第4話 工房

 嵐は、一夜にして過ぎ去った。

 猛々しい唸りを上げていた青海は、今は穏やかな光をたたえて街に寄り添っている。風見鶏も目を細めるほど凪いだ風が吹く早朝、水路に囲まれた街ワートゥルの住人たちは家や船に異常がないか確認するため、忙しなくそこかしこを歩き回っていた。

 大人から子どもまでが総出で、自身の家の周りをぐるぐると回って壊れた樋や屋根の修繕作業に勤しむ。少し濁りの含んだ水路には、大量の廃材や修理具を乗せたカヌーがそこら中を移動し、作業に必要な荷物や材料を運んでやっていた。

 そんな見慣れた慌ただしい朝を尻目に、アスールはヴェルメリオを伴って『クルム工房』の整備士であるジェミニのもとへ向かっていた。当初はアスールの妹――ローゼも行く予定であったのだが、今日もリヴァの元で講義を受けねばならないということで、今日の案内人はアスールのみだった。


(珍しい飴でも売っていたら買って帰ろうか)


 出かける時の妹の膨れ面を思い出し、アスールはそっと眉を下げた。ローゼは、拗ねるとなかなか機嫌を直さない性質たちなのだ。

 その一方で嵐と共にやってきた旅人は、見慣れぬ街が珍しいらしく、アスールの半歩後ろを歩きながら右に左にと顔の向きを変えて落ち着きがない。


「あの一番高い塔はなんだ?」


 ヴェルメリオが教会チャペルの方角を指差す。


「あれはこの街の灯台だよ。漁師たちが空や海の様子を視るために使われてるんだ。僕は飛ぶために使ってるけどね」


 この街の主な生業は漁業である。ほとんどの男たちはその日の朝早くに漁に繰り出して新鮮な魚を持ち帰り、それらを港市マーケットに出したり交易人たちに売り渡したりすることで日銭を稼いでいる。

 そんな漁師たちにとって最も重要なことは、天候である。

 船が出せるかどうかだけでなく魚が獲れるかどうかまでもが、気まぐれな海の機嫌によって左右されるため、灯台から空を観察することでその日の漁の具合を判断しているのだ。勿論、常夜灯としての役割も果たしているが、主には漁師たちの気象観測所であって、飛ぶために使用しているのはアスールくらいのものである。


「なるほどな。お前の言うクルム工房は灯台の西側か?」

「うん、ジェミニの工場は大きいし、飛行機の発着場にもなってるからね。船なんかとぶつからないように街の中心から離れたところに建ってるんだ」

「お前の旧式競技用飛行器具ヒルンドも扱ってるのか」

「そうだよ。ジェミニのところで調整してもらったら、あの灯台で飛ばして馴染ませるんだ」


 次々に質問を投げかけるヴェルエリオに律儀に返事をしながら、アスールはカヌーを一隻捉まえた。街はずれの工房に向かうには、水路を辿っていくのが一番の近道なのだ。


「この街は浅瀬なのか?」

「いや、少し深いよ。すぐそこを泳ぐくらいなら大丈夫だけど大人でも足は着かない」

「行き止まりの水路なんかもあるのか?」

「さあ、僕も全部を試したわけじゃないからわからないけど、シャーロンが一番知ってるんじゃないかな」


 狭い水路をゆったりと進むカヌー。揺れる波間に身を任せ、2人は他愛ない話を続けていた。

 やがて住宅街らしいところを流れる水路を、小刻みに何度も曲がったところでアスールが突然声を上げた。


「ここだ」 その声を合図に、狭い水路が途切れた。


 カヌーを囲むように立ち並んでいた住宅が消え、代わりにコの字型に倉庫群が立ち並ぶ出島がぽつりと現れた。街の西端に取り付けられた人工的なその島は、中型の飛行船舶バルトが入りそうな倉庫がいくつかと一回り小さめの倉庫が雑多に立ち並んでいるが、開けた中央の空間が広すぎるためにどこかがらんどうな印象も受ける場所だった。

 アスールとヴェルメリオは、街と出島を結ぶ橋の袂で船を降りると、そのまま正面に聳える最も大きな倉庫へと向かった。倉庫の側面には作業員用らしい小さな出入り口が備え付けられており、アスールはその扉を数度叩いてジェミニを呼んだ。


「ジェミニ」


 年季が入った扉は叩くたびにひび割れた音が響くが、反応は返ってこない。アスールが首を傾げながらもう一度扉を叩いてみるが、それは寂れた沈黙を返すばかりで、二人が期待する反応がありそうな雰囲気でもない。

 仕方なさそうに溜息をつくと、アスールは恐る恐る古びた扉のノブを回した。かちゃりとノブが回りきった音を確認すると、アスールはことさらゆっくりと扉を引いた。

 それを横目で見ていたヴェルメリオは、密かに笑みを零した。アスールのその様が、まるで悪事を働く子どものそれだったのだ。


「ジェミニー」


 扉から顔を突き出して呼びかけるも、中は全く人の気配を感じさせない。

「いないのかな」「入ってみればいいじゃないか」ヴェルメリオは言うや否や、軋む扉を身体側へと思い切り引いた。突然の行動に目を丸くするアスールの頭を何度か軽く掌で叩いて、ヴェルメリオは躊躇いもなく扉の向こうへと歩を進めた。


「怒られたらヴェルのせいだからね」

「任せろ。怒られるのは慣れっこだ」


 小走りで駆け寄って呆れた声を出すアスール。そんな少年に、ヴェルメリオは彼の肩を叩いて悪戯気な応えを返した。

 広い倉庫の中に、二人の忍び笑いがこだまする。倉庫内には、螺子やペンチ、大きな梯子にバルブといった大小様々な道具が雑多に置かれていた。しかし、肝心の倉庫の中央にあるべき筈の存在は影も形もなく、無造作に散りばめられた工具たちは主役の登場を待ち望む観客のように沈黙を保っていた。

 その光景に今度はヴェルメリオが首を傾げアスールの方を振り返るも、彼の疑問が声になることは無かった。


 音が、聞こえたのだ。


 薄暗い倉庫内に、かつん、かつんと響く誰かの足音。

 それは、酷く重い足取りだった。

 しかし、広すぎる倉庫ではその出所を掴むことが出来ず、二人は息を呑んだ。


 ふと、徐々に近づいていたはずの足音が、止まった。


 次の瞬間、金属と金属が擦れる甲高い音が響き渡り、倉庫正面の大きな扉がゆっくりと開き始めた。悲鳴を上げながら巨大な口が左右に開かれていくその光景に、アスールとヴェルメリオは目を丸くしていた。

 外の光が、薄暗い倉庫内を鮮明に照らし出す。未だに呆然と扉を凝視する二人の頭上から、若い女の声が投げ掛けられた。


「あれ。アスールじゃん。どうしたの。ヒルンドはもう直ったでしょ」


 のんびりとした調子で梯子を下りながら二人のもとへやってくる女は、口振りからしてアスールの知り合いらしい。

「おや、この人は?」

 長い栗色の髪を後ろで縛り、オイルやペンキが飛び散ったつなぎを着た女は、酷く眠たげな瞳でアスールに問いかけた。

「お客さんだよ、シュネー」

「あら、それは失礼。驚いただろう。いきなり『口』が開いたから」

 シュネーと呼ばれた女は、欠伸をしながら悪びれた様子もなく謝罪の言葉を口にした。 どうやら、倉庫の扉を開けたのが彼女らだったしい。

「ジェミニはいる?」

「あぁ、じいさんなら修理に出てるよ。なんでも昨日の嵐で水道管が壊れたんだってさ」

 その答えにヴェルメリオは首を傾げたが、なおもアスールとシュネーは会話を続ける。

「どれくらいで帰って来る?」

「もうすぐに帰ってくるんじゃない。朝からの依頼はその一件だけだしね」

 もう一度欠伸を漏らしたシュネーは、今度はアスールの横に立っているヴェルメリオへと目を向けた。

「で?何を直すんだい?」

小型移動用飛行船舶ラニアスだ。昨日街に着いたばかりなのだが、翼もエンジンも酷い有様でね」

 不躾な質問に、ヴェルメリオは人好きする笑みを浮かべて答えた。

「あらー、それは大変だ。飛行機はどこに?」

「港に泊めてある。生憎とここまで飛べそうにも無い」

 暗に港まで来いという失礼な客人を気にした風もなく、シュネーは顎に手を当てて何事かを考え始めた。瞳を右に左にと動かしながら忙しなく何かを考え込むシュネーの邪魔をしないよう、ヴェルメリオは小声でアスールに問いかけた。

「アスール、ここは街一番の整備士のところなんだよな」

「そうだよ。あ、シュネーはジェミニのところで働いてて、本人曰く助手みたいなものらしいよ」

 見当違いな答えを返すアスールの顔を見ながら、ヴェルメリオは不安を募らせていた。そんなヴェルメリオとは裏腹に、アスールはなおも整備士二人についての話を続ける。

「シュネーもジェミニも良い人だし、腕も確かだからきっと直してくれるよ」

 全幅の信頼を置いているらしいアスールに、ヴェルメリオはそうか、とだけ返す。そんな微妙に噛み合わない二人の会話に、考え事を終えたらしいシュネーが割って入った。


飛行船舶バルトなら、ジェミニに任せた方が良いね」


 潔く宣言すると、シュネーは先ほどの眠たげな気配が嘘のように堂々と片手をヴェルメリオに差し出した。


「改めて、私はシュネーだ。ここでジェミニの手伝いをしてる。あの人が帰ってきたら、あんたの機体のところへ案内してくんな」

「私はヴェルメリオ。ただの旅人だ」


 互いに挨拶を済ませると、シュネーはすぐに踵を返して散らばっている道具を選別し始めた。迷うことなく次々と手際よく道具を木箱に詰める様は、さすがに手慣れており、アスールも興味津々でシュネーの手もとを観察している。

 手持ち無沙汰なヴェルメリオは、雑談代わりに先程感じた疑問をシュネーに投げかけた。

「お二人は、専門の整備士ではないので?」

 シュネーはちらりとヴェルメリオに視線を向けたが、すぐに床に目を戻して自分の作業を続けた。

「うん。もとは飛行船舶バルトが専門さ。けどこんな小さな街じゃ、飛行機なんて数えるほどしか来なくてね。それ以外の修理も引き受けるようになったのさ」

 いつのまにか街一番の整備士なんて呼ばれるようになっちまったよ、と朗らかな笑い声をあげるシュネーに、ヴェルメリオはアスールや彼の父の言があながち間違いでない事を知った。

「と言っても、この街で整備士をやってるのなんてうちくらいしかないってのもあるけどね。じゃないと、誰があんなじいさんに依頼をするかよ」


「あんなじいさんで悪かったな」


 シュネーの言葉を遮って、低く嗄れた声が倉庫の入り口から飛び込んできた。三人が声の主の方を振り向くと、そには浅黒い肌のつなぎを着た男が立っていた。髪の白さと肌に刻まれた皺が、彼の生きた長さを伝えている。

「お帰り、ジェミニ」

「おんや。お帰り、偏屈じいさん。へまはしなかったかい」

 馴染みの二人が帰宅を歓迎しても、壮年の整備士は眉一つ動かす事なく、先程よりも低い声でシュネーに話しかけた。

「うるせぇ、阿呆面娘。さっさと顔洗ってその寝たまんまの頭起こしてきやがらねぇか」

「やれやれ、あんたにお客さんだよ。飛行機の修理だってさ」

 一通り道具を詰め終わった箱をジェミニに突き出し、シュネーはヴェルメリオを紹介した。二人の言い合いに圧倒されながらも、ヴェルメリオは頭を下げて先程と同じ事を口にした。アスールも同じように依頼主の事情を説明し、自分が見た機体の様子もついでに伝えた。それを聞いたジェミニは顎に手を当てて何事かを考え始めたが、すぐにヴェルメリオの方を向いて短く了承の旨を告げた。


「とりあえず、あんたの飛行機の所まで案内してくんな」


 突然の無茶な依頼に断られる事も覚悟していたヴェルメリオだったが、ジェミニの答えを聞いてひとまずは胸を撫で下ろした。そんなヴェルメリオの緊張に気付いてか、アスールは、言った通りだっただろう、という瞳で彼の方を見た。それに気が付いたヴェルメリオは、眉間に皺を寄せた渋い顔を返すしかなかった。

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