第7話 決意

 彼方へ飛び去る配達鳥シュライフェンさながら雲間へと消える機体。その痕跡をなぞるように、黒鉄くろがねの鳥が半円を描いて追いすがる。

 琴。甲高い耳鳴り。唸りを上げるジェット噴射。大気を震わす轟音。絶え間ない銃器の発砲音が、街中にこだまする。

 頭上で繰り広げられる二機の攻防を前に、アスールたちはただ呆然とするばかりだった。

 彼らが動き出せない理由は、ひとえにワートゥルという街の特性にあった。この街は、世間一般で『中立』と呼ばれる所謂「独立国」である。このような立場をとる街や村は、共同体の維持・運営を住民たち自身で行い、経済活動は専ら他の中立者との交易を主としている。

 彼らは、エストなどの『国』と決して交わることはない。どの国にも属さず、どの国にも媚びず、どの国からも利益を享受しない代わりに、彼らは彼らの自由を保障されているのである。

 例え、この世界の『国々』の間で争いが起きても、彼ら『中立』の立場をとる共同体に影響が及ぶことは一切無い。それが、「始まりの日」より続いてきた掟の一つだった。

 そのため、アスールたちは――大人たちも含めて――自分たちが生きている間に、『戦闘機』などという『物体』を見ることなどないと思っていた。ましてや自分たちの街の上で戦闘行為が行われるなど、想像だにしたことが無いほど、平穏な日々が約束されていたのである。

 皆が呆けている中、最初に動いたのはシュネーだった。

「イーオスさん、だっけ……。とりあえず、治療するよ」立ち尽くすイーオスのもとへ近づく。悔しそうに歯噛みした彼女は、傷を押さえながら小さく頷いた。それを合図に、他の大人たちも動き始めた。

「お前たちは先に帰っておきなさい。母さん、手伝ってくれ」「わかったよ」アスールの父と母は、ヴェルメリオの言を実行しようと、一目散に街へと走っていった。

「こいつは、俺が見ておこう」脱ぎ捨てられたロストリスの前に屈み込んだジェミニに、イーオスは目礼だけを返した。

「アスール、お前たちは帰れ」

 ジェミニは、兄妹のほうを見ずに告げた。常よりも低く、腹の底から絞り出すような声だった。

「お前たちにできることは無い。家で大人しくしていろ」整備をする時とは違う厳しさを滲ませた瞳。鋭い眼光は、ひたすらにロストリスを見つめている。

「お兄ちゃん、行こう?」

 ローゼが不安そうにアスールの手を引く。

 しかし、アスールは動かなかった。ただ、迷い子のような表情で、ジェミニの横顔をじっと見つめている。

  その視線に耐えかねたのか深いため息とともに、ジェミニはアスールに告げた。

「アスール、お前の役目は妹を守ることだろう」

 嗄れた声が鉛のような重さをもってアスールの耳に響く。相変わらずジェミニの目線はアスールと交わることは無い。

「……」

 アスールは何も言わなかった。ただ唇を引き結び、ジェミニの皺深い横顔を見つめるだけだった。その瞳の奥底では、春風に揺れる薄花の穏やかさがなりをひそめ、夏の西日を受けて生命を燃やす千種の苛烈さがさまざまと浮かんでいた。

 その視線を受けてなお、ジェミニは少年に顔を向けることはなかった。まるで、その激情に飲まれることを危惧するように、ひたすらその両目はロストリスへと向いていた。

「お兄ちゃん……」

 か細いローゼの声が、アスールの気をひく。妹の揺れる声音が、アスールの身体に絡みついた。ぐちゃぐちゃと言葉の断片が飛び交うアスールの思考に、ローゼの声が入り込み、兄としての役目を思い出させる。

「ふ……」

 アスールは天に向けて息を吐き出し、妹へと目を向けた。

「帰ろうか、ローゼ」

 その目は、いつもどおりの優しい兄のものだった。



 ジェミニの整備場から自家へと戻りながら、アスールたちは頭上の轟音を他人事のように聞いていた。

 少年は、ただ前を向いて歩いていた。まるで見えない何かから逃げるように、妹の手を引いて足早に道を歩いた。

 両親の知らせを聞いたのか、ワートゥルのあちらこちらでは黒い十字を描いた白旗がはためいていた。素知らぬ顔で揺れる旗の下、心配そうに寄り添う夫婦や、好奇心に目を輝かせる若者が、天頂で行われている攻防を見つめている。

 住民たちの常ならぬ様子に、ローゼが落ち着きなくきょろきょろと辺りを見回した。足元が疎かになっているのか、時折身体がつんのめっている。妹のそんな様子を掌越しに感じながら、アスールはそれでも速度を落とすことなく歩き続けた。

「あれ……!」

 止まることなく進む兄妹の耳に、観客たちの悲鳴が聞こえた。空を見上げていた夫婦の1人が口元を覆っている。それにつられ、アスールが空を見上げると、機体の一部から白煙が上がってるのが見えた。よく目を凝らすと、その機体は、ヴェルメリオのものだった。

「まさか……」

ローゼも気がついたようで、兄の手を無意識に握りしめていた。白煙を上げる機体は、かろうじて姿勢を保ちながら、敵機から逃れている。もう一機が援護しながら、ヴェルメリオの機体を敵機から離そうとするが、余りにも敵機が速すぎる。

『ローゼ、これだけは覚えておきなさい』突如、ローゼの脳裏に、家庭教師のリヴァの言葉が蘇った。

『「始まりの日」から幾百年、暗黙の了解とも呼べる不可侵の掟がいくつか作られた。それらを破ればどうなるか、それはもう教えたね。だから、皆、決してこれらの掟を破りはしない。そんなことをすればどうなるかは、目に見えているからね。

『だがね、あくまでそれらは「不可視の」掟なのだということを十分覚えておきなさい』

 ローゼは体の震えを抑えることができなかった。

「お兄ちゃん、リヴァが言ってたの。『中立』なんてものは、所詮、暗黙の掟なんだって」

 この頭のいい兄妹は、その一言で同じ結論にたどり着いた。たとえ、中立を謳い、その旗を掲げる街であろうと、軍人であるヴェルメリオを受け入れ、機体を直したことは事実。それを知れば、エストという国に属していると思われても仕方がない。「口約束」というものが如何に儚いものかを、この兄妹は幼い日に嫌という程、実感してしまっていた。

 ローゼの震えがいっそう大きくなるのが、アスールにはわかった。先程まで隣で笑っていた相手が死んでしまうかもしれない恐怖、そして、次の標的が自分たちになるかもしれない恐怖が、ローゼの全身を震わせていた。

 かたかたと温度を無くしていく妹の小さな手を強く握りしめた。

(僕は、ローゼの兄だ。兄の役目が妹を守ることなら、僕がやることは決まっている)

 アスールは、ローゼと視線を合わせるため、膝を折った。妹の両肩に手を置き、いつもの優しい兄の顔で、ローゼに告げる。

「ローゼ、お前は先に家に戻るんだ。いいね」

 優しさの中に有無を言わせぬ圧を含ませる兄に、ローゼは困惑した。

「どうして?一緒に帰ろうよ」

「ローゼ、聞き分けてくれ。僕はやっぱり戻らなきゃ」

 その一言に、ローゼは兄のやろうとしていることを理解した。

「どうして!?お兄ちゃんじゃなくてもいいはずよ!」兄を必死に引き留めようと、瞳に涙を浮かべながら叫ぶ。

 妹の必死の懇願に、アスールは諦めたような笑みを浮かべながら、静かに告げる。

「そうだね、僕じゃなくてもいい。でも、あそこは僕の居場所で、ここにはお前がいる。ここは僕たちの故郷なんだよ」

 その言葉に、ローゼは二の句を継ぐことができなかった。

(あぁ、お兄ちゃんはまだ……)

 兄の揺らぎない瞳をそれ以上直視することができず、ローゼは目を伏せた。

 しばしの沈黙が、兄妹を包み込んだ。それは身の置き所のない沈黙だった。アスールの決意とローゼの寂寥は、決して相容れることなく、妥協することなく、互いを見つめ合っている。下を向いているローゼにもそれがわかり、余計に歯噛みしたい思いに駆られた。けれども、兄の頑なな意思――ある種の思い込みと言ってもいいのだろう――を、覆す術など、幼いローゼの心に思い浮かぶわけもなかった。

「……帰ってくるって約束してくれる?」

 ポツリと、二人の間に少女の呟きが零れ落ちる。アスールは僅かに目を見開くも、すぐに柔らかな、それでいて済まなそうな表情で、ローゼに優しく言って聞かせた。

「あぁ、僕は、約束を守るよ」

 そう言い残して走り去るアスールを、ローゼはもう引き止めることはしなかった。

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銀鼠、白練、海碧 淡朽 不言 @iwanun

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