第2話 休息

 分厚い雲は、いつの間にか小さな街を覆い隠していた。最初は小降りだった雨も、今では叩きつけるような豪雨に変わっている。四方八方に荒れ狂う風が海面に身を叩きつけるたび、それは唸る波飛沫となってワートゥルの街壁へと打ち付けられた。港の船はみな、流されぬように鎖で固定されているものの、うねる波は玩具で遊ぶような様相で船舶を左右に傾ける。

 これほど激しい嵐が来たというのに、街の住人が動揺する素振りを見せることはなかった。というのも、四方を海に囲まれているこの街にとって、嵐に晒されることはそう珍しいことではないからだ。大海と共に生きてきた者たちにとって、隣人の気まぐれが起こす大小の嵐が頭上を通り過ぎることは、もはや日常の一部となっていた。

 嵐が来ると分かれば、家々は窓が割れぬよう防風套ルランを掛け、増えた水かさが室内に入り込まぬよう、防水壁トイコスで周囲を囲った。そして、嵐が過ぎるまでじっと息を潜めるのだ。アスール一家も例に漏れず、嵐が過ぎ去る時を夕食を食べながら待っていたのだが、今回はその食卓に意図せず見慣れぬ顔も参加していた。

 飛行機の故障によりこの街に降り立った赤髪の男―ヴェルメリオは、アスールに連れられ、彼の生家で世話になっていた。突然の来訪者に家主は驚いた様子であったが、アスールが事情を説明すると笑顔でヴェルメリオを迎え入れた。アスールの父は、なにかと大変だっただろう、と一人旅を労い、温かな湯へと案内した。アスールの母は、目尻に皺を寄せながらヴェルメリオの着替えを用意したり、一人分多い夕食を作ったりと、客人の世話を焼いた。妹のローゼは見知らぬ人物に最初は小動物のように警戒心をあらわにしていたのだが、アスールの説明や客人の穏やかな物腰に、徐々に強張った態度もほぐれていった。パンに野菜のスープと決して豪華とは言えない夕食を共にしつつ、最初は緊張した様子だったヴェルメリオも、人好きする明るさを持った家族に少しずつ馴染んでいった。

 一家と客人が夕食を終えた頃、外の嵐はいっそう酷くなっていた。騒々しい風の唸り声はヴェルメリオに倒壊する家と下敷きになる自分を想像させたが、アスールたちは気にした風も無く、無邪気にヴェルメリオに外の話をねだった。

「ヴェルメリオはどこから来たの?」「ヴェルで構わないさ。エストからだ」

 聞き覚えのある地名に家族は目を見開いた。

「エストと言えば、大国ではありませんか。その様なところから、どうしてこの様なところまで」

 このような辺境の地まで身一つでやって来た青年を訝しく思ったのか、アスールの父は顔をしかめながら尋ねた。

「なに、着の身着のまま飛び出した結果ですよ」

 苦笑いをこぼしながらヴェルメリオは答える。

「なんにしてもご子息には感謝しております。私の命を救っていただいた」

 その答えにどこか腑に落ちない思いを抱えながらも父親はそれ以上言及することはなかった。

 父との話しが終わるのを見計らって、今度はアスールがヴェルメリオに尋ねた。

「ここに来るまでにどんな景色を見たの?」

 この話題に、妹の方も期待に胸を躍らせ、兄と同じようにヴェルメリオの方を向いた。好奇心に目を輝かせて期待をあらわにする幼い二人に見つめられ、少し照れながらヴェルメリオは自身の冒険譚を話し始めた。

「いろんな風景を見てきたよ。鯨の群れに、渡り鳥と一緒に飛んだこともあったな」

「本当に?私、鯨なんて本でしか見たこと無いわ」

「背中にも乗れそうな程大きくてなぁ。あの尾びれに叩き付けられれば、飛行機なんて木っ端みじんだろうよ」

 兄妹は目を丸くし、巨大な黒い魚が長い尾びれを海に叩き付け、大波を起こす様を想像した。

「すごい、すごいね」「うん。ね、もっとお話ししてちょうだい」

「わかったよ」

 兄妹の催促に眉を下げながら、ヴェルメリオは自身の見た風景を語って聞かせた。人ひとりを丸吞みにできそうなほど大きな口いっぱいに牙を生やした魚。水面を飛ぶように泳いで行く小魚の群れ。月と見紛うほど白く輝く羽毛に身を包んだ渡り鳥。まるで御伽噺のようなそれを、兄妹は夢中で聞いていた。

 ワートゥルという街は、大海に囲まれているとはいえ、その水深はそう深いものでもなかった。街の周辺くらいであれば、子どもが泳いでもそうそう溺れることもないし、漁師たちが出す船もそれほど遠洋まで漕ぎ出すこともない。ワートゥルを囲む「海」しか知らない彼らにとって、遠く深い海の風景など全く馴染みのないものであった。そのため、アスールとローゼにとって、ヴェルメリオの話は幼い頃母が読んでくれた絵本の中の世界のように、不思議で突拍子も無いものだった。一生懸命に話を聞く子ども二人に丁寧に話をする客人の姿を見て、二人の親も顔を見合わせながら笑みを浮かべた。海や空の生き物の話を一通り聞くと、アスールはまた別の疑問を口にした。

「ねぇ、雲の上ってどんななの?」

 あんなに高い所まで飛んだことが無いんだ、と苦笑いするアスールに、無理も無いとツバメのように細くしなやかな鈍色の翼を広げて飛んでいた少年の姿をヴェルメリオは思い浮かべた。

 アスールが背負っていた『旧式ヒルンド』は滑空を得意とする競技用の飛行装備だ。翼の中間辺りと背中に背負ったエンジン部分に取り付けられたブースターを動力に、翼の角度を調節しながら飛行する。上手く風に乗ることができるだけの技量があれば、速度や高度については申し分無い代物だが、その扱いづらさ故に、既に廃棄が決まった型でもある。ブースターの強弱と翼の角度は、手に持った『手綱たづな』と呼ばれるハンドル、そして自重でのみでしか操ることができないのだ。繊細な操作を行いながら風の流れを読むことに集中することを強いられた選手からの要望もあり、やむなく新型開発に着手され始めたが、出力可能速度や到達高度については旧式のそれの方が優れていた。そうは言っても、あくまで競技用の範囲のもので、使い慣れれば、この小さな街を見渡すぐらいの場所までは飛ぶことができても、雲の上まで飛ぶことなど到底不可能である。

「なんたって雲の上だからな。空を見るのに何の邪魔も無い。下には灰色の海が流れ、頭上は燦々と太陽が照らす天色だ。夜になれば、星々が煌めき、俺を取り囲む。月を眺めながら飲む酒は、それは絶品だったぜ」

 いかに雲の上が気持ちの良いものか、楽しそうに語るヴェルメリオの語り口に、一家は瞬きも忘れて聞き入っていた。そして、楽しげに話を聞きながら打てば響く受け答えをする家族に、ヴェルメリオはいつのまにか外の音も気にならなくなっていた。



 どれほど話し込んだか、兄妹はうつらうつらと眠そうに目をこすっていた。いつの間にか風の音は止み、屋根を叩き付けていた雨の音も落ち着いたものへと変化している。

「今日はもうお開きにしましょうか」

 アスールの母が号令をかける。

「すみません。すっかり話し込んでしまいましたね」

 ヴェルメリオが申し訳なさそうに謝るが、アスールとローゼはそう簡単には許してくれなかった。

「もっと話を聞きたいよ」「そうよ、まだ半分も聞いてないわ」唇を尖らせる兄妹を、父がたしなめる。

「こらこら。ヴェルメリオさんもお疲れだろう。今日はもう寝なさい」

 なおも納得のいかなさそうな顔をする兄妹だが、その瞳は半分閉じられている。

「それじゃあ、明日はジェミニとか言う整備士のところへ案内してくれよ。その道中にまた続きを話そう」

 ヴェルメリオにそう言われ、やっと納得したように頷いた二人は、彼と両親に挨拶をして自身の部屋へ覚束ない足取りで帰っていった。

「すみませんね、うちの子どもたちが」

 母親が謝罪を口にするが、ヴェルメリオは兄妹の我侭をさほど気にしている様ではなかった。むしろ、穏やかなその表情は、瞳を輝かせながら話をねだってくる子どもたちに好感さえ覚えている様であった。

「なに、可愛らしいお子さんではないですか」

「そう言って頂けると嬉しい限りです。さぁ、長旅でお疲れでしょう。狭い客室ではありますが、ゆっくりと休んでください」

 会った当初よりは幾分か自然な笑みを浮かべた母親は、ヴェルメリオを客室へ案内した。簡易ベッドとサイドテーブル、クローゼットを置いているだけの部屋ではあったが、寝られればどこでも良い、と考えているヴェルメリオにとっては贅沢すぎる客室であった。丁寧に礼を言い、客室の扉を閉めると、ヴェルメリオはベッドに腰を下ろした。

 防風套ルランで窓を覆ってしまっているため、部屋の中は薄暗い。煙草を吸いたい衝動に駆られたが、客人である手前室内でそのようなことはできない。サイドテーブルに蝋燭が置かれているが、それに火をつける気にもならず、ヴェルメリオはベッドに寝転がった。

 途端、気だるい眠気が頭の芯を曇らせ始めた。つい数時間前まで命を落とすかもしれない緊張感に苛まれていた身体が、安全圏に入ったことをようやく認識したらしく、ヴェルメリオは外から聞こえる穏やかな水音を子守唄に目を閉じた。



 扉の外の気配に、ヴェルメリオは目を開けた。もう少し眠りたい気分に浸りながら、ゆっくりと身体を起こす。自分の置かれた状況を把握する様に首を前後に回し、もう一度欠伸をかみ殺して床に足をついた。そのタイミングを見計らったかの様に、扉を叩く音が室内に鳴り響く。

「ヴェル!朝だよ!」

 アスールの元気な声は、寝起きのヴェルメリオにとっては強烈なものだった。

「あぁ、今行くよ」

 なおも扉を叩こうとするアスールに声をかけ、ヴェルメリオは一度伸びをした。寝乱れた服装を整え、目を覚ます。クローゼットを開けると、扉部分に鏡がついており、それを見ながらもう一度身なりを整えた。最後に手櫛で軽く髪を梳くと、客室のドアを開けてリビングへと足を向けた。

 廊下に漂う美味そうな匂いが鼻腔をくすぐり、ヴェルメリオに空腹を思い出させた。食卓を見ると、既に兄妹が席につき、父親はコーヒーを飲みながら日報ツァイトを読んでいる。

「あら、おはようございます。どうぞ、食べてくださいな」

 立ち尽くすヴェルメリオに気付き、母親が声をかけた。それに促され、ヴェルメリオが席に着くと同時に、ローゼから軽口が飛んできた。

「今日はお兄ちゃんが最後じゃないのね」

 悪戯気に笑いながら発せられた言葉に、アスールは顔を赤くさせながら反論する。

「うるさいな。いいだろう、ちゃんと間に合ってはいるんだから」

「ぎりぎりじゃないの」

 得意気にやり込める妹にさらに言い募ろうとアスールは口を開くが、自覚があるのかそれが言葉になることは無かった。

「おまえたち、お客様が来てても相変わらずかい?さっさと食べなさいな。それでヴェルメリオさんをジェミニさんのところに案内しておあげなさい」

 兄弟喧嘩をたしなめながらヴェルメリオにコーヒーを入れる母親に、兄妹も頭が上がらない様で大人しくトーストをかじり始めた。すると、我関せずの様子であった父親が口を開いた。

「騒々しくて、すみませんね。ジェミニさんっていうのは町一番の整備士なんですよ。もしかするとあなたの飛行機も直るかもしれない」

「僕のヒルンドも直してくれてるんだよ」

 朝食を飲み込みながらアスールも父の言を擁護する。有難い申し出に、ヴェルメリオは再度感謝の言葉を口にし、朝食を食べ始めた。トーストにサラダ、コーヒーという昨夜の食事と変わらないシンプルなものを、一家の声を聞きながらことさらゆっくりと味わう。

 防風套ルランの外された窓の外では、街の端々に張り巡らされている波立つ透明な鏡が、嵐を終えた後のどこまでも鮮やかなシアンをことさら美しく映し出していた。

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