第3話 修理

 嵐は、一夜にして過ぎ去った。猛々しい唸りを上げていた青海は、今は穏やかな光すらたたえてワートゥルの街に寄り添っている。風見鶏も目を細める凪いだ風が吹く早朝、ワートゥルの住人たちは気忙しそうにそこかしこを歩き回っていた。

 昨夜の嵐で家や船に異常がないかを確かめているのだ。

 大人から子どもまでもが総出で、自身の家の周りをぐるぐると回って壊れた樋や屋根の修繕作業に勤しんでいる。少し濁りの含んだ水路には、大量の廃材や修理具を乗せたカヌーがそこら中を移動し、作業に必要な荷物や材料を運んでやっていた。

 そんな見慣れた慌ただしい朝を尻目にアスールは、ヴェルメリオを整備士であるジェミニのもとへと案内していた。当初はアスールの妹―ローゼも共に行く予定であったのだが、今日もリヴァの元で講義を受けねばならないということで、今日の案内人はアスールのみだった。

(珍しい飴でも売っていたら買って帰ろうか)

 出かける時の妹の膨れ面を思い出し、アスールはそっと眉を下げた。ローゼは、拗ねるとなかなか機嫌を直さない性質たちなのだ。

 その一方で嵐と共にやってきた旅人は、見慣れぬ街が珍しいのか、アスールの半歩後ろを歩きながら右に左にと顔の向きを変えて落ち着きがない。

「あの一番高い塔はなんだ?」

 ヴェルメリオが港の方角を指差す。

「あれはこの街の灯台だよ。空や海の様子を視るために使われてるんだ。僕は飛ぶために使ってるけどね」

 ワートゥルは漁業を主な生業としている街である。男たちはその日の朝早くに漁に繰り出して新鮮な魚を持ち帰り、それらを市場に出したり交易人たちに売り渡したりすることで日銭を稼いでいる。そんな街の漁師たちにとって最も大事なことは、天候である。船が出せるかどうかだけでなく魚が獲れるかどうかまでもが、気まぐれな海の機嫌によって左右されるため、灯台から空を観察することでその日の漁の具合を判断いているのだ。勿論、常夜灯としても使用はされているのだが、主には漁師たちの気象観測所であって、飛ぶために使用しているのはアスールくらいのものである。

「なるほどな。こっちは港と反対側か」

「うん、ジェミニの工場は大きいし、飛行機の発着場にもなってるんだ。飛行機が船とぶつかっちゃうと大変でしょ?」

「確かにな。お前のヒルンドも扱ってるのか」

「そうだよ。ジェミニのところで調整してもらったら、あの灯台で飛ばして馴染ませるんだ」

 次々に質問を投げかけるヴェルエリオに律儀に返事を返しながら、アスールはカヌーを一隻捉まえた。ジェミニの工場は、街の中心部から随分離れたところにあるため、水路を辿っていくのが一番の近道なのだ。

「この街は浅瀬なのか?」

「いや、少し深いよ。すぐそこを泳ぐくらいなら大丈夫だけど大人でも足は着かない」

「行き止まりの水路なんかもあるのか?」

「さあ、僕も全部を試したわけじゃないからわからないけど、シャーロンが一番知ってるんじゃないかな」

 狭い水路をゆったりと進むカヌー。揺れる波間に身を任せ、2人は他愛ない話を続けていた。

 やがて住宅街らしいところを流れる水路を、小刻みに何度も曲がったところでアスールが突然声を上げた。

 「ここだ」 その声を合図に、狭い水路が途切れた。

 カヌーを囲むように立ち並んでいた住宅が消え、代わりにコの字型の倉庫群が立ち並ぶ出島がぽつりと現れた。街の最も端に取り付けられた人工的なその島は、中型の飛行機が入りそうな倉庫がいくつかと一回り小さめの倉庫が雑多に立ち並んでいるが、開けた中央の空間が広すぎるためにどこかがらんどうな印象も受ける場所だった。

 アスールとヴェルメリオは、街と出島を結ぶ橋の袂でカヌーを降りると、そのまま正面に聳える最も大きな倉庫へと向かった。どうやらそこがジェミニの常駐する作業場らしく、アスールは倉庫の側面に備え付けられた作業員用の出入り口を数度叩いた。

「ジェミニ」

 年季が入った扉は叩くたびにひび割れたような音が響くが、反応は返ってこない。アスールは首を傾げながらもう一度扉を叩いてみたのだが、それは寂れた沈黙を返すばかりで、二人が期待する反応がありそうな雰囲気でもない。

 仕方なさそうに溜息をつくと、アスールは恐る恐る古びた扉のノブを回した。かちゃりとノブが回りきった音を確認すると、アスールはことさらゆっくりと扉を引いた。

 それを横目で見ていたヴェルメリオは、密かに笑みを零した。アスールのその様が、まるで悪事を働く子どものそれだったのだ。

「ジェミニー」

 扉から顔を突き出して呼びかけるも、中は全く人の気配を感じさせない。

「いないのかな」「入ってみればいいじゃないか」

 ヴェルメリオは言うや否や、思い切り軋む扉を身体側へと引いた。突然の行動に目を丸くしているアスールの頭を何度か軽く掌で叩いて、ヴェルメリオは躊躇いもなく扉の向こうへと歩を進めた。

「怒られたらヴェルのせいだからね」「任せろ。怒られるのは慣れっこだ」

 小走りで駆け寄って呆れた声を出すアスール。そんな少年に、ヴェルメリオは彼の肩を叩いて悪戯気な応えを返した。

 広い倉庫の中に、二人の忍びやかな笑い声がこだまする。中は、螺子やペンチ、大きな梯子にバルブといった大小様々な道具が雑多に置かれていた。しかし、肝心の倉庫の中央にあるべき筈の存在は影も形もなく、まるで無造作に散りばめられた工具たちが主役の登場を待ち望む観客のようであった。

 その光景に今度はヴェルメリオが首を傾げアスールの方を振り返るも、彼の疑問が声になることは無かった。

 音が、聞こえたのだ。薄暗い倉庫内に、かつん、かつんと響く誰かの足音。

 それは、酷く重い足取りだった。

 しかし、広すぎる倉庫ではその出所を掴むことが出来ず、二人は息を呑んだ。

 ふと、徐々に近づいていたはずの足音が、止まった。

 すると、大きな金属と金属がぶつかり合う甲高い音が響き渡り、倉庫の正面に取り付けられた扉がゆっくりと開き始めた。悲鳴を上げながら巨大な口が左右に開かれていくその光景に、アスールとヴェルメリオは目を丸くしていた。

 外の光が、薄暗い倉庫内を鮮明に照らし出す。未だに呆然と扉を凝視する二人の頭上から、若い女の声が投げ掛けられた。

「あれ。アスールじゃん。どうしたの。ヒルンドはもう直ったでしょ」

 のんびりとした調子で梯子を下りながら二人のもとへやってくる女性は、口振りからしてアスールの知り合いらしい。

「おや、この人は?」

 長い栗色の髪を後ろで縛り、オイルやペンキが飛び散ったつなぎを着た女は、酷く眠たげな瞳でアスールに問いかけた。

「お客さんだよ、シュネー」

「あら、それは失礼。驚いただろう。いきなり口が開いたから」

 シュネーと呼ばれた女性は、欠伸をしながら悪びれた様子もなく謝罪の言葉を口にした。どうやら倉庫の正面扉を開けたのが、彼女だったらしい。

「ジェミニはいる?」

「あぁ、じいさんなら修理に出てるよ。なんでも昨日の嵐で水道管が壊れたんだってさ」

 その答えにヴェルメリオは首を傾げたが、なおもアスールとシュネーは会話を続ける。

「どれくらいで帰って来る?」

「もうすぐに帰ってくるんじゃないかね。朝からの依頼はその一件だけだしね」

 もう一度欠伸を漏らしたシュネーは、今度はアスールの横に立っている赤髪の青年へと目を向けた。

「で?何を直すんだい?」

「飛行機だ。昨日街に着いたばかりなのだが、翼もエンジンも酷い有様でね」

 不躾な質問に、ヴェルメリオは人好きする笑みを浮かべて答えた。

「あらー、それは大変だ。飛行機はどこに?」

「港に泊めてある。生憎とここまで飛べそうにも無い」

 暗に港まで来いという失礼な客人を気にした風もなく、シュネーは顎に手を当てて何事かを考え始めた。瞳を右に左にと動かしながら忙しなく何かを考え込むシュネーの邪魔をしないよう、ヴェルメリオは小声でアスールに問いかけた。

「アスール、ここは街一番の整備士のところなんだよな」

「そうだよ。あ、シュネーはジェミニのところで働いてて、本人曰く助手みたいなものらしいよ」

 見当違いな答えを返すアスールの顔を見ながら、ヴェルメリオは不安を募らせていた。そんなヴェルメリオとは裏腹に、アスールはなおも整備士二人についての話を続ける。

「シュネーもジェミニも良い人だし、腕も確かだからきっと直してくれるよ」

 全幅の信頼を置いているらしいアスールに、ヴェルメリオはそうか、とだけ返す。そんな微妙に噛み合わない二人の会話に、考え事を終えたらしいシュネーが割って入った。

「飛行機なら、ジェミニに任せた方が良いね」

 納得したように潔く宣言すると、シュネーは先ほどの眠たげな気配が嘘のように堂々と片手をヴェルメリオに差し出した。

「私はシュネー。ここでジェミニの手伝いをしてる。あの人が帰ってきたら、あんたの機体のところへ案内してくんな」

「私はヴェルメリオ。ただの旅人だ」

 互いに挨拶を済ませると、シュネーはすぐに踵を返して散らばっている道具を選別し始めた。迷うことなく次々と手際よく道具を木箱に詰める様は、さすがに手慣れており、アスールも興味津々でシュネーの手もとを観察している。

 ヴェルメリオは手持ち無沙汰で、雑談代わりに先程感じた疑問をシュネーに投げかけた。

「お二人は、飛行機専門の整備士ではないので?」

 シュネーはヴェルメリオにちらと視線を向けたが、それに留まり、なおも自分の作業を続けた。

「うん。もとは飛行機が専門さ。けどこんな小さな街じゃ、飛行機なんて数えるほどしか来なくてね。それ以外の修理も引き受けるようになったのさ」

 いつのまにか街一番の整備士なんて呼ばれるようになっちまったよ、と朗らかな笑い声をあげるシュネーの答えに、ヴェルメリオはアスールや彼の父の言があながち間違いでない事を知った。

「と言っても、この街で整備士をやってるのなんてうちくらいしかないってのもあるけどね。じゃないと、誰があんなじいさんに依頼をするかよ」

「あんなじいさんで悪かったな」

 シュネーの言葉を遮って、低く嗄れた声が倉庫の入り口から飛び込んできた。三人が声の主の方を振り向くと、そには浅黒い肌のつなぎをきた男が立っていた。髪の白さと肌に刻まれた皺が、彼の生きた長さを伝えている。

「お帰り、ジェミニ」

「おんや。お帰り、偏屈じいさん。へまはしなかったかい」

 馴染みの二人が帰宅を歓迎しても、ジェミニと呼ばれた壮年の整備士は眉一つ動かす事なく、先程よりも低い声でシュネーに話しかけた。

「うるせぇ、阿呆面娘。さっさと顔洗ってその寝たまんまの頭起こしてきやがらねぇか」

「やれやれ、あんたにお客さんだよ。飛行機の修理だってさ」

 一通り道具を詰め終わった箱をジェミニに突き出し、シュネーはヴェルメリオを紹介した。二人の言い合いに圧倒されながらも、ヴェルメリオは頭を下げて先程と同じ事を口にした。アスールも同じように依頼主の事情を説明し、自分が見た機体の様子もついでに伝えた。それを聞いたジェミニは顎に手を当てて何事かを考え始めたが、すぐにヴェルメリオの方を向いて短く了承の旨を告げた。

「とりあえず、あんたの飛行機の所まで案内してくんな」

 突然の無茶な依頼に断られる事も覚悟していたヴェルメリオだったが、ジェミニの答えを聞いてひとまずは胸を撫で下ろした。そんなヴェルメリオの緊張に気付いてか、アスールは、言った通りだっただろう、という瞳で彼の方を見た。それに気が付いたヴェルメリオは、眉間に皺を寄せた渋い顔を返すしかなかった。



 二人はジェミニを連れて、港に着けた飛行機を見せていた。

 ヴェルメリオが慎重に風よけの防風套ルラン を取り除くと、そこには昨日と変わりない飛行機が行儀よく整備されるのを待っていた。ジェミニは、初めこそ飛行機の周りを歩きながら損傷箇所を確かめていたが、それが終わるとシュネーが詰めた道具箱を持ってコックピットや翼をいじり始めた。

 アスールは作業の邪魔になるからと市場の方を見に行ってしまったが、一応の持ち主であるヴェルメリオは機体のそばを離れるわけにも行かず、跳ねるように駆けて行ったアスールの背中を見送るに留まった。

 何やらがちゃがちゃと翼の損傷部分を解体し始めたジェミニを、ヴェルメリオは煙草を吸いながらぼんやりと見つめていた。操縦士であるヴェルメリオも一応は機体の構造に関する知識は持っているのだが、整備となるとまた別の話である。ヴェルメリオには、現在目の前で繰り広げられているジェミニの作業が果たして何のために行われているのか、ぼんやりとしか理解することが出来なかった。ただはっきりと分かっているのは、機体を今よりも良い状態にしようとしている、ということだけである。

 一心に手を動かすジェミニの丸まった背中を目だけで追っていると、シュネーの声が後ろから聞こえた。

「やあ、さっきぶりだね」

 シュネーは、ジェミニに持たせたものより一回り大きな道具箱を背負っていた。道具箱からは、所々何に使うのかよくわからない道具がはみ出している。

「あぁ、どうも」

 ヴェルメリオは軽く頭を下げた。

「アスールは?」

「市場の方へ走って行きましたよ」

 辺りを見回すシュネーに、ヴェルメリオは少年の行き先を教えてやる。

「ありゃ、元気だね。あんたはおいてけぼりかい」

 悪気無く笑う女に、ヴェルメリオも煙草を咥えて苦笑い返した。

「そんな所です」

「こんな作業見ててもつまんないだろう。離れてても構わないんだよ。あのじいさん、作業し始めるとなんにも喋らなくなるしね」

 道具箱を降ろしながら、依頼主を気遣うシュネーの目線の先には相変わらず背を丸めて作業を続けるジェミニの姿があった。しかし、それを全く気にした風も無いヴェルメリオは、淡々と答える。

「見ているだけで楽しいですよ。整備している様子などなかなか見られるものではありませんからね」 「そうかい」

 変な人だね、とやはり屈託無い笑顔を浮かべるシュネー。ジェミニとは対照的によく喋るこの女性は、彼と並ぶとちぐはぐな様に思われたが、先程の言い合いをする光景を思い浮かべると、あまり違和感のあるものでもないとヴェルメリオは思った。

 ヴェルメリオの退屈を紛らわせようとしているのか、シュネーはしばらく話を続けていたのだが、それはジェミニの一声によって唐突に終了することとなった。

「シュネー。喋ってねぇでこっちに来い。お前も見とけ」「あいよ」

 ジェミニに呼ばれたシュネーは翼部分までするすると登っていって、彼の手元を覗き込んだ。整備の仕方を習っているらしく、一切の言葉を交わすことなく黙々と作業をする師の手元を見るだけであるが、忙しなく動く彼女の眼球が、言葉以上の情報を受け取っていることを物語っていた。

「一見は千の言葉に値する、か」

 古来より語り継がれる教訓を呟きながら、ヴェルメリオは子弟の様子をじっと見つめていた。

 快晴のもと響くのは、波が打ち寄せる音と工具がぶつかり合う音のみだ。遠くで商品を品定めする女が笑い声を上げているが、この心地好い静寂を邪魔するほどのものでもない。

 ひどく、穏やかな時間だった。

 ヴェルメリオは時間をかけて煙草を吸い込みながら、この穏やかな音色に耳を傾けていた。口から吐き出した煙が、一瞬だけ空を覆い、すぐに風に流されて消え去る。その軌跡を、ヴェルメリオの瞳が追いかけた。しかし、波間を煌めく陽光のように揺れる瞳は、空のさらに向こうを見ているようでもあった。

 やがて、三本目の煙草を吸おうとしていたところにジェミニの重い足取りがやってきた。眉間に皺を寄せた難しい顔のまま、機体の状態をヴェルメリオに告げる。

「酷い壊れ方だ。パイプに穴があいちまってそこから水蒸気が漏れ出してる。他にもいくつかだめになってる部分もあった。よくあれで飛んでたもんだ」

「腕がいいものでね」

 ヴェルメリオの軽口にも、ジェミニは険しい顔を崩すことは無かった。その厳しい目線に、仕切り直しとばかりにヴェルメリオは溜息を吐いて真面目な顔を作った。

「どれくらいで直りますか」

「一ヶ月かそこらは時間がいる。こんな小さな街じゃ道具も限られちまってるからな」

 予想していたよりも短い修理期間に、ヴェルメリオは薄く笑みを浮かべる。

「承知した。ではお願いしますよ」

― 幸いにしてまだ『休暇』は残っている。

 胸中そう呟くと、ジェミニと修繕費用などの細かい相談に入った。一通り段取りを話し終えると、ジェミニは先程よりも深い皺を眉間に寄せて口を開いた。

「あんたの飛行機、酷いもんだと言っただろう」

 えらくもったいぶった話し方に、首を傾げながらヴェルメリオは先を促す。

「今まで整備をしていて、あんな壊れ方をした飛行機を見たことねぇ。ありゃ『普通』の壊れ方じゃねぇよ。あれは―」

 そして、一呼吸置いて、ヴェルメリオの方を向くも、ジェミニはそれ以上言葉を続ける事は無かった。いや、正確には言葉を続ける事が出来なかった。ジェミニが顔を上げた先で、ヴェルメリオは意味有りげな笑みを浮かべ、人差し指を唇に押し当てていたのだ。

「私は、ただの『旅行者』ですよ。そして、あなたは『整備士』だ」

 その言葉の意図を雄弁に語る銀灰色の瞳に、冷や汗がジェミニの背中をつたう。

「直しさえしていただければ、きちんと金は払います」

 あくまで整備士と客の関係であることを念押しするヴェルメリオの目は、唇と裏腹に笑ってはいなかった。先程の穏やかな様子とはかけ離れた男に、ジェミニはああ、と一言返すのが精一杯だった。ジェミニの額にはいつのまにか大粒の汗が流れていたが、身体を震わせる老体はそのことにさえ気が付いていなかった。

「それと、もう一つ」

 すいっと人差し指を天に向けるヴェルメリオ。その表情は、いつの間にか済まなさそうなものに変わっていた。

 唐突に緩んだ空気に、ジェミニは止めていた息を吐き出し、首を傾げた。

「この街に、配達鳥シュライフェンを扱う店はありますか」



 ヴェルメリオはジェミニから教えられた店へと向かった。少しやりすぎたか、と先ほどの老人の様子に眉を下げつつ、店の扉を潜って主に声をかける。

「長距離用の配達鳥シュライフェンを貸してくれないかい」

 体格のいい店主が、人好きする笑みで受け答える。

「いいよ。どっち方面だい」「エストだ」

 ヴェルメリオの注文を聞いた店主は、店の奥へ引っ込むと、檜皮色に黒のまだらを持った中型の鳥を腕に乗せて戻ってきた。

「それならこいつだね。何を届ける?」

「手紙を」

 恋人宛かい、とからかいながら差し出された小さな紙と万年筆を手に、ヴェルメリオはさらさらと用向きを書いて、金と共に店主に渡した。それを足に取り付ける様を見届けると、ヴェルメリオは店を後にしようと踵を返したが、その足は店主の一言によって止められた。

「なんなら恋人の元まで向かうこいつを見送るかい?」

 ヴェルメリオは少し考える素振りを見せたが、その提案を受け入れた。

「ならちょっと待ってな」

 店主は店の奥から大きな鳥籠を持ってくると、配達鳥シュライフェンをそれに入れて灯台へと向かった。

 頂上にある重厚な扉を開け、大きな水路を一望できるその場所に店主とヴェルメリオが並んで立つ。店主は、空の様子を確認すると鳥かごから配達鳥シュライフェンを慎重に取り出した。

 止まり木から店主の腕に飛び移った当の本人は不思議そうな顔で首を傾げてヴェルメリオを見つめたが、黒々と輝く瞳はすぐに東の空へと向けられた。

「じゃあ、行くよ」

 店主は、ヴェルメリオにそう声をかけるや否や、鳥を乗せていた右腕を水平方向に後ろから前へと円を描く様に力いっぱい振り出した。

 その遠心力を利用した配達鳥シュライフェンは、檜皮色の羽を広げて勢い良く飛び出した。

「おや、今日は気持ち良さそうに飛んでる」

 店主のその言葉に、ヴェルメリオは目を凝らして黒いまだらを持つ空の生き物へ目を向けた。

 大きく翼を広げ、真っ直ぐと東へ向かう堂々とした姿は、やがて鮮やかな水色の向こうへと消えていった。

 ヴェルメリオは、自身の伝言を携えた使者が消えた方向を飽きる事無くいつまでも見つめていた。遠くを見つめるその瞳がどこか憂鬱な色を帯びていることに、店主はおろか当人さえも、最後まで気付く事は無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る