熾く者《やくもの》

 魔法少女たちの悲鳴が、これにとってかわった。

 ある魔法少女は身体中の骨が抜き取られた。無脊椎動物のように、その体はぐにゃりとひしゃげたまま、マリア・Kに身を投じた。

 ある魔法少女は下腹が蠢きだしたかと思うと腸をぶちまけ、それを追ってマリア・Kに身を投じた。

 ある魔法少女は引き裂きの刑にあったように、上半身と下半身が、首と胴体が、手足が引きちぎれて、これもマリア・Kに身を投じた。

 そこではおびただしい死が演じられ、噴き出した血は、雨のように租界の地上に降り注いだ。

 ヒルコは襲い来る死の断片や塊を避けつつ、周囲を見渡した。体のまだある仲間を探しての事であったが、この赤黒い、けぶるような血の霧雨のなかで、生きている者を見いだすのは至難の業であった。

 すぐ隣にいたユカの姿も見失った。

 このさい誰でも良かった。声が聞きたい。姿を見たい。とにかく自分一人だけが取り残されたのでなければ、それでよかった。

「やべーよ。なんだよこれ……なんだよこれ‼ あっ……おい、サツキ――⁉」

 そうだ、サツキがいるじゃんか。

 サツキはきゅっとヒルコの腰元に手を回して、落ちまいとして必死に掴んでいるではないか。

 ほっとしてヒルコが背後を振り返ると、サツキは、そこになかった。

 ヒルコの腰元に回していた両の腕と、残された下半身の、引きちぎられた断面から、未だどくどくと、どす黒い血が、あぶくを吹きながらあふれ出していた。

 ごぷっ――ん。

 ヒルコが知ってしまったがためにというのか。

 サツキの下半身は、突然力を失ったように箒からずり落ちて、地上に落下した。

「――――――――――――――――――ッツ‼」

 ヒルコは声ともならない声で、叫びをあげた。

 地上において、各国の助言者たちは息をのんで、悲鳴を上げるでもなく、憤るでもなく、悲嘆するでもなく、ましてや神に祈るのでもなかった。目前に起った出来事に、彼らは戦意を喪失して、この虐殺を傍観する事しか出来なかった。

 もう一方の地上では、降り注ぐ赤黒い血の雨と、マリア・Kに参集し始めた魔法少女たちの臓腑や骨片を見つめて、イシャラが目を潤ませていたのだった。

「あぁ、間違いない。間違いない! あの時と同じだ。マリア、マリア、マリア、マリア。私の妹マリア! ついに天使の拠り所となった無数のマリア。なんて……なんてきれいなんだ」

 感無量とばかりその声は震え、最後には咽び泣きはじめた。

司令官コマンダンテ……」

 案じる部下を、イシャラは手で制した。

「いや……いや、良いんだ。祝福してくれ。祝福してくれ! オーレリア大公国の公女、高潔にして偉大な新しい魔女、そして私の妹マリアは、今日天使の体となって世界の救済に旅立つのだ。協力してくれた無数の魔法少女たちにも、忘れずに哀悼と祝福を表しよう」

 魔法少女たちの臓腑や骨片が続々と参集し、マリア・Kを取り巻くと、大きな繭状に彼女を包み込んだ。次第に形を整えていったかとおもうと、赤黒い血の滴る臓腑や乳白色の断面を見せる骨片で、心臓ハートを形作ったのだった。

「さぁ諸君、われわれの救済の徴が、次の段階に入ったようだ」

 瞬間的に発生した夥しい死のなかで、ヒルコは、自分が単騎で取り残されたように思われたのだった。孤立無援とも思える状況の中、どうどう、と音を立てて、体内の〈叢〉を経巡る(へめぐる)魔導力が、彼女をいっぱいに満たしていた。

「——スコロスロスコロスコロスコロスロスコロスコロスコロスロスコロスコロスコロスロスコロスコロスコロスロスコロス――殺ぉおおす!」

 言葉は成った。

 異言で真意を隠すのではなく。

 まぎれもない殺意、として。

 ヒルコの背後で、禍々しい淡紅色の魔導力が〈魔女の尻尾〉となって、首筋から迸った。

 半狂乱のヒルコは「殺す」と呪文のように唱えながら、全速力で巨大な肉塊に突進をはじめた。

 巨大な魔法少女だったものの肉塊は、ヒルコの視界を満たしつつあった。

 複数個体の〈擬天使〉たちが突進するヒルコに群がり、往く手を阻む。

「邪魔だぁあああ! どけぇええッ!」

 フルオート射撃の強烈な反動を利用した馬賊撃ち。ロングマガジンに装填された二十発のマウザー弾を瞬く間に撃ち尽くす。

 着弾とともにいくつもの魔法陣が花開いて、かつては仲間であり助言者たちであった〈擬天使(敵)〉たちを蹴散らす。

 目前には、これまでとはくらべものにならないほど巨大な、かつては仲間であった〈擬天使(敵)〉。

 物理法則を無視し続ける、腐った肉と骨の塊。

 勝てる気がしない。

 それでも無意識に、ヒルコは空の弾倉を打ち捨て、次弾を装填する。

 魔法少女たちの肉片に依拠する心臓が、中心の部分から徐々にめくれ上がった。

 それは、この世界に受肉したのだった。

 三対さんつい六枚の翼を持ち、四枚の翼でその体を隠し、残る二枚の翼で飛翔するもの。

 神への情熱と愛で、身体中が燃え盛るもの。

 神の存在が永遠であり、絶えず主を称賛するもの。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるであることは主の元に来ることになる」と言う魔法少女たちの、絶え間ない「賛美」の声。

 間違いない。

 巨大なマリア・Kのかおは、たったいま眠りから覚めたようすに、瞼にあたる肉片を開いた。

 オーレリア大公国で撮影されたという映像と、うりふたつの物が。

 ヒルコは瞬間的に、その正体を悟り口走った。

「〈熾天使セラフ〉――」

 怖気る声に、「そうだ」とでも応える代わりか。魔法少女たちの臓腑と骨でかたどられた〈熾天使〉は法悦の笑みを浮かべた。

 花咲くような、マリア・Kの頬笑みを浮かべて。

 ほふぅ……ふぅ……。

 見えない衝撃波をまともに正面から食らったヒルコは、明後日の方向に吹き飛ばされた。彼女は残像を残しつつ、一つの建物に追突して、ぱっと噴き上がる粉塵の中に消えた。建物は、租界と同型の細胞を接合するための連絡橋部分の名残であった。

「ははん。まだ無謀にも〈熾天使〉に楯突いた魔法少女がいるわけだ」

 戦闘双眼鏡から目を離すと、イシャラは眩しげにそちらを眺めた。このステルス艦からもほど近い。

〈熾天使〉となったマリアに、なおも対峙しようとした魔法少女が、濛々もうもうと煙の立ち込めるあの中にいる!

 もっと近くで、肉眼で、「観たい」という無鉄砲な思いに、イシャラは駆られた。

 それが最初の兆候だった。

「一目見ておきたいな。その魔法少女を――」


「〈物象化〉がはじまった、か……」

 と、烏賀陽は独り言に呟いた。

「――租界に対して再度攻撃を開始せよ。今度は手加減なしだ」

 危機管理センターに集った閣僚たちは、烏賀陽の言葉に騒然となった。

「しゅ、首相は? 首相はどうなるのです!」

「そんなことを言っている場合じゃないだろう」

「しかし、あなたが希望を捨ててはいけないと」

 租界攻撃の責任者である石橋防衛大臣がおろおろするのに対して、烏賀陽は冷ややかな一瞥を与えた。

「状況は刻一刻変わっている」

「それにまだ対魔導制圧部隊が残っているのでは?」

 烏賀陽は猛禽のような鋭い視線をかッと見開いた。

「事態は一刻を争うのだ! 首相が行方不明であり、大規模な〈物象化〉すら確認された。この事態が好転しない以上、われわれは総力をあげてアレを叩かなければ――」

 烏賀陽が大喝して、石橋をひるませている、まさにその時である。

「私はここにいる」

 そこにあるはずもない一声に、室内は水を打ったようにしん、となった。

 聞き覚えのある声に「まさかそんな」と驚き一斉に人々が振り返った。

 ひとり、烏賀陽はなんの感情も面に表さずに顔を上げた。

 そこには、租界‐本土連絡橋の爆発とともに没し去ったはずの、首相竹川晋三の姿があったのだった。

 しかも、彼はけがをした様子すら見受けられなかったのである。

「総理!」

 と、閣僚たちに安堵の歓声が上がった。

「よくご無事で」

「留守中迷惑をかけたな」

「――ああ、竹川。よかった、無事だったんだな」

 歩み寄る烏賀陽を、竹川はじっと睨みつけた。

「竹川、どうした?」

 竹川は烏賀陽を指さすと、

「烏賀陽内閣官房長官を拘束せよ」。

 急転直下。

 ふたたび、閣僚たちに衝撃が走ったのだった。


「嬢ちゃん、なんて無茶なことを……」

 兵員輸送車は後輪を破壊されて、身動きが取れなくなっていた。各国の兵員輸送車や戦闘指揮車も、見えない敵に各個撃破されているようで、通信が途絶えた。あるいは戦意を喪失して、すべてを流れに任せる気になったのか、わからなかった。

「……おい、どこに行くつもりだ?」

 的場はモニターを見つめたまま、浩司を呼び止めた。とうの浩司はクリス ヴェクターを引っ提げ、可塑性爆薬を手に後方ハッチに向かっていた。

 そんな浩司に対して、

「あんな娘、放っておけ」

「なにを……」

 浩司が驚きに振り返ったのと同じく、的場も振り返った。ひげ面の表情は、緊急を発するモニター群の照り返しを受け、真っ赤に見える。月並みな表現だが、魔法少女たちの夥しい返り血を受けた、とでもいうように。

「だいたい気に食わねぇ。それも全部だ。あの娘(苦界ヒルコ)を養子にすれば、お前やお前の母親への罪滅ぼしになるのか。なにが『持てるものの義務』だ。なにが『力に飲まれる弱者でいてはならない』だ。なんでお前はあの時撃たなかった⁈」

 怒りをぶちまけるように、的場は怒鳴った。

「ヒルコに罪は無い」

 と、浩司は冷静に答えた。黙々と緊急脱出用に装備された可塑性爆薬に電極を差し込んでいる。

「答えになってねぇぞ浩司! ここにいる誰も罪なんぞない! そうだ、誰もこんな運命にあう理由なんかない!」

「その通りです。だから行くんです」

「勝手にしろこの馬鹿! 俺は行かねぇぞ‼」

 と、頑として的場は動こうとしない。

「なら、伏せていてください。怪我しますよ」

 後部のハッチに電流が走ると、紙鉄砲の破裂した音を立て、爆薬はひしゃげたハッチを強引に押し開いた。とたんに、ねっとりと鼻の奥にねばつくような、錆びた血の臭いと、硝煙と、生焼けの吐き気を催す、腐敗した臓腑の臭いが押し寄せてくる。


 箒自体に掛けられた防衛魔法が発動して、ヒルコ自身に深手の傷はない。切り傷や擦り傷も、糸状人造皮膚で瞬く間に保護される。

 しかし、彼女は起き上がる事も出来ず、その場にうずくまっていた。体中から力が奪われてゆく。それも心地よいけだるさで。

 白く光を放つ空間の中で、自分の体はヨーグルトのようにドロドロと溶けて、その発光空間に希釈され、消えてなくなってしまいそうであった。その心地よさに圧倒され、時として抗いながら、なんとか自分の体が、人間の体をしていることを保っている。

 この恍惚のなかで、〈擬天使〉に腹をかみちぎられ、骨を嚙み砕かれ、その底におさまっている臓腑を引きずり出され、すすられるのだろう。……

「おやおや、こんなところに可ぁ愛~い可ぁ愛~い魔法少女がいるじゃありませんか」

「イシャラ司令官! 体から力が抜けてゆくようです」

「ほ、本当に大丈夫なのでありますか司令官?」

 ペストマスク姿の兵士たちが不安げに訴えた。

「安心したまえ。これが救済の最初の兆候だろう。この祝福を、世界に先駆けて我々が体感しているのだ。じわじわと効いてくるだろう? だがまだ駄目だ。ちょっとは抗え。今のところは――」

 イシャラは新しい弾倉を、ルガーP‐08に装填する。

「この魔法少女にも供物になってもらおう。残りの魔法少女も全部。一人でも仲間外れにしては、可哀そうだからな」

 ほとんど傷と言う傷も受けていない。

 だが抗う力は何処にもなく、ヒルコの多幸感にどろりとした目は、イシャラの手にするルガーに注がれた。といっても焦点は定まらず、彼女の目には何列ものルガーの銃口が、一斉に彼女を取り巻いているように映った。

「その前に名前を拝見させて頂こう、かな?」

 傍らにいるペストマスクからフレキシブル端末を受け取ると、外付きカメラをヒルコに向けた。

 きっと、彼らには魔法少女たちの情報のすべてがつつぬけなのだろう。

「ほう、君が苦海ヒルコか。……知っているかな、魔法少女ヒルコ。自分の名前がどこから来たのか?」

 ヒルコはうつろな表情で応えない。隣にいるどうやら日本人らしい構成員に訊ねたが、こちらも要領を得ない。イシャラは大げさなため息をついて見せた。

「不勉強な君たちに、手短にだが私が直々に講釈してやろう。たしかヒルコという名前は、イザナギとイザナミとの間に生まれた最初の神様――だったな? 君たちの国の、われわれからすると異教の神だ。だが、女神イザナミから先に男神のイザナギに声をかけてしまったがために、不具の子として生まれ、その神々が最初に作り出した陸地から、葦の舟に乗せられて流されてしまう出来損ないの神、だ」

 出来損ない?

 ま、それでもいいや。

 出来損ないの名前なんかくれやがったのは、ちょっとむかつくけど。

「君一人では出来損ないなんだよ。しかも君は父親の罪まで背負っている。だが、今君にも完全にこの世の役に立つ、本当の役目が舞い降りたんだ。新しき魔女――魔法少女ヒルコ」

 ルガーの狙いをつける。

 イシャラは恍惚の表情で微笑んだ。

「君も無数のマリアの一人に、なってくれるかい?」

 引き金が重々しく引かれ――。

 なにかが宙を舞って飛び込んできた。

 円筒型の物体だ。乾いた金属の音を立てて転がる。

 イシャラとペストマスクたちはとっさに後ろに飛びのいた。

「おやおやぁ?」

 円筒型の物体の正体は発煙筒であった。もくもくと煙をふきあげ、ヒルコの姿を隠した。

 そして——。

 黒く俊敏な獣の影が飛び込んでくるのを、イシャラたちはスローモーションでもかけたように目の当たりにした。

 その影が次第に濃密になったかと思うと。

「あぁ……」

 イシャラは嘆息した。

 黒く、たくましく、かつ俊敏な――。

 煙の中から乾き連続した発砲音が、イシャラの耳元をかすめた。クリス ヴェクターから放たれた9㍉パラベラム弾が、イシャラ後背のペストマスクの眉間を叩き割る音が聞こえた。

 眉間を撃ち割られた不幸なペストマスクが地に伏す次の瞬間には、イシャラ、浩司、ともに近場の柱の陰に、それぞれ身を隠していた。

王子様プリンチィーペの登場だ」

 唐突な邪魔だてに、イシャラは怒るどころかむしろ歓喜している様子だった。

「当初の目的はたたた達したとは言え、こここここれでは、おもももしろおおおくなぁああい!」

 イシャラの様子がおかしい。その精神を、いよいよ本格的に法悦が侵食し始めたようである。抵抗と恍惚を行ったり来たりしているようだった。

「審判の火を絶やしてはならない。『神は人を楽園より追放し、再度ふたたび近付けぬように、その地を火で囲んだのだ(ラクタンティウス『神聖教理』)』――我々が楽園において合一するためには、天使になることだ。楽園の扉をその神の法の御手によりこじ開けなければならなぁあい!」

 イシャラはまるで大気を震わせるようにして叫んだ。

「イトウ コウジ。いや、クカイ コウジ。君のことはよぉおく、知っている」

 浩司は柱の陰で、ぞっと怖気をふるった。

 苦海……苦海! 

 自分の及び知らぬところで、浩司もまたマリア・Kとイシャラの祖国を滅ぼしたものの仲間なのだ。

「マリアが話してくれたよ」

「マリアが?」

 心理戦に持ち込もうとしているのか? そう考えた浩司ではあったが、どうも違うようだった。

「たくさん手紙があった。君のことやこの地のことが書いてあった」

(あの手紙だ)

 と、浩司はオーレリア大公国の霊園を思い出した。そして、大公家の墓に彫り込まれたアルビノの烏のことを。手紙を入れる小さな切れ込み――死者のもとに通じている投函口のことを。

「なにが書いてあったと思う?」

 その声音には、明らかな嫉妬が含まれていた。

「マリアは君を選んだ。私たちの国を滅ぼした、呪われるべき苦海の眷属の君に。最初は私の代替にしか過ぎない君だったはずなのに、マリアはそれ以上のものを君に見出した」

「やめろ!」

 浩司は怒鳴った。イシャラの声ははたと止んだ。

「お前にあてた手紙だったとしても、お前がそれを自由にしていいものじゃない」

 怒りに震えながら、浩司は傍らのヒルコを見た。ヒルコはぼんやりうつろな表情で、まだこちら側に帰ってきていない。浩司はヒルコを抱え込むようにして、柱と一体の遮蔽物のほうへ引きずって行った。

「君は気になっているのかと思っていたが」

 まだ浩司らが移動したことに気が付かないのか、明後日の方向にイシャラの声が響いた。

「私のマリアは祝福されなければならない。それは君にも、わかるだろう?」

 浩司の頭上を、一発の銃弾がかすめ去った。

「まだ話は終わっていない」

 ふと、イシャラの声は哀愁を帯びた。

「君たちふたりは、マリアに気づかせてしまったんだよ。自分たちの兄妹の絆は、実は『間違っていた』のではないか、と――」

 ヒルコが低くうめいた。異言めいたものをつぶやいている。

「手紙にはこう書かれていた。血が繋がっていないにもかかわらず、君たちふたりの関係こそがほんとうの兄妹のありように見えたというのだ」

 ヒルコを抱き起したとき、彼女の首筋――つまりハーネスに穿たれたサイロのくぼみに触れたとき、あのマリア・Kが降りかかってきたときと同じような、ピリピリとしびれるような感覚が、浩司の手に伝わってきた。それは魔導力を織り成す〈叢〉が、「普通の人」である浩司に、なにかしら訴えかけるものでもあるかのようだった。

 自分にも何かできるのではないか?

 確信など持つためには、あまりにも事態は切迫していた。

 意を決して、浩司がヒルコのサイロのくぼみにもっと強く触れた、とき――


 ――なにかが、繋がった。


 海――なのかもしれない。

 かすかな波のざわめきがある。

 ふね――に乗っているのかもしれない。

 ゆらゆらと心もとなく浮いている。ちょっとした荒波にもまれでもすれば千々に引き裂かれるか、呑みこまれるかするだろう、この心もとない葦の舩。

今吾が生める子良くあらず)

 そうだ、出来損ないだったのだ。

 手足のない赤ん坊として生まれた。

 いや、手足どころか、目も口も耳も、骨も内臓も脳髄も……一つとして「そうあるべきかたち」を成さなかった。

 胞状奇胎は、葦の舩の上で考えた。そもそも、考えるべき、触れるべき、見るべき、聞くべき器官をもたなかった――だが確かに存在しているに違いなかった。この海ぶどうにも似た、ヒトの形を成さないモノ。

 だがそのことについては、寂しいとも、もの悲しいとも感じることはなかった。海は穏やかに揺蕩って、葦の舩をゆりかごのように揺り動かしている。

 すべては、すでに物語られたものとして進んでいる、はず――。

(ㇶ……ㇽ……コ)

 ふいに気がついた。

 天上から、幽かな音が降ってきているのを。

 それはなんらかの意味を持つ音のようであった。

(ヒ・ル・コ)

 打ち寄せる波の中に、胞状奇胎は自分の名前を聞いたような気がした。なぜ、それが自分の名前だと思うのか、胞状奇胎にはふしぎだった。

 誰が呼んでいるのだろう。いったいどこから呼んでいるのだろう。陸地など、久しく見ていない。生き物の声ばかりか、そもそも自分の声すら定かではないのだ。

(ヒルコ……)

 私の名前を呼んでいる?

 いったい誰が?

 胞状奇胎は、空とも海ともつかぬ中空を眺めた。

(まさか。こんな海のど真ん中で――)

(ヒルコ!)

 今度こそはっきりと聞こえた。

 はっきりと視た。

 その名を呼ぶ声は、虚空をかき混ぜるようにして現われた、巨大な両手、であった。

 伊邪那岐イザナギ伊邪那美イザナミ両命みことは、〈雨の沼矛アメノヌコホ〉で潮をかき回し、矛の先から滴る雫で島々を作ったと聞く。

 これはその〈雨の沼矛〉かもしれない。徐々に形を成して巨大な手だけだったものに腕が成り、なにかつかみ取ろうとするように、海原に手を突っ込んだ。胞状奇胎を乗せた葦の舩は、転覆こそ免れたが、ざぶざぶと大きく立ち騒ぐ波にもまれて、なすすべもなかった。

 この手は自分を迎えに来たのだ、と胞状奇胎は直感した。

 それにしても、手は幾度となく葦の舩をつかみ損ね、泡を沸き立たせるばかりであった。

(なんて……なんてまどろっこしい)

 これまで感じたことの無いもどかしさ、苛立ちを感じ始めていたのだった。

(むかつく、むかつく! こっちだ、こっち! わからないのか!)

 あるはずもない喉元を、羽毛でくすぐられるようだった。

 ざぶざぶとしぶきが飛び散る。

(あぁ! もうっ!)

 そして、ついに怒りは奔騰となって迸った。

「――こっちだッてんだろ! このバカっ‼」

 今度ははっきり、言葉として成った。

 そのとき、巨大な手に「掴まれた」、とヒルコは感じた。海ぶどう状に絡み合う胎の内側から、ヒルコは巨大な手を掴みかえす自分の手が現れるのを感じ、つんとした鼻で潮のにおいをかぎ、巨大な手が彼女を離さないのを、淡紅色の瞳で見た。

 巨大な腕につかまるように、ヒルコは勢いつけて立ち上がった。途端にヒルコの身体は成り、葦の舩は海中に没した。

「浩司!」

 浩司の姿があった。おだやかで、どこか眩しげに目を細めて、ヒルコを見つめていた。

 海原は大きく波立った。つくられて間もない世界は、押し寄せる巨大な津波によってかき消された。

 それでもまた、ふたたび、はじまるだろう。……


 弾丸が頭上をかすめ去った火花で、彼らは気がついた。

「バカこーじ?」

 まさにその世界は一瞬の出来事だったに違いない。イシャラたちが、たとえ〈熾天使〉の見せる精神への法悦に侵されていたとしても、浩司とヒルコが思考の海から顔を出すまでの間、攻撃の手を完全に緩めたとは考えにくかった。

「ヒルコ、これを」

 浩司が懐から取り出し、ヒルコの前に差し出したのはハーネス、だった。

「おい、なにすんだ?」

「ハーネスをつけるんだ」

 浩司はヒルコの首元をまさぐる。

「なに言ってんだ?」

 ヒルコは浩司の体を押しのけた。

「早くしろ。磁場魔導シールドはでかい魔封じの粒子ドームなんだ。ということは、お前たちの魔導の流出さえ断てば、なにもないのと同じなんだ。だから――」

「で、逃げるってか?」

 やれやれ、とヒルコは首を振ると、モーゼル拳銃の銃口を、浩司の額に押し付けたのだった。ホールドオープン状態で、銃弾がないのははっきりしているとはいえ、彼をぞっとさせたのだった。

「なにすんだバカ!」

「援護しろ、このバカこーじ」

「……ヒルコ?」

「こっから出て、お姫さまの横面はって目ぇ覚ましてやるんだよ」

「お前こそ何言ってるんだ!」

 浩司はモーゼル拳銃を押しのけた。

「ほんっとに、ふがいないよな。だいたい――」

 ヒルコは不満げに鼻を鳴らして言った。

「あの男を撃つこともできなかったくせに、あたしたちに助言だって? はっ、バッカじゃねーの? でもな、『過去のことは水に流して』やんよ。だから、せめてはっきり言え。あたしに、今、何を、して欲しいんだ?」

 淡紅色の瞳が禍々しい光を帯びた。

「答えろ、このバカこーじ。あたしに助言してみせろ。そうしたら、あたしはそれをやり遂げてみせる」

 そうだ。

 助言するんだ。

 それがマリア・Kを救うことになる。

 いや、

「マリア――だけじゃない。みんなを、みんなを救ってくれ。ヒルコ」

 にかり。

 ヒルコは口角をあげ、ギザ歯をきらめかせた。

 いかにもそれは魔女らしい。

「その願い聞き届けた」

 浩司も力無げにも、笑みを浮かべてみせた。

「――ならこれは必要になるだろうな」

 意を決したように、浩司は背負っていたウェポン・バッグからなにか取り出した。

 ごっそり――とモーゼル拳銃の十連、二十連発の各種弾倉が顔を出した。

「うはぁ……なぁんだよ、逃げろっていうわりには、用意がいいじゃんか?」

「逃げるのにも銃さえあればましだと思ったからもってきたんだ!」

 むきになって浩司は言った。

 激しい銃撃が彼らの頭上をかすめ去った。

「つぅう、まずはこっから出なきゃだ、な」

 ありったけの弾倉を、腰や腿に巻いたマガジンポーチに差し込みながら、ヒルコはいつになく真面目な様子で言った。

「――ヒルコ、何も考えず、あの壁に突っ走れ」

 浩司の指さす方向に、「お……?」とヒルコは怪訝な表情を向けたが、次の瞬間には、彼女独特のにかりとした笑みを浮かべた。

「へえぇ、作戦も何もあったもんじゃねーな?」。

 五月蠅いと言う代わりに、浩司は最後のクリス ヴェクター用弾倉を荒々しくセットした。

「時間がない。箒も持ったな? いいか一・二・三の合図で行くぞ。一・二――」

「ちょ、ちょッ⁉」

 ヒルコはあまりの唐突さながらも、あわててクラウチングスタートの姿勢をとった。

「三‼」

 クリス ヴェクターのブラインドショットが始まると同時に、ヒルコはばね仕掛けごとく駆け出した。

「魔女だぞっ!」

 イシャラとペストマスクたちの放つ銃撃が、ヒルコに追いすがるようにして、彼女の周囲に無数の穴を穿った。

「逃がすな!」

 そこに甲高く乾いた音を立てて飛び込んできたのは、

「て、擲弾ッ――――⁉」。

 おびただしい粉塵と爆風に、イシャラとペストマスクたちは包み込まれた。

 最後の疾走。

 壁に向かって突進していく。

「ぶッ――飛ばしちまいな!」

 ヒルコの声に応えるかのように、二発目の擲弾が壁面を打ち砕いた。

「でぇいやっ」

 その粉塵と瓦礫を蹴立て、ヒルコは飛び出した!

 が、

「うそだ――ろぉぉおおおおおっ⁉」

「ヒルコ⁉」

 墜ちた。

 箒にヒルコの体重を支えられるほどの魔導力が入っていかないのだ。

「くうぅぅうう―――こンのバカ箒ぃっ!」

 箒の柄に、ヒルコはありったけの意識を集中させる。

 見る見るうちに地上が迫ってくる!

「上がれぇえええ‼」

 地表へ!

 瞬間、

「———ッつぅ!」。

 反動で弾き飛ばされたように、箒は中空に躍り上がった。

「……このバカ箒。いつか叩き折ってやるからな。覚悟しとけよ」

 愛憎入り混じるようすで、ヒルコは箒に語りかけた。

 しかし、今はその時ではない。

〈霊素〉と、まるで〈熾天使〉を守るかのように周遊していた各階級の〈擬天使〉たちが、ヒルコの気配に群がり来たったのだ。

「このやろう」

 かちん――。

 ボルトが前進、薬室に第一弾が装填された。

「いくらでも相手になってやるぞ」

 淡紅色の瞳が、禍々しい軌跡を描いた――。


「行ってしまった」

 途方に暮れたような、ひどくぼんやりした調子でイシャラが呟いた。

「私たちもシュトゥルム・ピストーレ(ドイツの擲弾発射器のこと)を持って来ればよかったのかな? いくらなぁあんでも、グレネードランチャーは反則と言うものだ! そもそも君たちには必要ないだろう!」

「——一つ聞いてもいいか?」

「無視か⁉」

「お前の言う、マリア・Kは、いったい誰なんだ?」

「……誰なん、だぁ?」

 柱の陰から漏れ聞こえた。

 続いてひきつった笑いが、建物にこだました。

「知れたことだ。元はといえば、オーレリアが新しき魔女を引き受けたはずだったじゃないか。彼女たちは愛するわわわ私の妹たち。まままマリアたちいいいいにぃ、ほかならない。だが民衆は民衆の力によって、いとも簡単に一国をほほほ滅ぼし、その時もあああ憐れな新しき魔女たちは虐殺され、焼かれ、引き裂かれ、叩き潰され、溺れ、杭を打たれ、目玉を抉られ、民衆も魔法少女もそろいもそろって、あっという間にこの世に地獄を作り上げた。天国よりも地獄を。だがそれは、また地球を半周するよりは、ずっと楽だ。なぜなら彼らは、地獄をめぐって、裏側から神の意思へと到達する。だだだダンテのように。かかか彼らだけを責めるわけにはいかない。でも、でもマリアたたちは、そのために神に遣わされたのか? マリア達にも、救済があっても……そうだ、私が……私のマリアが、世界に憎まれるなどという事があってはならないのだ。皆に愛されなければならない。これは始まりに過ぎない。始まりというものはつねに困難を伴うものだ」

 つまりこのテロルは、世界中の新しき魔女たち=魔法少女たち=〈マリア・K〉たちを救済するまで終わらない、ということだ。

「地獄の底に下り、煉獄の塔をのぼりひとつひとつの罪は清められる。マリアたちには、その資格が――あるんだっ」

 柱の陰から白い獣がさっと現れた。

 浩司は迫り来る獣に向けてグロック26Cで発砲する。モーゼル拳銃の予備弾倉をありったけ用意して、自身のクリス ヴェクターやグロックのロングマガジンを捨て置く選択が、今更ながら彼を窮地に陥らせていた。

 ストックの弾倉に手をかける。

 十発目の9㍉パラベラム弾が銃口を離れる。グロック26Cの使用するノーマルマガジンの装弾数は十発だ。

「遅い!」

 イシャラの声を間近に聞いたと思う間もなく、浩司は右肩に強い衝撃を受けて吹き飛ばされた。

「――――っくはッ」

 イシャラは目の前に立ちはだかっていた。

「やぁ、王子様ぁ」

 ふたたび一発。

 熱い血の流れが、滴った。

「げぇむせっとだ」

 糸状人造皮膚はすぐさま繊維状に皮膚を形成し始めるが、これは文字通り弥縫にすぎない。

「糸状人造皮膚じゃ、内側の傷は癒せないぞ?」

 イシャラの表情が恍惚に破顔し、崩れてゆく。

「君も、知っているんだろう。マリアに刻まれた私の証を」

 浩司は怒りに痛みも忘れて起き上がろうとした。イシャラはそんな彼の人工の皮膚を形成し始めた傷口を、軍靴で踏みつけた。形成途中の糸状人造皮膚が、ぶちぶちとちぎれ、受け止めた血だまりが、くちゃっと湿っぽい音を立てて破れるのが分かった。思わず、浩司はかすれた叫び声をあげた。

 イシャラは正確に狙いを定めるべく、ルガーを構えなおした。

 しかし、そのままの状態で、イシャラは彫像のように固まってしまった。一時的にも、多幸感が彼の心を埋め尽くしてしまったようだった。これを振り払うため、精神の統一が必要なのか――なにかそれは幸福の記憶を、恍惚の記憶を、歓喜の記憶を一粒ずつ呑み込む――ように、喉仏がしきりに動いた。それだけが、彼が白磁の塑像でないことをあらわしていた。

 イシャラはきりきりと首だけを回転させて、ペストマスクのほうを振り返った。

「私を殴れ」

 自分を指さし、次には「そこのきみ」と無作為に兵士を指さしてイシャラは言う。白羽の矢を立てられた兵士は、一瞬ためらったようだが、命令違反の恐れから、意を決すると、振りかぶった。

「気にするな。遠慮なく、ぶ――ッ⁉」

 この力は想像してなかったらしい。真顔で痛みに耐えた後、イシャラはぶるぶると頭を振るった。

「なかなか強烈だ」

 爽やかににこりとほほ笑んで、彼はすぐさま自分の頬を打った兵士の額を撃ち抜いた。

「さて――」

 正気を取り戻したイシャラは、ぐったりした浩司のほうを再び向き直った。

「君、王子様が助けるのはお姫様のほうじゃなかったのかな? お伽話の中では、魔女が悪者って相場は決まっているだろうに」

 浩司はその言葉に苦笑を浮かべた。

 その瞳に光が燈るのをイシャラは見逃さなかった。

 残弾なしの銃口が向けられる。

「うちの国じゃ、そうでもないのさ」

 残弾ゼロの銃口が火を噴いた!


「目標は、租界、だな」

 危機管理センターの巨大な三次元ディスプレイに映し出されたのは、米帝のステルス戦略爆撃機――報告によるとB-21レイダー、である。合衆国時代に運用されていたB-2スピリットに、その機体形状は酷似している。

「この映像は?」

「一時間前の映像です。米連がB-21に携行する無人偵察機をハッキングして映像を取得したとか。あ、そろそろです。よく視て下さい」

 霧状の物質が風に流されると、機体は徐々にその姿を失い始めた。ついに一筋の虹色の光彩を放つ霧を残すと、機影は視覚情報として、完全にその姿を消した。

「完全光学迷彩か」

 竹川は絶句した。

「――説明してほしいものだな烏賀陽」

 烏賀陽のほうを振り返りながら、竹川は言った。

「B-21は完全なる自立制御スタンドアローンで飛行している。自立型致死兵器システムの完成品だと、米帝のエージェントから聞かされた。そして約束が反故になっていなければ――」

(あのB-21戦略爆撃機には、テルミット反応を用いた特殊焼夷弾が搭載されている)

 と烏賀陽は言う。

 ナノテルミット特殊焼夷弾。

 燃焼のさまから〈火剣の車輪〉などと言う大層な名前のついた焼夷弾である。主要な構成要素の金属および金属酸化物の粒子サイズが、文字通り百ナノメートル未満の準安定分子複合体である。従来のテルミット反応による焼夷弾にくらべ、構成要素となる粒子が原子スケールにより近いため、高い反応速度を誇る。反応物であるアルミニウム-モリブデン酸化物の入った容器に圧力がかかると、目標上空に金属および金属酸化物を均一に散布し、点火後最高で摂氏6000℃にまで達して、対象から半径三キロ圏内を焼尽しようじんする。戦略核兵器の大略四辺形地域への集中的な使用以降、この核戦力均衡の空白を埋めるべく発達した技術である。

〈擬天使〉として物象化した魔法少女たちを、半径三キロ圏内のすべてとともに完全に焼き尽くそうというのだ。さらに、この兵器の目的とする熱放射による被害が比較的少ない場所でも、紫外線、可視光線、赤外線領域における多量の電磁波放射を伴うため、人体や精密機器に多大な影響を与える。

 マリア・Kおよび多数の魔法少女たちの〈物象化〉は起きるべくして起こり、烏賀陽のシナリオに組込まれていたのだろう。いや、烏賀陽のシナリオは、もっと大きな物語の枝葉にすぎないのではあろうが。

「まぁ、かなり初段から失敗してはいたんだが、まだ大丈夫だろう、まだやり直しがきく、などと帳尻を合わせようとしていくうちに、ついに後戻りができなくなった」

 自嘲気味に笑みを浮かべながら烏賀陽は言った。

「それでもやっと舞台は整った」

「なにが舞台だ。猜疑と不信と憎悪を煽って、このつまらん芝居に、彼女らも国民も犠牲にすると言うのか」

 竹川は懐から皮装丁の小型本を取り出した。表紙に焼き印された紋様から魔導書に類するものらしかった。

「『なにか困ったとき、これをひらけばわたしたちが力になる』、と以前三賢女のひとりから手渡されたものだ。その時だと思って、私は本を開いた。すると今の今まで、その場から離れることができなくなった。それで、何語だか見当もつかなかったが、読むことができた。『先へ進めば死が待つ』と。罠が張り巡らされている。なんとか租界にも伝えたいと遣いを出したが、結局私は何もできなかった……無念だよ」

「やはり魔女か。随分と用意がいいようだな。魔女どもの加護がつくようになったか」

「だが思ったんだ。いま私が死んでしまえば、三賢女らにとっては、自分たちの娘の居場所がなくなることだからな。それでこの老骨にも期待を抱かれるというのは、悪い気はせんものだ。これを無碍にしないためにも、最善を尽くすさ。まだ助かる命が残っているかぎりは」

「骨抜きにされた、の間違いだろう」

 と、烏賀陽は鼻を鳴らした。

「……いったいなにが目的だ?」

 竹川は訊ねた。

 烏賀陽は竹川の顔をしげしげと眺めながら、言った。

「日米安全保障条約」

 烏賀陽の言葉に、竹川は些かたじろいだ。

「なにを言っている。日米安保は失効しているじゃないか」

「だから新しく結びなおすのさ、米帝と」

 自信に満ちたようすで、いくぶん身を乗り出して烏賀陽は言った。

「米帝は、いま国費の大半を軍事に注ぎ込んだ当然のツケの支払いに迫られている。しかも国連からはつまはじき者だ。自業自得に違いないが、『窮鼠猫を噛む』こともある。暴発する前にこれに手を差し伸べてやる存在が必要だ。しかも対等どころか、十分にこちらに利のある同盟関係を結ぶことのできる、世界で唯一の国になるだろう」

「それが日本だと?」

「この国の合成食品技術は高く買われているんだ。『無から有を転ず』、とな。まさに魔法のようじゃないか。その点は素直に喜ぶべきだと思うぞ。それにお互いに傷を持つ者同士、以前よりはずっと仲良くできるだろうさ。われわれは手を結ぶ。支配する権利のない者から、われわれの権利を取り戻す」

 二人は瞬きもせずに対峙した。

 まず口を開いたのは竹川だった。

「独立不羈だ。私は今の国連にも米帝にも私は与しない」

 烏賀陽が目を瞠った。明らかに動揺していた。

「なにを甘っちょろいことを言っているんだ。だから貴様は政治向きじゃないんだ。いいか、この壊れた世界には、誰か導いてやる存在が必要なんだ。遠い未来でも、過去の偉大でもない。いま、ここにある存在なんだ」

 それは――と、一瞬竹川は口ごもった。竹川の中で、その考えははっきりとしていたが、うまく言葉にできるか自信がなかった。

「それは彼女たちが導く。先のことはどうなるかわからないがな。烏賀陽、我々は古い人間だ。そして遅かれ早かれ死ぬという未来の確定した人間だ。ということは、次の世代はやはりどうしたって我々ではない。だから私たちの仕事は、次の世代にいくらか道筋を整えて、それを明け渡すことだ。いくらかましな未来をな。だからこそ、私はどちらにも与する事は出来ないし、してはならないんだ、と思っている。……確かにな烏賀陽、私はなんとも説明できない自分をもどかしく感じるよ。こんなザマでは、確かに政治向きではないのかもしれないな」

 竹川は自嘲的な笑みを浮かべた。

「——分かり合えないな」

 烏賀陽は、脱力気味に冷たく言い放った。

 竹川の言葉に、それでも少しは思うところがあったのかもしれない。

 しかし〈擬天使〉を「運用」しようと自衛軍の特殊武器防護隊を動かしたり、イシャラの入国を手引きしたり、彼を確保するべく厚生省の「マトリ」の非公然部隊を差し向けたり、極めつけは米帝という外患を招き寄せ――と、彼はあまりにも自分の計画に熱中し、深入りし過ぎてしまっていた。

「ああ、まったく残念だ」


「こりゃ効くな。この感情に全て委ねちまいたくなる……」

〈熾天使〉の見せる幻覚なのだろうか。

(〈擬天使〉の生体は、強烈に人間の精神域に作用する、のかもしれません)

 ――確かにその通りらしいぜ、グランマーマ・ロッテンマイヤー。

 どさり、と的場の目の前に物体が降りかかってきた。

 ねっとりとした、生温かい腐敗臭が鼻腔に押し寄せる。

 喰われるのか。

 それもいい。

 しかし……これはいったい誰だったのだろう?

〈―――――ッットォオオオオオバァアアアア!〉

(まったく、誰だ? 邪魔する奴……は?)

 超低空飛行。

 もうもうと煙を蹴立て、こちらに近づいてくるものがある。

「まぁあああああとぉおおおおばぁああああああ!」

 その声に的場ははっと飛び起きた。

「んっ嬢ちゃん⁈」

〈へたばってないで、なんとかこの状況をなんとかしなさいよ‼〉

 ヒルコは猛然と的場のそばを走り抜けていった。

「……『なんとか』って言ってもなあ」

 ヒルコの後姿を見送って、的場は途方に暮れたようすで呟いた。

 擦過の一瞬、ヒルコに一撃を加えられた〈擬天使〉の一部が、断末魔にびくびくと痙攣していた。

「困った嬢ちゃんだ」

 さて、と的場は辺りを見回す。……

 お誂え向きに、目立った傷のない装甲兵員輸送車がある。アメリカ部隊の助言者を乗せたものだった。

「――ったく、どいつもこいつも世話の焼ける」

「んん……なんだジャップか?」

「おお、おはようさん。ちょっくら車借りたくてな。運転できるかサンダース? それとも俺にリースするか?」

「……今更なにもかも無駄だ。みんな死んだ。それにこの時間は……夢は……心地いい。これはあの天使が見せてくれているのか?」

「ったくどこまで腑抜けになっちまったんだ? まだ全員死んだわけじゃねぇし、まさに戦っている奴もいるんだからな。邪魔になるなら、今この場でてめぇのどたまかち割って、不幸な殉職ってことでみんなチャラにしてもらうぜ?」

 的場はイグニッションキーをひねった。

「よし、こいつぁまだ動くぞ」

「まだ戦っている奴がいるのか? カミカゼか?」

「くだらねぇ例えだな。百年も前のことなんか持ちだすんじゃねえよ。……まぁ、そうだな。俺たちの守護て……守護魔法少女は誰のためでもねぇ、この世界で生きるために飛んでったんだ。強制されて死ぬためじゃねぇよ」

「なるほど。で、あんたはマトバのだんな?」

「なぁに、くさいセリフにゃちがいねぇが、この老骨に鞭打って、世界を救うお手伝いをしようってのさ」

 敵の居場所、に心当たりがある。

 さっさと片を付けよう――と、的場は頬をひっぱたいた。

 多幸感はすぐに隙間から侵入してくるのだった。


 イシャラの体はよろめいた。脇腹に穿たれた穴から、じわじわと血が染みだしている。

「これ、は……?」

 なにが起こったのか信じられないようすでイシャラは呟いた。

「王子様。たしかその銃の弾数は十発だろ?」

「ご明察。でも知ってるか? 十発入りでも薬室にあらかじめ一発セットしておくと、なんと十一発になるんだ」

「まったく、きみはどこでそんなことを覚えるんだ?」

「大昔のアニメでやってたんだな。小学生になった高校生の探偵が主人公の」

 満身創痍の浩司の体に、銃弾が撃ち込まれる。

「なんだそれは? 日本人は、そういうところだけ悪知恵が働くな」

 再び一発。

 黒々とした血だまりが、糸状人造皮膚の修復能力を超えてあふれ出した。

 ダメかもしれない。そんな諦観が、体をひどく重くさせた。

「しかしなぜ?」

 と、不意にイシャラは訊ねた。

「きみはこの法悦のなかで、どうしてそんなに平気でいられるんだ?」

 たしかに多少とも〈熾天使〉の法悦の影響を受けている租界内の人間の中で、ただ浩司ばかりが、どうやらまっとうに正気を保っているようだった。

 たしかなことは分からないが、浩司は推論付けていた。

「あの光が憎いからだ」

 息も絶え絶えに浩司は言った。

〈熾天使〉が、目前の光景を満たしていた。通俗的意味においての質量保存の法則を無視しながら、自分たちの視界を乳白色に覆いつくそうとする〈熾天使〉の微笑みに向かって、言った。

「俺はあの光が憎い。あの男が……俺たちを捨てた理由を解き明かす時間を与えないまま、物象化して持ち去った……あの光が憎い。お前たちに妙な希望を与えた、あの光が憎い。そしてマリアたちを不幸にした……あの光が憎い。憎い……」

 憎い……憎い……と、浩司はうわごとのようにつぶやいた。

「不幸、だって? 憎い、だって?」

 しばらくあっけにとられたようすで、イシャラは不思議そうに浩司を眺めていた。それはしだいに憐みの色に変じていった。

「ああ、王子様。きみは最後の最後まで光に仇なす者なんだね。あの光を憎むなんて。きみの心は歪んで、ねじけて、憎悪でいっぱいだ。私には見える。凍え閉じ込められた、哀れなルキフェルよ」

 ふたたびイシャラは深々と嘆息した。

「さて、時間だ。これより、魔導シールドを解除して〈熾天使〉を野に放つ」

 おい、と、イシャラは振り返った。

 しかし、連れ立ったペストマスクたちは、すでに皆息をしていないか、多幸感に精神を支配されて廃人となっていたようで、応える者は誰も居ない。

「まったく、ちかごろ他人というものは、だれもかれも信用ならない。すべて自分でやらなければいけない、な」

「どういう……ことだ?」

 声を上げようとすると、どろりと口元から血が溢れだして、気道をふさいだ。

「焼き払うのだ。すべてを」

 イシャラはとろけた笑みを浮かべた。

「これから攻撃命令を受けた米帝のB‐21戦略爆撃機が、〈火剣の車輪〉をはらんでやってくる。魔導シールドのせいでうっかり、そう、例えば多くの迷える子羊たちを焼き殺すことは、私の本意ではない。この救済はただマリアたちのために用意されているのだ」

「自分たちが呼び寄せて生み出したものを、今度は焼くっていうのか?」

「私は言っただろう。マリアたちは魔法少女のままでは生きられない。そして魔法少女のままでは、天国の門をくぐることはできない。『生まれ変わること』、が必要なんだ。地上の肉体は焼き滅ぼされるが、代わりに天使の身体が得られる。君たちが不信心にも〈擬天使〉と言う身体に。これは携挙けいきよ(おもにプロテスタントのキリスト教終末論において、亡き信仰者たちの霊と肉体が結び合わされ、よみがえりが行われること)だ。しかし、そそそそれだけではだめだ。くくくくぐりりりぬけるるるためにははは、魂の審判がががが——」

「……そ」

「魂は清浄の炎によって浄化されるるるる。マリアは、いいいいやママリアたちには、かかかかくて天国の門が開かれる。東方のこの地が、新しき聖地。王国の扉に」

(そんな……)

 なんて回りくどいことを。と、口にしかけた途端、血を吐き出しながら心の中で呟くのだけで、精いっぱいになった。

「それが救いだ。救済なのだ!」

 浩司の心を見透かしたかのように、イシャラは叫んだ。

「魔法少女100%で出来た純粋な神の被造物。数多くのマリア・Kの結晶体……ちょっと待て、マリア、まだ……まだだ! マリア、マリア! みんなを救済するんだろ⁉」

 ふたたびイシャラの瞳がとろんと溶けた。

 融解しきる最後の意識の中で、浩司にルガーの銃口を向けた。

「あはは、急ぐんだ。救済するぞ! 救済するぞ? 救済するぞ⁉」


「飛び込むなんて……」

 キアーラが怖気震えるように言った。いつもの気の強さが嘘のように消えていた。水を極度に恐れていたのである。

「ここにいれば確実に死ぬ」

 シュテファンは息も絶え絶えに言った。

「うー」

 ユカが不満げな声をあげた。きつく抱きしめて離さないのは、血糊でごわごわになったくまきちの半身だった。

 ユカの後頭部には裂傷がみられた。すでにどす黒い血が固まっており、頭を打ち付けた影響か失語状態であった。

「Hasi……」

 エヴァが放心の態で呟いた。ときに空気をかき抱く仕草をした。それが法悦によるものなのか、常の状態なのか、シュテファンには判断しようもない。

 シュテファンたち数名の助言者らは、行く先々で生き残りの魔法少女たちと落ち合うと、北部ポートへの道をひた進んだ。

 しかし北部ポートについたとたん、なにもない空間から突如ペストマスクの一団が現れ、シュテファンたちの行く手を阻んだ。助言者、魔法少女たちがこの嘴医者の放つ凶弾につぎつぎと倒れた。

 ――なんとしてでも、この娘たちだけは逃がしてやりたかった。

 とはいうものの、武器と言っては文字通り「刀折れ矢尽きる」といったようすである。刀身の半分ほどで折れたキアーラのフランベルジュ。矢を打ち尽くしたエヴァのクロス・ボウ。それに大きく刃こぼれしたユカの戦斧――などと言った塩梅である。

 ほか数名の魔法少女たちも、頬面をひっぱたき、役に立たない法具はできるかぎり捨てさせ、シュテファンはなんとか〈擬天使〉の生餌となる現場から、北部ポートの見えるこの場所まで引っ張ってきたのだった。

 万事休す、である。

 ドイツ部隊の助言者は、いつの間にか彼一人となっていた。行く先々で、一人また一人と食われていったに違いない。

 最初の被害者は、エーミールだった。

〈熾天使〉の放つ、法悦に誘われるように、エーミールは兵員装甲輸送車から飛び出していった。彼を追ってシュテファンたちが外に出ると、フランケンウォークの足取りのエーミールは、彼の目前に現れた〈擬天使〉に何の抵抗も見せずに頭から食われた。

 シュテファンは、見た。

 エーミールは、笑っていた。

 命からがら逃げのびたほか助言者たちも、法悦に惑わされて、急に立ち止まり、目前に降り立った〈擬天使〉に何らの抵抗も見せない者から、次々と捕食された。

 シュテファンは、見た。

 皆、笑っていた。

 ごりごりと四肢を噛み砕かれ、あるいは吸盤状の口腔に飲み込まれて体液を残らず吸い取られ、干からびたように息絶える……かつての戦友たち。娘のように思っていた魔法少女たちのなれの果て――に。

(そちらに行きたい)

 ふいに、シュテファンの右腕が痛みを主張するのだった。歯を食いしばって痛みの波をやり過ごすと、〈熾天使〉の放つ法悦が、彼を包み込もうとするのから、いくらか自由になることができた。常世の痛みが、歓喜に湧くあの世を拒絶していた。

 とは言え、それにも限界があるはずだ。

 正気を保っていられる感覚も、時間がたつほどに短くなってくるような気がする。

 魔法少女租界一帯に、虹色にふりそそぐ淡い光線。

〈熾天使〉の、世にも神聖な微笑み。

 男も女もまじりあった歓喜の声が聞こえる。

「聖なるかな、聖なるかな。聖なるであることは、主のもとに来ることになる」と。

 ペストマスク姿の兵士たちが、じりじりと陽炎のようにこちらに近づいてくる。横隊のまま一歩また一歩、反撃の脅威を恐れるでもなく突き進んでくる。

 二十世紀のオールドメディアにこれと同じ構図があったな、などとシュテファンは悠長に考える。『戦艦ポチョムキン』の劇中で最も有名で、以降もさまざまな形でパスティシュされた「オデッサの階段」の一場面。

「聖なるかな、聖なるかな。聖なるであることは、主のもとに来ることになる」

 ペストマスクたちは、嘴状のマスクにくぐもった声で唱和した。

 彼らは〈熾天使〉の放つ法悦に抗いはしない。それに陶酔し、合一を果たそうとしている。

「聖なるかな、聖なるかな。聖なるであることは、主のもとに来ることになる」

 圧倒的に分が悪い。

 かくなる上は、自分の体を盾にしてでも、一人でも多く租界から逃がすしかない……などとシュテファンが意を決したときだった。

 ペストマスクと助言者・魔法少女の一行の間に、巨大な何かが轟音と煙を蹴立てて割って入ったのだった。なすすべなくオデッサの階段を転げ落ちた乳母車のメタファーにしては、いささか大きいし騒々しすぎる。

 煙たさにとっさに目を瞑り、そして恐る恐る目を開けると、シュテファンは「あっ」と小さく叫んだ。

 それはアメリカ部隊の兵員輸送車だった。

 これに対してペストマスクたちは銃撃を開始するが、銃弾は装甲を撃ち抜けない。

 しかし、アメリカ部隊の兵員輸送車は、この攻撃に対して沈黙したまま、反撃するそぶりも見せない。

 と、シュテファンと魔法少女たちの前に、車中から転げ落ちるように、アメリカ部隊の助言者サンダースが現れた。

 的場は……車中にいない。

 サンダースが声を振り絞って、言った。

「みんな、伏せろ!」

 と――

「こっちだ、大ガラスども!」

 明後日の方向から、その声が聞こえるか聞こえないかのうちに、イシャラらが乗り込んできたステルス実証艦の開口部――ペストマスクたちを吐き出した何もない空間に、パンツァーファウスト3の弾頭が飛び込んできた。

 ペストマスクたちは何が起こったのかわからないまま、爆風と炎に巻き込まれて千々に千切れ、焼かれ、高々と吹き飛ばされた。恍惚の中で裂かれ、飛び散り、焼かれたのだから、そのほうが幸せだったかもしれない。

「ほぅら」

 満足げに嘆息する声の正体は、的場のものであった。

「やっぱ役に立ったじゃねぇか。浩司」

 磁場魔導シールド発生装置が、爆炎を上げ破片を四散させた。

「安心しろ、あの世で再戦の機会はあるか、ら?」

 目いっぱい格好をつけた的場であったが、足元で薄氷がしだいに割れていくような音に、思わずとびあがった。

「おっと……やりすぎた、か?」

 それは次第に大きな地響きとなって、的場の足元まで達した。

 どうやらパージによって、脆弱になったハニカム構造体の一部区画が、爆発の衝撃に耐えきれず海水の流入によって浸水し始めたらしい。

 それは地上にも影響した。亀裂から海水が噴出し、構造物は引き込まれるように倒壊し、徐々に引きずり込まれている。

「死ぬなよ浩司! 寝覚めが悪いからな!」

 虚空に向かって叫ぶと、的場はパンツァーファウスト3をその場に抛って、シュテファンたちのもとに駆け寄った。

「おい日本人ヤーパン! よくも面倒ごとを増やしやがって!」

 そう怒鳴るシュテファンであったが、的場の姿にほっとしたようすだった。

「残っているのは? これで全員か?」

「わからない。エーミールの坊やも……くそったれ。みんな食われちまった」

 そう言うシュテファンも、無残な右腕の残骸らしきものが糸状人造皮膚どうしの結合で、二の腕のあたりでかろうじてぶら下がっている。エーミールを喰った〈擬天使〉に向けたクリス ヴェクターごと、傍から突如現れた別の〈擬天使〉に腕を食いちぎられたのである。

「これのおかげで、目ぇ覚めたけどな」

 不意にあたりを見渡して、シュテファンはがっくりと肩を落とした。

「そのほうがよっぽど地獄か……」

「地獄で上等だ」

 的場の簡潔な応えに、感に耐えたように、シュテファンは目を細めた。

「『地獄で上等』か。ん、そう言えばあの坊やはどうした?」

「あのバカは小娘のために飛び出してった。まぁ、勝手に帰ってくるだろう」

「犬じゃあるまいに」

「Hasi、そこにいるの?」

 割り込むようにしてエヴァが声をあげた。

 的場が頷くと、

「あの黒犬も一緒」

 エヴァの瞳が、自分の恋敵を想像して榛色の瞳を燃え上がらせたが、すぐになんとも面白くなさそうな、いつもの表情に落ち着いた。

「なら、大丈夫。Hasi、帰ってくる」

 的場はにやりと笑ってみせた。

 ふたたび地響きが彼らの下腹に響いた。このままでは浸水の影響による海流に飲み込まれるかもしれない。

「さぁ、話はここを抜け出してからにしようじゃねぇか。あのバカでかいのにまたいい気分にされるのは面白くねぇ。いいか! 何人か一組になって飛び込むぞ」

「海流に巻き込まれるのはごめんだ」

「確率異常に頼るしかないだろう」

 飛び込むという言葉に恐慌状態に陥ったキアーラと、「くまきち」の半身を抱えもって幼児退行してしまったユカを軽々抱えて的場が言った。

「いやよ! 私泳げないの!」

「おいおい、テキトーイタリア人の気概はどうした? じゃあ、俺にしっかりつかまって、自分の持つ確率異常ってやつを信じるんだな」

「そんな……」

「うー!」

「そうだユカ。その調子だ。これから全力を挙げて生き残るんだ。――飛ぶぞー!」

「いやいや待って待って! イヤ————ッ⁉」

 海に飛び込むその刹那、魔法少女と助言者たちは、上空を単騎駆け抜け、淡紅色の尾を引く、二つの鬼火を見た。

「Hasi————⁉」


 ヒルコは、彼女を上から押さえつけていたような憑き物が、ふっと途切れたのを感じた。

 物は試しと、箒の先端をぐっと持ち上げる。

 来た。

 見えない檻が、解けた。

 そうだ。

 高く――飛んで行ける!

 それとわかると、体中の〈叢〉を駆け巡り迸るように、魔導力が溢れだしてゆくのを感じた。

 箒は、何者かの繰る糸によって引っ張られているようだった。早駆けるヒルコの箒は、〈擬天使〉たちを翻弄した。

 追いすがろうとする〈擬天使〉たち。

 ヒルコの前方にはだかる〈熾天使〉が、法悦の笑みを浮かべた。

 花咲くようなマリア・Kの頬笑みを浮かべて。

 ほふぅ……ふぅ……。

「二度同じ手食うか――」

 刹那。

「――よッ!」

 ヒルコを乗せた箒は垂直に高度を下げた。

 見えない衝撃波がヒルコの頭上を吹きわたり、彼女を追って背後にいた〈擬天使〉たちが吹き飛ばされる。

 ヒルコは〈熾天使〉の六翼のうち、下二翼の隙間に滑り込んだ。

 いや、彼女はそこに追い込まれたのだ。

 上下左右からの圧迫感が次第に深増さってくるのに、ヒルコは気がついた。

 しだいに羽の洞窟が、彼女に迫ってくるのだった。

 翼を閉じて、ヒルコを押しつぶそうとしている。

 そのうえ、上部から鍾乳石のように白い肉塊が垂れ下がってヒルコを捕えようとしているようだった。形を成す——それは無数の白い腕だ。

 無数の白い腕を掠めるようにかわし、あるいは銃身を水平に倒したモーゼル拳銃の馬賊撃ちで粉砕する。

 ヒルコの後から〈熾天使〉の翼の隙間に入り込んだ各階級の〈擬天使〉たちも、ヒルコのすぐ後方に迫ってきていた。

 前方の外からの光は、しだいに小さくなる。

(間に合え――――‼)

 間一髪。

 白い肉塊の洞窟が閉じた。ヒルコを追っていた〈擬天使〉たちは、その肉塊に圧殺されてしまったことだろう。

 観測塔が目前にそびえたつ。

 箒は急上昇に転じる。ヒルコは箒に縋り付くようにその身を密着させる。

〈熾天使〉の背後の翼を突き破るようにして、ふたたび無数の白い腕がヒルコに襲い掛かってきた。

 観測塔の壁面を這うようにして、ヒルコは上方に飛行を続ける。

 白い腕は強靭な力で、観測塔の外壁にその手を突っ込んで破壊してゆく。

(くそっ、追いつかれる!)

「あっ――――‼」

 ヒルコの箒は突如コントロールを失って上空に跳ね上げられた。

 白い腕のひとつが、箒の房に触れたようだった。

 瞬間、ヒルコと箒と、周囲の時間が緩慢になった。

(終わった)

 ヒルコは目を瞑った。

 しかし、なにも自分の身に訪れる様子はない。

「……!……?……⁉」

 恐る恐る目を開くと……淡紅色の二つの鬼火は、驚きに揺曳した。

 ヒルコは〈熾天使〉の頭頂に達していた。〈霊素〉は三つ編み髪のように束ねられ、眩く発光する〈ヤコブの梯子〉まで続いている。

 白い肉塊――魔法少女たちの身体――は〈熾天使〉の身体として、大渦潮のように蠢いていた。

 その中に、ヒルコは発見みつけた。

 その白い肉塊はマリア・K、だった。

 ヒルコには〈熾天使〉の身体として滞留する肉塊の集まりが、受肉のための要素として一塊になっていても、魔法少女たちがそれぞれの相貌を現わしているように思われた。それぞれの姿形を失っても、魔法少女たちは、やはりそれぞれの彼女たちであった。

 わらわらと群れなす他の〈擬天使〉たちもまた、それぞれの彼女たちであったり、彼らであったりしただろう。

 ヒルコは自らの法具モーゼル拳銃の銃口を、〈熾天使〉に向けた。

「あたしがわざわざ大っキライなあんたを助けてやるんだ。感謝しろ!」

 そして、異言グラソラリア

〈精霊よぜよ、しかるべく圧っせよ〉

 引き金が引かれた。

 放たれた弾丸は、常の7.63×25mmマウザー弾と同じく、銃口初速430m/sで銃口を離れる。

 淡紅色の術式が弾道に軌跡を描き。

 着弾。

 殺傷力を高めた弾丸の効果として、弾頭に刻まれた溝は、対象物の内部で花開く。

 術式の発動。

 受肉した〈熾天使〉の眉間の肉塊を、波紋状に押し開いて、淡紅色の魔法陣が展開された。

 それは見る見るうちに加速度的なスピードで巨大な輪を描く。

 魔法陣が発する衝撃波は、租界上の構造物をまるで上から力任せに殴りつけでもするように破壊した。周囲を取り巻く〈擬天使〉たちを薙ぎ払い、輪切りにし、蛇腹状に押しつぶして、〈熾天使〉の頭上に伸びる三つ編み髪のような〈霊素〉を寸断した。ついには〈ヤコブの梯子〉すら、この空中に印された波紋状の魔法陣によって、地上から覆い隠された。

 これほど巨大な魔法陣の展開は、ヒルコにとって初めての経験であった。魔法少女たちに感応した魔法陣は、〈熾天使〉を中心に、租界一帯の上空を、淡紅色の光の環で、妖しく照らしながら覆いつつあった。

 これこそが、三賢女や俗世に恭順した常なる魔法使い・魔女たちが、仲間割れや、力を持った者同士の闘争を恐れる、もっとも大きな要因であった。魔導戦——とくに、さきの世界大戦における航空魔導戦——において、地上戦にも勝るとも劣らぬ陰惨な戦いとなった要因も、魔導が感応しあって双方や周囲が大きな痛手を受ける、それも勝っても負けてもそうなる、という点にあった。強力な呪術は、呪いをかける側であっても、己が生命を代価として差し出す行為である。

 そして、このように並々ならぬ魔導の感応が迸るとき、「世界の理」といったものに、大小なんらかの影響を与えうることを、先人たちはよく知っていた。

 人によっては、むしろこの淡紅色をあらわす光の環のほうが、禍々しい、凶事の前触れのようすと見たかもしれない。

 ちょうど〈熾天使〉の眉間に、光の裂け目ができた。小さな光の粒子が、眉間の裂け目から、しだいに激しさを増して迸った。それは〈霊素〉にも似ていたが、それぞれに人のホムンクルスを成し、ヒルコのほうへ押し寄せてくる。

 光り輝く魔法少女たち、であった。

(見た。見たぞ!)

 衝撃波に耐えながら、声にならぬ声でヒルコは叫んだ。

 魂や霊とは、このようなものなのだろうか。

 それは〈熾天使〉の眉間から発する眩い光から迸って、魔法少女たちの一糸まとわぬ人の形で、らせん状に虚空を泳ぎ回っているのだった。

 光り輝く魔法少女たちは、回遊する魚の群れのように押し寄せ、ヒルコを覆うように通り過ぎていった。

 みなが一様におだやかな笑みを浮かべて去っていった。それは魔法少女の身体という枠組みから解放された喜びからだろうか。それとも――。

(ま、天国なんてもんがあるんなら、せめて天国に行けよ)

 この世ではないどこかに過ぎ去ってゆく魔法少女たちを横目に、ヒルコは呟いた。

 が――ひとり。

 残されたもの(マリア・K)がいる。

(ったく。ホントどんくさい姫サマだな)

 やれやれといった具合に「ふん」と鼻を鳴らすと、ヒルコは手を伸ばした。

 発光するマリア・Kは、その差し出された手におずおずと自分の透き通る手を伸ばした。

 しかし。

 触れ合うと思った瞬間、マリア・Kの指先がぴくりと引いたようだった。

(なぁにいっちょまえに躊躇ってんだ)

 と、ヒルコは思った。「助ける、助けない」は自分が決める。相手はそれに感謝感激していればいいのだ。

 もっと強引に、ヒルコは手を差し伸べた。

 しかし、もうマリア・Kは手を伸ばそうともしなかった。

 そして、

〈アリガトウ〉

 マリア・Kの唇はその形に動いた。

 ヒルコは不意を突かれたように身を引いた。

 マリア・Kは、悲しげに微笑みながら、まばゆく光を放つ、小さな硝子玉ほどの球体になって、臓腑の塊に吸い込まれていった。

(なにが〈アリガトウ〉だ。このバカ姫ッ!)

 はっと我に返ったヒルコは手を伸ばした。箒から振り落とされたとしても、腕がそれによって引きちぎれようとも、かまわなかった。

(あたしはまだ何もしちゃいない! 手を取れ!)

 展開された魔法陣は、幾重にも波紋のように重なり、縮退したマリア・Kに向かって集束していく。

 なおも目いっぱい、ヒルコは手を伸ばした。


 淡紅色の光の名残が、フィラメントとなって周囲に散った。

「……やった……か」

 これを目撃して、浩司は息も絶え絶えに呟いた。

「……ってくれ……待ってくれぇえええ‼」

 イシャラの声だった。かすれがちに、地の底からおしひしがれたように聞こえてきた。

 浩司は地上が見える位置まで擦り動かすように体を移動させた。目を凝らすと、粉塵と瓦礫の中にイシャラの姿を発見した。

 イシャラはマリア・Kを求めて這いずっていた。両脚はそれぞれ明後日の方向に曲がっていた。皮膚や筋がところどころ引きちぎれながら、それでも辛うじてつながっていたようだった。落下によって死ななかったのは、ほとんど奇跡だった。

「私もいっしょに……連れて行ってくれぇええ!」

 マリア・Kというツナギを失った〈熾天使〉の体は、急速に腐敗が進行し、崩壊しつつあった。臓腑は次々地上に落下し、ごうごうとすさまじい音を立て、赤黒い吐瀉物となって、イシャラのほうへと押し寄せてくる。

「マリアぁぁぁああああ――――――――――!」

 臓腑を含んだ、どす黒い血の波がイシャラを飲み込んだ。

 血の波は、倒壊寸前の建物に押し寄せ、高らかにしぶきを上げた。それがとどめの一撃となって、しぶきと共に、浩司を残した建物は完全に倒壊して、血の海に巻き込まれていった。

 そして、

〈光よ! その輝きをもってのものを明らかにせよ!〉。……

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