第4話 襲撃
ヴェルメリオの一ヶ月は穏やかに過ぎ去った。当初こそ異邦人であった青年も、藍が白い布地を深い青に染めて行く様に、ワートゥルの街に馴染んでいった。ある時は船頭とカヌーを漕いでみたり、ある時は漁師と魚をとってみたり、またある時はアスールやローゼたちに勉学を教えてみたりと、退屈しない日々の中で、ワートゥルの住民たちもまた寛容だった。市場で買い物をすれば旬の魚や貴重な野菜を譲ったり、街の地理を教えたりと、外者の青年を暖かく迎え入れる島民たち。彼らの気質を、アスールの父は「私たちの街の約半数は、外から流れついた者ですから」と語った。
ワートゥルは、ほとんど国境に接するような場所に位置する、最果てと言っても過言ではない街である。それゆえに、都市部から徐々にこちらへと流れてくる者たちが、最後に辿り着く街でもあった。
流浪の彼らは、踏み込まれることを好まない。
踏み込むことを恐れ、下を向きながら生きることを日常だと思っている彼らに、ワートゥル民たちも、決して踏み込まず、押し付けず、さりげない優しさを差し出すだけの精神が育まれていた。そのため、この一ヶ月で住民たちとヴェルメリオは絶妙な距離を保ちながら、心地よい関係性を築くことができたのだ。
だが、ジェミニの一言により、その関係も終わりを告げることとなった。
「明日、修理が終わるよ」
港で釣りをしているヴェルメリオに、ジェミニが知らせた。
「燃料を入れて、チェックフライトさえしてくれりゃ、もう大丈夫だろうよ」
急な知らせに隣に座っていたアスールは目を丸くしている。釣り竿の先端が上下しているが、アスールの手が動く素振りは無い。
「そうですか。ありがとうございます」
アスールのその様子を横目で見つつ、ヴェルメリオは謝辞を述べる。
「出発はいつにするんだい?」
「チェックフライトが終わってからとなると、明日の午後一番ですかね」
「そうかい」
淡々と進む会話に、アスールが声を上げる。
「そんなに早く?荷物の準備はどうするの?」
「もともとそんなに多くも無い。すぐに終わるさ」
宥める様にヴェルメリオが答えた。
「でも…」
なおも言い募ろうとするアスールに苦笑しながら、ヴェルメリオはゆっくりと言い含める。
「もともと旅行者のつもりだったんだ。これくらい潔い方が、別れを惜しまずに済む」
その言葉に口を噤み、先より激しく揺れ動く竿を引こうと目を逸らしたアスールだったが、納得していないことは両者の目には明らかだった。子どもらしく拗ねた表情に、大人たちは目を見合わせ、苦笑した。
「この一ヶ月でえらく馴染んだもんだな。まるで兄弟みたいじゃねぇかよ」
「それ、もう五回は言われましたよ」
そこまでの自覚もないヴェルメリオは、そう言われる度にむずがゆい様な感覚に襲われていた。
「住民全員が言ってるぜ。あんな気さくな旅行者は初めてだってよ」
ワートゥルに流れ着く人間は、何かしらの『流浪せざるを得ない理由』を持っている。それは、目の光や、立ち姿、あるいは話し方に無意識的に表れるものであるが、ワートゥルの住民たちはそれを敏感に察知する能力に長けていた。だからこそ、そんな『理由』らしい『理由』を持たずこの街に現れた気さくな青年は、住民たちにとって稀有な存在であったらしい。
「それは、嬉しいですね」
「あぁ。だから挨拶ぐらいはしてやってくれや]
何も言わずに去ろうとする青年に、最後に釘を刺してジェミニはその場を離れた。ゆっくりと遠ざかる整備士の背中を見送りながら、ヴェルメリオは苦笑を漏らすことしかできなかった。
(参った)
何も言い置かず去るつもりしかないのは、彼の表情から明らかであった。
すると、今まで口をつぐんでいたアスールが勢いよく立ち上がり、釣り竿を片付け始めた。
「釣りはもう飽きたか?」
突然の行動に少し目を見開いたヴェルメリオに、アスールは恨めしげに言い放つ。
「違うよ。明日行くなら母さんたちにも言わないと。今日は、最後のご飯だからね」
口を尖らせながら矢継ぎ早に告げると、アスールは荷物を背負って駆けて行ってしまった。一人取り残されたヴェルメリオは、空のバケツに目をやり、釣竿を足元に固定した。胸ポケットから煙草を取り出し、それに火をつけて何度か煙を吐き出す。
眼前には、どこまでも広がる紺碧。それを自身の銀灰に映し、ヴェルメリオは思案にふけった。
―ここは、居心地が良すぎる
胸に去来する気持ちと裏腹に、彼の脳裏には自身を戒める言葉が巡っていた。己が役目も、義務も、使命も、すべてを放り投げてしまえるほどヴェルメリオも若くは無い。ふ、とため息交じりの笑みを零し、ヴェルメリオは瞳を閉じた。
鼓膜を揺するのは、無邪気な子供のように釣り竿と戯れる凪の海波。異邦の青年は、自身が夕暮れに飲み込まれるまで飽きることなく、その音に耳を傾けていた。
その夜、アスールの家ではヴェルメリオのための晩餐会が急遽開かれた。アスールの母は何種もの豪勢な料理を作り、父は別れの酒を振る舞った。兄妹たちは瞳に寂しさの色を湛えながらも笑顔でヴェルメリオとの最後の食事を楽しんだ。そして、ヴェルメリオもまた、アスールたち家族の優しさに感謝しながらそのもてなしを受け入れた。
「何から何までありがとうございました」
食事も終わり後片付けを行っているところ、ヴェルメリオは一家に再度感謝の言葉を口にした。その神妙な謝辞に、家族は目を見合わせ、眉を下げた。
「こちらこそ礼を言いますよ。あなたのおかげで楽しい時を過ごすことが出来た」
アスールの父が一家の総意を伝える。その言葉を聞いて、ヴェルメリオは目を丸くした。しかし、そんな青年の様子を気にした風もなく、礼の言葉は一つ、また一つと飛んできた。
「質素だったろうに美味しそうに料理を食べてくれたからねぇ」
「いっぱい話をしてくれたし、勉強まで教えてくれたわ」
「いろんな遊びに付き合ってくれたしね」
まるで異国語のように聞こえていた言葉も、意味が分かり始めるとじわじわとヴェルメリオを戸惑わせた。目をうろうろさせながら何かを言おうと口を開くも何も言葉にすることができず、ヴェルメリオはもごもごと意味の持たない単語を呟くだけであった。珍しく幼げな様子に、逆にアスールたちが目を丸くさせたが、母親だけは微笑みを浮かべながら全員に解散を促した。
「さて、明日も早いことだし、もう寝ましょう」
母のその一声に全員が動き始める。ヴェルメリオは先程の余韻を引きずりながら客室へと戻り、両親も各々の部屋で寝る支度を整え始めた。
一方アスールは、自室のベッドに座り、寂しげな顔をするローゼを慰めていた。
「仕方ないよ。ヴェルにだって帰る所があるんだ」「分かってるわよ」
兄を睨みながら、強気な言葉を返すローゼ。そんな妹の頭に、アスールは柔らかく手を置いた。その手は、振り払われること無く、柔い黒髪を二、三度と梳いてゆく。
「…ただ、もう少しお喋りしたかったわ」
少し震える声で呟かれた言葉をアスールは黙って聞いていた。やがてローゼが眠りに落ちるまで、アスールは優しく幼い妹の頭をなで続けていた。
ローゼが落ち着いた寝息を立て始めたのを見届けると、アスールは音を立てない様に静かにドアを閉め、自室へと帰った。ベッドに寝転びながらいつか聞いたヴェルメリオの話を思い出す。
『エストはほとんどが大陸だからな。土もあれば木もある。畑を耕し、家畜を飼う暮らしをする者もいれば、物を売って暮らす者もいる。中央に行けばもっと賑やかだ。多くの住民が通りを歩いて気に入った店に入る。日が暮れても明かりの灯る店で食事をする家族や、買い物をする男女で賑わっているんだ』
その話を聞いた時、アスールの胸に仄かな光が灯った。その光の中には、今まで自身が知ることのなかった美しい世界が広がっていた。その衝撃を受け入れることが出来ず、アスールの幼い心は、無理やりその光を打ち消したのだが、その光の残滓は、いつまでもアスールの胸の内に残り続けた。その消えそうな
ヴェルメリオが旅立ってしまう前に、アスールはもう一度自身の胸に灯る光へ意識を向けようと試みるも、その奥に目を凝らした瞬間、暗い夜の海へ身を投げ出すような、漠然とした不安に襲われた。激しく脈打ちだした鼓動が、耳の奥で荒波を立てる。だのに、淡い光はなおも光源を失うことなく、ふわりと心臓の奥のさらに奥へと侵入して先ほどとは毛色の違う鼓動をもたらし始めたが、高鳴る心音が何を意味するのか、アスールには理解することが出来なかった。
(明日、ヴェルを見送ればこの気持ちはきっと消える)
アスールはそう信じ、無理矢理に目を閉じた。
朝は、もうすぐそこまで来ていた。
♢
「進行方向、こっちで合ってるのか?」
水平線から朝日が顔を出し、海を白く照らし始めたころ、一機の飛行機が薄紫の空を飛んでいた。
「隊長からの手紙によればね」
ヒルンドよりも更に大きく硬質な翼を背負い、
彼らの下では、活動を開始した魚たちがゆっくりと尾びれを振っていた。広がっているのは一面の青い草原。島一つも見えないその光景に不安を覚え始めた操縦士の男は、もう一度口を開いた。
「隊長が間違えてるなんて可能性は無いよな」
「そんなことがあれば、隊長なんてやってないでしょ」
そっけなく返す女性に臆すること無く、男は噛みつく。
「いや、万一ってこともあるだろうよ」
「パイロットなのに自分の進路も把握できないなんて、兄さんくらいよ」
「勘弁してくれ…。この前のことは謝っただろ」
「謝って済むくらいなら、隊長が間に入ってくるなんてことないわよ」
徐々に雲行きの怪しくなってくる二人とは裏腹に、朝日が完全に姿を現して水面を真白に染め上げる。所々に、白い雲が優雅に散歩しているが、視界を遮るほどではなかった。そのためか、すっかり二人の言い合いは熱を上げ始めた。
「待て待て待て。勘弁してくれよ。俺だってまさか隊長まで出てくるとは思ってなかったんだよ。だいたいあの時、お前がそうやって突っかかってきたから…」
「ふん。自業自得でしょ。誠意も見せずに開き直ってたからそんなことになったのよ」
「助けてくれても良かっただろうがよ。俺はあそこで隊長に殺されるかと思ったね」
「私だって兄さんが相応の態度だったなら助けてたわよ」
言い合いが膠着状態に陥った二人は、ガラス越しに睨み合う。しばらくして、男の方が何か言おうと口を開いたとき、女が何かに気付いたように雲間へと目を走らせた。
「…どうした」
「何か来てるわ。速い」
先程までが嘘のように固い声で状況を確認し合う。
女は感覚を尖らせ、風を読む。
男は機体の外に目を走らせ、動く物を見極める。
相変わらず優雅な散歩に勤しむ白い雲。朝日に照らし出された水面。朝の静けさが支配する空の中、腹の底を唸らせる怒声が響き渡った。
「向こうの
女が叫ぶ。それと同時に、機体から発射された弾丸が空を駆け抜けた。間一髪でそれを避けながら旋回する鈍色の男の機体。
そのすぐ横を、加速した戦闘機が通り過ぎた。
厚いボディを通して伝わる風圧が、その機体の速度を想像させる。黒光りする滑らかな曲線を持った機体は、男を撃ち落とそうと向きを変えた。
「おいおい、ここは領空内じゃねぇのかよ」
「とっくに過ぎてるわよ」
雲に身を隠しながら逃げるも、敵機の銃弾が迫り来る。翼に銃弾が掠める音が聞こえた。じりじりと近づく射程距離に男は焦りの声を出した。
「風は!?」
刹那、風の波を感じた女は男に向かって叫ぶ。
「風の道が出来てる!このまま逃げ切るわ」
女の手信号と共に、男は両手で操縦桿を握り込んだ。直後、リヴィアとは違う類いの、豪、という音が男の機体の後方から放出されたと同時に、男の機体が一気に加速した。射程距離から逃げようともがく鈍色の獲物を、黒光りする鉄の獣が追従する。しかし一向にその距離は縮まらず、むしろ、男の機体の方が、
「よし、このまま離せるか」
男が一息つく。後方で点となった機体を確認し、女も胸を撫で下ろしたそのとき、その音は響いた。
まるで圧縮した空気が破裂したような音。
鼓膜を限界まで揺らした音の、その出所に真っ先に気付いたのは女の方であった。
「嘘でしょ。さっきより速度が上がってる」
後方を確認すれば、先程は点であったはずの黒い機体が、その翼の輪郭まで確認することが出来る距離にまで近づいていた。
「野郎!性能を上げやがったのか!」
舌打ちをしながら、男はハンドルを捌く。
「おい!お前だけ隊長のところに先に行け。あの人の機体も確か銃を積んでたはずだ。俺はエーアテールで持たせるし、可能なら撃墜する」
「分かったわ」
操縦士の指示に、女はすぐさま翼を操り、離脱する。男も素早く
「さぁ、楽しい大空のダンスだ。楽しもうぜ」
男は獰猛な笑みを浮かべ、黒い悪魔を沈めようと桿を握る手に力を込めた。
女は的確に風を読みながら速度を上げる。
(まだなの!?)
焦燥が胸をかきむしる。目の前を通り過ぎる雲を避ける暇もなく、白い巨体に全身を打ち付けながらもなお、女は速度を緩めない。寒さによって指がかじかむも、手綱を握りしめる手に力を込め、全身の感覚を研ぎすました。
唐突に、視界が晴れた。
白光に目を細めるも、その光の向こうに、大きな水路を携えた街が太陽に照らされた海のなか、その姿を現した。
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