第6話 異変


 ヴェルメリオがチェックフライトを終えた頃には、水平線の向こうから太陽が完全に姿を現していた。

 新たな一日を迎える支度を始めた住民たち。存在を主張し始める朝緋あさひによって空の濃紺が薄められていくにつれて、家々から立ち上る白い煙が増えていく。

 早朝の澄んだ空気と静寂が支配していた水路に、住民たちの生活音が響き渡り始める。そんな日常の奏でを聞きながら、紅の青年は入り組んだ路地を足早に進んでいた。昨夜のうちに纏めた荷を取りに、アスールの家へと戻っているのだ。

 細い路地を抜け、朝日を反射した乳白色に輝く家を見つける。その正面にはめ込まれた木製の戸をゆっくりと開けると、アスールの母の鼻歌が途切れとぎれに聞こえてきた。廊下を抜け、リビングを覗くと、アスールの父親が難しい顔で日報ツァイトに目を通している。

 息を一つ吸い込み、ヴェルメリオはリヴィングに足を踏み入れた。

「おや、お帰りなさい」

 帰宅した青年に気付いたアスールの父が声をかける。アスールの母も鼻歌を止めて、手を拭いながらキッチンから顔を出した。

「お帰り。どうだったんだい?」

 ヴェルメリオはチェックフライトの結果を二人に伝えた。

「無事、成功しました。今日、これから出発しようと思っています」

 青年の急な申し出に、二人は驚いた顔を見せた。「あら」「なんと」しばし互いの顔を見合わせた両者だったが、その表情はすぐに柔和な笑みへと彩られた。

「それは良かった」

「本当に。無事、発つことができるのね」

 この言葉に、今度はヴェルメリオの目が丸くなった。人懐こい兄妹と違い、この二人からは大きな配慮と少しの警戒心を感じ取っていたのだ。

(見ず知らずの人間がいつまでともわからぬまま家を間借りするんだ。警戒しない方がおかしい)

 いくら詮索されないとはいえ、ヴェルメリオも自ら己の素性を語ろうすることは無かった。その微妙な距離感から生じる少しの不信と警戒心を、青年は甘んじて受け入れていたのだが、どうやら時がたつにつれ二人の瞳からその色がなりつつあったことには気が付かなかったらしい。

 アスールの両親とて、予期せぬ事態にみまわれ、見知らぬ土地で暮らすこととなった青年のことを心配していないはずは無かったのだ。無事、青年を旅立たせてやれると確信し、二人はヴェルメリオに祝福の言葉を送った。ヴェルメリオもまた、その寛大な処置にあらためて感謝の念を返した。

 そして、青年が別れの挨拶を済ませようと口を開いた時、何事かと兄妹たちが眠い目をこすりながら階段を降りてきた。

「おはよう。どうしたの」

 間延びした声でアスールが三人に問いかける。

「おはよう。ヴェルメリオさんが出発らしい」

「フライトが上手くいったそうよ」

 起き抜けに聞かされた別れに、二人は目を丸くした。

「今日?これから?」

「もう行くの?」

 先程までの呆けた様子から一転して、兄妹は矢継ぎ早にヴェルメリオに問いかけた。

「あぁ、世話になったな」

 優しい笑みを浮かべるヴェルメリオに、幼い兄妹は唇を尖らせながら声を揃えて見送りに行きたい、と言い張った。

 「見送りに行くくらいはさせてよ」少し眉を下げた二人の表情に、ヴェルメリオは言葉に詰まった。それでもなんとか兄妹を諭そうと口を開きかけたとき、意外なところから賛同の声があがった。

「そうね。見送りくらいは、行きたいわね」

「もし、お邪魔でなければ、ぜひ見送りに行きたいのですが、どうですかな?」

 四人に見つめられた青年は、溜息を吐きながら了承の意を伝えた。歓声を上げる兄妹と支度をする両親。はしゃぐ彼らを、ヴェルメリオはどこか渋い顔で見つめていた。それは、湧き上がってくる何かを抑えようとするような、そんな表情だった。


 太陽が群青を鮮やかな蒼に塗り替えた頃、アスール一家とヴェルメリオはジェミニの整備場に集まっていた。相変わらずただ広い空間に、整備したての飛行機が一機だけぽつんと佇んでいる。

 青年の飛行機の周りでは、兄妹たちが目を輝かせながらくるくると羽の付け根や車輪を観察している。その隣では、大人たちがこれからの旅程について相談していた。

「こっから北東に行けばそう遠く無いところに補給地があるから、行くならそこだな」

「これ、道中食べてくださいな。朝食の残りで悪いんだけどね」

 着々と出立の段取りが整えられていく気配に気が付いたのか、無邪気に機体の周りを歩き回っていたローゼがぴたりと立ち止まった。

 暗い表情を湛えた彼女は、アスールの裾を控えめに握った。どうやら、まだ気持ちの整理がついていないらしい。

「きっと、また来てくれるよ」

 いつもの元気を失った妹に少し戸惑いながら、アスールが慰めの言葉をかけてやる。しかし、裾を掴む力がいっそう強くなるだけで、いっこうに顔を上げる気配が無い。

 アスールはやる瀬の無い溜息を吐いて、海の方へと目を向けた。

 さらりと小刻みに揺れる海面。その波間に落ちる太陽光が四方に反射して、いっぱいの真珠を宙に放り投げたときのような輝きを放っている。ちかり、と白色光がアスールの瞳を刺した。

 反射的に瞳を閉じるアスールだったが、未だに瞼の裏で赤い光が明滅してなかなか瞼を上げられない。そんな少年のまろい頬を、穏やかな海風が撫でた。まるで幼子を宥める様に頬を滑る潮風に、アスールは意識的に瞼を下ろしたまま首を少しだけ横に倒した。

 風を感じるとき、アスールはいつも水路を思い浮かべる。さらさらと通り過ぎて行く空気の流れが幾筋もの水路を作り、悠然と流れ行く。さながら、ワートゥルを流れる水路のように、大路小路おおじこうじが複雑に絡み合い、混じり合い、また離れゆく。 

 ふと、その「水路」に小石が投げ入れられた。

 わずかに風の流れを乱す、微かな違和感。

 それを、アスールは肌で感じたのだ。その違和感のもとを探そうと、アスールは目を開いた。きょろきょろと忙しなく首を動かし、辺りを見回す。

「お兄ちゃん?」

 兄のおかしな様子に伏せていた顔を上げ、ローゼは首を傾げた。それにも反応を示さず、アスールは違和感のもとを辿る。

(何だろう…。上…?)

 直感的に、アスールは空を見上げた。鮮やかな青の平原の中、不安定な黒い鳥がこちらへ飛んでくるのが見えた。

 「あれ!」アスールの叫びに、大人たちが一斉にそちらを向く。徐々に近づいてくるそれは、鳥ではなく鋼鉄の翼を背負った人間だった。背中に背負った鉄の塊はアスールの旧式ヒルンドに似ているようだが、翼の形が若干異なっている。腕を直接翼に固定して操作しているようだが、姿勢が安定していないのか先ほどからぐらぐらと身体が左右に振れている。

「あれは…」

 真っ先に事態を察したシュネーとジェミニが着陸を促す手信号を送る。その間に、ヴェルメリオはアスールたちをできるだけ着陸の軌道から離れた場所へと誘導した。

 鋼を背負った人間が、速度を保ったままこちらへ近づいてくる。しかし、その姿勢は依然として不安定なままだ。

「速度を落とせ!」

 エンジン音に掻き消されて聞こえないのか、操縦士は一向に速度を落とす気配がない。

「それでは届かない」

 いつの間にジェミニの隣に来ていたのか、ヴェルメリオがいくつかの手信号を操縦士に送る。そのメッセージを正確に受け取った操縦士は、エンジンを落とし着陸態勢に入った。腕を上下に動かして、ジェットエンジンから噴射される気流を操作しながら、ゆっくりと降下する。まるで束の間の休息を行おうとする渡り鳥のように、操縦士は静かに地面へと降り立った。

 「きれい…」ローゼの口から、思わずそんな呟きが零れ落ちた。

 鋼鉄の翼と重苦しいエンジン音を意識させぬ程、その着陸方法は優雅で、美しかった。彼女の両親や兄も、ただ一人を除いて、その場にいる全員がその操縦士を呆然と見つめていた。

 しかし、突如として響いた何か硬いものが地面に叩きつけられる音に、全員の意識が蘇った。操縦士が、着地の優雅さとは裏腹に、乱雑に背中の装備を取り外し始めたのである。がしゃん、という音と共に、傷だらけの翼が地面に落ちる。最後に頭の装備を外すと、その中からふわりと金色に輝く長髪が零れ落ちた。

 金糸雀を思わせる髪を一つに縛った操縦士は、凛とした空気を纏う女性だった。

「隊長!」

 少し低めの張りのある声が響く。彼女は、頭の装備を小脇に抱えながら、自身の金糸を閃かせ、ヴェルメリオの目前で背筋を伸ばした。

「やはりイーオスか。何があった」

 どうやら、ヴェルメリオの知り合いらしい。小走りに青年の元へ近づいた女性は、額に左手を掲げて敬礼すると、切羽詰まった声で現状を報告する。

「ラスカス少尉が敵機と交戦中です。至急応援を」

「何機だ」

「新型の高速特化型飛行機リヴィア一機です」

 彼女の返答にヴェルメリオの表情が曇る。眉間にしわを寄せた難しい表情のまま、青年はアスールの父親の方へ振り向き早口で尋ねた。

「この街は『中立』ですね」

「え、えぇ」

「では白い布…防風套ルランでも構いません。それに十字を書いて高台へ。各家屋にもできるだけその旗を掲げさせてください。決して外には出ないように」

 いったい何が起こっているのかわからないまま、アスールの父は呆然とその指示を聞く。

「すまないが、彼女の治療をお願いしたい」

 シュネーに、緊急事態を告げた女性―イーオスの治療を頼む。だが、イーオスは釣り目気味の勝気なみどりをいっそう釣り上げて強く反発した。

「お言葉ですが、私はまだ飛べます。ロストリスにも問題はありません」

 先程地面に脱ぎ捨てられた傷だらけの装備を見ながら伝える。

「被弾しているだろう。足手まといだ」

 イーオスの左足と右肩を見て、ヴェルメリオは彼女の進言を短く両断する。確かに、ヴェルメリオが指摘した場所に赤い染みがじわりと滲み出ていた。

「しかし…!風読み無しで高速特化型飛行機リヴィアに対抗するおつもりですか!?ただでさえ隊長の機は…」

 顔を歪ませて被弾箇所を押さえながらも、なお食い下がろうとするイーオスにヴェルメリオは鋭い視線を投げ返す。

「しつこいぞ」

 鋭利な刃を思わせる銀灰が、イーオスにそれ以上の反論を許さなかった。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 先程から呆然と二人の会話を聞いていたアスールの父親が間に入る。

「どういうことですか?交戦って…。それに、今隊長とおっしゃいましたが、ヴェルメリオさん、あなたは一体…」

 しかし、彼の言葉はそこで途切れた。琴、という甲高い音が響いた次の瞬間、豪、という風と共に、黒光りする機体が上空を横切ったのである。その一機以外に、他の機体は見当たらない。

「嘘でしょ…、兄さん」

 イーオスが驚愕の顔で共に行動していた兄―ラスカスの機体を探す。すると、かろうじて後ろを取られまいと、灰色の機体が雲間を滑るように移動しているのが見えた。

「ああいうわけだ」

 二機の交戦を横目にヴェルメリオはアスールの父に語りかける。

「申し遅れたが、私はエスト軍第七航空部隊隊長ヴェルメリオ・シルヴァ大佐だ」

 凛とした敬礼を見せるヴェルメリオにアスールたちは驚愕の目を向けた。


「大陸の…軍人だったのですか…」

 零れ落ちたアスールの父の言を無視し、ヴェルエリオは険しい顔で行動を促す。

「時間が無い。早く指示通りに動いてくれ。あとは、こちらがどうにかする」

 そう告げて自身の機体に乗り込もうとするヴェルメリオを、ジェミニが呼び止める。

「待て!あんたの機体の燃料の少なさは今朝、説明しただろう。それにその機体はあくまで移動用のもんだ。搭載されてる銃も護身用程度。そんな機体で、しかも交戦までするには誰が考えたって危険すぎる…!」

「危険は百も承知。しかし、私は軍人だ。敵の襲撃に応戦しない道理は無い」

 軍務を全うしようとするヴェルメリオの姿は、軍人にとってはまさに『鑑』と評すものだろう。だが、平和なワートゥルの住民にとっては、自殺行為としか思えないものだった。

 男二人の睨み合いが続くかと思われたが、凛とした声が間に入った。

「風なら僕が読む」

 変声期を迎えていない声が、両者の鼓膜を震わせる。

「僕なら読める」

 真っ直ぐな薄花色の瞳が、ヴェルメリオを射抜いた。その視線を真っ当に受けながらも、ヴェルメリオは鋭く言い放つ。

「馬鹿を言うな。あの時とは違う」

 いくら損傷したヴェルメリオの機体を上手く着水させたと言っても、実戦となれば話は別である。最悪、命の奪い合いになりかねない状況に少年を駆り出すなど、ヴェルメリオにとっては選択肢の一つにも無かった。

「それよりも父親を手伝ってやれ。『中立』の旗を立てている限り、安全だ」

「でも…!」

 なおも食い下がろうとするアスールを、ヴェルメリオの威厳を持った声が一喝する。

「何度も言わせるな。少年、お前はお前の役目を果たせ」

 それに気圧され、何も言えなくなったアスールを確認してヴェルメリオは今度こそ自身の機体に乗り込んだ。

「では、頼みましたよ」

 そう言い置くと、青年は素早くハッチを閉じ、勢い良く大空へと飛び出した。

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