第3話 休息

 分厚い雲は、やがて小さな街を覆い隠していた。

 つい数刻前まで小降りだった雨も、今では叩きつけるような豪雨に変わっている。四方八方に荒れ狂う風が海面に身を叩きつけるたび、それは唸る波飛沫となって水路に囲まれた街ワートゥルの街壁へと打ち付けられた。

 港の船は流されないように鎖で固定されているものの、うねる波はまるで玩具で遊ぶ幼子のように船舶を左右に傾ける。

 激しい嵐が街を蹂躙するなか、街の住人たちは静かに刻が過ぎるのを待っていた。四方を海に囲まれているこの街にとって、嵐に晒されることはそう珍しいことではない。大海と共に生きてきた者たちにとって、隣人の気まぐれが起こす大小の嵐が頭上を通り過ぎることは、もはや日常の一部となっていた。

 嵐が来ると分かれば、家々は窓が割れぬよう防風套ルランを掛け、増えた水かさが室内に入り込まぬよう、防水壁トイコスで周囲を囲った。そして、嵐が過ぎるまでじっと息を潜めるのだ。アスール一家も例に漏れず、嵐が過ぎ去るのを夕食を食べながら待っていた。


 今回は意図せず、見慣れぬ顔がその食卓を囲んでいた。


 あれからアスールに連れられたヴェルメリオは、彼の家で世話になることになっていた。突然の来訪者にアスールの父は驚いた様子であったが、アスールが事情を説明すると笑顔でヴェルメリオを迎え入れた。

 アスールの母は、客人を温かな湯へと案内したあと、着替えを用意したり、一人分多い夕食を作ったりと、なにかと世話を焼いた。妹のローゼは見知らぬ人物に最初は小動物のように警戒心をあらわにしていたのだが、アスールの説明やヴェルメリオの穏やかな物腰に、徐々に強張った態度もほぐれていった。

 パンに野菜のスープと決して豪華とは言えない夕食を共にしつつ、最初は緊張した様子だったヴェルメリオも、お人好しな明るさを持った家族に少しずつ馴染んでいった。



 夕食を終えた頃、外の嵐はいっそう酷くなっていた。

 騒々しい風の唸り声はヴェルメリオに倒壊する家と下敷きになる自分を想像させたが、アスールたちは気にした風も無く、無邪気にヴェルメリオに外の話をねだった。

「ヴェルメリオはどこから来たの?」

「ヴェルで構わないさ。東国エストからだ」

 夫婦は目を見開いた。

東国エストと言えば、大国ではありませんか。その様なところから、どうしてこんなところまで」

 遠く離れた辺境の地まで身一つでやって来た青年を訝しく思ったのか、アスールの父は顔をしかめながら尋ねた。

「なに、着の身着のまま飛び出した結果ですよ」

 苦笑いをこぼしながらヴェルメリオは答える。

「なんにしてもご子息には感謝しております。私の命を救っていただいた」

 その答えにどこか腑に落ちない思いを抱えながらも父親はそれ以上言及することはなかった。

 父との話しが終わるのを見計らって、今度はアスールがヴェルメリオに尋ねた。

「ここに来るまでにどんな景色を見たの?」

 この話題に、妹の方も期待に胸を躍らせ、兄と同じようにヴェルメリオの方を向いた。好奇心に目を輝かせて期待をあらわにする幼い二人に見つめられ、照れたように頭を掻きながらヴェルメリオは自身の冒険譚を話し始めた。

「いろんな風景を見てきたよ。鯨の群れに、渡り鳥と一緒に飛んだこともあったな」

「本当に?私、鯨なんて本でしか見たこと無いわ」

「背中にも乗れそうな程大きくてなぁ。あの尾びれに叩き付けられれば、飛行機なんて木っ端みじんだろうよ」

 兄妹は目を丸くし、巨大な黒い魚が長い尾びれを海に叩き付け、大波を起こす様を想像した。

「すごい、すごいね」

「うん。ね、もっとお話ししてちょうだい」

「わかったよ」

 兄妹の催促に眉を下げながら、ヴェルメリオは自身の見た風景を語って聞かせた。人ひとりを丸吞みにできそうなほど大きな口いっぱいに牙を生やした魚。水面を飛ぶように泳いで行く小魚の群れ。月と見紛うほど白く輝く羽毛に身を包んだ渡り鳥。まるで御伽噺のようなそれを、兄妹は夢中で聞いていた。

 水路に囲まれた街ワートゥルは、大海に囲まれているとはいえ、周囲の水深はそう深いものでもなかった。街の周辺くらいであれば、子どもが泳いでもそうそう溺れることもないし、漁師たちが出す船もそれほど遠洋まで漕ぎ出すこともない。水路に囲まれた街ワートゥルを囲む「海」しか知らない彼らにとって、遠く深い海の風景など全く馴染みのないものであった。

 そのため、アスールとローゼにとって、ヴェルメリオの話は幼い頃母が読んでくれた絵本の中の世界のように、不思議で突拍子も無いものだった。一生懸命に話を聞く子ども二人に丁寧に話をする客人の姿を見て、二人の親も顔を見合わせながら笑みを浮かべた。



 海や空の生き物の話を一通り聞くと、アスールはまた別の疑問を口にした。

「ねぇ、雲の上ってどんななの?」

 あんなに高い所まで飛んだことが無いんだ、と苦笑いするアスールに、無理も無い、とヴェルメリオは独り言ちた。


(あれはあくまで競技用の代物だ。この小さな街を見渡すぐらいの場所までは飛ぶことができるかもしれんが、雲の上までは到底無理だろうな)


 アスールが背負っていた旧式競技用飛行器具ヒルンドは滑空を得意とする競技用の飛行装備だ。翼の内部に取り付けられた原動機スラストを動力に、翼の角度を調節しながら飛行するだけのシンプルな構造で、上手く風に乗ることができるだけの技量があれば、速度や高度については申し分無い代物である。

 しかし、シンプルが故の扱いづらさに、既に廃棄が決まった型でもあった。原動機スラストの強弱と翼の角度は、手に持った手綱ラダーと自重でのみでしか操ることができず、競技の場面では常に「優秀だが扱いづらい」という評価を受けていた。選手からの強い要望もあり、いまでは性能は多少劣るものの扱い易くなった新型の方が主流になっている。

「機体の性能の問題だ。お前の技量は悪くなかったよ」

「……ありがとう」

 目を逸らしながらアスールが小さく礼を言う。年頃らしい仕草に、ヴェルメリオは「ははっ」と笑いながらアスールの頭に手を置いた。

「さて、雲の上の話だったな。あそこは何の邪魔も入らない空と俺だけの場所さ。下には灰色の雲海が流れ、頭上は燦々と太陽が照らしだす天色のみ。夜になれば、星々が煌めき、俺を取り囲む。月を眺めながら飲む酒は、それは絶品だったぜ」

 いかに雲の上が気持ちの良いものか、楽しそうに語るヴェルメリオの語り口に、一家は瞬きも忘れて聞き入っていた。そして、楽しげに話を聞きながら打てば響く受け答えをする家族に、ヴェルメリオもいつのまにか外の音も気にならなくなっていた。



 どれほど話し込んだか、兄妹はうつらうつらと眠そうに目をこすっていた。すでに風の音は止み、屋根を叩き付けていた雨の音も落ち着いたものへと変化している。

「今日はもうお開きにしましょうか」

 アスールの母が号令をかけた。

「すみません。すっかり話し込んでしまいましたね」

 ヴェルメリオが申し訳なさそうに謝るが、アスールとローゼはそう簡単には許してくれなかった。

「もっと話を聞きたいよ」「そうよ、まだ半分も聞いてないわ」唇を尖らせる兄妹を、父がたしなめる。

「こらこら。ヴェルメリオさんもお疲れだろう。今日はもう寝なさい」

 なおも納得のいかなさそうな顔をする兄妹だが、その瞳は半分閉じられている。

「それじゃあ、明日はジェミニとか言う整備士のところへ案内してくれよ。その道中にまた続きを話そう」

 ヴェルメリオにそう言われ、やっと納得したらしい二人は、彼と両親に挨拶をして自身の部屋へ覚束ない足取りで帰っていった。

「すみませんね、うちの子どもたちが」

 母親が謝罪を口にするが、ヴェルメリオは兄妹の我侭をさほど気にしてはいなかった。むしろ、穏やかなその表情は、瞳を輝かせながら話をねだってくる子どもたちに好感さえ覚えている様であった。

「なに、可愛らしいお子さんではないですか」

「そう言って頂けると嬉しい限りです。さぁ、長旅でお疲れでしょう。狭い客室ではありますが、ゆっくりと休んでください」

 会った当初よりは幾分か自然な笑みを浮かべた母親は、ヴェルメリオを客室へと案内した。

 簡易ベッドとサイドテーブル、クローゼットを置いているだけの部屋ではあったが、寝られればどこでも良い、と考えているヴェルメリオにとっては贅沢すぎる客室であった。丁寧に礼を言い、客室の扉を閉めると、ヴェルメリオはベッドに腰を下ろした。

 防風套ルランで窓を覆ってしまっているため、部屋の中は薄暗い。煙草を吸いたい衝動に駆られたが、客人である手前室内でそのようなことはできない。サイドテーブルに蝋燭が置かれているが、それに火をつける気にもならず、ヴェルメリオはベッドに寝転がった。

 途端、気だるい眠気が頭の芯を曇らせ始めた。つい数時間前まで命を落とすかもしれない緊張感に苛まれていた身体が、安全圏に入ったことをようやく認識したらしく、ヴェルメリオは外から聞こえる穏やかな水音を子守唄に目を閉じた。



 扉の外の気配に、ヴェルメリオは目を開けた。

 もう少し眠りたい気分に浸りながらも、ゆっくりと身体を起こす。自分の置かれた状況を把握する様に首を前後に回し欠伸をかみ殺していると、扉を叩く音が室内に鳴り響いた。

「ヴェル!朝だよ!」

 アスールの元気な声は、寝起きのヴェルメリオにとっては強烈なものだった。

「あぁ、今行くよ」

 なおも扉を叩こうとするアスールに声をかけ、ヴェルメリオは一度伸びをした。寝乱れた服装を整え、目を覚ます。クローゼットを開けると、扉部分に鏡がついており、それを見ながらもう一度身なりを整えた。最後に手櫛で軽く髪を梳くと、客室のドアを開けてリビングへと足を向けた。

 廊下に漂う美味そうな匂いが、ヴェルメリオに空腹を思い出させた。食卓を見ると、既に兄妹が席につき、父親はコーヒーを飲みながら日報ツァイトを読んでいる。

「あら、おはようございます。どうぞ、食べてくださいな」

 立ち尽くすヴェルメリオに気付き、母親が声をかけた。それに促され、ヴェルメリオが席に着くと同時に、ローゼから軽口が飛んできた。

「今日はお兄ちゃんが最後じゃないのね」

 悪戯気に笑いながら発せられた言葉に、アスールは顔を赤くさせながら反論する。

「うるさいな。いいだろう、ちゃんと間に合ってはいるんだから」

「ぎりぎりじゃないの」

 得意気にやり込める妹にさらに言い募ろうとアスールは口を開くが、自覚があるのかそれが言葉になることは無かった。

「おまえたち、お客様が来てても相変わらずかい?さっさと食べなさいな。それでヴェルメリオさんをジェミニのところに案内しておあげなさい」

 兄弟喧嘩をたしなめながらヴェルメリオにコーヒーを入れる母親に、兄妹も頭が上がらない様で大人しくトーストをかじり始めた。すると、我関せずの様子であった父親が口を開いた。

「騒々しくて、すみませんね。ジェミニさんっていうのは町一番の整備士なんですよ。もしかするとあなたの飛行機も直るかもしれない」

「僕の旧式競技用飛行器具ヒルンドも直してくれてるんだよ」

 朝食を飲み込みながらアスールも父の言を擁護する。有難い申し出に、ヴェルメリオは再度感謝の言葉を口にし、朝食を食べ始めた。トーストにサラダ、コーヒーという昨夜の食事と変わらないシンプルなものを、一家の声を聞きながらゆっくりと味わう。

 防風套ルランの外された窓の外では、街の端々に張り巡らされている波立つ透明な鏡が、嵐を終えた後のどこまでも鮮やかなシアンをことさら美しく映し出していた。

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