第2話 衝撃

(あれは、旧式競技用飛行器具ヒルンド。馬鹿が。パンツァーも着けずにこの速さで飛ぶ気か。自殺行為だ)


 操縦士は、白煙の切れ目から何事かを叫ぶ少年――アスールを冷ややかに見つめた。煌めく水面が大口を開けて待ち構えている状況で、それでも並走を止めようとしないアスールに、操縦士は仕方なく可聴音響ダイナミクスに切り替え、叫ぶ。

『止めろ。この機はいずれ墜ちるぞ』

 機外の少年は幼さの残る目元をいっぱいに開いた。

『機体を上げれば何とかなる』

 声変わりしたばかりの掠れた声が操縦士の耳に届くが、彼は薄らと笑みを浮かべるだけだった。

『それは何度も試みた。どうやら機嫌を損ねちまったらしい』

 先程から押しても引いてもびくともしない操縦桿を憎々しげに見遣る。

『このままでは巻き込まれるぞ。離れろ』

 再度アスールに警告を重ねる。そうこうしている間にも機首はどんどん傾いていた。

『翼の上部から排煙してる。噴流ヴェイパーがそこから漏れているんだ。それで負荷がかかってる。推進機ジェットを抑えて最小限の力で飛ばせば排煙が収まって、機体が持ち上がるはずだ』

 アスールの切ない叫びに従って、操縦士にとって煙を上げる翼に目を向ける。たしかに排煙部からすれば少年の言うことも一理あるが、操縦士の目には疑惑の色が浮かんでいた。

(あいつらがそんな簡単な細工をするか?まあ、やってみせたほうが早いか)

 操縦士は、半ば投げやりにスイッチを切り替えた。推進機ジェットの数値を推力が作用するぎりぎりまで落とし操縦桿を引いてみると、さきほどまでかかっていた翼への負荷が軽減されたようで、ほぼ下を向いていた機首をどうにか水面と並行にさせることができた。


 しかし、未だに機内のアラートは消えない。操縦が利くとはいえ、着陸用のハッチは固く扉を閉ざしたままだ。


(回路が切れてやがる。ここまでやるか)

 アスールも異常に気が付いたのか、険しい顔をしている。仕方なく操縦士はもう一度アスールに声をかけた。

『少年。助けは感謝するが水面に叩き付けられる前に、早く離れろ』

 アスールの表情が凍り付く。

(目の前で人ひとりが死のうとしているのだから、当たり前か)

 操縦士は、同情を含ませた視線をアスールに送った。それは、自身の死に目に付き合わせてしまった者への罪悪感と悲哀を内包したものだった。


『“ヴィント”に切り替えて』


 静かながらも威圧を含んだ声が、操縦席に響いた。

 操縦士は信じられない面持ちで、アスールをまじまじと見た。幼い顔立ちに似つかわしくない燃え盛る「青」の炎が、操縦士の諦念を照らし出した。薄花色の瞳に浮かぶその感情を、操縦士は理解することができなかった。


(なぜ、)


 もはや死を覚悟した人間さえも揺さぶる熱量。

 眩いばかりの光を放つ純度の高いターコイズ。

 それに射抜かれながらも、操縦士は彼の矜持を保とうとアスールに声をかけた。

『この状態で機体をヴィントに切り替えてもさほど意味は無い。第一にヴィントに無くてはならない要素が今は欠けている』

 操縦士の優しく語って聞かせる声に反して、アスールは緊張した面持ちで言葉を続ける。


『風は、僕が読む』


 顔を強張らせながらも、その視線は真っ直ぐに操縦士を射抜いている。


(本気か……?)


 操縦士はアスールの視線を真っ直ぐ見つめ返し、その真意を探ろうと目を凝らした。しかし少年はただ純朴な瞳でただただ目の前の命を助けようと必死だった。

 それと同時に、指示に従わなければ共に落水する覚悟をも抱いていることが、操縦士にもわかった。

 大きな不安と抱えきれない恐怖が心と身体を支配しているだろうに、それを自身の意志で押し殺す少年の姿は、不格好ながらも操縦士に決断をさせるには十分なものだった。


(仕方ない。預けてみるか)


 震える幼い子どもを道連れにするのは寝覚めが悪い。操縦士はひとりごちると、すぐに行動を開始した。

 絡繰エーアテールからヴィントへと切り替え、操縦桿を握る掌に神経を集中させる。姿勢を正し真っ直ぐガラスの向こうに目を凝らすと、相変わらず凍り付いた表情の少年が次の指示を出そうと口を開いていた。

 幼い声に耳を傾けながら飛行機と一体となり進む。

 彼の姿は、正しく操縦士のそれであった。



「旋回南東25度」

 悲鳴を上げながらかろうじてバランスを保つに小型移動用飛行船舶ラニアスに、アスールは静かに声をかける。

(嵐のおかげで向かい風が強い)

 心の中で風の女神アウライに感謝しながら、機体を港へ導く。

『少年。着陸用のハッチは開かないぞ』

 操縦士の声が聞こえるが、それに答えられる余裕がアスールには無かった。

 いま、アスールの神経は今までに無いほど敏感になっていた。自身を包み込む湿り気を帯びた空気の流れ。その一筋も漏らさぬように、雑念をすべて振り払って五感すべてを研ぎ澄ませる。

「大きい波がくる。推進機ジェットを120まで下げて」

 いままでにないくらいアスールの頭の中はクリアだった。まるで旧式競技用飛行器具ヒルンドごと空の中に溶け込んでしまったかのような浮遊感がアスールの腹を押し上げる。


(軽い、のに重い)


 人の命を預かっている重責が、その浮遊感に身を委ねようとするアスールを邪魔する。相対する感覚に、身も心もすり減って行くのが分かった。

—―もう少しだ

 徐々に港が近づいてくる。一番船の少ない場所を見極め、アスールは指示を出す。見知った顔が何人か見え、アスールの胸に安堵の火が灯ったその瞬間。


 風が波立った。


 実体のない荒くれ者が手綱ラダーを奪い取ろうと、幼い身体を振り回す。アスールは手綱ラダーを全力で引くことで体勢を持ち直したが、小型移動用飛行船舶ラニアスはそうはいかなかった。先程よりも不安定な体勢で、ゆっくりと降下する機体。アスールは思わず舌打ちをしそうになりながらも、素早く状況を確認し操縦士に叫んだ。

「頭を持ち上げて!5度でいいから!」

 アスールの意図を正しく汲み取った操縦士がゆっくりと機首を持ち上げる。

 いくつかの部品を飛ばしながらも、そのまま機体の腹を水面に押しつけ、ゆっくりと飛行機は港へと入っていった。その様子に安心したアスールは、自身もまた降下しようと手綱ラダーを握りしめた。

 ようやっと緊張から解放された操縦士は、操縦席ピットから風に乗りながら徐々に降下するアスールを見つめた。ゆらゆらと不安定に見えるが、上手く風の道を辿る姿に、操縦士は無意識に溜息を吐いていた。無事に着地した少年を認め、自身もハッチを開け礼を言う。

「助かったよ、少年。君は命の恩人だ」

 幼い顔に無邪気な笑みを浮かべたアスールは、操縦士を真っ直ぐに見つめながら答える。

「僕はアスール。あなたが無事で良かった。でも、なぜあんなことに?」

 不思議そうな顔をしたアスールに操縦士は苦笑いした。

「寿命だろうよ」

 操縦士の答えになおも不思議そうな顔をするアスールを横目に、操縦士は疑問を口にする。

「すまないが、この街の名前を教えてくれないか」

 操縦士は眼前の街並みに目を細めた。

「ここは水路に囲まれた街ワートゥルだよ」

 聞き慣れないらしい名前に顔をしかめながら、操縦士は胸ポケットから煙草を取り出した。愛用の着火機ジッポで煙草を燃やし、何事か考え込みながら煙を吸う。

 東の空からは先程よりも分厚くなった錫色がこちらへ向かってきていた。このままでは嵐になることを悟った操縦士は、これからこの街でどうするべきかを考えていた。しかし、その思考はアスールの声に遮られる。

「もうすぐ嵐が来るけれど、泊まる所はあるの?」

「いや、残念ながらこれから探す所だ。アスール、良い所を知らないか?」

 心底困った顔でアスールを見つめる操縦士に、名案を思い付いたという顔でアスールは自身の家に泊まればいい、と提案する。

「外からの人なんて久しぶりなんだ。いろんな話しを聞かせておくれよ」

 少年の無邪気な笑みにつられ、操縦士もゆったりと口端を上げながら宿を探す手間が省けるならば構わない、とその提案を受け入れる。操縦士のその言葉に喜色を浮かべながらアスールは飛び跳ねるように機体へと近づいていく。

「やったね。それじゃあ、まずは機体の停泊許可をとろう。それはあっちの白い小屋でできるよ。嵐が来ちゃうから、機体を包むことも忘れないようにしなきゃね。それから、母さんと父さんにも伝えなきゃ。あ、修理をしたいのならジェミニに頼むと良いよ。少し偏屈だけど、とっても腕がいいんだ。明日紹介するよ」

 立て板に水を流したように次から次へと言葉を重ねるアスールに、目を白黒させながら操縦士は話を遮る。

「そういっぺんに言わないでくれ。順番にいこうじゃないか」

 アスールはきょとん、と幼い顔を余計に幼くしながら操縦士を凝視したが、操縦士の言葉に納得したらしく、一つ大きく頷くと口を開いた。

「そうだね。それじゃあ操縦士さん。まずはあなたの名前から教えてよ」

 操縦士は煙草の煙を吐き出し、機体から降りて少年の目の前に立つ。

「俺はヴェルメリオ。ただのしがない旅行者だ」

 ヴェルメリオと名乗った男は優しげに目を細め、アスールに手を差し出す。アスールもそれを握り返しながら歓迎の言葉を口にした。

 東の空からは、相変わらず嵐を予感させる分厚い雲が近づいている。徐々に激しさを増す波は、港に停泊している船をゆらゆらと揺らした。横殴りに吹きすさび始めた生暖かい湿り気を帯びた風が、少年と青年の頬をなで上げた。

 容赦のない風の雄叫びの中、どこかで、かちり、と石時計クォーツの音が鳴り響いた。

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