第5話 試行

 夜明け前のワートゥルは、日中の賑やかさがなりを潜め、静寂に支配されていた。普段は家々の明かりに照らされた遊歩道も、いまは等間隔に設置された街路灯が、剥げたタイル模様を照らし出すばかりだ。そのぼうとした光源の中を、ヴェルメリオは深々しんしんと歩いていた。

 片手に燻らせた煙草を口に押し当てる。空を見上げ、数千という星の瞬きと目を合わせると、「上々だな」とヴェルメリオは満足気に呟いた。

 こつり、こつりと緩慢に歩くヴェルメリオを包み込むのは、昏い青を湛えた水塊の、漸、という潮騒。余所者そとものの青年は瞳を閉じながら、辺りを満たすそれに耳を澄ませた。

(なんとも、可笑しな街。)

 ふと胸に込み上げた感傷を、ヴェルメリオは吐息と共に放り投げた。

 ヴェルメリオの故郷である「エスト」は、広大な土地と巨大な都市を抱えた国である。そこで生まれ育った年若い青年にとって、水と共に暮らす生活は新鮮なものであった。目が眩むほどのアクアブルーに囲まれた朝も、鱗の輝きに目移りしながら市場を歩き回る午後も、規則正しい波音ともに眠る夜も、すべて彼が過ごしたことの無い生活であった。

 しかし、ヴェルメリオの笑みに含まれていたのはそれだけでは無い。ワートゥルの住民たちが見せた「受容」の態度こそ、彼の日常から最も縁遠いものだったのだ。

 狭いコミュニティが他者に対して攻撃的あるいは排他的になってしまうのは世の常であるが、ワートゥルの街は違っていた。彼らはヴェルメリオを「客人」として迎え、日常の風景の一つに溶け込ませた。警戒心を露にするどころか、何食わぬ顔で彼らは滞在者との日々を楽しんだ。

 アスールやローゼら子どもたちも、無邪気にヴェルメリオを信じて懐いた。時折街の子どもらに勉強を教えるヴェルメリオを、親たちが微笑ましく見守っていることも珍しくなかった。

 特に、兄妹とヴェルメリオが仲睦まじく市場を物色する姿は、家族と言われても違和感がないほどに馴染んでいた。シュネーなど、『おや、いつのまに三人兄妹になったんだい』と含み笑いしたほどだ。

 なぜここまで自然に余所者を迎え入れることができるのか、一度ヴェルメリオはジェミニに尋ねたことがある。彼からの答えはただ一言。

『そういう街なのさ』

 それ以上尋ねようにもジェミニは意味有りげな笑みを見せるだけであった。しかし、ワートゥルでの生活に馴れていくにつれ、ヴェルメリオにもこの言葉の意味が何となく理解できたような気がした。確かに、ここは「そういう街」なのだ。

「全くおかしな街だ」

 今度ははっきりと笑い交じりに悪態をつきながら、再度ヴェルメリオは煙草の煙を吸い込んだ。程よい苦みと共に、ワートゥルでの日々が彼の脳裏に浮かんでは消える。そして、自身がワートゥルに留まることとなった最初の出来事を思い出し、ヴェルメリオは足を止めた。

(そう言えば…)

 死を覚悟したあの時。死ぬことを恐れながらも、本気で自分を助けようと飛んだアスール。身の丈に合わぬ旧式ヒルンドを背負いながらも、勇敢な少年は見事に風を読んでみせた。

(まさか、こんなところにあんな奴がいるとはな)

 ヴェルメリオの脳裏に、薄花色の瞳と鴉の濡羽色の髪を携えた幼さの残る顔立ちが思い浮かぶ。

(最初は『計算』かと思ったが…。あれは『天然』だろうな)

 思案気に首の後ろに手を回しながら骨関節を鳴らす。思い浮かぶ一つの可能性。

「惜しい、と言えば惜しい…。が、許されんだろうな」

 諦念を含んだ呟きを漏らすと、ヴェルメリオは短くなった煙草の火を手袋をはめた掌で握りつぶした。暫く、その握りこぶしを見つめて、ヴェルメリオは立ち尽くした。

 やがて彼が拳を開いたとき、手袋には灰の黒い跡と煙草の残骸が散らばるだけで、火種は既に消えていた。

「全く、難儀なもんだ」

 肩をすくめながら、ヴェルメリオは未だ眠りの中にある街をまたゆっくりと歩き始めた。


 整備完了の知らせとともに、ヴェルメリオはチェックフライトに赴いていた。ジェミニの工場は、相も変わらず大きな敷地にぽつんと寂し気に佇んでいる。その敷地内には、ヴェルメリオの飛行機一機だけが澄ました顔で置かれていた。修理可能と判断したジェミニが、水路を利用してこの整備場まで運んできたのである。以来、何度かヴェルメリオも様子を見に来ていたが、主翼と尾翼が取り外されたり、鋼の外皮を一部取り外して再度溶接したりと、作業工程はなかなか飛行機好きには堪らないものだった。しかし、今日の機体は外皮も翼も正常に取り付けられている。

 未だに細かい調整があるようで、ジェミニとシュネーは機体の周りをうろうろと歩き回っていたが、ヴェルメリオの到着に気付いたらしいシュネーが欠伸をしながらヴェルメリオのもとへ近づいてきた。

「やあ。どうだい?」

「あぁ、良い仕事だ」

 機嫌良さ気に佇む機体を見ながら、ヴェルメリオが返事をする。彼の銀灰の瞳には満足げな光が浮かんでいた。

「見直しただろう?」

 シュネーがにやりとしながら質問を重ねる。どうやら、当初のヴェルメリオの不信感をシュネーは見抜いていたようだ。ヴェルメリオは苦笑いを返しながら曖昧に頷く。それを見て満足したシュネーがジェミニを呼んだ。

「おーい。来たよー」

「おう。こっちに来てくんな」

 ジェミニに呼ばれ、機体の元へ近づくと丁度最終確認が全て終わったところの様だった。

「機体自体はもう大丈夫だ。エンジンも翼も正常通りに動くだろうさ」

「そのようですね。ここに来て思わず見惚れてしまいましたよ」

 ヴェルメリオの褒め言葉にジェミニが複雑そうな顔をする。時々するジェミニのその表情に、最初は何か気に障ることがあったのかとヴェルメリオは思っていたのだが、シュネーが忍び笑いをする様子に、それが照れ隠しだということがついこの間判明した。例に漏れず、シュネーがジェミニの後ろで、さもおかしそうに口元を痙攣させている。

「機体自体の状態は良いんだがな」

 咳払いをしながらジェミニが説明を続ける。

「燃料が無いんだ。この街に来る飛行機は、せいぜい近くの島から来るもんだ。可能な限りで今ある燃料を入れてはみたが、それほど長い距離は飛べんだろうよ」

「十分です」

「補給地があるとこまでは持つだろうさ。あそこなら、嫌な顔もされないだろうしね」

 飛行機の種類によっても異なるが、ほとんどの飛行機の燃料タンクは左右の主翼とその付け根の胴体の一部に搭載されている。例に漏れず、ヴェルメリオの機体もそのような構造となっていた。そのため、主翼を大きく損傷した機体は、燃料漏れを引き起こし、着陸時には燃料が底をついた状態だったのである。

 飛行機の燃料量は、その飛行距離によって様々である。長距離飛行のために必要な燃料量はその日の天候、自重、飛行距離といった様々な条件が加味され、離着陸を含む全てに必要な消費燃料とトラブルのための予備燃料を足した全体の燃料量が綿密に決められる。そのため、自重によって機体に付加がかからないように、基本的に燃料タンクを満タンにして飛ぶことはほとんど無く、多くとも燃料タンクの8割程を満たす程度である。とはいえ、長距離飛行に必要な燃料量はワートゥルまでの道のりで出会った整備士たちが思わず顔を歪めてしまう程である。

「その顔じゃ、心当たりがあるみたいだね」

 眉間に皺をよせたヴェルメリオを、シュネーが悪戯気に指摘する。

「まぁ、何はともあれ後は無事に飛ぶかどうかだけだ」

 シュネーの頭を小突きながら、ジェミニが告げる。

「そのためにここに来ましたから」

 ヴェルメリオは再度、自身の機体に目をやった。機体全体を鋼の外皮が包み込み、三つの尾翼が凛とした姿勢で機体に取り付けられている。飛ぶのに重要な役割を果たす主翼は滑らかな曲線を描きながら、今か今かと己の役割を果たす時を待ちわびているようだった。

 朝日によって照らし出され美しい陰影をつけた機体を見れば、二人の整備士がどれほど丁寧に整備を行ったのかがよく分かる。

「さて、飛ぶかい?」

 ジェミニの声にヴェルメリオは一つ頷くと、機体に足をかけ操縦席に滑り込んだ。

 ヴェルメリオは、久方ぶりに目にする光景に目を細めた。

 人一人分しか余裕の無い狭い操縦席。所狭しと取り付けられた数々のメーター。閉じたハッチを覆う、雲一つない快晴の空。

 硝子から差し込む柔らかな日差しが、ヴェルメリオの全身を包み込む。

 機体の隣に立つジェミニが、親指を立てながら発進を促している。ヴェルメリオはゴーグルを装着し、目の前の操縦桿を握った。

 手袋越しに伝わる冷たい金属の感触。

「エンジン始動」

 聞き慣れたエンジン音が、ヴェルメリオの鼓膜を振るわす。それと同時にコックピット内の機器たちに命が吹き込まれた。メーターの針が小刻みに動き始め、一斉にランプが点灯する。

「天候良し。前方障害物なし。エンジン音異常なし。燃料十分。オールクリア。」

 機体の状態を確認するバリトンがコックピット内に響き渡る。

 「さあ、テイクオフだ」前方にあるのは、ただ広いだけの空間のみ。機首に取り付けられたプロペラが回り始める。操縦桿が重くなるのを確認して、ブレーキをゆっくりと外す。すると、巨大な鉄の塊が緩慢に動き始めた。びりびりとした振動が直接ヴェルメリオの肌に伝わる。徐々に加速し始める機体に合わせて、手元の操縦桿をゆっくりと手前に引いて行く。

 緩やかに機首を傾ける機体。

 操縦席に無理矢理押し付けられる馴染んだ感覚。

 その既視感と同時に、目の前に広がる勿忘草色の空へと勢い良く機体が飛び出した。

 鮮やかな青に視界を奪われ、ヴェルメリオは呼吸を止めた。朝日に照らし出された水平線が、見事な弧を描いている。操縦桿を揺らし、姿勢を安定させる。がしゃん、という車輪の格納音とともにランプを確認すると、全てが鮮やかな新緑の色に揃っていた。

「ふぅ…」

 無事に機体が空へ繰り出したことを確認し、ヴェルメリオは止めていた息を吐きだした。


 二、三、旋回を繰り返し気持ち良さげに飛ぶ飛行機を見て、シュネーとジェミニも止めていた息を吐き出した。二人は無言で数秒間互いを見つめると、何も言わず拳を突き出すだけで労を労った。

 着陸態勢に入る機体を確認し、シュネーが手信号で進路を示す。その指示に従った機体がゆっくりと舞い降りてきた。ぎぃ、という着陸音とともに、先程と同じ場所に行儀よく機体が収まった。

「問題なしだ」

 ハッチを開けて告げられた操縦士の言葉に、再度ジェミニとシュネーは互いの顔を見合わせ、笑顔を作った。

「それは何よりだ」

「えぇ、これならすぐ出発することができます」

 想像以上に満足だった様で、笑みを浮かべながらジェミニとシュネーの仕事ぶりにヴェルメリオは改めて感謝の念を述べた。

「もう出て行くのかい?」

 シュネーが驚いたように問いかける。

「今日は絶好のフライト日和ですから」

「子どもたちにも挨拶だけはして行けよ」

 今にも飛び出して行こうとするヴェルメリオに、ジェミニが釘を刺す。

「どうせ、荷物を取りに行ってアスールの父親たちに挨拶をすればそのまま出て行くつもりだったんだろうが、子どもたちにも声を掛けてやりな。でないと、あんたの『弟』が拗ねるぞ」

「あまり柄じゃないんですけどね」

 目を右往左往させながらジェミニに進言するが、老成した整備士の鋭い瞳にヴェルメリオは諦めに満ちた溜息をつく。思案するように自身のダークレッドの髪を掻き回し、ヴェルメリオはジェミニたちに背を向けた。

「出発する時は、声を掛けておくれよ」

 シュネーの言葉に片手をひらりと揺らしながら、ヴェルメリオは整備士たちの前から去って行った。

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