」


 フレッドに聞かれ、もちろんうなずく。それと同時に、いたずらっぽい名案も生まれた。


「トークで言えば、もっと面白そうな人に会ったわよ」

「だれ?」

「さっき、カウンターにいた男性」


 フレッドは宙を見て思い出そうとしていた。


「あのシャツを着た……」

「そう、単独登山の」

「グリーゼ、グリーゼ・ロジャーだ!」


 フレッドにもわかったらしい。どこかに電話をかけ始めた。


「ああ、ステフ? シアトルにグリーゼ・ロジャーがいるみたいなんだ。ラジオ番組に呼んでよ。ぼく、彼のファンなんだ」


 やっぱりすごい行動力。あとで聞いたけど、電話口のステフっていうのは、ラジオ番組のディレクターらしい。


「連絡取ってみるってさ」

「そう、その日、わたしも行ってもいい?」

「もちろん、連絡するよ!」


 フレッドと連絡先を交換して、わたしは席を立った。もう少し、ピアノを弾きたくなった。グリーゼとまた会う時、あのアルバムに入れた違う曲も聴かせたい。




「ねえ、だれ? ブラックサバスなんて書いたのは」


 木目ピアノの上に設置したマイクに向かって話す。お客さんから笑い声がどっとこぼれた。往年のヘビーメタルだ。


 カウンターのイスに座っている巨漢の男が、隠れるようにくるっと背を向けた。骨董屋のエドね、こんなリクエストしたのは。


 ラジオとネットでの配信を始めて、言われたのが「MCをもっと多く!」だった。そういうのは苦手だと思ってたけど、人間って慣れてくるもので今では楽しい。


「次、いくわよっ!」


 わたしは次のリクエストの紙を見る。今日も、お店は満員だった。


「ラフマニノフ!」


 テーブル席の男性が「自分だ」と手を挙げた。「超技巧派」とよく言われるラフマニノフを書いたのは、思ったより若い男性だった。試合観戦のあとなのか、メジャーリーグのチーム・ユニフォームを着ている。


「この人の曲って、わたしの指の長さだと完成度が低くなる。それでもいい?」


 ユニフォームの男の子はうなずいた。


「わかった。心を込めて弾くわね」


 ユニフォーム男は、嬉しそうにもう一度うなずいた。


 ラジオと動画配信、それを使ったライブは反響がそこそこいいらしい。それより、お店に足を運んでくれる人が増えた。


 店内の一角に作ったミキサーブースでは、フレッドとミックがパソコンやもろもろの機材をいじっている。そのフレッドが手を振り、店内にある時計を指さした。そうか、そろそろ時間なのね。


 マイクに口を近づける。


「ごめん、みんな。今日はここから15分ほど、ライブ・ニュースを挟むの。スクリーンを設置してもらったから、楽しんでね」


 店の奥に設置したグランドピアノの正反対、表の通りに面したガラス戸の壁にスクリーンを吊してあった。


 プロジェクターのスイッチが入ったようで、スクリーンが光り始めた。出てきた映像に、私をふくめ店内の人たちすべてが息をのんだ。


 恐ろしいほどの雪の急斜面。ところどころには大きな岩が顔を出している。


『グリーゼさん、グリーゼさん、聞こえますか?』


 女性の声が入った。これはラジオ局が雇ったアナウンサーだ。


『はい、聞こえます』

『それでは、ここから頂上までの実況をライブニュースとしてお伝えいたします。グリーゼ・ロジャーさんは……』


 グリーゼの経歴が語られ始めた。そう、これはゴジュンバカンだ。彼の頭に付けているミニカメラからの映像。


 けっきょく、あれから彼に出会える機会はなかった。遠征前ということで、彼のほうが忙しくラジオへの出演もかなわなかった。


 それでも、さすがフレッドというべきかしら。フレッドの会社は彼のスポンサーのひとつとなり、登頂の直前からライブ配信をするという計画を立てた。


 頂上へのアタックは、天候などによって時間は決められない。その時にラジオ局も動画チャンネルも一旦中断し、ライブニュースとして流す予定だった。


 皮肉にも、それがわたしの番組の時間帯になるとは。


 カメラが動いた。近くの山脈を映す。


『では、あれがヒマラヤですね』

『そうです。ヒマラヤ山脈のひとつが、このゴジュンバカンになります』


 カメラはまた動き、ゴジュンバカンの頂上を映した。


『それでは、登ろうと思います』


 映像は揺れだし、雪の地面を映す。そうか、登りだしたら人が見るのは足下だ。


 延々と足下の映像を流すのだろうか? そう思っていたらカメラの角度が変わり、また頂上を映した。カメラが揺れて見づらいが、一歩一歩と頂上に近づいているのがわかる。


『ゴジュンバカンの標高はいくつでしょうか』

『ええと、ゴジュンバカンは三つの峰がありまして……』


 歩きながらしゃべるからか、息が切れている。


『ぼくが登るのは7806メートルです』

『ほかは何メートルですか?』

『ええと……』


 それは、今、彼に聞くことかしら。アナウンサーが資料でも読み上げれば済むと思うけど。


『すいません、憶えてないです』

『息が苦しそうですね、大丈夫ですか?』

『……はい……ここは……空気が薄いので』


 前に進む映像が止まった。それでもカメラは揺れている。肩で息をしているのだと思う。


『天候のほうはどうでしょうか?』


 それも、今聞くことだろうか? 晴れているのは、映像を見てもわかる。


 前にまた進みだした。歩き始めたようだ。


『グリーゼさん、天候はどうでしょうか?』

『……はい。とても……いいです』

『天候には恵まれているようです。よかったですね。では、グリーゼさんの今日までの旅程を振り返ってみましょう。カトマンズに到着したのが』


 アナウンサーは、今日までの記録を話し始めた。そして「旅程」と言った。これは旅なのだろうか。


 ミキサーブースのフレッドとミックを見る。ふたりが渋い顔をして何かを話していた。


「あっ」と店内のお客さんが声をあげた。あわててスクリーンを見る。映像は、ぐっと地面に近づいていた。転倒? それともカメラ?


『グリーゼさん、グリーゼさん! どうされましたか?』

『……少し……水を飲みます』


 よかった。転倒ではなく、しゃがんだのね。


身体からだのコンディションはいかがでしょうか?』


 カメラが揺れている。荒い息も聞こえ始めた。


『グリーゼさん、グリーゼさん、コンディションはいかがでしょうか?』

『……少し……昨日からよくありませんが……大丈夫です』

『下山して、一番最初にやりたいことなど、ありますか?』


 聞いてられない! わたしはマイクに口を近づけた。


「フレッド」


 急にわたしがマイクで声を発したので、スクリーンをながめる客席の人たちが振り返った。呼ばれたフレッドも、びっくりした顔で私へと顔を向けた。


「ここから、彼に話せる?」


 聞いた途端に、フレッドのとなりにいるミックが頭を抱えた。となると難しいのか。わたしはミキサーブースに駆け寄った。


「フレッド、彼女はグリーゼを邪魔してるわ。わたしが話せない?」


 今日はキャップ帽をかぶってないフレッドが顔をしかめた。


「アナウンサーがまずいとは思うけど、ここからとなると回線の切り替えがなあ」


 フレッドはミックに振り返った。PCの画面を見てるミックがうなずく。


「やれないことはない、けど、今からやっても一時間以上は……」


 ミックはキーボードをパチパチと打ちながら答えた。


「なに、トラブル?」


 フレッドの会社の人かと思ったら、さっきテーブル席で見たユニフォーム姿の客だった。


「あー、サラが、ここから話したいって言うんだけど、回線が違って」

「そりゃいいね、このアナウンサーはクソだよ。手伝おうか?」


 お客さんは、ずかずかとミキサーブースに入っていき、ミックが座っているPC画面をのぞき込んだ。


「あっ、これか。キャサリンのほうが得意かも。キャサリン!」


 一緒のテーブルにいた女性が立ち上がり、こちらに来る。


「なになに、どうしたの?」


 キャサリンと呼ばれた小柄な女性がくると同時に、ほかのお客さんも集まってきた。


 気付けば、ミキサーブースには8人ぐらいの人が取り囲んでいた。さらに自分の鞄から手持ちのノートパソコンをだして打っている人までいる。あきれた。シアトルがITの会社だらけって、ほんとなのね。


 フレッドがうなずいた。できるのね。わたしは急いでピアノへともどった。


 10分か15分。そのぐらいの時間は経った。グリーゼはまだ動いていない。アナウンサーは、時間稼ぎのつもりかヒマラヤの遭難を描いた映画の話をしていた。ほんとに最悪ね!


「グリーゼ?」


 マイクに向かって言った。


『……サラ?』


 荒い息づかいをしながら、グリーゼが返した。わたしと二度しかしゃべってないのに、すぐに気付いた。


「しゃべらなくていいから、ゆっくり休んで」


 カメラの映像が縦に動いた。うなずいたのだろう。


『ちょっと、あなた、横から!』


 アナウンサーの声はそこで途切れた。ミキサーブースを見ると、なぜか、さきほどキャサリンと呼ばれたエンジニアの女性が、PCの前でわたしに親指を向けている。


「ラジオと配信を聞いている人へ。わたしはサラ・バーンズ。さっきまでピアノ弾いてたからわかるわよね。ここからは、みんなで彼を見守って。無理はしないで欲しい。頂上に向かってもいいし、降りてもいいしね」


 店内のお客さんが、うんうんとうなずくのが見えた。


『……いや、元気が出た。行くよ』


 カメラの映像が上がった。そして歩き始める。


 粗い息づかい。一歩一歩は遅い。でも、それを皆で見守った。


 5分、いや10分かも。固唾をのんでスクリーンを見た。お店のお客さんも、ずっとそれを見続けている。お客さんのなかには両手を組んで祈るように見つめる人もいた。


 グリーゼがまた止まった。粗い息。標高は7000メートルと聞いた。どれほど息をしても、酸素は充分には入らないと思う。


『……ひっかけようとか、そういうんじゃなくて』


 とうとつに、彼が言葉を発した。


「しゃべらくていいの。自分のペースで登って」

『……きみのCDを買ったのは、もうずいぶん前で……』


 お客さんが、一斉にわたしを振り返った。やだ、その話するの?


「グリーゼ! いま配信」


 配信中よ! その言葉を言ったのに、マイクは拾わなかった。ミキサーブースを見ると、キャサリンがミキサーに手をやっている。もう、なんでマイクの音を切るのよ! それにキャサリン、部外者でしょ!


 カメラが動きだす。彼がまた歩き始めた。


『……ジャケットに映るサラ。黒いドレスだった。それが目の前にいる。それなら声をかけるだろう?……』


 また足が止まった。ほんとうに苦しそうだ。


『そうか、帰ったらしたいこと……』


 彼が大きく息を吸った。


『サラ、帰ったら、一度だけでもいい。ディナーに一緒に行かないか?』


 また皆がわたしを振り返った。ミキサーブースのキャサリンが、わたしに人差し指をむけている。ラジオで言うキューのサインだ。


「わかった。わかったから、ぜったい帰ってきてね」


 皆が立ち上がって拍手する。もう!


『ぜったい帰るよ』


 彼が歩き始める。


 それから5分ほど歩き続け、彼はゴジュンバカンの頂上に立った。


『少し休んで、それから帰るよ』


 カメラの映像が少し下がった。岩の上にでも腰をかけたようだ。


 スクリーンに映される映像は、素晴らしいものだった。これが頂上の景色。青空の下に、ヒマラヤ山脈の山々が光っていた。


 急にフレッドがあらわれた。マイクに口を近づける。


「休んでる間に、一曲弾いてもらおう。リクエストはあるかい?」

『ああ、彼女がOKなら……』

「いいわよ」


 彼が何を言おうとしてるのかは、すぐにわかった。


「ラジオと配信を聞いてる人、それにお店のみんな。すごく簡単な曲だけど、これを弾かせてね」


 マイクに向かって言い、ピアノ椅子に座るとフレッドがまた横からマイクに向かって言った。


「曲名は?」


 フレッドがにやっと笑う。もう。


「ベートーベンに失礼だけど、今日だけは少し名前を変えるわね」

「だと思った!」


 恥ずかしくて、ちょっとうつむいてしまった。意を決してマイクに口を近づける。


「グリーゼのために」


 わたしは目を閉じて、あの最初のフレーズを弾き始めた……。





 終



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【短編】グリーゼのために ~登山家グリーゼとピアノ講師サラ・バーンズの恋愛~ 代々木夜々一 @yoyoichi

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