エピローグ 苦海ヒルコは魔法少女である


(真っ暗だ)

 どこにも光の気配がなかった。その空間では、自分の存在すらあらわにならず、不確かだった。

(そうか、目を閉じてるからか)、と浩司は気が付いた。

 といって、瞼が開く気配はない。瞼は重々しい鉄のシャッターのように、しかもそれは、ひどく錆びついているようなのだ。

(目を覚まさなければ。開かなければ)

 そうつよく決心でもしない限り、この暗闇はずっと続きそうだった。

 瞼を開くのに、浩司はひどく難儀した。意識の中で、瞼のシャッターにバールを差し込んでこじ開けてみるように想像する。やっとのことで刺すような光が、彼の瞳にしだいに降りかかってきた。目が痛かった。

 光にゆるやかに慣れてくると、まぶしげな世界は急速に色あせ始めた。現実は立ち戻って、輪郭をはっきりとさせた。点滴台にはオレンジ色の点滴パックがいくつかぶら下がっており、先ほどまで針のようにするどく目を突いた光も、飾り気のない白天井の照り返しに過ぎなかった。天井板にはいくつもシミが浮いていて、ぼんやりとしたいくつかの顔がひしめいているようにも見えた。これは超常的な現象でもなんでもなく、空調機の不衛生な結露が、天井板に染み出しただけのことである。浩司は不思議な面持ちで、むさぼるように見つめた。

 そして、

「天国……じゃないな」。

 浩司は独り言ちた。発声はうまくいかなかった。ゴロゴロと喉を鳴らしただけのようだった。

 浩司は、自分が落胆しているのに気が付いた。

 もし、天国というものがあるとして、そこに魔法少女たちがいるのであれば、イシャラの思惑は正しかった、ということになる。逆に天国のどこを探しても彼女たちの痕跡がなかったとしたら、イシャラの地上における行いの数々は、まったく無意味だったことになる。

 しかし、本当にその夥しい死の行く末を確認するために、浩司は神の視点か、天使の視点か、少なくともダンテか、ダンテを案内したヴェルギリウスとベアトリーチェの視点を必要としなければならないが、寝ぼけ眼の意識にそこまで求めるのは酷というものだろう。

 覚醒しはじめると、末端部分から感覚が徐々に戻ってきた。といっても、萎えてしまったように四肢は動かそうにも動かせなかったし、かけ布団の重みだの、点滴針の異物感だの――浩司のたもとでベッドに突っ伏して安らか……そうに眠っている少女の、なんというか存在の重さ――が、感覚器官や神経系を通じて「在る」ということだけが、分かっているに過ぎなかった。

 瞼をひらけば、そこには淡紅色の二つの月が、ゆらゆら揺らめいていることだろう。

(苦海ヒルコ)

 苦しみに満ちたこの世界の海に、「今吾が生める子は良くあらず」として、配流されてしまった子供。

 なんて重荷の多い名前を付けたのか、と浩司は思う。ヒルコと浩司――同じ人間が名付けたのだとは、どうにも思われなかった。

(苦海ヒルコ)

 浩司があるときその名の由来を調べたところ、実の父親の精神状態を、多少とも疑わざるを得なかったのを思い出した。

 名の由来は記紀、すなわち『古事記』『日本書紀』にまでさかのぼる。漢字であらわすと水蛭子ひるこ(蛭児『日本書紀』)である。

 さて、その『古事記』には、


 しかれあれども、久美度迩くみどに興して生める子は、水蛭子ひるこ

 此の子は葦舩あしふねに入れて流しつ。

 次に淡嶋を生む。

 また、子のかずに入れず。

 ここに、二柱(伊邪那岐・伊邪那美イザナギ・イザナミ)の神謀りて云はく、「今吾が生める子は良くあらず。なお天つ神の御所にまをすべし」といひて即ち共に参上りて、天つ神の命を請う。


 たったこれだけ、である。

 ヒルコおよびアハシマは、イザナギ・イザナミの生んだ子の数には入れられることなく、海に流された果てに、『古事記』には以降の記述がない。

 父親の神経もさることながら、葦で作られた舩で配流され、消息を絶った「良い子ではなかった」ヒルコと、「この世の、苦しみの広大な海」、を表す神仏習合に、浩司は哀れを感じないではなかった。

 しかし、

(父さんは——ヒルコに、何を望んで、何をさせようとしていたんだろう? ほんとうに魔法少女の軍事国家なんてものを考えていたんだろうか。それは俺や母さんを残してまでするほど、大事なことだったんだろうか?)

 彼にとって、解明されぬままの謎であった。

(父さん?)

 笑いがこみあげてくる。

(というか「あのひと」だったものな。母さんの前でもそうだったんだ。母さん、俺がそういうと、めちゃくちゃ怒ってたな)

 すると、

「じろじろ見んじゃねぇよ、ヘーンタイ。あとなにぐちゃぐちゃ言ってんだ、気持ち悪い」。

 ヒルコの口元だけが、畳みかけるように動いた。

「……なんだ、起きてたのか?」

 ヒルコは欠伸まじりに、天を突きあげるように伸びをした。

「こっちのセリフだ。三日寝てたやつのいうことじゃない。でぇ、ちなみにここは自衛軍のふそうえーせい病院? とか言うらしい」

「三日? 三日も寝てたのか……そう、か」

 浩司は深々とため息を吐いた。と、同時に体を走る激痛に、かっと、肺の空気が抜けるような声を上げた。

「はっはー。運の無い奴よな、バカこーじ。全治三か月だってよ。ざーんねーん」

 トレードマークのギザ歯をきらめかせながら、悪魔的笑いをヒルコは浮かべた。

 だが、ヒルコも無傷では済まされなかったようだ。

 あ、と浩司は声が漏れた。

 違う人間の腕だった。

 収束する魔法陣に、ヒルコは右腕を持ち去られていた。

「ん……ああ、これか。これがぜーん然痛くないんだな」

 持ち上げた右腕は、確かに「本物らしい」が、糸状人造皮膚が全体に張られた義手のようだった。失った部分から先の肌の色は、妙に青白く見える。

「まだなじむまでに時間かかるんだってさ。体中全部調べて細菌感染? とか継ぎ目のとこが拒否反応? しねーように、抗生物質が混ざってんだってよ」

 こう説明しながら、ヒルコは自分の――まだ自分の物に成り切れていない右腕をしげしげと眺めた。

 抗生物質が人造の細胞に混ざっているのは、基本的な仕様ではあった。この抗生物質は、またそれと分かるように染色が施されるのが常だった。しかしこうして一部を切り取ってみると、異様な技術だと、浩司には思えてならなかった。とは言いつつも、浩司は自分もその恩恵にあずかっていることを忘れたわけではなかったが。

「……変なことはされなかったか?」

「なんだバカこーじ、あんだけのことあって、まだセクハラすんのか?」

 違う、と浩司は声を荒げたが、瞬間痛みに息が詰まって、腹立たしそうにヒルコを睨みつけた。ヒルコはげらげらと笑い、その内脇腹でも攣ったのか、不意にしかめ面をした。

 そのしかめ面のまま、

「みんな消えちゃった」

 ヒルコはぽつりとつぶやいた。

 ――イシャラを名乗る男が、ほんとうにマリア・K=オーレリアの兄イシャラ・K=オーレリアであったのか。

 各地で現代の〈魔女狩り将軍マシュー・ホプキンス〉として恐れられたイシャラと、今回魔法少女租界を急襲し、最悪の規模の〈物象化〉を招来したイシャラと……そしてなによりマリア・K=オーレリアの兄イシャラ・K=オーレリアとが、すべて同一の人物であったのか。証拠はどこにもない。それを知るすべは、兄妹の死とともに永遠に失われた。そして彼の死が、その死ゆえに、イシャラの生存性を担保して、〈天使派〉や魔女狩りのテロリストたちの中で、永遠に生きられるようになったことは疑いない。

 だが、あの時腐敗し、融解し、ついには崩壊した〈熾天使セラフ〉‐「無数のマリア・K」を求め叫んでいたものは、確かにイシャラ・K=オーレリアだった。イシャラは最愛の妹を追い求めて、あの臓腑と血潮の津波に巻き込まれて死んだのだ。

 これ以上不幸な人間を増やさないためにも、浩司はそう思い込むことにした。


 幾つかの点について、駆け足ながら記しておかねばならない。

 ヒルコの一撃によって〈熾天使〉が融解したのちになっても、B-21は、魔法少女租界の上空についに姿を見せることはなかった。

 米帝と国交に関する会談の用意がある、と竹川が更迭された烏賀陽を通じ、米帝本国に打診したからである。無人戦略爆撃機は攻撃命令を解除され、〈火剣の車輪〉などと大層な名前を付けられた特殊焼夷弾をその爆弾層に孕んだまま、米帝領グアム空軍基地へとんぼ返りしたようだ。国交回復の交渉材料であったB-21は、完全な自立型致死兵器ではなかったようである。

 後日、国連安全保障理事会では、日本側の魔法少女租界に対する一方的な攻撃、さらに米帝との国交樹立への懸念から、日本政府に対する批難決議が行われた。

 ところが、慣例を破って米連邦共和国が拒否権を発動したため、この決議は番狂わせに終わった。常任理事国以外の各国メディアは、米連邦を「強いアメリカの夢を再び見始めた」と一応批難してみせたものの、内心では強制行動型国連軍の派兵がいったん棚上げになったことに安堵していた。この米連の拒否権発動は、「正義」や「ヒューマニズム」からくるものというよりは、永らく彼らの物であった太平洋の要石が、常任理事国の完全な共有物になることを厭うた、というのが大方の見方であった。

 魔法少女租界周辺では、破壊された細胞セルのがれきや〈物象化〉の末腐敗融解した魔法少女や助言者たちの死の跡が、周辺海域を汚染し、すぐには手を付けられない状態である。〈ヤコブの梯子〉はその上空で、相変わらず時空間の裂け目をのぞかせている。

 この「国際魔法少女旅団事件」と呼ばれた魔法少女の〈物象化〉から生き残ったのは、ヒルコを含め二百四十三名であった。

 これも正確な数字とは呼び難かった。彼女ら魔法少女たち、そしてその助言者たちは、救出劇の最中、人々の前から忽然とその姿を消したのだ……。


 今日という日が、名残を帯びて最後の光芒を放っている。静かに、煌びやかに。

「なんだよ。まーたお得意の『要請』ってやつか?」

「いや、日本政府でも国連の『要請』でもないぞ。今度は三賢女、グランマーマたちの連名だ」

 手にした「手紙」を眺めて浩司は言った。電子データではなく、速さを求める世界において、現在伝達手段としてはすでにすたれている紙媒体によるものだった。

「いや、つーかそれ間接的に国連じゃん?」

 とは言いつつも、「でぇ?」と、ヒルコは先を促した。

「各国に散らばった魔法少女たちを救う『手助け』を必要としている、とさ」

「――ったく。こりねーばばーたちだな」

 胡乱げにつぶやくと、ヒルコは小さくため息を吐いた。

 どうする? と聞くよりも先に、浩司はヒルコの発する魔導の「浸透」を感じたような気がして、押し黙ったまま答えをまった。

 しかし、そんな沈黙の時間が必要でないことはすぐにわかった。

 ヒルコの中で〈叢〉のようにして、答えはすでに在ったのだ。

「——まぁ、もうちょっとだけ魔法少女、やってやんよ」

 ふりかえって、ヒルコはギザ歯をきらめかせながら、にかりと笑った。

 いかにも魔女らしかった。


 国際魔法少女旅団 熾く者(了)


 An it harm none, do what ye will

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

国際魔法少女旅団 神崎由紀都 @patchw0rks

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ